第三部 第四章 第一話(2)『怪人獣』
サイモンとエドガー、二人の実力をイーリオはよく知っている。
一緒にいた時間は長くないが、あの時は今と逆で帝国からの追手を振り切るための逃避行だっただけに、互いに出し惜しみをしている状況ではなかったからだ。
外見だけなら、ハイエナ並みの咬合力を持つ古代の巨犬・饕餮犬の〝ガイトラッシュ〟を纏うエドガーの方が如何にも厄介そうに見えるだろう。実際、両手剣を縦横に振るい、奇天烈な動きで翻弄する戦い振りは敵となれば極めて対処し辛い。
しかし本当に面倒なのは、愛らしいとさえ見えてしまう〝パッドフット〟――サイモンの方だった。
古代巨大アライグマの人獣であるパッドフットは、長柄の先端に鎖で繋がれた打撃部分のある連接棍という武器を用い、エドガー以上に掴み所のない動きを得意としている。しかし何より警戒すべきなのは、この騎獣の獣能だった。
再び虚を衝いて、サイモン&エドガーがこちらの軍の只中へと割り込む。
その気配の隠し方とこちらの隙を衝く手練は、見事としか言いようがない。
およそ戦闘向きには見えない丸い外見の古代巨大アライグマが、異能の号令を発する。
「〝恋をしようぜ〟」
間抜けな名前。
しかしそれもまた、虚を衝く事に一役買っているのかもしれない。イーリオだけが異能の名を耳にし、青ざめる。
味方に向かって即座に鼻を塞ぐように叫ぶが、パッドフットの間近にいた者らは間に合わず、その場で崩れるように膝を落としてしまった。
「ああ、くそ」
またしても不意撃ちを防げなかった事にイーリオは苛立ちを隠せないが、それよりも被害を最小限にとどめる事の方が先決だった。
イーリオの指示でパッドフットから距離を取る帝国軍。陣形が乱れてしまうがそれは仕方のない事だった。
「あの丸い鎧獣の獣能は、全身からフェロモンを出して相手の戦意を強制的に奪うものなんだ」
イーリオの説明によれば、外側の鎧獣には動きを硬直させる効果を出し、中の駆り手にも影響を与えしまうという極めて面倒な異能との事。その強制力は絶対に近く、三六五度全方位に向かって放たれるため、集団が彼を相手にした場合、これほど厄介な相手もいないのだと言う。
しかし問題は彼らだけではない。
高速の人狼騎士――ジュリオ=スクライカー。
人虎の異郷の戦士――呂羽=夜叉。
それぞれが恐るべき手練なのだ。
呂羽と名乗った槃華の戦士に対しては、右肩を負傷しているリヒャルディス=ヤロヴィトだけでなくムスタも加勢していたが、二騎の攻めを軽々といなしている。
そしてジュリオの方も、北の戦女神と恐れられたマリオンに対し、堂々と互角の戦いを見せていた。
たった五騎だけの妨害。
けれども何よりも厄介な五騎。
蹴散らして前に進むには、あまりにも面倒な相手だと認めざるを得ないようだった。
「ムスタよ」
リヒャルディスがおもむろに問いかける。
「この槃華の騎士は相当な使い手だ。残りの連中も同様にな」
「どうした爺様、あんたらしくもなく泣き言か?」
「お前はまったく……。このまま無為に時を費やす事は出来んと言っておるんだ、馬鹿者」
ムスタは軽口で返したが、リヒャルディスの言葉はもっともだった。
灰堂騎士団・第五使徒・呂羽。
見た事のない巨大な虎の鎧獣を駆るこの戦士の実力は、まるで底が見えなかった。こちらの獣騎術とはまるで違うため、正確に実力を推し量るのは難しかったが、それでも本気にすらなってないのはすぐに判る。少なく見積もってもヴォルグ騎士並みの腕前であるのは間違いないだろう。
となればこの状態が長引く事も考えの内に入れなければならないという事だった。
「さっきお前が言ったように、こんな所でモタモタもしてられん。やり方を変えるぞ」
その決断は早いのではと一瞬思ったが、後軍がアテに出来ない今、ここで手を打つのは最も合理的な判断なのかもしれないと思い、ムスタも無言で頷いた。
「軍を前に出して散らせる。あのイヌと丸いのとは、それに呑み込ませて、皇子とゴゥトの副団長だけでも抜けさせるぞ」
リヒャルディスの言う皇子とはイーリオの事。つまりイーリオだけでも帝都――いや、帝城に着きさえすれば何とかなる可能性はあるのだ。
最初の案とは違う形になるが、これも副案のひとつではあった。
ムスタはイーリオとアネッテに合図を送る。
気付いた二人が少しだけ意外な顔をしたが、すぐに頷きで返した。
素早い連携で副案へ切り替え。アネッテやリヒャルディスは当然だが、ムスタは騎士を廃業して二〇年以上にもなるのにさすがは元団長といったところか。見事なまでに彼らと呼吸を合わせているし、マリオンもムスタ以上に戦い慣れていた。
イーリオも傭兵生活や覇獣騎士団らとの戦いを経てきたお蔭で、彼らと遜色のない動きを見せる。
が、その前に今まで沈黙をしていたもう一人がここで動き出した。
散開していた陣形が動きを見せた直後だった。
ローブとフードで全身を隠した男が、その身を覆う黒灰色の布を脱ぎ捨てたのだ。
中から表れたのは、生白い膚をした禿頭の男。
いや、頭部だけではない。眉もないし髭もない。体毛らしいものが何もなく、全身がつるりとしている。それに生白いというよりどこか病的な蒼白さで、生まれてこのかた陽の光を浴びた事がないのではないかと思える気味の悪さだ。
だが体格は筋肉質で逞しく、顔の彫りも深かった。それが尚一層、男の異様さを引き立てていた。
「来い――〝ザバーニャ〟」
男の言葉に、背後の闇から何かが迫ってくるのをイーリオ達は感じた。
――何だ、この気配。
獰猛で底なしな悪意。凶暴なまでの狂疾。
イーリオはこの気配に覚えがあった。
それは記憶から呼び出す事を、どこか本能的に忌避したくなるもの。
およそ生物とは思えない――鎧獣騎士に等しい速度の巨体が、第二使徒ロード・イゴーの背後から跳躍し、姿を表した。
姿態を目にした瞬間、イーリオは言葉を失ってしまう。
薄明かりのせいで細かな色味は判別し辛いが、全体が彩度のまるでない灰色なのは分かった。
体表と同色のタテガミがある事や大型猫科猛獣に酷似した顔と体つきは、全体的にライオンを彷彿とさせるが、大きさがまるで違った。
大きすぎる。
頭胴長はおよそ十一・五フィート(約三・五メートル)ほどか。現生のライオンでは有り得ない。小振りなサイほどはあるし、絶滅種であれば史上最大級とされるナトドメリ・ライオンやアメリカ・ライオンに並ぶほどだろう。
四肢は丸太のように太く、胴回りも大型のスイギュウほどはあるかもしれない。またサイのように分厚くヒダのある厚皮はどの生物にも該当しないし、何より目を奪うのが、頭部から生えたツノ――。
額の上にあたる部分に二本。耳の後ろ側頭部からスイギュウのように湾曲した太いツノが左右から――計四本が生えていた。
既視感ではなく、確かに見覚えのあるケダモノ――
忘れもしない。
五年前の凶々しい邂逅。
だが今でもまざまざと、イーリオの目に焼き付いている。
「あれはまさか……〝怪物〟――?」
かつてメルヴィグ南方域で遭遇した、凶獣。
鎧獣騎士並みの戦闘力を持つ、悪魔の改造生物。
「おい、何だありゃ。知っとるのか、お前。あれは何だ? あんな生き物、見た事がない――いや有り得ないぞ、あんなもの……」
問いながらムスタが絶句する。しかしそれにイーリオは答える事が出来ない。何故なら見た目が以前の怪物と違うからだ。
タテガミやツノの数ではない。
それも大きな変化だが、それより一目で明瞭なのが、全身を纏う黒灰色の鎧だった。
間違いなかった。
それは紛れもなく授器。
つまり目の前のこの魔獣は――
「白化」
無毛の男、ロードが声に出す。
怪物から吹き上がる間欠泉の如き白煙。
最悪の想像は、すぐに現実となった。
たちまちの内に白煙は消え、中からこの世に非ざる異形の人獣が表れる。
「まさか……あの怪物を鎧獣騎士にするだなんて……!」
人獣化した怪物――
周囲に対し、危険だと叫ぶべきだった。
目の前の怪人獣について、話すべきだった。
しかしあまりの事に、咄嗟にどう説明したらいいか分からない。
鎧獣騎士は鎧獣の時、個体の動物と何ら変わらない。鎧獣騎士の特徴のひとつでもある硬質ゴムにも似た、だがそれを遥かに超える防御力もなければ、運動性も何も通常の動物と全く同じである。
しかし、それが人獣として騎士を纏った途端、超常の能力を得るのだ。
では動物の時、既に超常とも呼べる力を持っていたらどうなるだろう?
そんなものが鎧化したら、一体どれほどの力を持ってしまうのか。
「大狼の孺子は知っているな。かつてこれはお前達異教の人間が、怪物と呼んでいたもの。しかしこれは怪物などではない。時をかけ、ようやっと完成した、我が黒き母の尖兵がひとつ」
怪物の人獣から、ロード・イゴーの声が聞こえた。
「完成……?」
「戦いに適した生物を掛け合わせた、この世ならざる混合生物。トラの敏捷性と柔軟性。スイギュウのツノと筋力。サイの外皮にライオンの咬合力。これら全てをひとつにしたこの生物を、我ら教団はこう名付けた――〝角獅虎〟と」
「混合生物の鎧獣……〝角獅虎〟?」
「これはその第一号。初期型・角獅虎の〝ザバーニャ〟だ」
人獣になった今、全高は十八フィート(約五・六メートル)ほどか。
手に持つは四本の鍬形状の刃が先端に付いた長柄の武装・四ツ鍬鎚矛。
鎧獣騎士をして神話の巨人のようだという比喩はあるが、このザバーニャは紛れもなく神話の怪物そのものだった。口から火を吹き魔法を操ると言われても、疑うより信じてしまうだろう。そんな見た目にしか見えなかった。
「さて――」
独り言のように呟くと、灰色の巨体が突如視界から消え去ってしまう。
いつの間にか、マリオン=リンドの目の前。
「――!!」
声にならない驚愕と共にかろうじて防御の構えを取るも、リンドの体は軽々と後方に吹き飛ばされてしまった。
「おばさん!」
だがそこは北の戦女神か。勢いを殺すように宙で身を捻って旋回し、そのまま着地をする。
外傷は見当たらない。その事にイーリオは安堵の溜め息をつくが、当のマリオンは狼狽を押し殺すのが精一杯だった。
両手に強く残る痺れ。
中のマリオン自身にまで強烈に響いている。
あの巨体だから威力は言わずもがなだが、信じられないのは速度と機を見る戦闘センスだった。
――まるでマグヌスと戦っているのと同じ……。
口にしなかったのは言うまでもなかったからだし、同時に言うべきではなかったからだ。
ムスタら歴戦の戦士らは今の動きだけで理解していただろう。そして自軍の士気を下げぬためにも、そんな事は口にすべきではなかった。
「先ほどそっちのジュリオも言ったが、改めてもう一度言わせてもらおう。ここから先、誰一人として先へは通さん。どうだ? その意味がやっと分かったか?」
ここに来て、ここまで来て――
イーリオに焦りと同量の戦慄が走る。
最難関と思われたマグヌス・ロロとの決着を終え、ようやっと帝都の目と鼻の先まで来たというのに、こんな邪魔が入るなど、思いもよらない事だった。
ここで足踏みなんて出来はしない。夜が明けるまでもう時間はないのだ。
噛み締める牙が火花を弾けさせるようだった。
――通さないと言うのなら、何としても通ってみせる。
でなければ意味がない。
沸騰する己の血が、彼に決断をさせた。
イーリオ=ザイロウが、聖剣レヴァディンの刃先を前に向けて構えを取る。
「炎――」
「待て」
言いかけた号令を、肩を掴んで強引に止めるムスタ。
いつの間にこんな近くにまで来ていたのか。
「お前の〝力〟をこんなところで使うんじゃない。この先にはあのウルリクと奴の家軍もいれば、ベルサーク騎士団やベロヴァ家軍だっている。何より、あの皇帝もな。だったら、ここで無駄に力を浪費するべきではないだろう」
「で、でも――」
「お前はここから脱ける事だけ考えてろ。儂らが必ず隙を作る。それだけを見ておくんだ」
父の言葉は心強く嬉しかった。しかしこの状況に至ってそんな隙など生み出せるのだろうか。
何より、自分だけが皆に頼って一人先んじるなど、まるで皆に全てを押し付けてるようで、何とも言えない申し訳なさがあった。
だが、実際に問題なのはイーリオの感情より、この十三使徒をどうするか――であろう。
「では我も、少しはその気にさせてもらおうか」
今度は異郷の人虎――呂羽=夜叉だった。
皆が怪物騎士に意識を奪われてる中、片足で円を描き、青龍偃月刀の刃先を低く構える。
人虎戦士の空気が変わった事、その闘気の桁が尋常でない事に気付いたリヒャルディスとマリオンが、同時に己達の獣能を発動する。
大理石のような堅固さを現出させる暴帝北極熊。
虹色の体毛に包まれるシロオオツノヒツジ。
「殺ッ!」
激しい掛け声と共に、夜叉の動きが幾何学の残光を描く。目で追えない。
気付いた時には、ヤロヴィトの巨体が宙に浮かされているではないか。
それを避けつつ迎撃しようとするリンドすら、独楽のように激しく回転する夜叉によって、ヤロヴィト以上の距離で飛ばされていた。
しかも先ほど受けた攻撃どころではない。
今度は半ば直撃を喰らう形で、マリオン=リンドの腹部に剣の痕まで残っている。
「ふむ、軽いな。東の大陸で一番の守護者だと聞いたのだが、噂ほどではなかったようだ」
その凄まじさにイーリオもムスタも驚愕するしかなかった。アネッテをはじめとした残りの軍勢など言うに及ばすであった。
ただでさえ恐るべき怪物の巨人がいるのに、この人虎までもとんでもない実力があるだなど……。
「何が軽いだ。愚弄するな、痴れ者が」
突如響いた声に呂羽が反応すると、彼の背後から人虎を凌ぐ巨大な影が、彼を襲った。
――!
金属音が重く甲高く鳴り、火花が瞬間の輝きを残す。
何が起きたのか分からなかったのは呂羽もだが、イーリオらも同様だった。
そして暗闇の向こうにもう一騎――
激しい踏み込みが大地を砕き、サイモンとエドガー二名の体を大きく後退させる。
「あ、貴方達は……!」
イーリオ=ザイロウの前に立ち、振り返ってこちらへの助力を示す巨人。
頭部のツノがあまりに巨大で美しく、かつては〝天の頂きに立つ者〟とさえ呼ばれた北国きっての騎士。
古代絶滅種にして史上最大級のシカ類・ギガンテウスオオツノジカの人獣騎士。
ヴォルグ騎士団六騎士・右翼大隊司令長官ヴェロニカ・ベロヴァが、鎧獣騎士〝イアリロ〟となってそこに並んでいた。
「貴公も戦士なら見れば分かるでしょう。総騎士長閣下は深傷を負っているのですよ。本来の実力も出せない状態なのに、そのように程度の低い嘲笑など……。それとも槃華では、弱った者をいたぶる事が強者の証なのでしょうかね?」
「ふん、傷など言い訳。常在戦場こそが戦士たる者の心構え。どうやら東方では戦いを競技か何かと勘違いしているらしい。命の殺り合いにあって言い訳を出来るとはな」
「では貴公が競技と侮る者の実力、総騎士長に代わって私がお見せしましょう」
ヴェロニカと呂羽が言葉の応酬をしている向こうで、挟撃する形になって灰堂騎士団らの向こう側に立っているのは、何とあのベルサーク騎士団団長ビョルグの駆る暴帝北極熊のヴェレスであった。
「一体……これは?!」
イーリオが信じられない顔で二騎を交互に見る。
「オーラヴ殿下、貴方について我々はどうにか言うものではございません。敵か味方かを問われれば、やはり我々は貴方の敵に近いのでしょう。ただそれを差し引いても、この者らとその元凶――あの黒衣の魔女の企みに見て見ぬふりをし、我が帝国が踏みにじられるのを放置する事は、我らが帝国騎士である以上出来はしないという事です」
「つまり、味方をしてくれるんですか……?」
「今この場においては、ですが」
ヴェロニカとビョルグがここにいる直接的な理由は、ソーラ・クラッカのクラッカ団によるものだった。
帝都を追われ離合集散した彼らクラッカ団は、数騎をいくつかの地に潜ませ、何かあった際、帝都の者らに連絡が出来るよう手配していたのである。そしてリヒャルディスやマグヌスとの衝突後、行く先が見えたのをきっかけに、ソーラがこれら潜伏者を使って報せを届けたのだった。
曰く――濡れ衣は晴れた。総騎士長と総司令を連れて帝都に向かう、と。
「この場は我々も合力致します。貴方がたは貴方がたの為すべき事を為して下さい」
ヴェロニカからの力強い声。
手勢は連れてないが、この二騎ほど強力な助太刀もないであろう。
夜は既に白みつつある。
イーリオに焦りの色はあるものの、まだ希望の道行きは失われてはいなかった。