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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
第三部 第四章『新帝と告白』
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第三部 第四章 第二話(1)『式前儀式』

 まだかなりの早朝だというのに目が覚めてしまったのは、妙な胸騒ぎを覚えたからだった。


 夜着のまま窓に近付き、この数ヶ月で目紛しく変わった景色を見つめるシャルロッタ。

 東の空には消え入る灯火ともしびのような明けの明星が安寧の夜に終わりを告げ、重苦しい払暁ふつぎょうが薄い光の幕を空に広げようとしている。


 遂に来てしまった今日という日――。


 これで全てが報われる。

 この世界は理想郷になる。


 でもそれは、誰のため? 何のため?


 考える必要はなかった。自分は考えてはいけないのだ。


 これは決められた事であり、決めた事。覚悟など必要ない。

 なのにこの悲しいまでの夜明けの色のように、今にも溢れ出しそうな気持ちは何だろう。


 ――駄目だ。


 窓から目を逸らし、部屋の方へ視線を向ける。


 ここは既に帝都の中心、アケルスス城の中だった。


 もうすぐ女官達がここに押し寄せ、自分の身支度がはじまる。そして運命の通り、運命の人であるハーラルと結ばれるのだ。

 そのためにここにいた。この部屋をあてがわれていた。籠の中の鳥のように。



 ――愛してるって気持ちに嘘をつくのは、貴女が守ろうとしている事にとっても、きっと不幸な結果にしかならない。



 インゲボー・スキョルから聞かされた言葉が、抜けない刺のようになって胸の奥をズキズキとさせる。

 そんなのを思い出してどうなるというのか。

 まるで人間ではないか。人間と同じではないか。

 そんな事、自分に許されていいはずがない。


 シャルロッタは心に蓋をするように、全ての雑念を振り払おうとした。


 大丈夫だ。その時が来れば記憶も全て消えるだろう。そうして己はただの器としての役割を終えるのだ。それで充分ではないか。

 俯いていた視線を上げ、無機質な瞳で虚ろに視線を漂わせる。


 ふと――


 視線が止まった。

 ぼやけた焦点が像を結ぶように、視界が一点に集約されていく。


 ――どうして? どうしてこれが、ここに?


 足元を覚束なくさせながら、シャルロッタは〝それ〟に近付いていった。


 壁にかけられた絵織物。

 自分で織った不器用な絵。


 リューリク侯爵夫妻の家に残し、だが忘れた頃にインゲボーが自分に届けた、想いだけが残された一枚。それが、壁にかけられていたのだ。

 捨てずに捨てきれず、しかし未練があってはいけないとホルグソン大公の屋敷にわざと置いてきたはずだったのに、それが何故ここにあるのか。


 分からなかった。己の心が分からぬように、分からなかった。


 実はこの絵織物がここにあるのは、ほんのささいな偶然の結果なのであった。

 シャルロッタは未練を断ち切る為にあえてこの絵織物を大公屋敷に残したのであるが、屋敷を引き払う際、聖女護衛隊の隊長であるノンナがこれに気付き、きっと忘れたのだろうと気を回してここに運んでいたのである。ノンナがそうしたのにも理由があり、インゲボーがこの絵織物をシャルロッタに届けた後で、護衛隊の連中がそれに手をかけたりしないよう、事前に言い含めていたのだ。


 聖女様の部屋にある絵織物は、聖女様自らが織られた大切なお品であるらしい――そのように聖女様から聞きました、と。


 インゲボーはあくまで捨てられたりせぬようにとの考えでしかなく、まさかここにまで運ばれているとは、思いもよらない事であったろう。だがその偶然のお蔭で、シャルロッタの心の蓋は今まさにはずれてしまいそうになっていたのだ。



 ――後悔のない選択をしても不幸な結末なんて絶対こない。



 蘇るインゲボーの言葉。

 後悔のない選択をしたから、自分はここにいるのだ。それ以上の選択なんて有り得ないはずなのに。



 ――貴女はそれでも、あの若者を愛してる、そうなんですよね?



 愛なんて何処にもない。自分にはない。



 ――ねえ、貴女も信じて。



 信じる? 何を信じるというの?

 神は無機質。

 神は信仰など求めていないというのに。


 ぐるぐると思考が巡り、シャルロッタの想いも記憶と共に掻き乱される。

 駄目だ。考えちゃいけない。

 そんなものに囚われてしまっては、きっと――



 コン、コン。



 静寂を破る小さな音が、何よりも大きく響いた。


「聖女様、ご起床されておられますか? もうしばらくしたら、朝の沐浴にございます」


 お付きの女官の声がした。

 未来の皇妃とはいえ、今の部屋は仮部屋なのでそれほどの広さはない。


「え、ええ――。分かりました……」


 擦れるような声で返事をするシャルロッタ。向こうはきっと、シャルロッタが起きたばかりだと捉えたのだろう。

 何の疑いもなく、扉の向こうの気配は消えていった。


 婚前式にあたり、未来の夫婦となる二人はまず斎戒沐浴をして身を清める。そして最初の儀礼服に着替え、お互いの祖霊に誓いをたてる儀式をした後、共に会食をするのである。その会食と共に臣下らも宴をはじめ、宴席は夜通しで開かれた。その間に夫婦となる二人は奥の間へと入り、夫婦の契りを結ぶ。


 これが皇帝家代々における、婚礼前のしきたりであった。


 ある意味、婚前式こそ事実上の結婚式であるとも言え、翌日から始まる結婚式などはいわば国の内外に向けたお披露目――政治的な意味合いでの披露宴でしかない。

 つまり皇帝夫婦の結婚とは、まさに国家をあげての祭典でもあるのだ。そのための準備はもう数ヶ月も前からはじまっており、今は最も慌ただしい瞬間であったろう。

 だからこんな早朝でも、どこかしか緊張感や落ち着かないものが漂ってくるのも当然であり、耳を澄ませば何やら忙しない物音や人の声が静寂に混じるのも当然だと思えた。


 しかしこの時、シャルロッタの耳にはそれとは違う何か別の音が、聞こえてきたような気がしたのだ。

 彼女の思考は、中断された事で意識が空白になっており、だから街の人間ですらも聞こえぬものが聞こえてきたのかもしれない。


 まるで薄い明かりに誘われるように、再び窓へと歩み寄るシャルロッタ。


 だが見えるのは、広々としたアケルスス城の景観のみ。城の隙間を縫うように街らしきものもかなり遠くに臨めたが、青白い空気に乳色の靄が被さるだけで、特に変化はないように思える。


 ――何だろう。


 自分の名を、誰かが呼んだような気がした。

 この期に及んでいらぬ事を考えたから、幻聴まで聞こえたのかもしれない――。そんな風に考え直し、彼女は深い溜め息をつく。



 実はこの時、彼女が見つめるずっと先に、その名を心の中で呼ぶ声は確かにあったのだ。けれども運命の神はそれを彼女の耳に届けたりはしなかった。

 その心にも。


 まこと人の世とは、どこまでも神ではなく人が作ったものでしかないのだろう。

 ――けれども。

 どこかで彼女は、目に見えぬ何かを信じていたのだった。

 それを本人は自覚していない。無自覚だが、心の何処かで捨てきれないでいた。


 もうひとつの運命があるのかもしれない――いや、あってほしい、と。




 同時刻――

 シャルロッタと同じようにハーラルも何か寝つけぬものを覚えて、早い時間だというのに目を覚ましていた。


 たかが結婚ごときで自分が狼狽しているとでもいうのか。

 武門の帝国の主として、いささか情けないのではないかとも思えたが、前に老臣たちは訳知り顔でそういうものだと告げた事がある。してみれば帝国の男にとって結婚だの出産だのは、出来る事など何もない脇役の日なのかもしれない。この日の主役はあくまで女。

 男が主役となるのは、結局血腥(ちなまぐさ)い戦場でしかないのだと彼は思った。


 だがこれも皇帝たるものの責務と捉え、この二日三日は振り回されるのも仕方ないと溜め息をついた。

 同じように未来の妃が漏らしたものとは、まるで種類の異なる溜め息である。


 だが、しばし心を茫漠とさせて虚ろになったせいか、何か妙な違和感が彼の神経に障った。

 眉根をしかめて意識を変える。


 違和感――というより、それは音かもしれない。


 皇帝らしく寝室は広い。離れた窓に近付き、外の気配をうかがったが、何も見えないし聞こえない。

 主の起床に気付いたティンガルボーグが爪音を鳴らしてハーラルに近寄ると、彼は指を立て「しっ」と命令する。

 腰を下ろし、物音を消すティンガルボーグ。

 主人と同じように、何かあるのかと耳をピンと立ててその場で固まった。


 しばしの静寂。


 ――気のせい?


 ハーラルには何も聞こえなかった。けれども訝しさは消えない。

 愛獣の目を見ると、灰色虎マルタタイガーはおもむろに窓へと顔を近付け、凝と外の一点を見つめていた。


「やはり何かあるのか?」


 黄褐色の瞳は何も語らない。主の発する言葉の意味を分かっているのだろうか。


 ――鎧化(ガルアン)でもすれば、余も分かるのか。


 妙な気配だけで鎧獣騎士(ガルーリッター)を発動するなど愚かしいにもほどがある。とはいえ何か引っ掛かるものがあるのも確かだ。


 そこへ――


「陛下、もうお目覚めでしたか」


 黒髪黒衣。

 高級女官のエッダがゆっくりと姿を表した。


「ああ――うむ」

「どうかされましたか?」

「いや、何やら妙なものを感じてな」

「妙なもの?」

「そうだ。何も聞こえぬのだが、何か物音というか、気配というか――そんなものを感じたのだが……。お前は何も聞こえぬか?」

「物音……」


 先ほどのハーラルがしたように、彼女も目を閉じて耳をそばだてた。


 数秒――


 そのようにしていたが、やがて目を開け、何も聞こえませぬがと答える。


「本日は婚前式でございますからね。城の中も静かなようであちこち騒がしくしているのでしょう。その物音ではないでしょうか」

「……ふむ」


 どこか納得のいってない顔のハーラルは、未だ窓の外に目を向けるティンガルボーグに目を移した。


「それに陛下自身の気も、知らず知らず波立っておられるのでしょう。まこと結婚とはそのようなものにございます」

「……で、あるかもしれんか」

「左様にございます。よろしければあちらで目覚めの茶をご用意致しますので、お移りになられますか? じきに沐浴の案内にもなりますゆえ」

「そう……だな」


 ティンガルボーグはやはり微動だにしていなかった。ただ窓の外を眺めているようにも見えるし、気配を探っているようにも見える。どちらにせよ何かに気付いたのなら、ティンガルならば彼に教えてくれるはずである。それだと分かる仕草で。

 それをしないという事は、やはり虎の探知にも引っ掛かるものがないのだろう。


 頷きでエッダに返し、ハーラルは部屋から出ると決めた。

 しばし遅れて、ティンガルボーグも後に続く。


 灰色の虎は一度だけ窓の方を振り返ったが、やはり何も示さない。ハーラルは気付かなかったが、実はこの騎獣も何かを感じ取っていたのだった。

 けれども気付いたものをどう判断すべきか、この主思いの虎にも分かっていなかったのだ。


 一方でエッダもまた、彼らが感じたものに気付いていた。気付きながら、黙したのだ。


 それよりも、である。

 彼女はティンガルボーグが察知したという事にも勘付いていたのだが、もしそれがハーラルに伝わりでもしたらと内心かなり冷や汗をかいていた。

 だがどういうわけか、ティンガルボーグはそれをハーラルに訴えなかったのである。

 その事に密かな安堵を覚えると共に、忌々しい思いも胸の内で渦巻いてしまう。


 とはいえ、今はハーラルに疑念を抱かせずに済んだ事を、喜ぶべきかもしれない。

 お付きの人間ではなく、自らハーラルの部屋に赴いたのが功を奏したのだろう。そう考えると運が良かったと言うべきかもしれない。


 ――誰かが帝都のすぐそばで戦っている。よもやあの孺子こぞうではなかろうな。


 もしそうなら、忌々しいどころではなかった。


 あれほど帝都の外で始末を着けろと言ったのに、こんな直ぐ側までまんまと迫られてきているなど……!


 とりあえず急ぎハーラルには、外の喧噪が届かない奥に入ってもらうとすればよい。



 これがイーリオとハーラル、宿命付けられた二人の共鳴のようなものだったのか。

 はたまた血を分け得ないながらも、兄弟という宿業に縛られた二人だからこそ感じ取った因縁だったのか。

 例え二人が互いの居場所を知っていようとも、両者共に明言など出来なかっただろう。


 無論エッダは宿命など信じない。

 人の世は偶然のような必然の集積でしかないと知っているからだ。

 ただ、果たして本当にそうなのだろうか。


 宿命や運命もまた、人の世の営みで作り出された概念のひとつ。

 宿命を宿命として、運命を運命として受け容れる事が出来る者こそが、未来へ歩むのに相応しき者たちなのかもしれず、その答えは神であっても知り得ぬ事だろう。


 神でない身のエッダとて、分かるはずもなかった――

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