第三章 第二話(3)『次席官』
最初に違和感に気付いたのは、砦に戻って来たばかりの時だ。
おかしい。
既に城で歓待を受けているはずなのに、どうも空気が違う。重苦しいのではなく、何と言うか、緊張感とも異なる、微妙な不審感が漂っていた。
――何だ、この雰囲気?
あたりはすっかり、夜の帳が降りてきている。昼間の曇天もどこへやら、夜空ばかりは晴れ渡っていた。
丸縁眼鏡の奥の垂れ気味の目で、彼は周囲をぐるりと見回す。
そこへ、使いに出していた騎士団員の一人が、駆け寄ってきた。
「次席官! メルヒオール次席官、やっとお戻りですか」
メルヒオールは、団員の表情を察して何かがあったと直感した。
彼の名は、メルヒオール・ツェッテル。
覇獣騎士団 参号獣隊の次席官だ。
年齢は二十一歳。茶色がかった黒髪に碧眼という平凡なメルヴィグ人の風貌だが、まなじりの下がった垂れ気味の目に丸縁眼鏡を乗せた鋭角的な顔つきは、まるで学者か官僚のようであり、それは何も風貌だけではなかった。
その彼の前に立つのは、レレケを迎えに行ったはずの団員の一人である。
そう、このメルヒオールこそ、レレケが危地に救いを求めた人物であり、彼女の知り合いその人だった。
「どうしたんだ? 何があった?」
風貌のみならず、口調までも抑揚の抑えた学者然とした喋り方。団員は困惑をそのままに、メルヒオールに、さっきあったレレケ捕縛の出来事を告げる。
メルヒオールは、呆れた。
「まったく……リッキーの奴、どんな時でも揉め事を起こすなぁ……」
「はぁ。弐号獣隊 のマテュー騎兵長も止められたのですが、お聞きになられなくて……」
「主席官は止めなかったの?」
「あの方は、あんなですから……」
はぁ、と溜め息をつき
「どうせ、『おもろい事になってきたなあ』なんて言ってただけでしょ?」
「ええ」
「仕方ない。僕が行って説明するよ。主席官は自室かい?」
「はい。リッキー様、マテュー騎兵長もご一緒のはずです」
「手間が省けるよ。それじゃあ僕は行くから、食材を厨房に運んでおいてくれ。ああ、料理番には、僕が作るからと言っておいて」
団員は驚く。
「え? 次席官自ら作られるんですか?」
「そうだよ、当然じゃないか」
そう言って、足早にその場を立ち去るメルヒオール。何せ、久しぶりに〝レレケ姉様〟に会えるのだから! と、彼の心中はその事でいっぱいになっていた。
そんなメルヒオールとは別に、その場に残された団員は、何とも言えない引き攣った顔をしていた。
だが、メルヒオールが城の中へ入る直前。
彼は再び妙な違和感を感じ、ふと、足を止めた。
何だろう。
夜の暗闇の向こう――。
何かを感じる。
だが、意識を研ぎすませても――、やはり何もいない。
気のせいだろうか?
粘性のある妙な感覚が、意識のどこかに嫌な貼り付き方を残している。だが、確認出来ないものは仕方がない。今はそれよりもレレケ姉様の事だ! と、違和感を振り切るように、メルヒオールは城内へと入って行った。
メルヒオールの訴えで、すぐにイーリオ達四人は解放された。勿論、彼らの鎧獣もである。
その経緯はというと――
入城したメルヒオールは、真っ直ぐイェルクの部屋に赴き、同席したリッキーに対しても含め、レレケなる人物とその仲間は、リッキーの言う砦爆破の件には無関係だと、説明した。
「けどよ、あの、ル、ル、――」
名前が出ないリッキーの肩に手をおき、マテューは首を左右に振る。
覚えてないんだと理解したメルヒオールは、「擬獣だろ」と、塩を送ってやる。
「そうそう、その擬獣ってのを使えんのって、あのレレケと、レレケの師匠ぐらいって言ってたじゃねーかよ。だったら、あいつは容疑者だ」
「確かに擬獣を扱える人間はあの二人ぐらいだろうけど、だからと言って、実際に彼女が爆破の術を使うのは無理だ」
「はぁ? どーゆー意味だ、そりゃ」
「言ったまんまだよ。擬獣は何でも出来るわけじゃない。術の使用には条件がいくつもあり、それを満たさないと術は発動しない。その一つが神之眼の使用数上限だ。いいかい、獣使師が一度に仕える神之眼の数は五個がいいところ。そこに、爆破や姿を消すなんて特殊な能力を付与させたら、五個は四個、三個となってしまう。けれど、君達が見た馬車は、二台で、それぞれ二頭ずつ、計四頭の馬がいたんだろ? それに複雑な爆破命令と自動操縦を施すなんて、一人じゃあまず不可能だよ」
「だったら、あの何たら言う師匠も一緒だったとかじゃねーのかよ?」
「それこそあり得ない。ホーラー様は、今、クレーベ公の依頼で、自宅にこもりっきりだと聞いてる。しかも、バンベルグの村からここまで、どれくらいあると思ってんだ? 出て来れるわけがないし、第一、世捨て人のあの人が、出てくるわけないじゃないか」
筋の通った言い分に、ぐうの音も出ないリッキー。それを聞いていたイェルクが、少し驚いたように聞き返す。
「へえ。あのレレケって人、ホーラー卿の弟子かいな」
「そうです。レレケっていうのも偽名ですしね」
「偽名?」
「色々ややこしい人なんです。……でも、あの人の〝本当の姓〟を聞けば分かりますよ。リッキーさんの行いが、まるで根拠のない無知からくるものだって事が」
「何おう?!」
半目で睨むメルヒオールに、いきり立つリッキー。だが、強面の彼が凄んでも一向に意に介する事もなく、メルヒオールは声を潜めてある〝姓〟を口にした。
メルヒオールを除くその場の全員が凍り付いた。イェルクでさえ、糸目を開いて、絶句する。
「それってまさか……!」
口にしたのはマテューだ。〝その姓〟を聞いた途端、顔が青ざめる。騎士団内、いや、場合によれば、メルヴィグ王国内では禁忌ともとれるその〝姓〟。さすがのリッキーも、自分のやらかした事の重大さに、狼狽えざるを得ない。あのリッキーが、である。
「ええ。――あの――、ですよ。彼女はその家の人です。わかったかい、リッキー? 彼女がそんな事をするはずないって事が」
「いや、でもよ……〝その家〟の人間なら、恨みを持ってるって事も――」
「リッキー。君も騎士団の人間なら――、いや、そうでなくても、それ以上は言わない方がいいよ。それとも君は、〝そういう考え〟の持ち主だったのかい?」
「う……うう」
「主席官、ご理解いただけたら、よろしいですよね? 彼女らを解放しても?」
「ああ、うん。そら、勿論や。……せやけど、何でそんな人と君が知り合いなん? それどころか、そんな事を何で君が知ってるんや?」
「あの人は、僕の〝姉様〟なんです。尊敬すべき、姉上です」
「はぁ?」
微笑むメルヒオールに、全員が不可解千万という表情をする。
「ご存知の通り、僕は本当は錬獣術師になる人間なんですけど――」
「……ああ、はいはい」
「錬獣術師を目指していた際、ホーラー様の所に弟子入りを望んで、通っていた事があるんですよ。その時、ホーラー様の弟子だったレレケ姉様と出会って、親しくしていただいたんです。それで、尊敬の意味も込めて、それ以来、僕はレレケ様の事を姉様、とお呼びしているんです。……その後、残念ながら、僕は弟子入りする前に、両親と一族に、無理矢理騎士団入りさせられてしまいましたが……」
「ああ。そう言う事。そんならまぁ、わからんでもないわ。それじゃ、はよ行ってきい。この赤頭には、ボクゥがこってり絞っとくさかい」
イェルクの言葉に、メルヒオールは笑顔で応じ、礼もそこそこに退出していった。
部屋の扉が閉じると、足早に過ぎる靴音が遠ざかっていく。それを目で追いながら、引き攣った表情で、ゆっくりとイェルクの方を向くリッキー。
ニコニコとした笑顔を貼付けたイェルクは、リッキーにとって不気味以外の何者でもなかった。
「……絞っとく、って、何スか?」
「言うとくけど、ボクゥは、ジルヴェスターのオッサンみたいに、甘ぉないで」
気の毒に、という気はまるで起きないマテューは、この後の上司のあげる悲鳴をちょっとほくそ笑みながら、眺めていた。
「助けてー! ぎゃー!」
「むふふ。ええお客さんやわ」
この光景を見ていたマテューは、配属願いを出すんなら、参号隊だけは避けておこう、と心密かに思ったという。
牢屋に行ったメルヒオールは、「姉様!」と声を上げて、鉄格子にかぶりつく。
「すぐに開けますから!」
と言う彼を、驚きの目で見るイーリオ達に、うんざりとした表情のレレケ。どうやら、この騎士が会いたくない知り合いというやつらしいと、すぐに察しがついた。
「すみません。僕がその場にいれば、こんな事にならずに済んだんですが……」
メルヒオールは、鉄格子を解放し、四人を外に導く。
「そうですよ。一体どこに居たんですか?」
「それについては、じきにわかりますよ」
楽しそうに笑みを浮かべるメルヒオールに、楽しげでないレレケを見比べ、イーリオは今感じた疑問を口にした。
「……レレケって、弟いたの?」
すぐさま否定するレレケ。
「いません。いるのは兄だけです。この人は私の事を、勝手にそう呼んでるんです」
「勝手に、ってひどいなぁ、姉様。僕は姉様に会えるのを、こんなに待ち望んでいたのに。ここに来るのが遅れたのだって、姉様の為にご馳走を振る舞おうと、買い出しに行ってたからなんですよ。――あ、言っちゃった……」
それを聞いて、レレケは呆れたような、嫌な事を聞いたような顔をする。
四人は牢屋を出て、互いに痛む体を伸ばしていた。イーリオのみ、体を起こす際、メルヒオールが支えになった。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。仔細は姉様から聞いてますから。えっと……、貴方がイーリオ君ですね。それで、そっちの女の子がシャルロッタさん。で、彼がドグ君。色々立て込んでいるようですが、まずはこの城で体を休めて下さい。さ、食堂に行きましょう」
「ところで、まさかメルヒオール君。貴方、自分で料理をするなんて言わないでしょうね……?」
「え? 姉様に振る舞うご馳走ですよ? 僕が作るのは当然じゃないですか」
「……お願いです。それだけは止めてください」
青い顔をして、レレケが懇願する。こんな焦った顔の彼女を見るのははじめてのイーリオ達は、虚をつかれたように、きょとんとする。
「何故ですか? 今日はいつにも増して腕によりをかけようと、市場で上等の肉を買って――」
「いやいやいやいや。止めましょう。もうほんと、普通でいいんです。普通の夕飯で」
レレケの焦った顔に、イーリオがそっと耳打ちをする。
「ひょっとしてレレケ……、この人の料理って……」
「ええ。さすがイーリオ君、話が通じますね。彼は別名、〝参号隊の殺人料理〟と呼ばれる腕前です。明日、動けなくなりたくないなら、食べない方が身の為でしょう……」
メルヒオールには聞こえないよう、ささやき声で会話をする。だが、その言葉はドグとシャルロッタにも聞こえており、三名は思わず、嫌な生唾をゴクリと呑み込んだ。そして三人は気付いた。何故、レレケがこうも会うのを嫌がっていたのかを。
「お、おう、メルヒオールのあんちゃん。俺達、戦いの後で、結構疲れてっからさぁ、その、何だ、メシは普通のヤツでいいんだよ。普通ので」
「そ、そうそう。胃に優しいのがいいなぁ〜……。それにさ、今まで牢屋に入れられてたから、余計に安心出来るような夕飯がいいかなぁ、なんて」
バカっ。安心出来る夕飯って、何だよ。その言い方はマズいだろう! と、ドグは声を落としてイーリオの発言に突っ込みを入れる。だが、メルヒオールはその言葉よりも、牢屋の方に反応を示したらしい。
「……そっか、成る程。確かにそうですよね。そんな体でいきなり牢に入れられたんじゃ、食欲も減りますよね。……全く、リッキーの奴、誰彼構わず迷惑をかけるんだから……。後で謝らせに行きます。それじゃあ、料理当番に皆と同じ料理を運ばせるよう言っておきますね。僕の手料理は、明日にでもという事で」
ひとまずの危機は去った事に、四人とも、一旦は胸をなで下ろした。だが、危機が完全に回避出来たわけではない。明日の難題をどう乗り越えるか、それを考えると憂鬱な気分になるレレケだが、その考えを払拭するように、話題を別のものに変えた。
「それよりもメルヒオール君。君に折り入ってお願いがあるんですが」
「お願い? 姉様の? 嬉しいなぁ。姉様が立て続けに僕を頼るなんて! で、何ですか? 僕に出来る事なら何なりと!」
「え、ええ。そうかぶりつかないでいいですよ。頼みというのは、彼、イーリオ君の事です。彼はまだ、騎士になりたてで、日が浅い。これからの旅の目的を考えると、ここらで一度、正式な騎士の戦い方を学んだ方が良いと思うんですね。そこで、騎士団の貴方なら、彼に色々教えてあげれるんじゃないかと思いまして。如何でしょう?」
「つまり、僕に彼を鍛えて欲しい、と?」
そう言って、今までの食いつきとは一変して、途端に渋い顔をする。
「……申し出はわかりますし、姉様のお願いですから、お聞きしたいのは山々ですが、それはちょっと、どうかな……」
拒否されたのが意外とばかりに、レレケは彼に問いかける。
「駄目ですか?」
「駄目というか、向いてないんですよね」
「向いてない?」
「ええ。僕は騎士団の中でも特殊な部類ですし、あまり人の参考にならないんですよね。……と言って、主席官にはお願い出来る事じゃないし……。そうだなぁ……。誰か良さげな騎士に声をかけてみましょうか?」
「ええ。是非お願いします」
事の成り行きに、ただ見守るだけのイーリオ。
まさかレレケが、そんな事まで考えていてくれたなどとは知る由もなく、ここでも彼女は、自分達に便宜を図ってくれたのだ。その手配りの良さには、感謝の二文字しかなかった。だが、このメルヒオールという人物が、〝人の参考にならない〟って、どういう事だろう? と、それはそれで、少し引っかかったのだが。
と、突然思い出したかのようにメルヒオールは「あ」と声を上げる。
「いましたよ。教えるのに打ってつけの奴が」
「え?」
部屋に入ると、そこには鼻をつくような悪臭が充満し、ぐったりとしたリッキーと、この匂いに鼻をつまんで尚かつ顔を青くするマテューが居た。イェルクは、上機嫌な顔でメルヒオールらを出迎える。
「お。出て来たんや。あんたらにはスマンかったねえ。ウチの阿呆が、いらん嫌疑をかけたせいで、迷惑かけてしもて。今、コイツにはたっぷりお仕置きしてた所やから、堪忍したってな」
「お仕置き? このかぐわしい香りがですか?」
メルヒオールの言葉に、思わず目を見合わすイーリオら四人。
「そうそう。この香りの良さをわかってくれるんは、やっぱり君だけやなぁ。こんないい匂いに、こんな香ばしいジュースやのに。今回のは、ボクゥの作った飲み物の中でも、かなりの傑作やと思てんけどなぁ」
香ばしいの使い方が間違ってると思うイーリオだが、イェルクが手に持っているガラス容器の中身の色を見て、あながち間違いじゃないかも、と変な納得をしてしまう。
どうやら、メルヒオールの上司は、この部下にしてこの上司ありといった所らしい。魂が抜けたように痙攣している赤毛頭を見ると、おそらく、この異臭の元である、あの〝ジュース〟とやらを、無理矢理飲まされたのだと、想像がついた。
「ほんとに失礼な奴だな、リッキー」
メルヒオールが憤慨の面持ちで言うと、白目を剥いたリッキーが、ソファーに体を仰向けに横たえたまま、力なく反論した。
「バ……バッヒャろぅ……。どこがかぎゅわひぃだ……」
舌が痺れているのか、呂律が回っていない。
「全く、主席官のジュースを飲んでお仕置きだなんて、これじゃあ罰になってませんよ。さ、そこでです、皆さん」
そう言って、四人に向き直るメルヒオール。
「僕ではなく、彼に教えてもらうといいですよ」
「へ?」
「鎧獣騎士の闘術を教わるなら、彼ほど適任はいません」
思わず瞼をしばたたくイーリオ。
この赤毛頭が? 僕らに教える?
「ひゃ、ひゃひを言っへ……」
「いやぁ、リッキー、君は償いも出来るし、僕も姉様の願いを叶えられるし、一石二鳥だな」
一人満足げなメルヒオールに、イーリオ達はただただ唖然としていた。
イェルクだけは、「何や面白そうな話やね」と、異臭を放つガラス容器に鼻を近づけて微笑んでいた。




