第三部 第三章 第五話(1)『一触即発』
百獣王・対・獣王殺し――
その壮絶過ぎる対決は、誰もが圧倒される中、終わりを告げた。
勝利に沸く者も、敗北に打ちひしがれる者も、双方共に複雑な感情であったろう。
勝利したのは賊軍と呼ばれる側だったが、それも同じ帝国軍なのだ。そして帝国の騎士にとって、マグヌス・ロロとは絶対の存在だったのだから。
膝を屈するマグヌスに、カイゼルン=ヴィングトールが近寄る。
「いいか」
顔を上げ、獅子の人獣を見上げるマグヌス。
「ああ。頼む」
それは死の宣告だと、誰しもがそう思った。
途端、皆が身を硬くするも、これが総司令官の意志と誇りなら、それを邪魔する事など誰が出来ようか。しかしカイゼルンが言ったのは、それとは違う言葉だった。
「おい、ムスタ!」
呆然と眺めていたムスタが、名を呼ばれて両騎の側へ駆ける。
「保存液は持ってるよな?」
「あ? ――ああ、そういう事か。勿論あるぞ」
「なら安心だ」
その瞬間、ヴィングトールの持つ黄金の大剣が光となって閃いた。
斬られたのは武人の首――ではなく、苦悶に喘ぐ古代北極羆の額。
重い音をたて、ウェルーンの神之眼が地面に落ちた。
それをすぐさま拾い上げるムスタ。
拾い上げる時、ムスタはそっとウェルーンの両目を閉じてやった。
「これ以上は、苦しまずに済んだと思うぜ」
カイゼルンの言葉に、マグヌスが己の騎獣の首筋を優しく撫でる。
「不甲斐ない主ですまん……ウェルーンよ。もう二度と、俺は負けん。二度とお前にこんな苦しい思いはさせんからな」
瞑目するマグヌス。
ムスタは人獣の跳躍で後方に退がると、すぐさま己の荷物から道具を取り出した。
カイゼルンが行ったのは神之眼の回収である。鎧獣は神之眼さえ無事ならば何度も再生をする事が可能だから、息絶えた直後にこれだけを無傷で取り出し、保存が出来るよう専用の薬液に浸しておく事がしばしば行われる。
本来、こういった事は各部隊に配属されている補給部隊や後方部隊などによって行われるのが常だが、勝利者側の権利として奪われる事もままあった。だからロロ家軍も手出しせず傍観せざるを得なかったのであるが、ムスタは保存処理を終えたそれを、黙ってマグヌスに差し出した。
マグヌスは少しだけそれを見つめ、礼を述べながら受け取った。
「ホーラーには自分で持って行くといい」
二人のやり取りを横目で眺めつつ、カイゼルンは息を吐きながら「蒸解」と告げた。
「おい」
「んだよ。オレ様が受けた依頼はマグヌスを止めて欲しいってだけだぜ。後の事は知ったこっちゃねえ」
この戦場の只中で、誰より先に武装解除する三獣王。それに呆れ声半分、冷や汗半分でムスタが問う。
「いや確かにそうだが、お前、いきなり鎧化解除して大丈夫か? 周りを見ろ。帝国軍が今にも食い殺さんような目でお前を見とるんだぞ」
「んなもん大丈夫だって。つーか、オレ様は主賓だぜ。警護するのもお前ぇらが払う手間賃の内って事でよろしく頼むわ。あ、それと調合表な。忘れんなよ」
「お前なあ……」
とはいえ、ムスタの懸念の方がこの場合正しいだろう。ムスタやイーリオも未だ鎧化を解除しておらず、周りの状況もいつ戦いが再発するか、一触即発だ。
それもそうだろう。武を以て尊しとしている大帝国の頂点であり、己らが最も尊敬を払う総司令官が敗北させられたのだから、その相手が誰であれ、むざむざ生きて帰すなど帝国騎士の沽券に関わる事。見逃すなど出来ようはずもなかった。
高まる殺意にあえて波を起こすように、この時、ソーラを捕縛していたエゼルウルフが声を張り上げた。
「皆の者! 総司令官閣下は敗れはしたが、我らの本来の目的が何であるか、忘れたわけではあるまい! そうだ、この逆賊どもの始末、または捕縛こそ我らに課せられた使命。これ以上賊軍どもの好き勝手を許しは出来んぞ!」
怒りに目が曇っていた帝国騎士達が、一斉に横面を張られたような顔になる。
総司令官の仇を――そうなりかけていた自分達だが、本来はそれのためにここにいるのではない。
為せねばならぬ事。それを見失う事は騎士の誇りを失うのと同じ位、あってはならなかった。
「見ろ! 既に百獣王は鎧化を解いている。今こそ好機だ!」
檄を飛ばす当のエゼルウルフは戦闘不能のようだが、引き連れた一団の数はまだある。そして彼の言う通り、最も恐るべきカイゼルンに、既に戦闘の意志はないようだった。
となればやるべき事は一つ。
ロロ家軍の副官であるホラアナグマの鎧獣騎士が、無言で合図を送った。即座に各々武器を構え、臨戦態勢を取る。
一方で本来の総指揮官であるマグヌスはと言えば、これを険しい顔で見つめるだけ。何も言わずに黙っていた。
彼からすれば、敗軍の将とは違うが己一人敗北を喫してしまった以上、事の成り行きに口を挟む権利はないと思っているのだろう。とはいえ、ロロ家軍の精強さにかけては他に並ぶものなしと思えるほどの自負はあるが、相手は〝北の戦女神〟に〝黒飛爪〟。そして〝恐炎公子〟が率いているのだ。
数に勝っていようとその数を覆す実力者が三騎もいれば、こちらが不利なのは当然の事。何より、肝心の恐炎公子の始末をつけるなど、叶うはずもなかろうと思ってはいたが。
「仕方ない。消耗覚悟でやるぞ」
後方にいたイーリオとマリオンへムスタが言うと、二名も頷いて返す。また、離れた場所にいるアネッテも、既にゴゥトの手勢に臨戦態勢を取らせていた。
空気が張り詰める。
そんな中、状況を大きく変えた当の本人は、悠々とした足取りで怪盗と名乗る人獣騎士に向かって歩いていた。
「おおい、貰うモン貰ったんなら行くぞ」
場違いな声を出すカイゼルンに、未だ武装を解いてないゼロが、焦った声で慌てる。
「え、ちょっ、待って。まだ俺の用事が済んで――」
何かをしようとするゼロの声を掻き消すように、「かかれ!」と鬨の声が被さった。
両軍が一斉に駆け出す。
まさにその瞬間――
「待ったァッ!!」
両軍の音を上回るけたたましい大音声が、戦場を斬り裂いた。
同時に、見慣れぬ赤い閃光が、丘陵の真ん中に降り立つ。
「この戦い、ちょっと待てっ!」
両手を大の字に広げて制止をかける一騎の鎧獣騎士。
頭に血の昇った軍勢に、冷や水をかけるほどの迫力は、〝彼〟でなくば出せなかっただろう。
それは赤毛をしたウマとシマウマの混合種。
馬縞馬の人馬闘士。
ジョルト・ジャルマトが纏う〝アリオン〟だった。
「ジョルトさん……!」
思わずイーリオも手と足を止める。
「両軍とも、聞け! この戦いはもう無意味だ!」
「何だぁ?!」
誰彼構わず鼻息も荒く威嚇する。
「いいから聞け! ――俺はな、あんたら帝国の存亡をかけた大事な報せを持ってきたんだ。そいつを聞いてから戦いをするかどうか決めても遅くはねえ。だからまず、俺の話を聞いてくれ!」
通りの良い声、というのがある。
耳障りが良いというか、どれだけ喧噪に包まれていようと、その者の声だけは耳に届き易いという声だ。例えば優れた将帥などは、こういった通る声の持ち主である事が多い。
音も何も渾沌となる戦場では、声の通りがよくないと指揮が届き難いからだ。しかも鎧獣騎士となれば戦いは人間よりも遥かに高速で目紛しい。必然的に指揮官の資質としてそういった声というのが重要視され易くなる。
その点、ジョルトの声はまさに上に立って指揮をするのに相応しい人間の声だと言えるだろう。
「貴様は確か、ジェジェンの御曹司……?! 何故貴様がここにいる? いや、何故邪魔をする!」
語気も激しく吠えたのはエゼルウルフ・ヘリング。
折角上げた気勢を削がれ、面白かろうはずがない。だが、そんな言葉に萎むようなジョルトでもなかった。
「いいから黙って聞け! 俺はここに、不死騎隊のロベルトって野郎から託された密書を持ってきた。こいつはな、そのロベルトが文字通り命懸けで俺に託したもんだ。あんたらもあいつと同じ帝国人なら、これを確かめてから戦ってもいいだろう。違うか?!」
予期せぬ名前を出され、両軍共に思わず押し黙る。
これを見計らい、ジョルトは戦場の真っ只中にありながらその場で鎧化を解き、ゆっくりとある男の方へと近付いていった。
どこか大仰にも見える仕草は、彼なりの牽制があるのだろう。
やがて男の前で立ち止まり、ジョルトは懐から血のこびりついた書面を差し出した。
目の前のそれに一瞥をくれた後、帝国軍総司令官マグヌス・ロロは凝と異国の若者を見つめる。
「俺にか?」
大きく首肯するジョルト。
受け取るべきか否か。だが、皆の注目する中、ここまで堂々と渡り合ったこの若者の意気を感じ取れぬマグヌスでもなかった。
書状を開き、文面に目を通すマグヌス。
やがてすぐに、彼の目が大きく開かれていった。
「これは……!」
あのマグヌス・ロロが手を震わせている。カイゼルンとの戦いでも見せなかった、明らかな動揺の顔で。
「閣下、一体それには何と?」
たまりかねたエゼルウルフが、こちらに近寄り訝しげに問いかける。
しかしマグヌスはそれに答えず、ジョルトの方をもう一度見た。
「ジョルト・ジャルマト殿、貴殿はこれを読んだのか……?」
「ああ」
口元を抑え、吐き出してしまいそうになる感情を、マグヌスは必死で堪えているようだった。
「閣下」
「……エゼルウルフよ、戦は中止だ」
「は?」
「この戦いを即刻中止しろ。これ以上の争いは無意味だ」
「な、一体何を仰るのです。閣下、その手紙が何だと言うのです?!」
さすがのエゼルウルフも状況が理解出来ず、総司令官に強く詰め寄る。
そこへ、丘陵の向こうから遅れた足取りで、もう一人の人物も姿を見せた。
「リヒャルディス総騎士長……!」
帝国軍の重鎮にしてヴォルグ六騎士の一人リヒャルディス・グライフェンである。
リヒャルディスは少し意外そうな目をしてジョルトに目を向けたが、しばらくして一人何かを得心したように独語した。
「そうか。同じ考えの者がいたとはな……。しかし、よもやカイゼルンまで出てくるとは予想外だったが――負けたのだな、マグヌス」
帝国の武神が神妙に項垂れた。
「その書面に書かれている事が何か、儂にも少しなら見当もつくが……。いずれにせよ、もう肚を括るしかないのだ。お前も何か理由があって、あ奴らの陰謀に手を貸したのだろう? どういう理由でそうしたにせよ、これ以上、帝国を邪悪の沼に沈める事は出来んという事だ」
訳が分からぬエゼルウルフは、眉根をしかめて顔を蒼くしているが、マグヌスの顔色も蒼ざめていた。ただし、エゼルウルフのそれとは、全く違う理由であったが。
「そうですな……。時ここに至っては、覚悟を決めるべき時か……」
内容を知っているジョルトからすれば、それは悲痛なうめき声にも思えた。
やがて意を決したマグヌスは大きく深呼吸をした後、山間に響き渡る声でこの場の全員に向けて語りかけはじめる。
「帝国騎士よ、皆よ。今から俺の言う事を聞いて欲しい。俺が言い終わるまで、どうか何も言わず、そのまま堪えて最後まで聞いて欲しい」
威風堂々たる最強の武人が、懇願の口調で何かを語り出そうというのだ。異を唱える者などいるはずがない。
「この戦いの全ては、まやかしによるものだ。ハーラル陛下に楯突いたとされるオーラヴ殿下の名を騙ったイーリオ。そして彼ら一派が起こした皇太后陛下の殺害。これらは嘘偽り、濡れ衣である」
帝国騎士に衝撃が走った。
何より、エゼルウルフの顔が驚きのあまり引き攣る。
「何を馬鹿な……。閣下、気でも狂われたか」
「案ずるな。俺は至って正気だ。――いや、ある意味俺は、ずっとこの狂気の沙汰から目を逸らしてきたのかもしれん。そう言う意味では、今まで俺も、気が触れたのと同じだったのかもな……。だが、事態がこうなっては、もう目を逸らす訳にはいかぬ。全てを詳らかにせねばならん」
思い詰めた表情のマグヌス。
「全てのはじまりは、俺と亡き皇太后陛下による過ちからだ」
事件の黒幕が別にいる事を告げるには、必然的にハーラルの秘密を明かす事にもなってしまう。でなければ辻褄が合わないからだ。
それはつまり、マグヌス・ロロが隠してきた、彼の大罪。
「ハーラル陛下は、先帝陛下の子ではない」
マグヌスの告げた言葉の意味が、誰も分からなかった。
「ハーラル陛下は、俺の子だ」