第四部 第三章 第四話(終)『破面』
横で信じられないといった表情のクロヒョウを見た後、人の形に戻った黒騎士は、ただただ驚きで呆然としていた。仮面の顔なので本当にそうなのかは分からないが、佇まいからそうだという事がありありとしている。
それほどまでに、信じられない状況だったのだ。
その背後で、何かの倒れる音がした。
ロロ家軍の一騎が、これだけの混乱でありながら飛竜の一騎を倒した音であった。
さすがは帝都の最強部隊というだけはある。一騎一騎が千軍に匹敵する実力者なのだろう。
だがいくら飛竜たちに混乱があっても、多勢に無勢。ほどなく残った二騎も刈られるのは目に見えていた。それもあって、ヘルはもうそちらには目もくれない。
一方で、体をくの字に折りながらもまだ鎧化を解いていないガボールは、飛竜らを操りながらヘルとレラジェにも警戒を向けている。
如何に黒騎士であっても、人の姿のままで鎧獣騎士に何かをしようとは思わない。どれだけ身体的に優れていても、人間が鎧獣騎士に敵う事など皆無だからだ。
そこへおもむろに、レラジェから奇妙な呻き声が漏れる。
喉に絡んだ毛玉を吐くようなとでも言おうか、カハッ、カハッと何度も喘ぎはじめたのだ。
「何だ?」
無機質な声色だが、それでも案ずるようにヘルが己の騎獣をいたわった。
やがて胃の内容物を吐き出す形で、レラジェが己の足元に、何かを嘔吐する。
屈んでそれを見つめたヘルが、その吐瀉物を躊躇いもせずに指で触った。黒の手袋の上、それを凝っと見つめていると何かが蠢いているような気がした。
目に見えぬほどの何か――。
「これは寄生虫、か……?」
無色透明に近い、紐状の蠕動するもの。
「成る程な。手甲状の光剣が敵を傷つけるのと同時に、相手にこれを仕込むのが貴様の獣能か。血を舐めたのは対象の肉体情報を得るため。おそらくその古代巨大ハイエナの体内には、いくつもの寄生虫を飼っているんだろう。己の肉体と言えるほどに同化した特殊な寄生虫を。それを使って相手を自在に操作するのが獣能の正体というわけか」
ざりっ、と手の上を握りつぶすと、ヘルは土を使ってそれを払い取る。
「おそらく獣能が解除されれば、排泄物と一緒に体から出されるような類いのものなのだろうが、俺のレラジェが通常の鎧獣と違うために、こうやって吐き出されたのだろうな」
ガボール=アーヴァンクは、この独言に何も答えない。
イーリオ以上に、ガボールにとってはどうでもいい相手だったからだし、そもそも答えられる状態ではなかったからだ。
あまりにひどい頭痛が、ガボールの全身を激痛となって苛んでいる。
吐き気も堪らない。今朝、何も食べずにここを出たのが今になって幸いしたのだろうが、そのせいでか、何度も嘔吐く羽目になっていた。
「いくら消耗をしていたとはいえ、この俺のレラジェを強制解除させるとはな。貴様の事を凡庸だと言ったが、どうやらそうではないのかもしれん。凡庸であれば、それほどまでに獣能を使えるわけがなかろうし、ましてや第二獣能まで出せるなど、中途な才で出来ようはずもない。まったくもって大したものだ」
言いながら、黒騎士は一歩前に出る。
黒豹の鎧獣・レラジェの目の前に。
「見事にしてやられたがな……こちらの手の者はまだ残っている。空を飛べる人飛竜がな。こいつらの背に乗れば、逃げた孺子らに追いつく事も出来よう。そして残念だったな。今言ったように俺のレラジェが通常の鎧獣と異なるお陰で、体内の寄生虫はもう吐き出してしまっている。貴様がそうして鎧化を維持しようとも、もう獣能の効果はなくなっているという事だ」
普通であれば、あそこまで疲弊していれば、再度の鎧化など出来ないだろう。ましてや獣能によるものだとはいえ、一度は強制解除された直後なのだ。
だが、ここにいるのは何もかもが規格外の存在。
〝黒騎士〟だった。
このつがいならば、もう一度鎧化するのも叶うという事なのか。
ヘルが、号令を出そうとした。
仮面で覆われているため、正確にはそういう動きに見えただけだが。
ヘル達とガボールとの距離にはかなりの開きがある。先ほどアーヴァンクの光剣でぎりぎり届いたほどの位置そのままだったから、何かしようにもヘルの方が僅かに早いだろう。
ヘルも相手の挙措を、寸分たりとて見逃さず警戒していたのもある。
けれどもそれ以上に、油断も何もないほど、ガボール=アーヴァンクに限界が見えていた。
苦痛がガボールの全身を貫き、もう鎧獣騎士である事を維持出来なくなりそうなほどだった。
既にうっすらと白煙が漏れ出しているのが見えるくらい、彼は限界だったのだ。
しかしその白煙が霧となって動きを見えなくしたのだろうか。それとも無意識すぎる動きが、殺意や敵意とは無縁の自然な反応となって不意をついたのか。
この時、奇跡が起きる。
突如伸びた光剣が、彼我の距離を無視して、黒騎士に放たれたのだ。
それはまさに光の速さとなって、ヘルを――
斬りつけた――。
宙を舞う、ヘルの一部。
同時に、ガボール=アーヴァンクから間欠泉の勢いで白煙が噴き上がった。強制解除となったガボールが、その場で苦悶に喘ぎながらも、斬りつけた相手を必死の瞳で見つめる。
――やったのか。
カラカラという乾いた音。
黒騎士の足元に転がるそれは、彼を覆う仮面――その一部だった。
アーヴァンクの放った光剣はヘルを傷つける事は叶わず、彼の仮面を破壊するだけにとどまったようである。
――くそっ……。
だが、黒騎士は――その場で凍りついたように動かなかった。
何が起きたのか、彼ですらも理解が出来てないという風に。
ガボールは強烈な頭痛に目を血走らせながらも、霞む視界でヘルの方を凝視しようとする。
仮面が割れた黒騎士。
頭痛のせいか、視界がぼやけて表情がよく見えない。
しかし、何かが怪訝しいと気付く。
――何だ……あれは……。
瞳が、人間のそれではないように見えた。
だがいつか何処かで見たようにも思う。記憶というより、森番と共に過ごした暮らしの中で見かける、何か。
それは山の草の中。
河原の石くれの間。
春になれば大地から這い出てくるあの――。
――そうだ、あれは……あれに似ている。
頭痛が更にひどさを増す。目を開けていられず、大地に崩折れるガボール。
瞳だけではない。割れた仮面から除く顔も、明らかに自分たちとは違うものなのが、はっきりと見えた。その顔にも、見覚えがあった。だが今度は先ほどのような、記憶に頼らないものではない。
その顔には、見覚えがあった。
多くの記憶を失っているはずのガボールなのに、確かにそれを見た事があった。
どうして? 何故そう思う? 痛みに苛まれ、思考も千々に乱れる。
だが分かった。そうだ、あの顔は、つい最近、それも今日、見た覚えがあったからだと。
今日? 今日見たものと言えば――。
そこでガボールは、意識を失った。
※※※
地に転がる仮面を拾い上げ、ヘルは割れたそれを呆然と見つめる。
たかが仮面が割れただけだから、そんな事など放っておいて鎧化をしてイーリオを追えばいいはずなのに、彼はそうしなかった。
後ろの方で、断末魔が聞こえる。
ロロ家軍の最後の一騎が斃されたのだろう。
ガボールが強制解除になった事で、彼の獣能も消え、正気に戻った飛竜らが一斉に襲った――そんなところだと推測する。
だが、それでもヘルは動こうとしない。
己の失態に愕然としているのか。
まるでそれを確かめに来たかのように、黒い影を地に落としながら、そこへ巨大な翼が舞い降りてくる。
翼は、大地に降りると同時に「蒸解」と言った。
「おやおや、稀代の三獣王〝黒騎士〟殿ともあろう御方が、いかがなされた?」
軽薄な声。持って回った言い回し。
確認するまでもない。
ヘルと同じ〝エポス〟に属する者。
黒母教司祭枢機卿スヴェイン・ブクだった。
彼の後ろには、通常では考えられないくらいに巨大な、フィリピンオオコウモリの理鎧獣が佇んでいる。
「……」
「おお、何という事! 貴殿のご尊顔まで晒されているではありませんか。これはこれは、何たる事。よもやその仮面が割られるとは。それに目的のイーリオ・ヴェクセルバルグを取り逃すとは、これはいやはや……目も当てられませんなぁ」
スヴェインはヘルの素顔を見ても、動じた素振りはなかった。当然だろう。彼からすれば、別に初めて見るものでもないからだ。
だが、ここに彼ら以外の者がいれば、別の反応があったのは間違いない。
「しかしです。そんな事よりもっと大変な事をなすったのではありませんか? ヘル・エポスよ。まさかまさか、たかが人間との戦闘で、禁を三度も犯すとは」
「貴様が今回の執行者か、ディユ」
「黙れよ、ヘル」
ヘルが返した直後、スヴェインの声と顔が一変した。
上擦った芝居がかったものではなく、洞窟に潜む悪魔のように不気味な低さをもった声。
表情はそれ以上に凶相。悪鬼の如くに歪んでいた。
「一度に三回も禁忌を破るなど、正気か貴様。にも関わらずあの〝出来損ない〟を逃すなど、言語道断。我らエポス千年の悲願を台無しにするつもりなのか」
「三度ならば計画に大きな支障はないと判断した」
「黙れよクソが。我らが母上にこれ以上の罰則が課せられでもしたらどうなる。全てを空の上のあいつらに奪われてもいいと言うのかよ、ああ?」
「そうするべきだと判断した。そうするべき相手だった、あの百獣王はな。あれはそう――ただの〝類似品〟などではない。紛れもなく〝刑獅〟だった」
「だから黙れ、クソが。……チッ、まあ貴様がそれほどだと判断したのは認めよう。だがそれは今か? 〝復活〟の後でも良かった、違うか?」
スヴェインの顔に、地獄の如き憤怒と凄まじい暴虐の色が交差する。
「それでは遅い。あれがもしその気になれば、下手をすれば我らが王まで失っていたかもしれんのだぞ。そちらの方が計画にとっては遥かに大きな損失だ」
「フン、貴様など一緒にくたばっておけば良かったのだ。大体、我らと違い、貴様のスレイブ・ユニットは今や捨てるほどあるだろう。なのに何故わざわざ三度目の禁を犯してまで蘇生した?」
「あの出来損ないを狩るためだ。だが、それはこいつに阻まれた」
ヘルが向けた視線の先を、スヴェインも見つめる。
痙攣を起こして横たわる、ガボールがそこにはいた。
「だったら何故追いかけん?」
「まあ……気まぐれだな」
ヘルが薄笑いを浮かべていた。
人間ではない、その顔で。
それを見ていたスヴェインは、何も言わなかった。
言いたい事は山ほどあったが、ヘル・エポスの行いに間違いがない事くらい、彼も分かっているからだ。ただヘレの機能が使えない今、人間のようにわざわざ会話という意思疎通をしなくてはならない現状で、苛立ちのようなものがあったのかもしれない。
いや、苛立ちを模した行動を取っただけかもしれなかったが。
「偶然というか皮肉というか……まさかこんなところで光学兵器を持つ鎧獣があらわれ、貴様の邪魔をするとはな。で、どうする?」
「どうするとは?」
「こいつの始末だ。さっさと片付けてあの光学兵器の授器だけ回収すればいいだろう。万一本体と切り離すのが無理なら、あの鎧獣ごと回収でもいい。少なくともあのガキはいらん。貴様の顔も見られてしまった事だしな」
曇天に暗さが増し、辺りを暗くした。
突然の濃い雲は、雨の兆しだった。ぽつぽつと、雨滴が降り始める。
「いや」
その暗さに覆われて、ヘルの素顔に影が落ちた。表情までもが、影で隠れる。
「ああ?」
「このガキも回収だ。場合によれば十三使徒の空席にこいつを加えてもいい」
「はあ? 貴様の顔を見たんだぞ。そいつを使徒にだと? 何を考えている」
「場合によればと言っただろう。状況次第でだ。上手くいけば色々と利用出来るかもしれん」
「その状況とやらが裏目に出なければいいがな。チッ……全く、今貴様を封印する事が、どれだけ面倒を生むか。冗談ではない」
「貴様らがいれば事足りる」
「面倒が増えると言っているんだ。もういい」
心底忌々しいと言わんばかりに、路傍に唾を吐き捨てるスヴェイン。
そのまま呪いのような言葉を、小さい声でブツブツと唱えると、スヴェインはヘルの胸に手を当てた。
その箇所から出てきたのは、黒煙。
それは蛇が這うようにうねうねと動くと、ヘルの体を上半身と下半身それぞれで縛り上げた。
次いで、遠巻きにいる飛竜の群れに命令を下した。
ヘルとレラジェ、それにガボールとアーヴァンクがそれぞれ別の飛竜に捕まえられる。
「出来損ないはどうする?」
「それを聞くか。貴様の不始末だぞ」
「噛み付くな。混乱は貴様の専売特許だろう」
〝混乱と争乱〟――それがスヴェインことディユ・エポスに与えられたシンボルであった。
「黙れよクソ。あいつならもう手は打ってある」
「ほう、それは早いな。俺のしくじりまで読んでいたか」
「皮肉を言っても嫌味にすらならんわ。――王だよ」
その一言だけで、ヘルは全てを理解した。
「たまらず出てきたというわけか。成る程な。問題は王の様子だが、貴様から診てどうだ?」
「追加で〝薬〟も投与もした。今度は心配なかろうよ。前のように時間切れにはなるまい」
曇天の暗さが、いよいよ雨雲へと変化を終える。雨粒も本降りに近くなっていた。
全身を濡らしながら、飛竜たちが次々に翼を広げていく。それを見届けると、スヴェインも己の騎獣であるフィリピンオオコウモリを鎧化した。
「行くぞ」
その声に、ヘルが頷く。
雷鳴が鳴り響いた。稲光が空を凶々しく紫に染める。
その光の中、浮かび上がった顔は笑っていた。そのヘルの笑顔に何故だかスヴェインは気味の悪さを覚えながら、空高く舞い上がっていく。
ヘルも飛竜の背に乗せられ、空へと浮かんだ。
雷光がその顔を照らした。
それは人の顔ではなかった。
黒い皮膚にあるのはひび割れたような質感――ウロコのような模様。
鼻筋はないに等しく、唇などもない。
目は黄土に近い黄色で、瞳は猫科のように縦型の黒。ガボールが見た形。彼が連想したのは、森番との暮らしで見かけた何処にでもいる生物。
トカゲの目であった。
その顔はイーリオ達が何度も見た、あの謎の怪物。
竜人の顔と、酷似していた。




