第三部 第四章 第一話(1)『黒灰妖騎』
いつになく帝都はざわめきを抑えきれないでいるようだった。
夜が明ければいよいよ皇帝と新たな妃になる聖女との婚前式が控えているからだろう。その次の日には盛大な婚礼も催される。
喜びに沸いているのは宮廷の人間だけではない。帝都の臣民全てがこの祝いに心を弾ませていた。
星空が瞬きを見せるように、街のあちこちで明かりは不夜城の如く灯り続け、酒に酔う者らの嬌声も絶える事がないように思えた。
その街明かりを遠くから目にしている者らが数十名。
イーリオ達である。
本来ならば彼らの数はこの六倍以上になるはずなのだが、無傷な者や傷の浅い者らだけが先んじてここまで行軍していた。
では後からになった者らはと言えば、彼らの多くは鎧獣や駆り手らが傷付いていたり、それら傷を負った者らを運ぶため、歩みを遅らせざるを得ない者達であった。無論、搬送については通常であれば輜重部隊をはじめとした後続によって担われる事が多いのだが、今度の場合は味方同士の争いだっただけに、それだけでは手に余るほどの負傷人員がいたのである。
なので、まずは最も帝都に向かうべきイーリオ達のみが、いち早く先行をしていたというわけだ。
一緒にいるのはムスタ、マリオン、アネッテにソーラの副官ヤンクとヴォルグ六騎士のリヒャルディス。そして彼らの鎧獣たちだった。部隊の多くはリヒャルディス率いるグライフェン家軍とクラッカ団の混成部隊で、種別はバラバラ、様々な鎧獣たちがそこにはいた。
元々ヴォルグ六騎士の家軍の中でも、グライフェン家軍は混成部隊としての色が濃く、狩猟騎、駆動騎関係なく種々雑多な者らで構成されているのだ。
その理由は総隊長であるリヒャルディスが、獣騎術の大家グライフェン流の宗家であるというのが大きい。どのような騎獣、どんな騎士でも統率された部隊、洗練された騎士にするというのがこの部隊の色だったからだ。
一方で、討伐軍として派遣された内、ヴォルグ六騎士のマグヌスは鎧獣を失い、ソーラとエゼルウルフはそれぞれ鎧獣の疲弊が大きいため後続組となっていた。それ以外のゴゥト騎士団団長やグリーフ騎士団の副団長も似たようなものである。
「明かりが見えるあそこが帝都だ。何とか間に合ったようだな」
「うん」
イーリオの父、ムスタが息子に向かって労うように言うと、気持ちを落ち着けて大きく頷く。
いよいよ帝都に戻ってきた。
今回は前回と違い、正面から切り込むようなものだけに、慎重且つ迅速に事をなせねばならなかった。
かねてより打ち合わせていた段取りで、まずはリヒャルディス率いるグライフェン家軍が帰還として帝都に入り、別部隊としてアネッテ率いるゴゥトも入る。それぞれにイーリオ、ムスタ、マリオンが紛れ込み、マグヌスらの後続を待って翌朝に行動を開始するという作戦である。
「それでは準備はいいか」
最年長且つこの作戦の要であるリヒャルディス・グライフェンはと言えば、騎獣の〝ヤロヴィト〟がムスタによって深い傷を負ったものの、応急処置のおかげで行軍程度であれば問題はなくなっている。
さすがに戦闘ともなれば支障も出るだろうが、先んじて彼が帝都に帰還をするのはこの負傷があったから――というのが名目なのである。でなければ彼も後続組にいるはずだった。
当然だがこの場合、リヒャルディスが何らかの戦いに加わるという事は想定に入っていない。
ところが――
問題なく進んでいた物事というのは、得てして最も順調な時にこそ覆ってしまうものである。
気配は隠す素振りすらなかった。露骨なほどに突然、闇の中からぬるりと表れた。
「止まれ」
敵味方双方に対する、リヒャルディスの鋭い命令。
夜の暗さに慣れた視界に、ぼんやりと影が浮かんだ。
一、二、三――いや、もっと。
「何奴だ」
リヒャルディスが目の前の影に問いかけると、闇は通りの良い声で返してきた。
「敵には嵐を、世界には愛を、女神の祝福を齎す神の使徒――ってヤツさ」
「え? うわ何? 今のナニ? クッソ寒いし意味わかんないの。え、マジでサムい。お前そんな前口上考えてたの?」
「うっさいなあ。折角バチッと決めたんだから茶々入れるんじゃないの!」
「いやいや、バチッと決めたって、どこがだよ。どこが決めたんだよ。スベってるわ。ダダスベりじゃんか」
「スベってねーわ! もうほんとやめて。お前のツッコミのせいで台無しじゃねーかよ」
「いやお前の台詞で最初から台無しだろ」
この声とやり取りで、イーリオは誰がいるのか、少なくとも二名についてはすぐに気付いた。
「……もしかしてサイモンとエドガー?」
闇に慣れた視界が、輪郭を露にしていく。
瘦身で上背のある身長。モシャモシャ頭が特徴的なのがエドガー・フロスト。
駆り手のように痩せた体をしているものの、野太い牙と現生の犬科を遥かに超える巨体を持っているのが彼の鎧獣・古代野生犬の一種、饕餮犬の〝ガイトラッシュ〟。
もう一人、最初に意味不明な前口上を言ったのが、背の低い小型犬のような男、サイモン・ベック。
主に似たと言えるのか、戦闘向きには見えない丸くてフワフワした外見をしているのが彼の騎獣・古代巨大アライグマの〝パッドフット〟。
暗闇でよくわからないが、二人とも身なりが以前と異なり、山だし紛いの野卑なものではなく整えられた誂えものを身に着けている。
しかしそのマントに刺繍された紋章は、イーリオにとっても良くない意味で見慣れたものであった。
しかもそれだけではない。
彼ら二名の後ろには、まだ気配が濃厚に立ち昇っていた。
「何で貴方達がここに……?」
「知り合いか?」
「あ、うん……ほら、前に父さんにも説明したゼロが雇っていた二人組の盗賊騎士だよ。黒母教に寝返った」
イーリオの説明に、ムスタが思い出して頷く。
「って事はこいつらは――」
ムスタの呟きが正解だと言わんばかりに、サイモンとエドガー以外の影も月明かりと星明かりで輪郭を視認出来る近さにまで、姿を寄せる。
一人は瘦身で刈り込みを入れた髪の短い青年。
その傍らに侍るのはオオカミのようなイヌ科の鎧獣。
そしてその青年やサイモン、エドガーらよりも体格の大きな、見るからに偉丈夫の男と、全身をローブとフードで隠した人物もいた。
合計で五人。
更に偉丈夫の後ろには、見た事のない様式の鎧に身を包んだ、異様な虎の鎧獣もいる。
その誰もが、共通の紋様を刺繍した外套を羽織っていた。
幾度となく――嫌というほど因縁深くイーリオが目にしたそれは――
「黒母教……オグール公国の連中か?」
ムスタの問いに、瘦身の青年が答えた。
「如何にも。我々はオグール公国国家騎士団にして黒母教教会騎士団・灰堂騎士団の十三使徒。帝国との盟約に従い、この先貴様らを通す訳にはいかぬ」
男にしては甲高い、中性的な声。目を凝らして見れば、容姿も中性的に見える。
「灰堂騎士団? オグールの騎士団がいつ我が帝国と盟約など交わした? そんな話は聞いておらんぞ」
「貴方は帝国総騎士長のリヒャルディス様ですね。――はてさて、貴方が知らずとも約を交わしたは事実。エッダ様を通じ、ハーラル皇帝陛下の認可も戴いておりますゆえ」
またしてもエッダという名に、帝都に向かっていた一同が不快さと嫌悪を滲ませた。
問わずとも今までの行いを省みれば、自ずと魔女の名が出るであろう事は容易に察せられた。だが分かっていながらも改めてその名を耳にすれば、益々もってこのような専横を放っておく訳にはいかないと、全員の表情が険しくなってしまう。
「またしてもあの魔女か……。が、それよりもだ。――貴様らごとき教会坊主崩れの木っ端騎士如きがこの儂を――我々を押しとどめようというのか? 全く、舐められたものだな」
「どうやらかの総騎士長どのも、寄る年波には抗えぬようですね。我々の事を教会坊主崩れだなどと言って何も見通せぬとは……。では実力を以てご覧いただきましょう。ここから先、貴方がたの誰一人としてここを通しは致しませぬゆえ」
「ほざくな、下郎め」
低い声に込められた圧は、闇夜を震わせる。
同時に駆り手の闘気を感じ取ったのだろう。リヒャルディスの鎧獣・暴帝北極熊のヤロヴィトが、臨戦態勢で彼の背後にまわった。
「では改めて名乗らせていただきます。――私は灰堂騎士団十三使徒の第六使徒ジュリオ・ジョルジーノ。我が騎獣の名を〝スクライカー〟」
中性的な青年の斜め後ろに、狼にしては耳の長い、しかし狼に酷似したイヌ科の鎧獣が並んだ。
続けてサイモンとエドガーも名乗りを上げた後、長髪をひっつめて後ろで結び垂らした偉丈夫も、これに倣った。
「我が名は呂羽。第五使徒だ」
大陸公用語だが発音に妙な癖があった。それに顔がのっぺりとしていて、名前といい明らかにこちらの大陸の者ではないように見える。
呂羽と名乗った男の後ろには、大型のトラ。
シベリアトラに似ているが、全体的に毛深かさはそれほどでもなく、何よりひと回りほど大きい。
「灰堂騎士団・第二使徒ロード・イゴー」
全身をローブで覆い、顔形が判別出来ない人物が、最後に名乗りをあげた。
声からすると中年男性のもののように聞こえるが、それ以上にローブ越しに伝わる異様な気配にこそ、気を呑まれてしまう。何より不気味なのは、彼のみ鎧獣の気配はあるものの姿が見えていない事だった。
「聞いてもおらんのに次から次に勝手に名乗りよって。貴様ら下郎の名など覚えるに足りん。――一気に蹴散らしてしまうぞ、マリオン」
「そうね。久しぶりに兄妹でいきましょうか、兄上」
リヒャルディスの掛け声で、妹のマリオンと二人が同時に鎧化をした。
一方でロードを除く灰堂騎士団の四名もその身に獣を纏う。
だが白煙が消え去るのを待たず、帝国の守護神と恐れられるリヒャルディス=ヤロヴィトが、真っ先に四名へと突撃をかけた。
「わ!」
「お、おい!」
サイモンとエドガーが慌てる目の前で、巨大な影が漆黒を斬り裂いた。
耳を突く金属音と大質量のぶつかり合い。
暴帝北極熊の前に躍り出た影は、十八フィート(約五・五メートル)はあるヤロヴィトの巨体を真っ向から止めていた。
それも易々と。信じ難い光景だった。
「初めてお目にかかる。我が虎の名は〝夜叉〟。東方の将は精強と聞くが、却説、いかほどのものかな」
人虎から聞こえる声が、駆り手は呂羽と名乗った偉丈夫であると教えていた。
それよりも注意すべきは、ヤロヴィトの攻撃を受け止めているのがおよそ見た事のない様式の武器だという点だ。
それが青龍偃月刀と呼ばれる長柄の大剣であり、人虎の巨体を覆う甲冑の意匠と併せて、リヒャルディスはこの者が槃華の戦士であると気付く。
しかしそれにリヒャルディスが言葉を返すよりも早く、闇を鮮やかに染めるように、若芽色の閃光が波状攻撃をかけようとした。
ところが伝説の北の戦女神が人虎を斬りつけるより先に、今度は別の黒い影が驚くべき速度でマリオン=リンドの剣閃を全て弾いてしまう。
オオカミに酷似した鎧獣〝スクライカー〟を纏うジュリオだった。
「一対一に割り込むなど、品のない戦い方をするのですね」
「あら、割り込み禁止とは聞いてなかったわよ」
皮肉に皮肉で返すマリオン。しかし己の剣がこうも正確に捌かれるとは、思いもよらぬ事だった。
ジュリオ=スクライカーが持つのは二振りのサーベル。
珍しい双刀使いの鎧獣騎士である。
老いた事を感じさせぬ二騎の英傑が、互いに考えを改めざるを得なかった。
だがそれを認識した瞬間だった。
気配――というより変化に気付いたリヒャルディスが、声を大に後方へ素早い命令を出す。
「総員、鎧化せよ!」
だが命令は一歩遅く、武装前の十人以上が、一瞬で死の旋風の餌食となる。
気配を殺し、突如敵陣中央に躍り出た、サイモンとエドガー二名の仕業であった。
これにいち早く反応したイーリオとアネッテが鎧獣騎士となって反撃を出すも、サイモン、エドガーは突風のような速さで退いてしまう。
それぞれの陣営で隙を衝いた先制を打つも、結果的に初手を取ったのはどちら側であるか――言わずとも明らかだった。
距離を置いて再び睨み合う両陣営。
「成る程、大口を叩くだけの事はあるか」
自軍の被害を省みてリヒャルディスが呟くと、これにムスタが返す。彼も既にフォルンジュートを纏っていた。
「こちらの動きはエッダに筒抜けって事だぜ。まあ黒母教が〝黒衣の魔女〟に付いてる以上、そうなるってなあ予想はしてたが……とはいえこんなところでワイワイやってる暇もねえな、総騎士長閣下」
「ふん、言われずとも判っておる。本来なら儂一人で事足りるものをお前が面倒な事にしたんだぞ」
ヤロヴィトの傷を負った肩を指しながら、リヒャルディスが皮肉を言った。
「だからお前らも手を貸せ。一気に畳み掛けるからな」
「へえへえ、判っておりますとも」
年長者への敬いなど欠片もない父の返事に、これを笑っていいのか嗜めるべきなのか、何とも言えない目で見つめるイーリオ。
とはいえ父達のへらず口は余裕の証であり、そんな軽口が出ているのだから心強くもあった。だが目の前の新たな敵――十三使徒らが不気味な牙をまだ隠しているのも間違いのない事。
果たして新たな第三軍の介入は、事態を彼らの信仰のような色へと誘うのか、それとも夜が明ける曙光へと向かう兆しなのか。
婚前の儀式まで、もう時間は残されていなかった。