第三部 第四章 第二話(終)『幽幻死騎士』
帝都のあちこちで悲鳴が上がるも、イーリオはそれを振り切るように広大な都市を駆け抜けていった。
悲鳴の原因はイーリオ自身だ。
当然だろう。皇帝結婚のめでたい日に、いきなり巨大な人獣の巨人が街中を疾走してきたのだから、何も知らない臣民が恐怖におののくのは当たり前の事。走り抜けているのが仮に帝国の鎧獣騎士であれば何か変事でもあったかと臣民が思う事も出来たかもしれないが、目の前を通り過ぎているのは明らかに帝国騎士ではない白銀の巨大人狼なのだ。
とはいえ、今のイーリオにそれを気にする余裕もなかった。
既に時刻は昼を過ぎている。
予定ではこの時点でアケルスス城近くの潜伏から出て、シャルロッタに会っていてもおかしくないはずなのだ。つまりもう一刻の猶予もないという事だった。
ここまで予定が狂ったのは、灰堂騎士団らの介入も大きかったが、最大の要因はヴォルグ六騎士のウルリクだろう。
一度は仕留めたと思った彼と彼の騎獣が突如異形の姿となって復活し、長時間に渡ってイーリオの帝都入りを阻んだからだった。しかし今ようやっとこれを切り抜け、帝都に入る事が出来たのである。
それというのもイーリオの父、ムスタら三騎の加勢によるところが大きかった。彼らの助太刀のお陰で、何とかイーリオだけではあったが、ウルリクを振り解く事に成功したのだ。
その際、ザイロウに備わった新たな力も使う事になったが、それは仕方のない予定外の出来事と言うべきだろう。そうしなければ突破は難しかったに違いない。
何より結果だけ見れば、そのウルリクと〝ファントム〟自体は結局倒せていないのだ。
後の事を考えず全力を注ぎ込んでいたら或いは……とも思えたが、ムスタらはともかくイーリオの目的はウルリクの打倒ではない。
彼の目的は、シャルロッタを取り戻す事なのだから。
一度は拒まれた――彼女に。
でもそれでも――もう一度会う。
会って真意を聞く。そうすればきっと――
思考の合間。
急速に立ち止まり、路地の影に身を隠すイーリオ=ザイロウ。
なるべく見られないようにしながら駆けていた人狼騎士が、突如、妙な忌避感を感じ取ったのだ。
嫌な気配が、項を逆撫でるように這い上がる。
見はるかす先。帝城らしき輪郭は視界に捉えたが、霞がかかってまだまだ遠い。
大狼の聴覚が捉えるのも、街の喧騒のみで、物々しさは聞き取れない。
しかし感じ取った気配は――おそらく殺気。
だが、鎧獣騎士のような闘争の獰猛さは薄かった。
――この感じ。
覚えがあった。
帝都を抜けて――その時は――怪盗騎士ゼロの仲間であったサイモン&エドガーと逃亡をしていた際に感じたものと同種のもの。
――鎧獣術士……!
おそらくは灰堂術士団と聞いたオグール公国の手の者だろう。
この先に待ち受ける、濃密な〝仕掛け〟の気配。
以前のザイロウであれば、捉える事が出来ていたかどうか。
しかし額のトレモロ・ユニットを装備して以来、感知能力も図抜けて上がっている。その精度は鎧獣騎士を凌駕する鎧獣術士と同等かそれ以上だろう。だから先んじてこれを補足出来たのだ。
イーリオはザイロウの巨体が人の目にとまらぬよう、今いる場所から更に路地の奥まった人気のない所にまで移動した。
そうして焦る気持ちを鎮ませるように、気息を整え、静かに瞑目する。
目に見えぬ視界。
人間では感知出来得ぬ超常の〝視界〟が脳裏に開ける。
明と暗が反転し、地と図が入れ替わったかのような景色が浮かび、帝都の全てをイーリオ=ザイロウの知覚が露にさせた。
これを可能にしているのが、まるで網のように張り巡らされた知覚の道筋。それが帝都中を縦横に走る事で、異様な気配を探知出来るのだ。
この知覚景色の名が――〝環重空間〟。
本来は鎧獣術士のみしか感知出来ない特殊視覚である。ザイロウはそれを捉えているのだ。
その網の先。帝都のあちこちに影のような輪郭の気配が〝視〟えた。
――いる。
アケルスス城を中心に、同心円を描くように配置された六名の術者。
だが敵は、こちらの位置を補足出来ていないのだろう。もし気付かれていたのなら、既に何らかの術をこちらに放っているだろうし、現に帝都から逃亡した際には、そのような目に遭っていたからだ。
ならばなすべき事は一つだった。
敵に探知されるより先に、こちらから仕掛ける。
その場で蹲るように、上体を屈ませるザイロウ。片手を地面に当て、鼻先をそこに近づけた。
――千疋狼――幽幻死騎士。
声に出さずに発動する、新たなる異能。
光の粒子がザイロウの全身からうっすらと浮かびあがる。だが外見上はそれだけ。目立った変化は何もないように見えた。
しかしそれは、確かに発動されていた。
つい数日前にも灰堂術士団たちを相手に使った、対・術士用の獣能。
一方、アケルスス城から外に出て、迎撃の構えを取っていた灰堂術士団の実行部隊隊長にして黒母教司祭のヘンリク・タルボは、苛立ちを隠せないでいた。
彼は灰堂術士団の団長にして黒母教枢機卿であるスヴェインより代理を任されていたのだが、立て続けの失策により貴重な人員を既に何名も失っている。特にスヴェインより才能を見出され、自分と同格でもあったマヤとガルリの二名を失った事は、大きな痛手だった。
マヤはイーリオ達一行の討伐戦でだが、ガルリは不死騎隊に捕縛されての死亡だから身から出た錆と言えなくもない。だが、統括であるヘンリクの責任は当然あった。
そんな中もたらされたのが、そのスヴェインがこちらに来るという報せである。
ゴート帝国への工作は自分が任されたはず。なのに、こうも早くに戻ってくるのはどういう意図か。何の目的か。
彼が考えつくのは、失策の穴埋めではないかという事。
つまり自分は、団長の期待に応えられなかった――。
だから彼は、内心で焦っていた。
元々彼は、将来を期待された錬獣術師であった。
生まれもカレドニアの名家で、手がけた鎧獣も相当な評価を得ていた。しかし生き物を生き物として見ない非道さがあるという、くだらない――と、彼が思っている――理由で役職を解かれ、彼は地位も名誉も何もかもを失った。
そんな時に手を差し伸べてくれたのが、スヴェイン・ブクである。
彼は自分の才能を認めてくれた。偏狭な倫理観で埋もれさせてはいけない才能だと言ってくれた。ヘンリクにとって、まさに救世主とも呼べる存在が、スヴェインだったのである。
そのスヴェインに、愛想を尽かされてしまったのではないか――。
それはどんな美女から袖にされる事より、耐え難い屈辱であった。
だからヘンリクは、イーリオ達が間近に迫っているという報せを聞くや否や、己の麾下として配属された術士を配置し、万が一の事態に備えたのである。万が一――というより千載一遇と言うべきか。
もしもイーリオらが灰堂騎士団やウルリクを突破してきた際に、彼らが最後の牙城となるためである。つまりこれが、スヴェインが到着するまでに残された最後の手柄の機会であるという事。
エッダにとっては忌々しい状況だろうが、ヘンリクにとってはまたとない汚名挽回の好機である。となれば、これを利用しない手はなかった。
残された鎧獣術士は、彼を合わせて六名。
自分を除いた五名に亡くなったガルリやマヤほどの実力はなかったが、鎧獣騎士を相手取るには充分な面々である。
感知の網を広げ、帝城に近付けば即座に妨害の術を放つ準備をすればいいのだから。
イーリオとは何度か見えているから、相手も獣理術への警戒をしているだろう。だが、防ごうと思って防ぎきれるものではない。
補足さえ出来れば、ヘンリクと彼の理鎧獣〝イーガー〟の持つ最大級の術で始末してやろう――そのつもりであった。
だから彼に油断はなかった。
部下達とも伝環路を通じて繋がっていたし、感知網は完璧なはずだった。
警戒すべきは鎧獣騎士の速度であり、鎧獣術士は個体の運動能力で圧倒的に劣るため、接近を許せば苦もなく手にかけられてしまう可能性がある。だが感知の網は虫一匹見逃さない精度と広さで敷設していた。
――さあ来るがいい恐炎公子。
自分にはマヤのような油断もなければ、ガルリのような傲慢さもない。
あの二人は己の気質ゆえに自ら墓穴を掘ったものと彼は考えている。少なくとも不死騎隊に捕まり拷問の末殺されたガルリは間違いなくそうであろう。
しかしヘンリクにそんな気の緩みはない。持てる手札を最大限に活用し、確実に目的を遂げる。
そんな自分だからこそ、この地の統括を任されたのだ。
己の感知網も帝都中に伸ばしてある。敵がいつ来てもすぐに分かる。
そのはずだったのだ――
前触れもなく走る、不快な雑音。
金切り音にも似た悲鳴だったので思わずヘンリクは顔を顰めるが、その後で配置した一騎の気配が消失している事に気付く。
――おい、ヨナス。どうした、何があった?
伝環路を通じて語りかけるも、返事はない。
続け様、今度は別の場所にいた鎧獣術士までも気配が失われた。しかも同時に二騎も。
――何だ? ハンネス、ブランカ! どうした、返事をしろ。
環重空間上の伝環路がある以上、それを切ったとしても気配が消える事はない。自ら特殊な術で姿を隠すか、あるいは――
――まさか、やられたというのか?
しかし鎧獣騎士らしい気配は何処にもない。
もしくはイーリオらに鎧獣術士の協力者がいるとか? いや、仮にそうだとしても、術を出されればこちらとてそれに気付くもの。しかし術による攻撃を受けた痕跡も検知出来なかった。
――何だ? 一体何が起きている?
気負っていた気持ちなど何処へやら、理解不能の襲撃を受け、ヘンリクは動揺を隠せないでいた。
また、悲鳴があがった。
倒される二騎。
これで残りはヘンリクただ一人となった。
こうもあっさりと仲間が全滅した今、そしてその正体が分からないのなら、己一人抵抗をしても勝ち目は薄いだろう。ならばイーガーの脚力を頼りにここは撤退すべきではないか?
彼の駆る〝イーガー〟は野生原馬の鎧獣術士である。それ故、運動性能が鎧獣騎士に劣るといっても、下級の鎧獣騎士並には速度が出せたからだ。
いや、そんな事をしたら失敗続きの上に更なる過失を重ねるようなもの。恥の上塗りでしかない。そうなってはもう、スヴェインからの信頼など欠片も失くしてしまうに違いなかった。
それに自分には最後の手がある。
そうだ、相手の居場所さえつかみさえすれば――
ヘンリクの思考がグルグルと巡っていた。
時間にして長いものではなかっただろう。
しかし、鎧獣騎士ならいざ知らず、鎧獣術士は反射速度も超常のものではないのだ。
感知の網である伝環路から、ぞろりと湧き出てきた異形の影に、彼は気付く事が出来なかった。
「なっ――これは……!」
思わず声が漏れる。
突如目の前に、白く淡い人型の靄が現れていた。
次の瞬間、その人型が消えている。
「――!」
見失ったのか。今のは一体――
そう思う間もなく、今度は文字通り眼前にその靄が迫っていた。
「ひっ――」
それは白い幽鬼のような人狼だった。
まるで悪夢が現実となったかのような姿。
声にならない声を漏らして、すぐさま後ろに退がろうとするが、逃げる事は叶わなかった。鋭い力が、ヘンリク=イーガーの両肩に走ったからだ。
身を震わせて振り返ると、全く同じ人狼の幽鬼が、爪を立てて己をきつく捕まえていたのである。
もう、悲鳴すら出せなかった。
眼前に迫った幽鬼の人狼が、自分を冥界へ誘うように、死の顎を大きく広げる。
突き立てられる牙。
裂かれる肉の音。
噛みつかれた喉元が裂け、めりめりと圧迫される。
やがて中のヘンリクにまで、痛みが迫ってきた。
それが彼の感じたこの世の最後の〝感覚〟だった――。
待ち伏せしていた鎧獣術士全てがいなくなった事を知り、イーリオは息をついて目を開いた。
――よし。
これもトレモロ・ユニット装備後に編み出した新たな力の一つ。
これを、〝幽幻死騎士〟と名付けていた。
分身体を作り出す千疋狼の応用技の一種で、特殊知覚空間〝環重空間〟に流れる力の路、伝環路に分身体を放つというものである。
最大の特徴は鎧獣術士であるほど、この分身を感知され難いというところにあった。何故ならこれは鎧獣術士の獣理術ではなく、あくまでザイロウの獣能だからである。
本来、獣能もエネルギーを使う以上、敵の術者に感知されてもおかしくないはずなのだが、何故かザイロウの千疋狼は、大気に含まれるある物質と酷似した性質を持っていたのだ。
そのため、如何に鎧獣術士と言えどもこの分身を見抜く事は難しく、感知の網をすり抜け、さながら幽霊のように気配なく近付いて攻撃をするのである。
しかし相手に気付かれず攻撃出来るとはいえ、鎧獣騎士が相手の場合、この技はほぼ通用しない。
理由は単純で、速度がないからである。
気付かれずに忍び寄る事が出来ても、攻撃の間際となればさすがに勘付かれてしまうだろうし、その瞬間にひと息で離脱するなど、鎧獣騎士の敏捷さがあれば容易な話であった。
だが先述したように、鎧獣術士の運動能力は最も低級の鎧獣騎士並みでしかない。加えて感知に絶対の精度を誇っている分、まさかすぐ近くにまで攻撃の手が迫ってきているとは思わないという過信もある。
気付かれず、攻撃の直前まで姿を見せず、突如音もなく現れる死神の如き悪霊の騎士。
対・鎧獣術士用の、必殺ともいうべき異能。
彼らにとっては、悪魔の放つ死の呪文にも等しい技であろう――。
ともあれ、これで帝城までの防衛網は全て蹴散らせた。
イーリオは再びザイロウの両目を閉じると、感知の網を今度は広げるのではなく伸ばしていった。
帝都を神経網のように走り抜ける、狼の網。
帝城の城壁手前で妙な〝幕〟のようなものを感じるも、罠の可能性はないようだった。どうやら外界と城を遮断しているものらしい。
そのまま感知を広げず、ひたすら距離にのみ絞って城の中を走査する。
広大なアケルスス城といえど、事前に造作を聞いていれば探す場所とて限られた。
探査の〝目〟が駆けていく。
脇目もふらずに探す。
どこだ? どこにいる? どこなんだ?
城の奥。離れの塔。東側。
気配。自分なら分かる。すぐに気付く自信がある。
そしてザイロウの嗅覚が、忘れているはずがなかった。
――見つけた!
二番目の塔。
そこに、彼女はいた。
目を見開き、毛を逆立てるイーリオ=ザイロウ。
――シャルロッタ!
人狼は疲弊も忘れ、白銀の閃光と化した。
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