第三部 第三章 第五話(2)『皇家秘事』
マグヌスは語った。
自分の過去を。
自分の犯した過ちを。
そしてその事を知ったエッダとウルリクが皇帝に取り入り、好きなように政事を専横しているという事実を。
「何を馬鹿な……」
頬を引き攣らせ、エゼルウルフが血の気の引いた顔で詰め寄る。
エゼルウルフばかりではない。リヒャルディスなどはエッダらの暗躍は察していたものの、まさかその発端がマグヌスとサビーニ皇太后による密事であり、よもや現皇帝が帝室の血を引いてないなどとは、彼とて想像だにしていなかった。
そしてそれを上回る、先帝の乱心と狂気にも言葉を失った。
「本当だ。嘘偽りのない真実だ」
「では……では……我らは紛い物の皇帝を本物だと信じ込まされ、それにかしずいてきたというのか……?」
ゆっくりと頷くマグヌス。
正直、紛いものという言葉に忸怩たる思いを抱かぬでもなかったが。
「何故だ……。何故それをこの場で言う? 一体その書面には何が書かれてあるんだ!」
「ここに記されてあるのは皇太后陛下殺害の真犯人だ。そして彼らが何故それをしたか。それを話すには、俺が隠してきた真実を明らかにするしかない。――だからまず、今言った事を明らかにした」
エッダとウルリクによるサビーニ皇太后の殺害。
即ち、主殺し――。
血腥い宮廷ならば、珍しい話でもないだろう。
だが、どれだけ過去に例があろうと、許されざる大罪なのは変わりない。ましてや皇太后に許し難い罪があるとはいえ、それを己らのために利用し、邪魔になったから命を奪うなど、悪魔ですら行わぬ悪逆である。
「これを突き止めたのはあの不死騎隊だ。彼らはハーラル陛下のために命懸けでその真実を突き止めたが……どうやらそれと引き換えに全滅したらしい」
皆が驚愕に声も出ない。
不死騎隊と言えば暗殺騎士団として知られているが、その実力が恐るべきものだという噂もまことしやかに囁かれている。そんな集団が全滅させられるなど――!
「エッダらは自らの目的のために俺を操り、エゼルウルフ、お前も操り、帝国の騎士全員を思うがままに誑かしている。だがそんなあいつらにとって最も邪魔な存在こそが――彼だ」
マグヌスの視線の先。
白い炎の紋様が描かれた、白銀の人狼騎士。その中にいる若者。
「イーリオ・ヴェクセルバルグ――ゴート帝国直系の血を受け継ぐ唯一の御方。紛れもなく、オーラヴ殿下であらせられる」
「な……! では、あ奴の語った戯れ言が、全て真実だと言うのですか!」
正確にはイーリオが自分で己をオーラヴと名乗ったのは、トルステン大公一人だけに対してである。
「そうだ。だからエッダらは、ここまで大仰な手段を使ってでも、オーラヴ殿下を亡きものにしようと目論んだのだ。それを許す羽目になったのも、全ては先帝陛下の為された闇と、俺の犯した罪が原因」
話を聞かされ、その場に崩れ落ちるエゼルウルフ。
「では……では我々は一体どうすればいいというんだ」
「正道に照らせば、こちらのオーラヴ殿下に戴冠をいただき、ハーラル様には位を降りてもらうという事になるだろう」
リヒャルディスの言葉に、エゼルウルフが顔を上げ、次いでイーリオの方を見た。
イーリオはと言えば、いきなり自分が皇帝に就くべきだと告げられ、咄嗟に何をどう反応すればいいのか途方に暮れる。
「しかしだ、例え血の真実がどうであれ、儂はハーラル陛下を主と一度は定めた。あの御方こそ、帝国皇帝に相応しい方だと。正直、今もその思いに偽りはない。だが今の話を聞いてしまった以上、これを無視する事は出来ぬ。これを許せば、皇室の血は絶え、帝国五〇〇年の歴史を踏みにじる事になる」
リヒャルディスの言葉はこの場の全員の本音を代弁していたと言えるだろう。
正しき道に照らせば彼らの心に拭いきれぬ痛みを残し、かといって偽りを是とすれば、それは帝国の歴史が終わりを告げるという事である。
「儂はな……トルステンがオーラヴ殿下に命を賭けたその意志を、あのまま無下には出来なんだ。だから賭けてみたのだ。もしもオーラヴ殿下に皇帝としての資質と天運があるのなら、儂だけでなくマグヌスすらも乗り越えていくだろうと」
リヒャルディスがムスタらとの決闘によって決着をつけた理由。
おおよそ察しはついていたし言いたい事は分かるが、かなり強引で無茶な賭けをしたもんだと、聞いていたムスタは内心で苦笑した。
リヒャルディスが自分の考えを吐露すると、マグヌスがその後に続く。
「だがそれよりもだ。最も座視出来ぬのはエッダ、ウルリク、彼奴らの陰謀だ。これを放置すれば、この国がどうなってしまうか分からん。最悪、国そのものが滅亡する事とてあるやもしれぬ。これを聞いて尚、まだ戦いを続けるというのか? ――違うだろう。戦う理由も大義も、もうとっくになくなってしまっている。何故なら賊軍とされたソーラ達に罪はなく、罰を受けるはこの俺をはじめとした人間達だ。何より、我々が今最も剣を向けるべき相手は、帝国を意のままにするエッダ達奸物の方ではないのか?」
「――待て」
不意に横から、エゼルウルフが待ったをかけた。
「だったらまずはじめに、長きに渡り我々や帝国を騙していた貴様こそ、断罪されるべきではないのか? マグヌス・ロロ」
怒りと憎しみが浮き彫りになり、表情が憔悴したものへ変わっていた。
「……ああ。お前の言う通りだ。俺こそが最も罪深い。今直ぐここで首を落とされても仕方なかろう。だから俺の言葉を聞かぬという選択肢も、お前達にはある。ただな……俺はそれでも罪深い人間として、己の血を引く者と共にこの責任を取らねばならんと思っている。それはつまり、あの奸臣らを止める事だ。だからもし叶うなら、この戦いを今直ぐ終わりにし、真の敵に立ち向かってはくれまいか……!」
エゼルウルフ、マグヌス、両者の言葉に皆の心が千々に乱れた。
どうあれ、ハーラルは偽りの皇帝であり、マグヌス共々処罰されねばならないだろう。しかしそれに動揺するほどに、ハーラルは将達や騎士達に慕われていたのだ。自分達が命を託すに足る主であると。
ならばどの選択が正しい事なのか。いや、それはマグヌスの言う事が一番正しい選択なのだろう。
だがそれでは彼ら全員の心の中に生まれてしまったこのわだかまりをどうすればいいのか。
これは理屈ではない。
帝国騎士としての彼らの感情の寄って立つものが、ガラガラと崩れたからこそ起こっている状態なのだ。
「よくもぬけぬけと……」
エゼルウルフの声が震えていた。
彼の帝国への忠義は誰よりも厚い。だからこそ盲目的にウルリクを信頼したのだし、ハーラルを無二の主と定めてきたのだ。
そのどれもが無為なものであり間違いだったなどと聞かされ、平静でいられるはずもないだろう。
顔を歪ませ、エゼルウルフはマグヌスの襟首を掴んだ。
マグヌスが巨漢のため、エゼルウルフは見上げる恰好になる。
そのまま拳を震わせながら、エゼルウルフは総司令官を殴りつけた。
皆が驚きで息を呑む。
「全てはお前のせいではないか。なのに、どの口が正論を語る……!」
あのマグヌス・ロロを殴りつけるなど、通常ならば絶対に有り得ない。帝国の全騎士にとって神とも呼べる存在なのだ。
エゼルウルフもまた、マグヌスには最高の敬意を払っている。その総司令官を呼び捨てにするどころか手を振り上げるなど、信じ難い光景だった。
しかしマグヌスはこの責めに対し、何も言わずされるがままであった。
エゼルウルフが再度拳を上げようとした。
その時、誰かがその手をきつく止める。
捕らえられていたはずのソーラ・クラッカだった。
「もう止せ、エゼルウルフ」
彼が縛を解いてここにいる事よりも、己のしていた事、それを止めたのが忌々しいソーラである事に、彼の思考は真っ白になる。
「叔父貴も叔父貴だぜ。今までそんな事を自分一人で抱え込んでいたなんて、水臭ぇじゃねえか」
「……」
「誰にも何も言えねえってのは分かるけどよ。にしても俺らにまでだんまりしておくなんて、そりゃあねえと思うぜ。あんたや陛下が自分の事をどう思ってるかはともかく、少なくとも俺らは、陛下にも叔父貴にもそんな生半可な忠義を捧げたつもりはねえからさ」
マグヌスがソーラを見る。エゼルウルフからリヒャルディスへと視線を移した後、辺りの騎士達全員を見渡した。
「そりゃ納得いかねえってヤツもいるだろうさ。マグヌスの叔父貴を信じれねえって思っちまったヤツも。でも、そんなヤツばっかじゃねえぜ。俺はそう思ってる。だからよ、エゼルウルフ。叔父貴の処罰は後でいくらでも決められるから、それよりも全てに片をつけるため、俺達同士の争いはもう仕舞いにすべきだ。違うか?」
ソーラの発言が、渾沌とした感情の中からひと掬いの確かなものを拾い上げる。
――帝国万歳! 皇帝陛下万歳! 総司令官万歳!
かつて皆が栄光を讃えた日々。
そう連呼した声に偽りはなかったはず。
その声に応えようとした者にも。
だから彼らは揺るぎない絆を持った騎士団でいられたのだ。
そこに悪意や邪念などなく、ただ皆が、誇り高い帝国の人間であろうとしただけだったのだ。その事だけは間違いないと、ソーラの言葉が皆に思い起させる。
既にこの場の誰にも、戦意のある者はいなかった。
誰かがぽつりと「蒸解」と呟く。
次に別の場所でも同じく。また、その隣りで。やがて鎧化解除の声は連鎖となって広がっていき、誰に従ったわけでもなく、この場の全員の武装は解かれていった。
荒れ狂う敵意は塵と消え、この場はこれで収まっていくかに思えた時だった。
これを鎮めるきっかけとなった彼が、ちょっと待ったと声をあげる。ジェジェン首長国の御曹司ジョルトである。
「そのさ、あんたら帝国の人間だけで丸く治まったみたいになってるところ悪いんだけどよ、肝心の人間が抜けてやしないか」
ジョルトが指した先をマグヌスらが見ると、そこにいたのは白銀の大狼と並んでいるイーリオだった。
「あんた達が帝国の陰謀がどうしただの、皇帝をどうするかだの勝手に言う分はいいけどさ、当の本人の言い分は聞いたのかよ。少なくとも俺が知る限り、イーリオは自分こそが皇帝だなんてひとっ言も言ってねえと思うぜ」
自分の意志とは別に話が進み、突然名指しされる事も含めて一瞬戸惑いを見せるが、イーリオはこの気遣いに密かな感謝を心の中で呟いた。
六騎士達四人がいる場所に、イーリオ、ムスタ、マリオンが歩み寄る。
「僕は正直、帝国とか自分が皇帝家の血筋とか言われても、全く興味がありません」
「興味のあるなしで語るべき話ではない。貴公は――いえ、貴方様はこの帝国の帝冠を戴くべきお人なのです。それは逃れられぬ宿命とお思いください。これは既に、個人の意志などではかるべきものではないのです」
矢庭に言った言葉はいかにもイーリオらしい内容だったが、エゼルウルフが即座にこれを否定する。
「いえ、個人の意志で語るべき話です」
「何を馬鹿な」
「何故なら僕はもう、自分を帝国の人間だとは思ってないからです。どれだけ証拠を揃えようとも、僕は僕。ムスタ・ヴェクセルバルグの息子で六代目百獣王カイゼルン・ベルの弟子イーリオ・ヴェクセルバルグ。それが僕です。そして僕が帝都に向かう理由は唯一つ。それは戴冠の折りにも言った事。彼女を――シャルロッタを取り戻す。それだけです」
イーリオの宣言に、四名の武人はしばし呆気に取られた。
あまりに真っ直ぐで、あまりに青臭く、けれども眩いばかりに力強い言葉だったから。
ムスタなどは肩をすくめ「こっちの尻までむず痒くなっちまう」とマリオンに言うと、彼女は汚いものでも見るような顔でそういうところなのよ、と返した。
「いや、だからそれも帝位を継げば同じ事。何より、皇帝として話を通すならともかく、縁もゆかりもないと仰られるならそんな我侭だけが通るなど思わん事です」
「ですから、皇帝になる気はないと言ってるじゃないですか。繰り返し言いますが、僕はシャルロッタを連れ戻せば、それだけでいいんです」
どうにもこうにも互いに平行線で交わる事などないように思える発言。
そこへ、再びジョルトが間に入った。
「ま、何にせよ、そいつは後々考えればいいんじゃねえか。どっちの連中も帝都に行くってのは同じなんだからよ」
そのためにはお互い協力すればいいだろう――ジョルトが言っているのはそういう意味だった。
しばしの沈黙が降りるが、やがてイーリオをはじめとした皆が頷き合う。
こうして、予想外な闖入者と共に、ここまでの戦いはこれにて幕引きとなった。後は皆で帝都に向かうのみ。
しかしこれを為した立役者にイーリオが礼を述べようとすると、彼はやんわりとそれを否定した。
「んな事はいいよ。それより、勝手にしゃしゃり出てきておきながら逆に迷惑かけちまったんだ。済まねえな」
「そんな……僕こそジョルトさんがいなかったらここにはいれませんでした。それに、僕のせいでとんでもない目に合わせたんですから、本当にすみません……」
「だからいいって」
片頬を優しく釣り上げながら、ジョルトが軽い調子でイーリオの頭を小突く。
「けどだ、俺はお前と一緒に帝都には行けねえ」
「え?」
驚きはしたが、むしろここまで骨を折ってくれた上に、まだ手を貸して欲しいというのは虫が良過ぎるだろうとも思った。少しだけ残念そうな顔をするイーリオに、ジョルトはそうじゃねえぜと告げた。
「俺はこれからメルヴィグに行かなきゃなんねえ。だから一旦、お前とはここで別れる。でも心配すんな、俺は最後までお前に協力するさ。それが俺の決めた事だからな。それによ、ここで友達を見捨てるなんてしたら、ジェジェン人の恥だ。んな事、俺は絶対しねえからよ」
恨み言を言われてもいいはずなのに、むしろジョルトは前以上に彼のままだった。
変わらない彼らしさに、イーリオは熱いものが胸の内からこみあげてくる。
「ありがとうございます……!」
そして最後に、まだこの場を離れていなかった怪盗騎士のゼロが、イーリオに近寄ってあるモノを手渡した。
「これは……」
見慣れた特別製の容器。
アクティウム製の薬酒――極上薬箋。
鎧獣騎士の回復剤である。
「お前の師匠に会う前にな、こいつを手渡されたんだ。ほら、アンカラのクテシフォンで一緒にあの白い化け物みたいなゾウと戦った、変な術を使うお前の仲間がいたろう。眼鏡をかけた姉さんでさ」
「レレケが? どうして?」
「ああ、そうそう。そのレレケさんだよ。何でもあの変な術で俺の居場所を突き止めやがったらしい。んで、俺がお前に会ったのにも気付いて、これをな、お前に渡してくれって」
ザイロウにトレモロ・ユニットを手配してくれた事といい、どこまでレレケは自分に手を尽くしてくれるのか――。
「言ってたぜ。直接協力出来なくて済まないって。でも、その回復液はこの先必ず役に立つだろうからってさ」
自分はどれだけ多くの人に支えられているのだろうか。
その恩に報いる術が、果たして自分にあるのか。
し足りないほどの感謝と礼で再びイーリオの胸が熱くなる。そしてこれに報いる最大の方法は、彼らの協力を無駄にしない事だと、改めて決意した。
日は翳りを見せ、辺りは既に暗闇に近かったが、イーリオの目には、はっきりと明るい光が見えていた。