第四部 第三章 第四話(4)『無法地帯』
ガボール・ツァラという人物をすぐに思い出せなかったのは、仕方がない事だった。
いや、むしろ彼の駆る〝アーヴァンク〟からガボールを思い出せただけでも、イーリオにはまだわずかなりとも冷静さが残っていたと見なすべきだろう。
ガボールとイーリオとの出会いは四年前になる。ゴート帝国帝都より脱走したイーリオを助け、逃亡の助けとなってくれたのが、このガボールと彼の仲間であった。だが逃げる途中で離れ離れになり、それ以降の行方は知れないでいた。
共に過ごした期間は一ヶ月にも満たない日数だが、彼の持つ不思議な雰囲気や騎獣の放つ獰猛な殺気は、ひどく印象に残っていた。だからイーリオも思い出せたのだろう。
その時目にした、鎧獣騎士となった彼の右手の籠手から放たれる、光が集まって剣になったかのような武器も、一度見れば忘れるものでもなかった。
一方のガボールだが、以前にも述べたように、ここに至るまでは以下のようになる。
四年前、彼がイーリオと離れ離れになった後、多くの記憶を失って放浪をしていたが、やがて帝都近くに住む森番に拾われて歳月を重ねていた。だが先日、ヘクサニアの侵略を受けた帝都から逃げ出す道行きで、襲われるイーリオ達を偶然見掛け、彼は吸い寄せられるようにイーリオ達の後を追ったのだった。
その後もずっと着かず離れずのまま、今日も百獣王と黒騎士の戦いを、かなりの遠巻きから隠れるように見ていたのである。
そうして今、ここに姿を見せて飛び込んできたのだった。
イーリは記憶から思い出す。
確かガボールは、彼の纏う騎獣〝アーヴァンク〟の異能を使えば使うほど脳に障害をきたし、記憶を失っていくのだという事を。
それ故に彼の過去について四年前のイーリオは何も知りようがなかったのだが、後になってミハイロが銀月団に入団した事で、四年前より以前の経緯を知り得たのだった。
彼――ガボール・ツァラはかつて反乱によって滅び去ったトゥールーズ公国の騎士であり、同時に公子であったミハイロの付き人だった人物なのだ。公国が滅んだ後、二人はツテを頼ってジェジェン首長国に移ったのだが、五年前のアンカラ帝国の侵略により生き別れとなったのだという。
ミハイロは色々あって今は銀月団に入っているのだが、ミハイロと別れてからのガボールが何処でどうやって過ごしていたのかは分からない。おそらくアーヴァンクの能力を多用した事で記憶を失い、本来の目的も徐々に忘れ去ってしまったのだろう。
「君は、ガボール……ガボール・ツァラだね」
震える声で、イーリオが問いかける。
ガボールの本来仕えるべきミハイロが銀月団に入ったのは、このガボールの行方を見つけるためでもあり、そのための力をつけるため、彼はイーリオに師事を請うたのだ。
だが皮肉な事に、よりによってそのミハイロが団から離れてしまったこの時に限って、目的のガボールがあらわれたのである。運命の悪戯と言うべきかもしれないが、それにしては辛辣すぎるというものだろう。
だがイーリオの問いに、当のガボールは何も返事を返さなかった。
背後で混乱を撒き散らす飛竜に目を向けたまま、それへ向かって手振りのような仕草を行っている。
続けて彼は、言い放つ。
「〝完全無法――無法地帯〟」
狂乱し、暴れる飛竜の数が増えていた。ガボールはむしろそれらへと意識を向けているようだった。
――間違いない。アーヴァンクの獣能だ。
すぐさまイーリオは気付く。
ガボールの騎獣〝アーヴァンク〟は、ディノクロクタという古代絶滅種の巨大サイズのハイエナである。
大きさは鎧獣の時点でライオン並。通常のハイエナよりふた回りほど大きくなるか。
だがその特殊性は、希少な古代種である事ではなかった。アーヴァンクの放つ獣能〝完全無法〟にこそ、その特異さがあらわれていたのだ。
この異能は、対象の鎧獣騎士の血肉を経口摂取すると、駆り手の意志を無視して、相手を操れるというものである。
その効力は、ほぼ絶対。
論外とも言えるほど極めて強力な能力であるが、その代償として先ほど述べたように、騎士の記憶が損なわれるという副作用があった。
目の前にある混乱の原因は、その獣能を使って、あの飛竜たちを操っているので間違いないだろう。
しかしいつの間にそれをした? イーリオがそれを知る事は結局なかったのだが、ここで明かしておくと、アーヴァンクが異能を仕込んだのは、飛竜が黒騎士に呼ばれる直前の事であった。一斉に同じ方向へ向かう異形のドラゴンもどきの編隊を見て、咄嗟にガボールはその内の一騎に向けてこれを使ったのだ。
今も事態は収拾がつかないまでに乱れている。
お陰でイーリオらは危地から免れているのだが、しかしそれは同時に、ガボールの記憶がまた失われるという事も意味していた。
「その異能……間違いない、君はガボールだね。――その、助けてくれてありがとう」
イーリオが礼を述べるも、やはりガボールは何も反応しない。いや、出来ないのだ。
彼はそもそも何故イーリオを助けたのか、自分でも理解していなかった。
どうしてこんな危険な戦場に飛び込んだのか。何のためにこの銀狼の騎士を助けようとしているのか。まるで分からなかった。
何かとても大切な事に繋がっている――そう感じたからだという事だけは、ぼんやりと分かっている。だがその〝大切な何か〟そのものが何であるか、それ自体が分からなかったのだ。
ガボールはイーリオの元にミハイロがいる事を知らない。
そしてそのミハイロこそ、彼が命を賭してまで求める〝最も大切な存在〟だという事も、記憶から失われていたのである。
それでもイーリオがその〝何か〟へ繋がる存在だという事は、彼の本能に根差した閃きが告げていた。
彼を救うべきだと――。
さながら剥落したモザイク絵画のように、記憶の欠片が断片的な思い出の残滓と感情の切れ端を浮かび上がらせたとでも言おうか。
四年前にイーリオと一緒に居たのはジェジェンのジョルトである。そこからミハイロと共に渡ったジェジェンの思い出に繋がり、ミハイロそのものを朧げに連想させたのだろう。だから四年前も、ジョルトと共にいたイーリオを彼は助けたのだ。
だが四年前に助けた動機や記憶、ジョルトの存在どころか四年前の出来事すら、今となっては忘れていた。ただイーリオの存在だけが表面に浮かんだ灰汁のように、彼の記憶に残ったのだ。そうして何も分からないまま本能に導かれるように、今も彼を助けようとしている――というのが本当のところであった。
しかし当然だが、それをガボールは自分で自覚していない。
理由は分からないが、何故か助けるべきで、そうする事で〝大切な何か〟に繋がると思っているのだ。
だから名前を呼ばれても、すぐに彼は返事を出来なかった。
「その――僕は貴方が誰なのか分からないのですが……助けなきゃ、と思ったから助けたんです。でも、貴方は僕の事を知ってるんですね」
どこか苦しそうな声で、ガボールはようやっとそれだけを絞り出した。
「君は……四年前の事も、忘れてしまったのか……」
イーリオは絶句した。
そもそも助けてくれと頼んだわけではないのだから負い目に感じる事ではなかっただろうが、四年前からこちらについての記憶を失った原因は自分にある。少なくともイーリオはそう感じていた。
自分を助けるために、ガボールは使うべきでない能力を、四年前も今も使っているのだから。
その思いが、イーリオの胸を締め付けた。
「ありがとう、助けてくれて。でももういい。それ以上アーヴァンクの獣能を使えば、君はもっと記憶を失ってしまう。ミハイロの事だって覚えてないんだろう? だからもう、その獣能は解除するんだ」
「ミハ……イロ……?」
イーリオの願いより、彼の告げた名前にガボールは反応した。
理由は分からない。分からないが、その名前はとても大事な、忘れてはいけない名前だったような思いが、沸々と体の奥から込み上げてくる。
それが異変となって出たのだろう。
思わずガボールが取り乱した事で、飛竜の混乱に、僅かな緩みが生じてしまった。
その隙を見逃す黒騎士であるはずがなかった。
彼はただ無類に腕がたつだけではないのだ。ヘクサニア教国の第一使徒。教国の大将軍に当たる存在なのである。
混乱から免れた飛竜に鋭い命令を出して立て直し、身構えていたロロ家軍三騎をそれで襲わせる。同時に自身も動き出す。
実は先ほどシーザーに看破されたように、黒騎士に残った動ける力は、もうほとんどなかったのだ。
〝禁〟を犯して再生復活させたまでは良かったが、さすがにこれ以上の事までは望めない。もし体力や消耗の全快まで強制すれば、おそらく罰則はかなりのものになるだろう。
だがそんな干からびた自分であっても、イーリオ一騎を仕留めるくらいは出来る。少しの邪魔が混ざっても、そんなものは路傍の小石程度でしかない、と黒騎士ヘルは判断した。
この混乱の原因はおそらく乱入してきたあの鎧獣騎士によるのものだろうが、挙動から推し量るに、あれ自体にそれほどの実力はない。脅威にすらならないとヘルは見抜く。
その判断に間違いはなかった。
いくら疲弊の極みにあってもやはり黒騎士は黒騎士なのだ。
けれどもやはりこの時のヘルは、彼らしからぬ焦りがあったのだろう。
見えていたはずなのに、それに注意が向いていなかったのだ。
凄まじい速度で急襲を仕掛けるヘル=レラジェ。
これに正しく身構えたのはイーリオ=ザイロウで、ガボールはただ一連の動きに釣られて反応しただけだった。
まだレラジェとの距離に相当の開きがある中で、未熟者が狼狽を丸出しするように、何もないところに向けて手刀を振おうとしたのである。
――やはり雑魚か。
ヘル=レラジェは嘲笑いもせず、ただ完全に興味の失せた目でそれから視線を外した。
その刹那――
黒豹の目の前を、白い光が閃熱を放って迫ったのである。
咄嗟に回避出来たのはやはり黒騎士だったからというべきだろうが、片頬に僅かな傷を受けてしまう。
己の頬を灼いた斬撃に驚きを隠せないまま、彼は襲撃の足を止めた。
目の前に走った光の正体。
それを目にした時、放った本人以外の誰もが驚きを隠せなかった。
それは光の剣。
光が束となって集まった、エネルギーの塊のような刃。
ガボール=アーヴァンクの右籠手から放出されている光の剣が、瞬間的に長く伸び、黒騎士を迎撃したのである。
まさかこの突如乱入してきた騎士があの黒騎士の攻撃を止めるなど、誰に予想出来たであろうか。
クロヒョウの頬から流れる血を拭い、ヘルは驚きのままアーヴァンクを見る。
「それは――俺の万物両断と同じ、重粒子を収束させた光学兵器なのか? とすると、まさか……あのトゥールーズ公国で密かに受け継がれたという伝説の光の聖剣〝アンサラー〟なのか……?」
ヘルの呟きが正しいかどうか、それに答えられる者が、ここにはいなかった。
だが返事を期待したわけではないヘルは、一瞬驚きを隠せないでいたものの、やがて今いる状況をすぐに呑み込んでみせる。
「驚いた。いきなり飛び込んできた雑魚が、あの光の聖剣の持ち主だとはな。しかし、驚きはしたがそれだけだ。一度見ればもう理解した。惜しかったな、イーリオ・ヴェクセルバルグ」
「……何がだ?」
「貴様も状況が飲み込めずに判断出来なかったのだろうが、その光の聖剣の使い手があらわれた時点で、貴様は一目散に逃げ出すべきだった。そうすればこの混乱を利用して、俺から逃げおおせる事も出来ただろう。だが、もう遅い」
ロロ家軍の三騎の内、一騎の体が人竜の刃で斬り裂かれていた。
凄まじい鮮血を撒き散らしながら、ホッキョクグマの騎士が倒れる姿が見える。
「今度はもう通用せぬぞ、聖剣の使い手よ。どうやら貴様、騎士としては大した腕でもないようだな」
ヘルの見立ては、おおよそ正しかった。
ガボールは、一見すると騎士としては凡庸な才能しか持っていない。今まで彼が生き延びてこれたのはひとえにアーヴァンクのおかげであり、副作用などの欠陥だらけの騎獣であっても、おそろしく高性能なのは違いない事なのだ。
一つ言えば、ある意味最も扱い辛い騎獣とも言えるアーヴァンクの駆り手であるという事自体が、特別な才能だとも言えるだろう。
ただ、その力の全てがまだ発揮されたわけではなかったし、それを黒騎士は再度見誤る事になる――。
アーヴァンクの籠手から放出されている光剣が、突如消え去った。籠手の中に吸い込まれたと言うべきか。
その事を訝しみ、ヘルは動きを一度止める。
剣のなくなった右腕を、アーヴァンクは巨大ハイエナの口元に近付けていた。
「……?」
その右手、何かを掴もうとするような手つきの手の平に、じんわりと血が滲む。いや、それは籠手の中から垂れてきた血だった。
それを舐め取るガボール=アーヴァンク。
「〝完全悪業〟」
イーリオも初めて耳にする号令。
例え副作用で記憶は失っても、能力の名前などを忘れる事はないのだろう。
告げた瞬間、ヘル=レラジェの全身に強い力が加わる。
「何だ……?」
体が、微動だにしなかった。
さっきの戦いで、獣王殺しから動きを凍らせる獣能を受けたが、それとは似て非なる違和感。レラジェを纏っていながら、まるで己の意志とレラジェのそれが引き剥がされてしまったような強制的な感覚。
対してガボールの息――荒かった。
だが、構わずに彼は続ける。
「名前はレラジェ、だな」
「……?」
ヘルはこの古代巨大ハイエナの騎士の前で、一度も己が騎獣の名前を口にしていない。しかしそれをどうしてこの者が知っているのか?
いや、黒騎士の名前は大陸中に知れ渡っているのだから、知っているのは当然だろう――と、ここまではヘルも想定出来た。
だが、ガボールには世の中も含めたあらゆる記憶が失われている事を、ヘルは知らなかった。もし知っていたら、直後の異変に彼は対処出来たであろうか――。
虚ろな目で、アーヴァンクが呟く。
「――レラジェよ、〝蒸解〟だ」
直後、黒騎士の全身から漆黒の噴煙が立ち昇った。
それは間欠泉の勢いとなり、たちまち暗黒の騎士王の全身を覆い隠していく。
「な、何っ?!」
叫びが、かつてない動揺の色を帯びているのが分かる。
同時に、ガボール=アーヴァンクがその場に膝をついた。
激しい息切れ。全身を大きく震わせている。副作用がかなり強く出ているのだろう。このままでは危険だとイーリオは判断した。
だが、鋭い制止をかけたのは、その喘いでいるガボールの方だった。
「今だ……! 今すぐ、ここから逃げろ……」
「だったら君も――」
「僕の……事は……いい。僕は……もう……。いい……から、逃げ……ろ」
黒煙の勢いが薄れていく。強制解除が終わろうとしていた。
さっき黒騎士はすぐに逃げるべきだったと言った。ならばこれが最後の分かれ目ではないのか? どうするべきだ?
イーリオの思考は瞬間、迷った。だがその背を押したのは、彼の仲間の声だった。
「団長っ! カイゼルン様の言葉を忘れましたか?! 公は最後、逃げろと言ったんですよ!」
シーザーの叫びに、イーリオは弾かれたようになる。
色々な後悔が、イーリオの両足に絡みついてとれないように感じられた。だがそれは、振り払うべき慚愧の鎖でしかないのだろう。それが分かった時、イーリオは既に動き出していた。
「離脱する! 着いてこれる者は着いてくるんだ!」
レラジェから吹き出した黒煙が晴れた時、既にイーリオと銀月団の二騎の姿は、かなりの距離にまで離れていた。
この時のイーリオが、どんな思いを抱いていたのか。
麻のように乱れた胸中は、本人ですら、もうどうしていいか分からないものであったろう。




