第四部 第四章 第一話(2)『遺言』
メルヴィグ王都レーヴェンラントにある獅子王宮への入城は、太陽が落ち出した少し前に、人知れず果たされた。
宮殿の主であるレオポルト王に伴われて足を踏み入れたのは、王が助けたイーリオと、彼の銀月獣士団である。
平時は賓客を伴った王の帰還ともなればそれなりの歓待があるものだが、今回ばかりは事情が事情である。
〝銀月狼王〟の片割れ、ザイロウの死という事実を前にすれば、どんなもてなしも不要と言わざるを得ない。
それにその事を前もって知らされていなかったとしても、王国に深い所縁のある救国の大恩人とも言うべき六代目百獣王が亡くなったばかりなのだ。とてもではないが、賑々しい雰囲気など出せるはずもなかった。
その事はイーリオにとってむしろ助かった部分でもあったのだろうが、今の彼にそんな事を感じ取れる心の隙間などありはしなかった。
ここへ来る間も、彼はまるで心が壊れてしまったかのように呆然としていた。痛々しいまでに、魂の抜け殻となっていたのだ。
励まそうとする者の言葉も、上滑りをするだけ。
道中、カイから手渡されたザイロウの神之眼を入れた容器を抱きしめたまま一言も発しなかったし、ほとんど食べ物も口にしなかった。
身を案じたシーザーやユンテが激しい説得をし、何とか僅かばかりのものを口にしたが、ほとんど吐き出している。
その衰弱ぶりはあまりに痛々しく、誰も何も手の施しようがなかった。
ただ、獅子王宮に到着してすぐ、とある人物が姿を見せた時のみ、イーリオは久方ぶりの反応を示したのである。
「イーリオ君……!」
不可思議な形状の眼鏡をかけた、どことなく奇妙な服装をした女性。
イーリオの無二の親友にして最大の理解者、そして銀月団の副団長であるレレケだった。
彼女は、本来いるべきであるホーラー・ブクの邸宅ではなく、王宮でイーリオ達の到着を待っていたのである。
「聞きました。私も」
こういう時に何をどう言えばいいか。確実な答えを持っている者などいるのだろうか。
レレケもただ、耳にしたという事実を述べただけにすぎない。だがむしろそれが良かったのだろう。
この場で慰めの言葉をどれだけ並べようが、それはイーリオの心の傷に塩を塗るだけだったろうから。
師であるカイゼルンの死――
己の半身であるザイロウの死――
イーリオは己の全てを失ったに等しいのだ。
立ち直る術など本人にしかなく、それは本人にも無理な事だった。
「正直、信じたくないというのが本音です。私から言える言葉は……」
言い淀むのも当然だろう。
だがしかし、これはイーリオ個人の悲しみというだけではない話でもある。
まずレレケは、メルヴィグ王国からの命で、ヘクサニアの角獅虎に対抗出来る手段をずっと探していた。その答えになるかもしれないとして、イーリオとザイロウの存在が挙がっていたのだ。両騎こそ、まさにヘクサニアの侵攻を止められる鍵になるかもしれない存在だと。
つまりイーリオとザイロウは、この国の希望でもあったのだ。
だがその要であるザイロウが、失われた――。
「その事について、ホーラー先生からお話があるそうです」
レレケの言葉に、イーリオの表情が微妙に変わる。
「ホーラー様……?」
「はい。ザイロウについてです。先生はある事をメルヴィグ王家の秘文から突き止めました。そこから貴方の命が狙われる可能性があると気付き、急ぎ出迎えの部隊を送るように進言したのです。なのでザイロウについても、先生は解明した事実があると話されていました」
「ザイロウについて……」
「ザイロウと、お預かりしているウルフバードについてです。私もお聞きしたのは半分ほどでしかありません。なので今すぐに、ホーラー先生の元に来ていただけませんか?」
何もかもを失ったに等しいイーリオにとって、今考えられる事は何もなかったし考えたくもなかった。体も動かないし、動く気力もない。
けれどもレレケの瞳に宿る訴えは、そんな彼の状態を全て分かった上で、尚立ち止まるべきではないと告げているようだった。
今は現実を受け止めようとするのではなく、別の現実に目を向ける事で、何かのきっかけになればと言っているのだ。
慰めや労りではない。
誰よりもイーリオの事を案じ、それでいて叱咤してくれている。
けれども行動を共にしてきた他の団員からすれば、今はそっとしておいた方がいいと言いたくなるのは仕方のない事。それも判断としては、間違っていなかっただろう。
だがそんな彼らに対し、レオポルト王が機先を制して押し留める。
そのまま無言で首を左右に振り、イーリオの肩に手を置いた。
「イーリオ君。ボクも一緒に行こう」
見ればカイも後ろで頷いている。
この国を動かす首脳の二人が、一人の若者のために同行しようというのだ。極めて異例の事であり、通常であれば畏れ多いと言うべきところだろう。
しかし今のイーリオは、礼を述べる事さえ出来なかった。敬意を忘れたのではなく、ただ本当に何も出来なかったのだ。
半ば抱えられるようにして、イーリオは王宮から別の馬車に乗せられて、ホーラーの邸宅へ向かう事になる。
その途上、先ほどレレケが言った出迎えの部隊を派遣したという話についての詳細を、イーリオは道々で教えてもらっていた。
ホーラーとレレケが勅命で古文書解読を進める中、彼は王家秘蔵の黄玉秘文やその他の書物との照合から、重要な事が分かったと言った。そして自身の突き止めた内容が確かなものだと確信した途端、飛び起きるようにして王宮へ向かおうとしたのである。
病床の身でそれはいけない、とレレケは必死で押し留めたのだがまるで言う事を聞かず、結果、レレケが付き添う形でホーラーは顔を土気色にしながらレオポルト王に謁見を強行したのだという。
そしてその場で彼は言った。
「おそらくエポス達は、自分達でザイロウの代わりを作ったのです。それが教王の鎧獣。だからヘクサニアは角獅虎という〝あってはならぬもの〟を使役出来ておるのです。今、イーリオとザイロウを失うという事は、我々にとっての唯一の希望を完全に失うという事に他ならない。〝罪狼〟が二体、イーリオの持つ〝罪なる狼〟の後継であるザイロウと、教王のベリィ。この二体がいる今なら、まだ我々にも望みはある。奴らも〝欺瞞の橋〟の封印を解けますが、こちらにもそれを封じたままにしておける手があるという事ですから。けれども万が一にでもイーリオとザイロウを失う事になれば、取り返しのつかない事になります」
息を切らせ、必死な形相でそれだけを言うと、ホーラーはレオポルトの目の前で意識を失ったのだという。
そしてそのまま、ホーラーは再び自分の屋敷に戻されたのだった。
果たして一聴すると分けが分からないと言いたくなる話だが、ようは急ぎザイロウを確保せよとホーラーは言っているのだと、レレケは補足した。
これは同時に、かつて黒母教の集団にレレケが捕えられた際に彼女が盗み見た、レレケの父イーヴォやホーラーの息子であったスヴェインらの研究内容とその目的にも、繋がる話になる。
八年以上前、まだイーリオとレレケが旅をはじめて間もない頃、彼女は一度、黒母教のその時の総本山であったメギスティ寺院に捕えられている。
その際に彼女は、自分の父イーヴォが伝説の神の剣〝ウルフバード〟を創造しようとしている事を知った。それよりずっと前から、イーヴォはウルフバードを追い求めていたが、それが何故自分の手で創り出すという風に変わったのか。創り出して何をしようというのか。
それが長年に渡り不明だったのだが、エポスらのためだとなれば、話は繋がってくる。
ウルフバードの伝説には、最高神の息子であり雷と嵐の神バールが使役した〝月の狼〟が対となっている。
神話をなぞらえるなら、ベリィの用いる武器がイーヴォが自らの手で創り出したウルフバードであり、そのベリィが〝月の狼〟という意味になるのだろうか。
それはザイロウもまた、その神話になぞらえられている節があるからだ。
ザイロウとザイロウの持つウルフバードが必要だったなら、何故それ自体を奪わなかったのかという疑問は残るが、おそらくザイロウ側がエポスを拒否していたのだろう。だからエポス達は、イーヴォを使ってそれらを生み出させ、また彼らにとって理想的な駆り手であるファウストを擁立したという事になる。
となれば、事態は切迫するのも当然だった。
事前にレレケはホーラーから話を聞いていたのでそれをレオポルトらに説明したが、おそらくファウストがベリィを完全に自分のものにするまで時間が必要だったのだろう。そしてそれが為されようとしている今、彼らはついに満を持してイーリオとザイロウを手にかけるに違いないと。
そうしてベリィとの戦いのあの場に、レオポルトとカイが自ら出向いたという事である。
ホーラーはと言えば、元々病の床に伏せっていたにも関わらず、連日古文献を読み漁るような無理をしていた。そこへ更なる無理を押して王に進言したのである。体調はみるみる悪化し、正直かなり良くない状況にすらなっていった。
レレケがイーリオ救出のあの場に来れなかったのは、そのホーラーの看病に付きっきりだったからでもあったのだ。
「今更取り繕っても仕方ありませんから、はっきりと言います。おそらく先生は、もう長くない――いえ、いつお亡くなりになっても怪訝しくない状態なんです」
様々な感情を必死で押し殺しながら、レレケは苦しそうに告げた。
ホーラーの邸宅に向かったのは、イーリオ以外ではレレケとレオポルト王、それにカイと、護衛のために従った数名の近衛騎士のみであった。銀月団の面々をはじめとした他の者は、王宮で待機となる。
他の者も一緒に行きたいのはやまやまであっただろうが、さすがに大人数で病床の老博士の屋敷に押しかけるのは良ろしくなかろうという配慮からそうなった。
到着したイーリオ達は、レレケが一言告げるとそのまま邸宅の中へと足を踏み入れる。
イーリオは近衛騎士に抱えられながら、ホーラーのいる部屋へと入っていった。心の傷もあったが、それ以上に何も食べてないに等しい状態だったから、自分の足で歩く事さえままならないのは仕方のない事だった。
部屋の中は病人がいるものとは思えないほど、数えきれない書物で埋め尽くされていた。王宮の宝物殿から持ち出したものもあるのだろうが、それ以外の書籍もおそろしい数になる。
これら塔というか壁とも言えそうな量の資料の山以外にあるものといえば、細々とした錬獣術の器具や何かを書いている紙やペンくらいであった。病室というより、むしろ書斎か研究室という方がぴったりくるようにさえ思えたほど。あまりの書物の量に、イーリオとレレケを除く随伴する者全員が、圧倒されてしまう。
「来たか……」
イーリオの知る姿とは思えないほど弱々しい声で、ホーラーが呟いた。
顔はこちらを向いていないし、目も開いているのかどうかすら分からない。一目で分かる。容態の深刻さが。
「また随分と大仰な人数で押しかけよったか。死ぬ間際だというのに、騒々しくておちおちあの世にもいけんわ」
ただ、減らず口というか、どれだけ衰弱していてもホーラーはホーラーのままだった。
「イーリオよ、そこにいるんだろう? 儂はもう目が見えんのでな。済まんがこんな状態で許してくれ」
口調は変わらずだが、それでもその変わり様はあまりに痛々しすぎた。
全身の衰弱ぶりは目に見えて分かるし、肌は死人のそれに近い。目は虚空を見つめるのみで、言葉の端々に空気の漏れるような音が掠れて混じる。
今こうして会話を出来ている事自体が奇跡だとさえ思えた。
「ホーラー様」
「その声……お前も相当に参っとるようだな。聞いとるぞ、ザイロウが亡くなったんだな」
誂えてあった椅子にイーリオを下ろすと、近衛騎士の二名はその場から退がっていった。部屋にはイーリオとレレケ、レオポルトにカイの四名のみがホーラーを囲んでいる。
「だがお前は生きている。それだけでも奇跡に近い。お前まで命を奪われていたら、世界は終わりだったかもしれんからな」
「僕にはもう……ザイロウのいない僕に出来る事なんて……」
「そうだな。お前はザイロウと共にあった。ザイロウとシャルロッタがお前を導き、ここまでの道を歩ませた。だがそのどちらも今はいない。いいか、お前はここより、本当の意味で自分の足で前に進まなければならん。お前一人で、だ」
「僕一人で何が出来るんでしょうか。僕はザイロウがいたから、今までの僕があった。他の鎧獣を使えと? 無理です。ザイロウ以外で僕が今までの様にやれるなんて、ありません」
「そうだな……」
ここで咽せこむように、ホーラーは苦しげな息を何度も吐いた。咳になるはずの息が、その咳すらも出来なくなっているのだろう。レレケが己の師の側に寄って身体をさする。
「聞け、イーリオ。お前に伝えておかねばならん事がある」
イーリオの横には、カイとレオポルトが椅子から落ちない様に支える形でいた。
「ザイロウが元々使っていたウルフバードだがな、あれは王陛下にも言った通り、この世のものではない物質で出来ている。だが魔術や妖術の――などという類いのものではないぞ。あれはな、おそらくだがこの大陸――いや、地上というべきかもしれんが――そことは全く違う場所で精製されたものだ。だからいくら儂が手を施そうとも、修復は不可能なのだ」
今更かつての武具の話をして何になるというのだろう――。
そんな思いがイーリオの目にはあらわれていたが、反論する意志さえ薄れているため、ただ黙ってその言葉に耳を傾けている。
「その場所はおそらく神々のいる場所か、そこに近い所――。ただそこに入るには条件がいる。〝王の奇跡〟を手にする事。そしてその奇跡こそ、ウルフバードの再精製に必要な物質なのだ」
言っている意味が、イーリオには分からなかった。
だが彼を支えるレオポルトの手に、僅かな力が入るのを、イーリオは感じ取っていた。どうして陛下が? 同時にレレケもまた、己の身を固くする。
「そこはおそらく、ザイロウを生み出した場所でもある。何よりザイロウとは、最高神エールが生み出したバール神の騎獣〝月の狼〟の化身なのだから」
「それは、もしかして……」
「可能性というには何の確証もない。だがザイロウが〝罪なる狼〟そのものか、もしくはそれに連なるものだという事は、調べて分かった。その〝罪なる狼〟とは、ロムルス古代帝が使役した鎧獣で、〝月の狼〟とは同一の存在なのだ。つまりもしもザイロウを蘇らせる可能性があるとするなら、それを創り出した張本人――即ち神々に会えば叶うかもしれんという事になる」
突拍子もなさすぎて、返す言葉が見つからない。
けれども今のイーリオにとって、ザイロウが蘇る、その可能性があるというのなら、それはどういう奇跡や世迷い事であろうとも反応したに違いない。
「神に会う……でもそんな……そんな話、本当に――」
「神はいる」
「え?」
「神はいる。ただ、それがお前らが思い浮かべる神と同じかと言えば、それは分からん。だが、神と定義すべき――そう定義せざるをえない存在がいるのは間違いない」
「どういう事ですか」
「いいか、聞け。エポスとは、神の創り出した神の使いなのだ。あれはそう、この世ならざる者どもなどではない。この世にあるもののずっと先にいる存在。未来と言うのならずっと遥か未来の技術、過去と言うのなら、計り知れないほどの過去の叡智から産み落とされた、バケモノなのだ」
「技術……叡智……では、エポスとは神ではなく人に近く、神ももしかして……」
「さてな。儂もそこまでの事ははっきりと言えん。だが神に近い存在であるエポス――いや、この国にいるエポスとは、〝アルタートゥム〟の事だがな、その者らから儂は話を聞いている。彼らは未来を〝演算〟して、儂と接触したのだと」
「それって――」
「儂がお前を導く存在だという事を、アルタートゥムは分かっていた。それを予知して儂に様々な情報を与えた。だが悔しいことに、当時の儂にそれを理解するだけの知識がなかったのだ」
理解出来るはずもない事を、残念や仕方ないというのではなく、悔しいと評するあたり、ホーラーの性格が滲み出ていると言えよう。
「だが今は違う。死の間際にして、儂は色々な知識を更に得る事が出来た。だから言おう。お前は今からアルタートゥムの元に行け。行って、ウルフバードの再生とザイロウの復活を果たせ」
この場の全員が固まってしまう。
再生不可能のザイロウを、復活させる?
そんな事が可能なのか?
だが他でもない、稀代の大天才にして不世出の錬獣術師であるホーラー・ブクが言っているのだ。その事実に、誰が異論を挟む事が出来ようか。
「アルタートゥムって……この国にもエポスがいて、それがアルタートゥムという名前なんでしょうか?」
それとなくレレケから話は聞いているが、そこまでの具体的な説明をイーリオは聞いていなかった。
「そうだ。この国の草創期に王家と密約を交わし、王国の守護を約束した存在。同時に王家は、彼らへの援助と協力、それにいざという時の無私の犠牲を引き換えにした」
「無私の犠牲?」
「それこそがカイゼルンの名を持つ者に受け継がれ、大陸全土、いやエール教の神話にも伝えられた約束の地への鍵」
ここで、ホーラーは再び息を激しくする。
もう喋っているのも無理にしか見えない。だがこの場の誰もが、ホーラーの言葉に吸い込まれていた。彼を止めなければと思う一方、止める事を許さないし止められない――そんな空気が、この部屋を支配していた。
「アルタートゥム。それは神話にある三つの紋章、〝星の城〟〝天の山〟〝月の狼〟の内、〝天の山〟を住み処とする神々の騎士団だ」
「騎士団……?」
「正しい名を、〝古獣覇王牙団〟。彼らはエポスと対をなす、神の騎士たちだ」
「神の騎士……」
「イーリオよ、お前は天の山に行き、その古獣覇王牙団に会うのだ。彼らが、神のいる星の城へと、お前を導くだろう」




