第四部 第三章 第四話(2)『師匠』
何が起きたのか、誰も理解出来なかった。
イーリオだけではない。当のカイゼルンすらも、その瞬間自分の身に起きた現実を、理解出来てはいなかった。
黒騎士を数多の槍で突き刺し、しかもその穂先には死滅の毒を塗布していたのだ。
ヴィングトールの第三獣能、プログラム細胞死を発動させる強制的な死の呪いの力〝終大〟と言う名の毒を。
墜落した後、朽ち果てようとするレラジェの姿も見た。
いくらあれほどの超常的存在でも、死の呪いからは免れえないという事らしい。
だからと言って油断もなかったが、勝利は間違いなく確信した。少なくともイーリオはそうだった。
だが喜びの声でイーリオが師匠に近寄ろうと一歩足を踏み出した瞬間――
黄金のバーバリライオン。その人獣騎士であるヴィングトールの右腕が、手首だけを残して消え去ったのだ。
――え。
腕を無くした本人すら、何が起きたのか分かっていない。
地に落ちた大剣の音が耳を打った時、はじめてその事実を現実だと認識出来たのは、まだ早い方だったろう。だが〝現実〟の速度は、神の如き性急さを求めるものらしい。
体勢を整えようとしたカイゼルンに、黒の斬撃が飛ぶ。
だが流石にそこはカイゼルン。かろうじてそれは、タテガミを切り取るだけに留まらせ、回避する事に成功していた。
しかし、何が起きているというのか――。
屈んだ体勢のまま、異能の細胞操作〝創大〟の力で失った腕を再構成させつつ、左腕で素早く大剣を拾うと、カイゼルン=ヴィングトールは剣を構える。死滅しているはずの、暗黒の鬼人に向けて。
見れば、ツノの生えた巨大な漆黒の人豹鬼人が、立ち上がっていた。
だがその動きは、歪に体をくねらせているのか、それともただ踠き蠢いているのかすらも分からぬような、気持ちの悪いもの。
今もまた、体から崩れ落ちる肉片が、別の肉片に掬い上げられて元に戻そうとしていた。
それは暗黒に染められた全身が、細胞死プログラムの呪いで朽ちようとする向こうから、新たな肉片を生み出そうとしているようにも見える。あの黒の中で、死と再生がせめぎ合っているいるのだ。
あまりのおぞましさに、イーリオ達はともかくカイゼルンでさえ呆気に取られてしまうほどだった。
しかもあんな状態から黒騎士は破壊の顎を放ったのは間違いなく、それはつまりまだ決着が着いてないという証でもあった。
ならば――
「師匠っ」
「わぁってらぁ」
イーリオの叫びを待たず、カイゼルン=ヴィングトールが動き出そうとした。
しかしそれは一歩遅かったのか。それともそうなる運命だったのか。
今度は黄金獅子王の左足が、突如として消滅した。
駆け出そうとしていただけに、体勢が崩れる。
カイゼルンは大剣を杖にしてかろうじて転倒を免れるが、足の防具ごと、ごっそりと左足がなくなっていた。それはつまり、中のカイゼルンの肉体も失ったという事でもある。
ただし、〝創大〟の細胞創造であれば、それすらも治癒出来るはずだったが。それよりも問題なのは――
――見えなかった。
先ほどまではイーリオにも見えていたはずの敵の能力が、まるで察知出来なかったのだ。
それはカイゼルンも同様であるらしい。でなければこうも容易く、二度も敵の直撃をそのまま受けるはずがない。
「足りぬ分は頂いたぞ」
形を維持出来ぬ黒騎士から、声がした。
いや、その形状は徐々に定まりつつある。
崩れる力と戻そうとする力の内、死滅の方が僅かに勝っているように見えたが、そこへ何処からともなくあらわれた、黄金の肉塊が混ざり合う。
「貴様から奪った部位の細胞を書き換え、己の肉体にさせて貰った。言ったであろう? 己の身体ならば自由に何とでも出来ると。元は貴様の一部でも、取り込んで仕舞えばそれはもうレラジェの一部」
黄金の腕と足が暗黒に呑み込まれ、やがてそれが暗黒の鬼人の一部として吸収されていく。
今、この瞬間に攻撃が出来れば仕留める事も出来たかもしれないのに、出来なかった。
イーリオ達は恐怖のあまり――。
カイゼルンは、己の部位を再創造するのに時間を要したからであった。
「しかし先ほどの攻撃……獣能に遅効性の発動を仕込み、後からあの巨大な槍を分裂させるとはな。よく考えたものだ」
黒騎士の姿はもう既に元の形へと復元されつつあった。
一方のヴィングトールも失った部位の再創造を終えていたが、消された防具の部分までも戻ってはいない。
「それにこの力。プログラム細胞死――アポトーシスとネクロトーシスをそれぞれに応じて使い分け、強制的に発動させるなど、正に死の呪文をかけるようなものだ。凶悪という他ない」
もう、両騎は元の通りに戻っている。
しかし戦慄すべきは黒騎士の方であろう。
確実に倒した。
いや、超常異能がどうであれ、ヴィングトールのあの槍は間違いなく決着の一撃だったのだ。これが試合であれば勝敗はカイゼルンで決まっていた。
それなのに、黒騎士の姿はもう元通りになっている。
不死身――。
そんな言葉がイーリオの脳裏をふとよぎった。
だがいくら倒しても致命傷を与えても、全くの無傷で元通りになるのなら、それは正しく不死身の化け物という他ない。そんなもの、いくらカイゼルンであっても倒す方法などあるのか――。
「しかし、だ。貴様が時間差で獣能を自在に操ったのなら、それが俺にも出来るとは、考えなかったか?」
「……てめえ――!」
カイゼルンがハっとなる。獅子の全身に素早く視線を走らせた。
「安心しろ。仕込んだのはあの二つだけ。これ以上はもうない」
二人の会話の意味が分からなかったイーリオだったが、睨みつけるヴィングトールの顔を見て、遅れながらも気付く。
――まさか、黒騎士も師匠が〝創大〟を後から発動させたみたいに、何かを仕掛けたのか?
レラジェの放ったあの巨大な喰らう球体。その元となるごくごく小さな肉片を、いつの間にかヴィングトールに付着させ、それを後になって発動させたという事か。
そんなまさかと言いたいが、しかしそれならさっきの攻撃をイーリオやカイゼルンですら全く気付けなかった事にも納得がいく。
いや、間違いなくそうだろう。けれどもそんな、いつ――?
「あの時、てめえが尻尾で放った斬撃か」
「明答だ。さすがはカイゼルン」
ヴィングトールが巨大な黄金槍を出した際、黒騎士は反撃に尻尾で万物両断を放った。その時に己の肉片も飛ばしていたというのか。
――剣で出すのが間に合わなかっただけだと思ってたけど、そうじゃない。剣だと肉片を飛ばせないから……だからドラゴンみたいになったあの尾から放ったという事か……!
あまりの事に、イーリオは戦慄を通り越して愕然とする。
ただ超常の存在として強いだけではない。それに加えて何手先、何十手先をも読んだうえでそれを実行する信じられない技量があればこその〝黒騎士〟なのだ。
今更ながら、改めて相手の化け物ぶりに恐怖を感じる。
けれども、だからこそ――
「し、師匠っ」
震えた声で叫ぶ弟子に、黄金獅子が僅かにこちらを見る。
「あん?」
「僕も……僕も一緒に戦います。僕の力なら、ヴィングトールの鎧も元に戻せますし、少しは手助けに――」
「馬鹿野郎」
声を張り上げるような激しい叱咤ではなかったが、それでも肝が冷えるほどの厳しい声。
「おめえはもう、仲間を連れてここから離れろ。これはオレ様とこいつとの戦いだ。さっきはマグヌスのおっさんに割って入られたが、これ以上この六代目・百獣王のオレ様が手を貸して貰うなんて事になっちまったら、先代のジジイに何言われるかわかんねえっつうの。ましてや弟子の手まで借りるなんざ、死んでもゴメンだ」
「もうそんな状況じゃあ――」
「余計にだ」
「え?」
「こんな状況だからこそ、騎士は何よりも騎士らしく振る舞うもんだ。おめえも五代目から教わっただろう」
いつもは騎士らしい振る舞いなどした事もないくせに、品格の欠片もないどころか真反対のクズ人間なのに、こんな時に限ってそんな事を言うだなど――
「……今更そんな……師匠」
不意に、イーリオの脳裏にかつての日々が蘇った。
初めてカイゼルンと出会った日の事。
弟子入りを許された時の事。
一緒に諸国を渡り歩いた日々。
稽古という名の地獄のような毎日。
これならオレ様の弟子だと名乗ってもまあいいだろう、という一言を貰えた日の事。
うんざりするような出来事ばかりが目立つし、強さ以外に尊敬出来るところなど皆無なんじゃないかと思えた師匠だったが――
そんな師匠なのに――
「おい、マグヌスの部下ども」
ロロ家軍の中で、イーリオ守護のために残された四騎に向かい、カイゼルンが言った。
「今すぐその馬鹿弟子の首根っこ捕まえてでも、こっから離れろ。馬鹿弟子の仲間もだ。いいな」
その一言が、どれほどの緊迫度合いかを全て物語っていた。
「俺が見逃すと思うか?」
そこへ漆黒の鬼人が迫る。カイゼルンごと、全てを薙ぎ払わんとする勢いで。
しかし黄金が暗黒を堰き止める。まるで今戦いが開始されたばかりのような動きと力で、ヘル=レラジェの剣を受け止めるカイゼルン=ヴィングトール。
「早くしろ」
カイゼルンが声を張り上げた。
同時に、暗黒の鬼人から無数の黒い衝撃波が放たれる。それは文字通りの黒い津波となってこの場の全員を呑み込もうとする。
「創大・極大――八連巨大門盾!」
黄金獅子の両腕が巨大化し、そこから八枚の、城門のように巨大な盾が生み出される。
それらが黒い津波とぶつかり合い、この攻撃を防いだ。
だが、威力は相手側が勝っているようだった。黄金の巨大盾に亀裂が入る。一枚、また一枚と亀裂は大きなヒビ割れへと変わっていった。
と、見る間に八枚の盾が同時に砕け散った。
だがこの僅かな間に、イーリオ達は大きくその場から離れていたのだ。
「行け!」
吠えるカイゼルン。
「逃すな」
ヘルの命令に、二騎の角獅虎が飛竜と化してイーリオらの行手を阻んだ。
しかしこの時前に出たのは、ロロ家軍の騎士達。ゴート帝国最強部隊の最精鋭四騎なのだ。その実力は他の騎士団や騎士部隊の団員とは比べものにならない。
彼ら四騎とシーザー、それにカシュバルが連携して、飛竜を押しとどめる。
「今です!」
「早く!」
仲間の声。イーリオの耳朶を打つ叫び。
自分はこのままおめおめと師匠や仲間を見殺しにして、一人逃げ出すというのか?
そんな事、許されるのか?
いや、そんな価値が自分にあるというのか?
何が何だか分からなくなった感情が、イーリオの中で渦を巻いた。
「やれやれ、最後まで世話のかかる奴だな」
そこへ、不意に調子外れたような声が、彼の耳に届く。
師匠の声。
それはどこか、穏やかにさえ聞こえた。
「師匠っ!!」
イーリオが叫ぶ。
黒騎士が暗黒の翼をもたげ、あたり全てに破滅の波を立てようとしたその間際――
黒を、黄金が突き抜けた。
ヴィングトールの黄金大剣。
それが深々と黒騎士の体を貫いている。
だが――
「こんな程度では無駄だぞ」
不意をついた一瞬の突きを受けながら、やはり不死身の如く、魔人は不敵に笑っていた。しかし、その貫いたはずの獅子が――いない。
大剣だけを残して、消えている。
誰もがこの時のヴィングトールを見失っていた。この黒騎士ですら。
己に突き立った大剣を引き抜き、黒騎士が周囲を精査しようとしたまさにその時。
ヘル=レラジェの全身に、強い衝撃が走る。
暗黒の全身が、動けなくなっていた。いや、動けなくさせられていた。
黒騎士の背後。その両腕を抱えるように、カイゼルン=ヴィングトールが羽交い締めにしていたのだ。
「何のつもりだ、カイゼルン?」
「なに、互いの健闘を讃えあっての抱擁――ってワケじゃねえのは確かだな」
ドラゴンのように太く、鋭くなった尻尾がヴィングトールを背中から貫いた。更に背筋に生えた鋭利な背ビレが伸長し、黄金獅子の全身を斬り裂く。
しかしカイゼルンに怯む様子はない。深傷を負う事など一切構わないとでもいう素振りだった。
「落胆したぞ。よもや貴様が己の身を挺して弟子を逃すだなどという、愚挙に走るとはな。最後の最後で、実に凡百で退屈な選択をしたものよ。残念だ」
胴体には大剣の貫通した穴があり、更に羽交い締めにされながらも黒騎士にはまるで狼狽える様子はなかった。むしろこの幕引きに心底呆れているとさえ言えそうな口振りだった。
だが、これが黒騎士の言うようなものでないとは、誰に分かっただろうか――。
「〝終大〟」
凄まじい衝撃が、暗黒の体を震わせた。
全身。
黒騎士の全身あらゆるところから、己の肉が弾ける音がした。
次いで起きる、崩壊の音。
「な――何ィッ?!」
首を後ろに向けようとするも、その首すら筋肉の千切れる感触があった。
それに気付いたのか、黄金獅子が鬼人の首に己の牙を突き立てる。同時に、その瞬間から黒騎士の首までもが崩れはじめた。
「ぐ――ぐぁぁ」
ヴィングトールの第三獣能〝終大〟。
プログラム細胞死を強制発動させる恐るべき絶対死の異能。
ヴィングトールは、それを己の全身から発動させたのだ。
羽交い締めにしたヘル=レラジェに対し、触れ得るその身の全てにこれを浴びせているのである。それが全身である証拠に、黄金獅子の背中を貫いたドラゴンの如き尻尾も同様に、崩壊しはじめていた。
先ほどまでカイゼルンは、終大の力を帯びさせた剣や槍を放っていたが、そのように瞬間的な発動を促すものではない。
黄金の全身全てが、死の呪いと化したのである。
ヘル=レラジェはヴィングトールに組みつかれている限り、永遠に終わることのない死の衝撃を絶えず浴び続けなければならなかった。
だがそれは、放っているカイゼルン=ヴィングトールの方も同じである。終大の異能は、それを放ったヴィグトール自身の細胞も崩壊させているのだ。
最早これは、技などというものではなかった。
地獄へ誘う死の抱擁そのものだった。
目にしていたイーリオが目を剥く。
黒騎士だけではない。ヴィングトールもまた己の肉体を崩壊させはじめているのだから。
そう、本来であればこれは獣能によるものである以上、纏っているヴィングトールのみが崩壊するはずだが、今のカイゼルン=ヴィングトールは通常の状態ではない。真性鎧化を発動しているのだ。
真性鎧化とは、鎧獣と騎士を極限まで融合させてはじめて可能となる。つまり真性鎧化による肉体崩壊は、中の駆り手の肉体も破壊されるという事であり、それぞれの死は互いの死に繋がるという事でもあった。
「師匠っ!」
黄金と暗黒が、共に崩れようとしながらも再生を行っていた。
ヴィングトールは創大の力で、相手よりも長く呪いを与えるために。
黒騎士は理解不能のおぞましい異能で、何とか生きながらえるために。
だが、それぞれに再生をしていくよりも、ヴィングトールのプログラム細胞死の方が僅かに上回っているようだった。
徐々に肉体の崩壊が、両者の原型を奪い去っていく。
「きさ……貴様っ、カイゼルン! これは過ちだぞ。大きな過ちだ。こんな事をしても無意味。俺を倒しても一時的なものにしかならん。だが貴様は、この世から消え去ってしまうのだぞ。分かっているのかっ」
「うっせえよ。――てめえこそ分かってねえんじゃねえの。こっからは単純な勝負になったって事だぜ。単なる我慢比べ、意地の張り合いだ。だがよぉ、残念だけどオレ様、生命力には自信があんだよ。ヴィングトールの騎士になるってのは、そういう事だからなぁ。てめえとオレ様の命のぶつけ合い――最後に相応しいとは思わないか」
「馬鹿な。こんなのは間違っている。貴様は今、ひどい間違いを犯しているのだぞ!」
「ハッ、オレ様に指図すんじゃねえよ。それにな、間違いを犯す自由こそ、オレ様らしいってもんだ」
両騎の足が崩れた。
地に転がる人獣の体。
だがそれでも、カイゼルンは黒騎士を離さない。例え両腕を失っても、咬みついた牙でもって、最後まで相手から離れないでいる。そんな執念がそこにはあった。
偉大なる最高の騎士同士の決着にしては、あまりに泥臭く惨たらしい。
しかしだからこそ、最も彼らの最期らしい最期だとも言えた。
やがて互いの両腕も、なくなる。
首に咬みついた牙だけで、両騎は繋がっていた。
もう再生など追いつくはずもない。
「カァイゼルンンン!」
鬼人から迸る、凄まじい怨嗟の叫び。
それが黒騎士の、断末魔となった。
その一方で、カイゼルンは最後、何も言わずに肉塵となって消えていった。
別れの言葉も言わずに――。




