第四部 第四章 第二話(2)『秘泉』
イーリオ達が王都に到着してすぐ、イーリオ自身はホーラーの邸宅に行ったが、銀月団の面々は宮殿で待機をしていた。
その際、シーザーはその場に来ていたコンラート宰相に説明をし、ヘクサニアの使徒からカイゼルンが奪った謎の角笛を渡している。
これがどういうものかは分からなかったが、自分達が持っているより王国の研究機関で調べて貰う方がいいだろうと考えての事で、イーリオには事後報告ではあったが勿論彼もそれに反対などしなかった。
その角笛はカイの指示でギルベルトの元に渡り、もう既にこれが何であるかが分かっているという。
だがギルベルトが手にするより先に、カイはこれが何なのか、その正体に気付いていたらしい。だからこそカイは、これも頼むとギルベルトに託したと言った。
「これも――?」
イーリオやクリスティオに加え、レオポルトらも加えた行列は、王宮の奥殿へと誘われた。その途中で語ったギルベルトの言葉に、イーリオが反応した。だがそれに対する返答はなかった。
考えてみれば――と振り返る。
いきなりあらわれた事といい、ギルベルトの一連の言動には色々と謎が解ける部分もあったが、同時に違和感も多くあったと思い返す。ただ、ギルベルトを王都に呼んだのは他ならぬレオポルト王であったし、唐突という事を除けば、彼に怪しいところはない。
だからこそ言葉の端々に垣間見える、ものが挟まったような不自然さが妙に目についたとも言えた。
「まあ、アレだよ。色々と任されたって事。同じ主席官としてね。僕もさ、他ならぬカイ殿下の頼みとあっちゃあ断る事は出来ないからねえ」
最後だしさ――。
終わりの方に、小さくそう呟いたように聞こえたが、聞き間違いかどうか、イーリオには分からなかった。
ちなみに本来、奥殿にはそう気安く入れるものではなかったが、カイは王家の一族であるし、王位継承権で言えば第一位に当たる人物でもあるので、そこで待つというのも怪訝しい話ではなかった。
奥殿の入り口。
そこには、カイの率いる漆号獣隊の次席官であり、彼の執事でもあるバルタザールが恭しい佇まいで一同を出迎えていた。
表情は仮面のように硬く、無機質にも思えるささやかな笑顔を貼り付けている。騎士としては東西動乱の最初の頃から戦場に立つ宿将であり、執事としても生涯のほとんどをカイの家に捧げた高潔な人物である。
全員が何やら物々しさを感じたのは当然だったが、イーリオはどこかギルベルトの時に感じたような違和感を覚えていた。
――何だろう。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感がするとでも言おうか。足を進めるたびに、その思いは強くなっていった。
奥殿に入り、バルタザールがイーリオの横に並ぶと、彼にだけ聞こえるような声で老騎士は小さく囁いた。
「カイ様は、貴方を弟のようだと言っておられました」
どういう意味か――
それを問う前に、ギルベルトが前方を指し示して一同に告げる。
「カイ殿下ですよ」
亜麻色の髪をした、文弱そうな青年騎士。
それがカイ・アレクサンドル・フォン・ホーエンシュタウフェン=シュヴァーベンである。
王国の知恵袋であり、第二次クルテェトニク会戦では連合軍の軍師として活躍した。
その彼が、泉の前に誂えてある台座の上にいた。
体を横たえて。
両目は硬く閉じられて。
奥殿に灯された明かりでははっきりと判別出来ないが、肌の色に生気はないように見えた。
ここにいる者は皆戦場を知っている。だからその姿がすぐに何か分かった。
「カイ……様……?」
イーリオ達は絶句した。レレケをはじめ、口を手で覆う者もいれば、顔を青褪めさせて立ち竦む者、様々だが、皆一様に声を失い狼狽する。
その中で真っ先にその場から駆け寄っていったのは、レオポルト王だった。
王はカイの顔をまじまじと見つめ、その顔に触れる。冷たさがあったのが、イーリオにも伝わるようだった。
「どういう――」
静かな、だがいつもの穏やかなそれではない声。
「どういう事だ。ギルベルト」
獅子群王の顔は、凄惨なほどに悲愴で、痛々しいまでの怒りに満ちていた。まさに獅子に睨まれるが如く、その場のあらゆる者が射竦められる。
「カイ殿下の願いです」
「願い、だと?」
「カイ様は言いました。今、この国やこの世界のために、レオポルト陛下を失うわけにはいかない。要となるべき我が国を率いる王が犠牲になれば、最も敵を利する事になる。それは何が何でも避けねばならない。だが、王の結石がなければならないのも現実。ならばその条件を満たす別の者が、王の代わりになればいい、と」
表情を消したまま一息に言った後、ギルベルトは溶液で満たしたガラスの短筒を、懐から取り出した。
薄く色付いた液体の中には、光があった。
輝くそれは、神之眼を思わせる。
「第一物質〝霊化玉〟」
全員が目を見張る。
「ブランド閣下は気付かれましたよね。メルヴィグ王家の人間が、このアゾトの泉の水を使うと。そう、王の結石とは必ずしも王そのものである必要はありません。この泉の水で幼少期に洗礼を受けた者なら、誰でも心臓に結石は出来る。この国でレオポルト陛下以外ならば――このカイ殿下がそう」
「待て。だがカイ殿は東西朝の乱の中で生まれたのではなかったか。ならばこの王宮でレオポルト王と共に過ごした事などなかったのではないか?」
思わず口を挟んだのは、クリスティオだった。
それに答えたのは、彼の右腕であるブランド。
「メルヴィグ王国の東朝と西朝の大乱は、ずっと争い続けていたのではなく、時に交渉の期間などがあり、そのたびに融和と停戦を繰り返していたのです。それがこの王国を攻める機を、他国が逸する理由にもなった。そしてカイ殿下はその停戦期間にお生まれになられた方。つまりこの泉の洗礼を受けていても怪訝しくないという事です」
ギルベルトとバルタザールが頷く。
両者の顔は、全てを呑み込んだ上で尚、蒼白いものだった。その顔が作れるようになるまで、一体どれほどの葛藤があったのか――それを余人が窺い知る事は出来ないだろう。
だが――ブランドの説明もバルタザールらの決意もまとめて、そんな事全部がどうでもよかった。
説明を聞いても納得など出来るわけがないし、それで済ませられる話ではない。そう、レオポルトが告げる。
「ボクを謀るとは、そういう意味か……。つまりギルベルトとバルタザールだけじゃなく、クラウス、それにコンラートも知っていたね」
思わず総騎士長と宰相の両者へと振り返るイーリオ。
二人の顔に翳りが増す。だが目を逸らしてはいない。
痛々しいまま、真っ直ぐにレオポルトの目を受け止め、頷いた。
「ボクを失うわけには、だって? 馬鹿な。カイこそこの国にとって最も必要な人間だ……! 彼の思慮にボクなど遠く及ばない。そしてカイこそ、次代を担うべき人間だった。お前達も分かっていただろう……!」
「いいえ、陛下。この国に最も必要なのは陛下です。せやからカイ様は、自らが犠牲にならはる道を選んだんです。陛下の代わりとなる事こそ、最も正しく、賢い道やと言っておられました」
「そんな事があるものか! 知っていて――知っていて、何故止めなかった……!」
苦しみと怒りが溢れ出るレオポルトの瞳。
イーリオ達が受けた衝撃も言葉にならないほどだったが、レオポルトの迫力に押されて、悲しみが前に出ない。いや、どうしていいか混乱していたのだ。
カイという人物は、イーリオにとっては勿論の事、この四年間、銀月団の面々にも親しい間柄と言える人間だった。
メルヴィグ王国から受ける依頼の多くはカイから齎される事が多く、全員が何度となく顔を合わせていたし、銀月団がいたクナヴァリの街にカイが来た事もあった。
それだけに今のこの状況は悲しみが真っ先にくるはずだったが、連日の生死に加え、予想だにしてなかった目の前の状況に、ただただ何を言っていいか分からない――団の全員がそんな想いを抱いていたのだ。
「レオ」
険しい目つきの、メルヴィグ王国総騎士長クラウスがその名を呼ぶ。
人殺しのように目付きが悪いと陰口を叩かれる彼だが、今はいつにも増してその眼窩が落ち窪んでいるように見えた。そして瞳は恐ろしいほどに鋭い。
しかし彼が呼んだ王の名前は、王と臣下としてのそれではなく、王立学院で共に過ごした親友としての呼び名だった。
「俺も止めるべきだと思った。そう思わぬわけがなかろう。あのカイだぞ。あいつがいなければ、今の俺はない。俺にとっては恩人以上の男だ。だがな、あいつは言ったんだ。自分にこの国を統べる器はない。それを持つのはレオ、お前だと。あいつはな、ずっと悔やんでいた。後悔していた。クルテェトニクであれだけの武功を立てたにも関わらず、あいつはずっと罪に苛まれていたんだ。漆号獣隊の主席官でありながら、俺の幽閉を気に病んでずっと王の呼びかけに応じなかった事を。応じる勇気がなかった事を。全てはヘクサニアどもの陰謀であったと分かった後も、それに気付けなかった事を、あいつはずっと後悔していた。そしてそれを贖うには、自分にしか出来ない最後の奉公をするしかないとずっと思っていたと言ったんだ」
「馬鹿な……! そんな事をして、ボクが喜ぶわけがないだろう……! 何故それが――」
「分かっていたさ、レオ。聡明なあいつだ。分からぬわけがないだろう」
「だったら――!」
「だからこそだ。自分にしか出来ない事を果たす。それに命を懸けるなら、騎士として最高の栄誉だとあいつは俺に言った。あの時のあの顔を見て、俺はもう――何も言えなくなった……」
言葉の語尾が、震えていた。両の拳は硬く握られ、食い込んだ爪から血が滲むほど。
イーリオには、言葉の途中で言っていた台詞をカイがどんな顔で告げたのか、分かる気がした。
きっとカイは、とても満足した笑顔で、己が犠牲になる事を選んだのだろう。カイほどの智者だからこそ、全てを見通して、それを選択した。
「すまん……すまない……レオ……」
肩を振るわせるクラウス。王国最強の騎士が、堪えきれなくなった慟哭を小さく漏らす。
あらかじめこれを知りながら、王に隠してここへ来る時、誰もがそんな思いでいたのだろうか。ひょっとしてギルベルトの得体の知れなさは、この悲しみを隠すためのものだったのではないか。
唐突にそれに気付くと、酒焼けした顔の意味も、どこか悲しいものに見えた。
かつてカイゼルン師が言った言葉がある。
「おめえはオレ様に酔い潰れるのはみっともないって言うがよ、酔い潰れなきゃいけない時だってあるんだぜ。てめえの胸には収めきれないような思いをした時なんかがそれだ。いいか、そいつを抱える、抱えなきゃなんねえのが本当の意味での大人ってもんだ。分かったか? まだガキンちょには分かんねえだろうなぁ」
今のイーリオがカイゼルンの言う大人かどうかは分からないが、少なくともその言葉の意味だけなら分かる気がする。この場の誰一人として、突然すぎるカイの自己犠牲に、悲しみと同量の受け容れ難い感情を抱いているのだ。
そしてもしギルベルトもそうなのだとしたら、彼は今、酒に任せて酔う事が出来ているのだろうか。本当は酒精は漂わせていても、まるで酔いが回ってこないような心持ち――なのではないだろうか。
それはとても悲しい事のように、イーリオには思えた。




