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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
第三部 第三章『獣王殺しと皇位』
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第三部 第三章 第五話(終)『春燕』

 時間通り、インゲボーはホルグソン大公家の屋敷に辿り着いた。

 今日は前回と違い、約束の定期検診の日であったからだ。


 シャルロッタの体調はほぼ本復したと言って差し支えなかったが、それでも彼女は帝国にとって最も貴うべき人である。万が一にも再び体を壊してはならないと、主治医以外にも念入りにインゲボーも彼女を診るよう命を授けていたのだ。

 だから先だってと異なり、例の護衛隊らも何も言わずに彼女を通す。

 少し安心もするが、やはり忌々しいとも思えた。いくらシャルロッタを厳重に守るよう指示されているとはいえ、この部隊の行いは傲慢が過ぎるというものだ。いちいちこんな連中の許可を得なければならないと思うと、胸がむかむかする思いだった。


 広い屋敷を通った後、シャルロッタの居室に招かれるインゲボー。

 扉を開けて二人が微笑みを交わすと、互いに数日振りの再会に、年頃の女性らしい喜びを振りまきあった。




 型通りの診察に、それほど時間はかからなかった。

 最初、護衛隊のノンナも同席すると言ったのだが、シャルロッタがこれを強く拒んだため、今は二人きりである。こんなところにまで出歯亀のように貼り付くなど、むしろ不敬もいいところでしょうと言ったシャルロッタの言葉は意外なものだったが、むしろその姿にノンナは安心をしたようだった。してみれば護衛隊などは、聖女を神の化身か何かだと信じて崇め奉るあまり、過保護が過ぎている集団なのかもしれない。

 だがこれはインゲボーにとっても、願ったり叶ったりの状況になってくれた。


「お茶を用意しますね」


 花がほころぶような笑顔で、シャルロッタは屋敷の者に命じる。

 しばらくお茶と茶菓子でひとときの談笑を楽しむ二人。

 そんな中、インゲボーが少しよろしいでしょうかと、固い面持ちでおもむろに問いかけた。

 その様子に何かを察したシャルロッタは、少しだけ悲しい表情になり、そして意を決したように「はい」と可憐な声で返した。

 持参した診療器具の中から、インゲボーは布包みの四角い板のようなものを差し出す。

 布がほどかれたそれを広げた時、シャルロッタの顔がみるみる内に強張ったものへと変化していった。


「これは……一体どこで」

「先日、この屋敷にとある老夫婦がやってこられたのです。夫婦は身なりの整えられた立派な貴族の方であったにも関わらず、あの護衛隊とやらが門前で追い払われ、そこにたまたま私が通りかかったのです」

「老夫婦……その方々は……?」

「リューリク侯爵夫妻。シャルロッタ様はご存知でしょう」


 シャルロッタが返答に詰まる。口を手で覆い、喉を鳴らした顔は蒼醒めていた。


「護衛隊らのあまりの仕打ちに私も見ていられず、勝手ながらお二人をお助けし、我が屋敷に御招きしたのです。そしてこの絵織物を預からせていただきました。これは――貴女様のものですね、シャルロッタ様」


 しばし呆然となった後、深呼吸を何度かしゆっくりと彼女は頷いた。


 リューリク侯爵夫妻から預かった絵織物。

 そこに描かれているのは、緑の髪の青年の横顔。


 あのイーリオ・ヴェクセルバルグの姿だった。


 決して上手に織られてはなかったし、お世辞にも絵心があるとは言えない。見る人が見ればそれが誰であるかは分かる程度のものだが、当人をちゃんと見た者でなくば、誰を描いたものかは分からないだろう。

 そんな程度の出来であるのに、この絵からは切々とした愛情そのものがインゲボーには感じられた。巧拙で語られるものではない。誰かが誰かの事を真剣に思い作られたものには、見る人の魂を揺さぶる何かが籠っているものだ。


 そんな風にインゲボーが語ると、シャルロッタは目に涙をためてそのまま俯いてしまった。


「勝手な事をして申し訳ございません。けれどこれは、貴女と三年間お暮らしになった侯爵夫妻からのお届け物なのです。私がそれを打ち捨てるなど出来ませんし、これは何としてでも貴女に届けなければ、そう思ってここに持参しました」


 インゲボーの熱量に圧されたのか、やがてシャルロッタが、か細い声で「ありがとう」と呟く。

 それを耳にした時、インゲボーは今しかないと決意した。


「シャルロッタ様――貴女はそれでよろしいのですか?」

「え……?」

「自分の心を偽ってまで覚悟を決める。そんな覚悟は覚悟とは言いません。それはただの強がりです」


 シャルロッタが顔をあげる。大きな銀の瞳は、吸い込まれるように儚い。


「私、聞きました。今もあのイーリオという若者は戦い、この帝都に向かっているんだと」

「……!」

「それを討伐するため、帝都からは主力の軍まで出したと。でも私、あの彼なら、その軍すらも切り抜けてここにやって来るんじゃないかと思います。それもこれも、全て貴女を想っているから」


 シャルロッタが口を両手で塞ぎ、必死で嗚咽を堪えようとしていた。


「どういう事情があるのか、私には分かりません。貴女という神秘の存在を考えれば、私などに理解出来る事ではないのでしょう。でも、それでもやっぱり貴女も私と同じひとりの女性なんです。同じ人間なんです。私がお調べたした限り、貴女はどこからどう診てもごく普通の一人の女性。例え私の知らぬ何かが同じ人間ではないとしても、それでもやはり同じ人間でしたら、その苦しみの万分の一でも理解は出来るかもしれません。だからもう、本当の気持ちを偽らないで下さい」


 絵織物の横顔は何も語らない。

 でも、そこから溢れ出すたった一年ぽっちの記憶が、千年以上の痛みに勝る事とてあるのだ。



 ――君の事は、僕が守るよ。



 ――シャルロッタはさ、僕の事、好き?



 ――僕が君を見つけて、君が僕を選んでくれた。



 声が聞こえた。

 彼の声が。



 それはシャルロッタにだけ届く、優しくも甘い呪いの言葉。もしくは針のような優しい思い出。


「こういう事を言うのは卑怯だし狡いのは分かっています。でも、今こうしている時にも、貴女の事を想って、誰かが傷付き、誰かが苦しんでいます。皇帝陛下の暴走、あの黒衣の魔女が裏で為さんとしている事――そんな全部の中心に、貴女と彼がいる」

「……」

「私には貴女が想いに蓋をして無理をしてまで覚悟をしている、そんな事にこそたくさんの事件の鍵があるように思うのです。ですからどうか、私に貴女の想いを話していただけませんか」


 肩を震わせるシャルロッタ。


 ひょっとして今一番彼女を苦しめているのは、自分ではないだろうかとインゲボーは思った。でも、これが最後かもしれないのだ。この機を逃せば、二度と彼女の口から真実を聞き出せる瞬間は訪れないかもしれないのだ。


 これの後は、もう皇帝と結婚するだけ。


 それが正しい事だとは、どうしてもインゲボーには思えなかった。

 やがて震えた肩がゆっくりとおさまり、絵織物を抱えたままシャルロッタは部屋の窓際へと歩いていった。

 窓から覗く空を見上げ、鈴の音のような声で独り言のように呟く。


「――あの空を飛んでいる鳥……あれがなんという名前なのか、ご存知ですか?」


 一瞬、聞かれた言葉の意味が判らず、インゲボーは返事に詰まる。

 同じように窓へ近付いて、おずおずと空を見上げた。


「鳥……ですか? えと……ツバメ……ですかね」

「あれはヨーロッパアマツバメというそうです。以前、教えてもらった事があります」

「――それが何か……?」


 いきなり鳥の名前を語りだした事にどんな意味があるのか。けれどもここで焦ってはいけないように思えた。


「名前にあるヨーロッパ、という言葉。その意味をインゲボー様はご存知でしょうか?」

「ヨーロッパ……。全ての生き物は、諸獣目録に記載されている通りですが……そこに記された名前は、目録を発行している教会が決めているのではないかと思われます。ただ、そうですね……ある研究者の説だと、古代の神々から由来しているとか。もしくは煉獄の崩落前にあった古代国家の地名だ、などという説を唱える学者もいましたが……」


 いささか固過ぎる返答になってしまったかとインゲボーは言った後で後悔する。けれどもこういう返し方になるのは錬獣術師(アルゴールン)さがのようなものだった。


「この世のあらゆる生き物の名は、諸獣目録に記載があり、それはエール教の教皇のみが知る――そう言われてます。けれど、真実は違います」


 ところが予想外とも言えるシャルロッタの返答に、インゲボーは一瞬声を失う。だが続けて彼女が語った内容は、その更に斜め上をいくようなものだった。


「名前がどうやって、誰が決めているのか。それはエール教の教皇ですらも知り得ない事なのです。いえ、エール教はただ目録を受け取っているだけ……」

「シャルロッタ様、一体何を――?」

「名前を――いえ、生き物の全てを教会の管理者に伝えているのは――黒母教なのです」

「黒母教? あの、オグール公国の? え、でも――」


 いきなり饒舌に語りだした事にも驚きだが、それ以上に彼女の告げる内容が、もっと衝撃だった。理解が追い付かないインゲボーは、ただただ彼女の告白に振り回されはじめていた。


「正確には黒母教の巫女、ヘスティアが全てを伝えているのです。……いえ、それも正確ではないですね。ヘスティアもあくまで伝言者。全ては大いなる摂理によって定められているのです」

「それはつまり――エール教と黒母教が、裏で繋がっている……と?」

「それも正しくありません。例えどれだけ人間が騒ごうと、全ての事象は決められている、という事なのです」


 彼女の話は、あまりに衝撃的だった。

 むしろ妄言の類いに近いとも言える。

 いや、普通であれば何か良からぬ事でも吹聴され、気でも触れたのかと思うだろう。だが、今のシャルロッタの悲しそうな顔を見て、誰がそんな風に思えただろうか。


「その……よく分からないと言いますか疑問が尽きないのですが、仮に今のが本当だとして、一体それが貴女様にどういう関係があるのでしょうか?」

「私の事、私がここに来て皇帝陛下の妻になる事、それらも全て大いなる摂理によって定められた事のひとつなのです。それは人の抗いなどまるでどうにもならない絶対の定理と同じもの。目録の生き物の名が決められているように、どれだけ願っても人が空を飛べないように、私の感情などあろうがなかろうがまるで意味のないものなんです。だからインゲボー様、どうかかこれ以上は関わろうとしないでください。足掻くだけ、もがくだけ、ただ辛いだけですから……」


 まさか、と思うような返答だった。


 いきなり語りはじめた話が、よもや大陸全土に広まっているエール教と、エッダやウルリクとも妖しい噂の絶えない黒母教とが繋がっているというものだったからだ。



 いや、それすらどうでもいい。


 シャルロッタとハーラル皇帝の婚儀すら、それら神々の信徒らによって決められたものだと彼女は言った。覆す事の出来ない宿命のようなものだと。

 一体、彼女の身は――いや、彼女の結婚とは、世界と天秤にかけるようなものだというのだろうか。


「ひとつ、よろしいですか」

「はい」

「貴女はそれでも、あの若者――イーリオを愛してる、そうなんですよね?」

「……」


 沈黙が答え。

 それは分かっていた。彼女の苦しみの本質はまるで理解出来ないが、踏み込むなという訴えである事くらい、インゲボーに分からぬはずがない。


 それでも――


「この絵織物、これに愛がないなんて私は思わない。だって、だってこれは――」

「無駄なんです。私という存在に、想いなんて……」


 知らず知らずの内に口調が変わる。今はもう、一人の女同士。


「その想いを聞きたいの、私は。ねえ、答えて頂戴。好きなの? そうじゃないの?」

「だから、何度も言ってます。そんな想いなんて意味がないの……そんなもの、そんな事、あろうがなかろうが、もう何もかも全部決められている事だから……」

「決められたなんて関係ない。貴女の心に聞いているの。どっち?」

「ごめんなさい」


 苛々した。もどかしかった。

 彼女の檻はどの心の城壁よりも高く堅固なのだろう。それでも自分の言葉でここまで肉迫してきたというのに――。

 それでも高い壁は拒み続けるというのか。


「分かったわ。――でも、最後に一つだけ言わせて。貴女の名前は、彼が付けたのよね。シャルロッタって。嫁ぐって決まってる、それは変えようがないって言うなら、どうして名前は変えなかったの?」

「それは――」

「以前、皇太后様が言ってたわ。皇帝の妻になるのなら相応しい名前に変えるべきなのにどうしても貴女が変えようとしないって。皇太后様にもエッダ様にも強くすすめられたのに貴女はそれを譲らなかった。それはリューリク侯爵夫妻も言ってた。あの黒騎士を前に、貴女は強く拒んだって。何故ならそれはまだ、あの彼の事が好きだから――そうなんでしょう?」

「だからそんなの、意味がないの……」

「意味がないならどうして拘るの?」

「そんな事ないわ。名前はただもう……愛着みたいなだけだから……」


 徐々に顔を伏せるシャルロッタ。

 インゲボーには苦しいほど、息が詰まりそうになるほど彼女の想いが伝わってきた。


 ねえ、分かるの。私には分かるの。

 だって私も貴女と同じだから。


 そう言いたくても言い出せない。

 それはインゲボーが、やはり彼女と同じだったから。


「いいえ、違うわ」


 インゲボーが近寄って、肩を抱き寄せる。




「だって貴女今、泣いているもの」




 数拍の間をおいて、嗚咽がインゲボーの肩越しに響いた。

 インゲボーは何も言わず、彼女をずっと抱き寄せたまま、そのままでいた。


「ねえ、摂理がどうとか、決められたがどうかなんて関係ない。私だって身分や色んなものに縛られているから言う資格なんてないのかもしれない。けど、でもね、愛してるって気持ちに嘘をつくのは、貴女が守ろうとしている事にとっても、きっと不幸な結果にしかならないと私は思うの。神様だろうが摂理だろうが関係ない」


 銀の髪をした乙女の肩を抱き、彼女は両者の間にある一枚の板に目を落とした。


 ぽとり


 ぽとり


 と、心の滴が糸を濡らす。


 それを見つめながら、ありったけの気持ちを込めて、インゲボーは言葉を紡ぐ。


「こんなに綺麗な愛してるって気持ちがあるなら、後悔のない選択をしても不幸な結末なんて絶対こない。絶対に。私はそう、信じてる」

「そんな事……」

「ねえ、貴女も信じて。私と同じように。私は貴女を信じてる。貴女の想いを信じてる。貴女も――貴女の信じる、貴女の想いを信じて」


 最初にあったのは、父の死をきっかけにした真実を知りたいという思いだけだった。

 それはどこか権謀術数にまみれた、腐臭の漂う考えだったのかもしれない。


 けれど、今インゲボーの中にあるのは、一人の女性としての共感だけ。



 どうにもこうにもならない世のしがらみすら嘲笑うような、そんな宿命に縛られる無垢な乙女に対する応援。それこそが、彼女の全てを突き動かしていた。

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