第三部 第三章 第三話(終)『武神』
マリオンはムスタ=フォルンジュートの姿を見て、何とも言えない表情を浮かべた。
ムスタの駆る黒羆の鎧獣騎士フォルンジュート。
その第二獣能〝守護熊王〟。
腕の筋繊維を中心とした体組織を操るのが第一の獣能であれば、第二は体と両足にも変化を促すもの。
全身の脂肪組織を四肢に凝縮。集められたそれらは筋繊維と合わさり鎧のような形を出現させる。見た目はただの防具であり、実際防御効果も高いのだが、真の能力はそこではない。
第二獣能発動時での走行の際、両足は両腕同様、くるぶしから下を弾丸のように射出。その勢いで地面を激しく蹴り付け、爆発的速度を発揮するのだ。
防具のようなものはそれを受け止めるシリンダーの役割を果たし、腕のように遥か彼方まで飛んでいかないようにするためのものだった。そうでなくば〝走る〟事など出来はしない。
イーリオが見た陽炎のような気体は、脂質の燃焼と摩擦によるもので、簡単に言えばフォルンジュートは、一歩一歩踏み出すごとに両足をピストンかバネのようにして飛び跳ねているに等しいとも言えた。
これを発動した際の速度や威力について、説明の必要はないだろう。
しかしこの異能、使い勝手がいいとはお世辞にも言えなかった。
全身が細く引き締まるのは、ただの外見上の話ではない。それ相応に消耗がけたたましいのだ。にも関わらず、これを既に発動しているという事は――
「やっぱり、予想以上ってところかしら」
マリオンの呟きに、ムスタが黒羆の頭部を左右に振る。
「いや、予想通りってところだ」
今の状況でどこが予想通りなのか。イーリオは聞きながら父の真意が呑み込めなかった。
「そう。勝算はどのくらい?」
「確率で戦うほど儂ぁ真面目じゃねえよ。これでも案外賭け事は嫌いじゃないんだぜ。ようは勝つか負けるか、運命なんてなあ常に五分。それだけだ」
「貴方が真面目だなんて誰も思ってないわよ。ねえ、イーリオ」
巫山戯てるのか本気なのか。父の言う〝勝算〟とやらが本当にあるのかすら分からない。
ただ――加勢に来てくれたマリオンおばさん。
彼女はかつて、マグヌス・ロロとは別に三獣王に推挙されたほどの実力者だという。まだ慣れぬ新しい鎧獣だとて、彼女がいればどうにかなるのではないか。そんな期待を抱かざるを得なかった。
「それじゃあ行くわよ。私は合わせるわ。いい?」
マリオンからの鋭い指示。親子は頷きで返した。
三騎が僅かに時間差で動く。
そのはじめに、マリオン=リンドは獣能を発動させていた。
「〝蛋白石色の貴婦人〟」
純白の体毛が虹色を帯び、若芽色の鎧や剣も包み込む。
そのマリオンが残像を残しつつ、見るも眩い動きで四方八方から流星雨のような細剣を撃ち込んだ。
目を見張る光。
自分では到底避けきれないと、イーリオはぞっとした。
ところがマグヌスは、巨大な三叉戟を使ってこれを全て捌ききる。動きも超常であれば、そもそも今の高速剣が見えているのが驚きでしかなかった。
「はっはァ! いいのう。こちらも以前と変わっておらんな。いや、ムスタと比べたら前より腕を上げているか?」
感心を出せるほどに、マグヌスは余裕であった。
――が、それへの反論を、ムスタは言葉ではなく剣で返す。
爆発音と重なり、大気を突き破る衝撃波。
ムスタ=フォルンジュートから必殺剣が放たれた。
それも斬りつける技の破裂の流星ではない。
獣能を上乗せした不可知の神速。
〝破裂の彗星〟だ。
更に今は、第二獣能の力がそこに加わっている。
半瞬も数える事が出来ず、剣の彗星は帝国の武神に突き刺さった――かに思えたが――
鼓膜を破るような金属音。
あまりの速度で空気が振動を起こして一帯に広がり、敵味方関係なく余波で体を硬直させてしまうほど。
ムスタもマリオンも、呆気に取られた。
あの必殺必死の高速剣を、マグヌス=ウェルーンは小回りの利かなそうな矛で撃ち落としていたのだから。
しかしこれで終わりではなかった。
これら全ての注意を欺き、幽幻の動きでイーリオ=ザイロウがウェルーンの背後をすかさず取っていたのだ。全身の筋肉をバネに変え、白銀の人狼は体当たり同然の一刀を放つ。
レーヴェン流の〝雷体〟。
マグヌスからは死角。反応は出来ていない。
本命すらも囮にした三騎の重奏攻撃だ。
けれども手応えを感じるより先に、イーリオは未知の力によって横殴りの衝撃を受ける。
違う。ウェルーンの三叉戟がザイロウの巨体ごと、彼を弾き飛ばしたのだ。
それどころか、長柄の武器はイーリオのみならずマリオンとムスタまでも同時に薙ぎ払ったのであった。
気付いたのは全身を叩き付けられた後。
一騎ならともかく、これほどの実力者を三名まるごと一撃で吹き飛ばすなど――
「そんな……有り得ない……」
立ち上がろうとしながら、イーリオは愕然となる。
もうどうこう出来る領域ではなかった。
しかも未だマグヌスは、獣能どころか本気にすらなってないように見える。
「同じ三獣王に推挙されたと言っても、マグヌス・ロロはまるで違うのよ。あの人とウェルーンは本当に別格……。残念だけど彼が出た時点で、勝負はついていたわ」
イーリオは思わずマリオンを見、ついで返す言葉もないムスタの姿に、絶望を感じた。
たったこれだけの攻防で、こちらの被撃具合はかなり重い。
「父さん……父さんの言った勝算って何なんだよ。こんなのもう――」
「儂ら三騎で勝つとは言うとらん」
「は?」
「儂らでは勝てん。絶対に勝てん。あいつは紛れもなく三獣王かそれ以上だからだ。だから儂らにはこれだけしか出来んかった」
「これだけ……? これだけってどういう意味?」
やはり父の真意が分からない。
だが、ムスタもまた祈るような思いであったのだ。
万に一つ――たった一つではあったが、叶えばこの状況はひっくり返る望みがあった。もしそうなれば、敵の勝利は朧になり、こちらの敗北は渾沌と混ざり合う。そんな窮余の一手。
盤面を覆らせるそれが来るのを、彼は待っていた。
しかし戦という現実に、もしもという救いはない。
あるのは今ある必然のみ。
不意に古代北極羆が、三叉戟の切っ先を突きつける。
駄目なのか。三人の命数は、尽きたというのか――
「何やら策でもあったようだが、無駄だったようだな」
光はまだ――希望という空に昇ってこない。
※※※
ヴォルグ六騎士の一人、エゼルウルフ・ヘリングはソーラ・クラッカを倒したものの、まだ息はあった。どころか、痛みや疲弊で鎧化が出来ないだけで、いわばそれだけとも言えた。
つまり倒したソーラと大して変わりない姿であり、憎々しくも呉越同舟の状況となっていたのである。
ところで、彼は己の騎獣を使い、広範囲に渡る一帯の未来を完全予測していた。
それによれば、ソーラ達と別の動きをしている一隊は、リヒャルディスの軍を無傷で抜けるものの、この後マグヌス率いる彼の軍に捕まり、全滅する――。
そのような未来がはっきりと〝視〟えていたのだ。
この場合、彼がソーラを逃がしてしまえば、ソーラが盾となり中から一騎――おそらくイーリオ――だけが帝都に向かう未来もあった。しかしそれはエゼルウルフ自身の手で完全に断たれたのである。
だから彼は確信をした。
自分達が勝利すると。
だが――
以前も説明したように、ハティの異能は周囲に存在する全ての情報を集約して未来を導き出すというもの。しかも多少、範囲外からの介入があっても揺らぐものではないが、もしも不確定すぎる要素が、既知の範囲をずっと超える遠くから入り込んできたとすれば、それは別である。
ただし、そんな事は今まで一度もなかった。
エゼルウルフの長い戦歴で、唯の一度もだ。
だから確信は揺らがなかった。
ソーラを縛り上げ、もうすぐ決着のつくであろうマグヌス総司令のいる戦場に向かう際も、何ら焦りはなかった。
彼は悠然としたもので、隊の生き残りを引き連れて目的地へ向かうだけ。
そして、絶句する。
どういう事だ。何故だ。
そんな言葉がいくつも脳裏を掠めるが、どれひとつ声になっては出てこなかった。
それは捕獲されたソーラも、敵味方関係なく全員がそうであった。
※※※
「せっかく来てやったと思ったら、どういう事だ、ムスタ」
イーリオ達三人の後ろから、男の声がした。
イーリオにとっては耳馴染みのある声。いや、思い出す必要もいらない声。
振り返らずとも分かる。分かるけれども振り返った。
確かめずにはおれなかったのだ。
この絶望的な死の手前に、およそ予想もつかない第三者が表れたのだから。
鉛色の空の下。けれどもそれは光を放つ。
眩い色。永遠を意味する光の色。
黄金の輝き――
そう、全ての騎士の頂点にあり、全ての鎧獣騎士が最強と畏怖する唯一無二の存在。
「師匠……」
三獣王筆頭。
〝百獣王〟カイゼルン・ベルとヴィングトール。
いるはずのない人物が、目の前にいた。
イーリオはこれが現実のものだとは思えず、何度も何度も辺りを見る。
誰も彼も、声を失い絶句していた。間違いない。これは現実だ。紛れもなく、カイゼルン師匠はここにいる。
「間に合ったか」
ぼそりと漏らしたムスタの声に、イーリオが反応した。
「間に合った……? 父さんの言っていたのって、師匠の事?」
「ああ、そうだ。儂がカイゼルンを呼んだ」
「ええ?!」
何よりも信じられない告白。
イーリオの知る限り、カイゼルンという男は頼んでも助けに来てくれるような人物ではないからだ。
動く理由があるとすれば――お金だけ。
それも国家予算規模の大金ぐらいだ。
本人は女性にも弱いが依頼となるとこれは別で、幾人美女をあてがわれても、彼がそれでほいほい動く事はない。だからムスタが頼んだからといって、カイゼルンが助けに来てくれるなんて有り得ないのだ。
ムスタと顔馴染みで古い付き合いだったとしても――どうやらそのようだが――それでもやはりない。そんな友情紛いのお願いを聞く殊勝さなど、当然のように砂粒ひとつすらない。
ではカイのように弱味を握っているとか――?
いや、それも考え難い。あれはカイゼルンでさえ頭の上がらない先代がいたからだ。そう都合良く、今回もまた先代が動いてくれはしないだろう。
「信じられない……どうして? どうやって師匠を呼んだの? 師匠はお願いを聞いてくれるような人じゃないよ。正真正銘の守銭奴で、大金をせびる強突く張りの権化なんだよ? そんな師匠を一体どうやって」
「……おい、馬鹿弟子。おめえ後で覚悟しとけよ」
直弟子からの純粋無垢な師への低評価に、カイゼルンが片頬を引き攣らせていると、彼の横から別の人物が表れた。そこでイーリオは、また声を失う。
「ゼロ……!」
怪盗騎士ゼロ・ゼローラ。
イーリオとはムスタの屋敷で別れて以来、どこへ行ったのか知らなかったのだが――
「そうだ。儂があいつに依頼した。カイゼルンを連れてきてくれってな」
余計に混乱するイーリオ。
だが、呆気に取られてばかりもいられない。
気を削がれた形になったが、場を圧する迫力が、声となって呼びかけたのだから。
「カイゼルン、久々だのう。まさかお前が来るとはなぁ」
「うっせえよ。自分だけノリノリになってんじゃねえっつうの。オレ様はあくまで仕事で来てやったんだ。じゃなきゃ、てめえみたいな面倒臭いの相手にするか」
「ほう……これは楽しみだ。いや違うな。これはとんだ最高の舞台だ。よもや古い馴染みを相手にしていたら、千載一遇の機会を与えてもらえるとはな」
マグヌス=ウェルーンの覇気が膨れ上がる。
イーリオが立ち上がりかけた膝を折りそうになるほどだ。
「ったく……輝化で幻覚でも見せられりゃあラクなのによ」
カイゼルンの言う幻覚とは、ヴィングトールの証相変だけが持つ、特殊な副産物の事だ。彼はかつてそれを使い、労せずしてジェジェンの一氏族をまるごと全滅させている。
そのようにカイゼルンは「面倒臭い」というだらしない理由でそれを使っては、楽な戦いを見せる事があった。弟子であるイーリオは、それを度々目撃している。
ただ、強力な相手になればなるほど、その効き目はなくなっていくものらしい。
「ま、そういうワケだからムスタ、マリオン、あと馬鹿弟子、おめぇらは後ろにすっこんでな」
傍らのヴィングトールは既に黄金に変化している。証相変を済ませて来たという事だ。
その事実に、イーリオは慄然となった。
カイゼルンがいきなり証相変をした状態で戦闘の場に表れるなど滅多にない。知る限り、先のクルテェトニク会戦ぐらいしか、イーリオには思い当たらなかった。
つまりはそれほどの戦いであると、暗に言っているのだろう。
後ろに退がれというのも、その領域での戦闘になれば純粋に邪魔だからだ。
ムスタとマリオンも頷き「ここは言う通りにするぞ」と言ってイーリオを連れて距離を取る。
一方で誰彼問わず、戦いの手は止まっていた。
皆、この場に広がる信じられない光景に固唾を飲み、ただの傍観者になってしまったからだ。いや、騎士であれば目を背ける事など出来はしないだろう。
マグヌスもそれが分かるだけに、戦闘を止めた部下に何も言わなかった。
それはムスタやマリオンも同じである。
そこで物音がして、この場にエゼルウルフらが来た事にもマグヌスは気付く。
「ははっ、観客も揃ったな。では獣を纏え、カイゼルン」
「だから、オッサンに指図されたかねえっつうの」
後ろ頭を掻いて、カイゼルンが溜め息をついた。
イーリオは気付く。
――いつもの師匠と少し違う。
いつもなら、相手を侮るような発言をするのがカイゼルンだ。あの〝獣帝〟ドゥルガの時でさえそうだったのに、何故か今はそういう言動で返さない。
こんな態度を取るのは、イーリオの知る限り先代のカイゼルンに対してだけ。
それはつまり――
「それほどの相手……」
思わず漏れた独白に、ムスタは気付いて息子の肩に手を置いた。
「目を離すなよ」
「うん、分かってる」
カイゼルンの背に、黄金のバーバリライオンがまわる。
告げられる声。
「白化」
白煙が渦を巻き、表れる黄金の獅子王。
まるで予想だにしていなかった、最強同士の対決。
黄金の最強騎士と極北の武神が対峙した。
今まさに、歴史的な戦いが幕を開ける。