第三部 第三章 第三話(3)『絵織物』
ハーラル皇帝結婚まであと数日。帝都中が活気づいていたある日の事。
祝祭日も同然なのだから、これを機に様々な品物が帝都の市に並び、商売のため、あるいは別の目的のため、いつになく大勢の人間が北の大都市に集まってきていた。そこに身分の貴賤はなく、貴族であれ乞食であれ、ただただこの祝いにあやかりたいと押し寄せてきているのである。
帝都の往路で馬車に揺られるインゲボーは、それらの雑踏を憂鬱な目で眺めていた。
本来ならば今日は、銀の聖女ことシャルロッタとお茶をする約束をしていたのだが、例の聖女護衛隊とやらが会う事を禁止していたため、どうすればいいか途方に暮れていたのだ。
一応、シャルロッタの居るホルグソン大公の屋敷に足を向けてはいる。だが、行ったところで門前払いだろう。
分かってはいたが一応約束はしたのだし、無駄と知りつつも万に一つというのもあろうと思い、菓子を持参し向かっていたのだった。
その帝都ノルディックハーゲンだが、面積は広大である。
北側に帝城アケルススが聳えて放射状に城下があり、八つの城門が城と都市部を分けて、そこから扇形に都市が広がっていた。
皇室に連なる三皇家の屋敷は城門の外にあり、都市の中では最も広大な敷地を有する場所である。
インゲボーは街でも有名な菓子舗にまず赴き、持参する手土産を自ら購入した後、ホルグソン大公の屋敷へと向かっていた。
道行く途中、ところどころで建物や街の道路を修繕している姿が見受けられたのは、先のイーリオ脱走事件の爪痕であろう。脱走者ら自身は街に大きな被害を齎しはしなかったが、脱走者に手助けをした黒騎士が、あちこちをかなり破壊したという噂だ。
黒騎士は神出鬼没で、目的も何もかも不明の生きた災厄のようなもの。
これが黒騎士でなくば、栄えある帝国騎士が大失態を犯したとただでは済まない話になっていただろうが、相手が相手なだけに「まあ仕方ない」というのが誰もが抱いた感想であった。
けれどもその黒騎士が何故イーリオに味方をしたのか――。
インゲボーが調べた限り、味方をする理由がまるで見当たらない。
彼らの接点を辿っても、むしろ道を阻むような相手としか感じられなかった。あえて言うなら、五年以上前ハーラルとイーリオが剣を交えた時、黒騎士が割って入った時くらいのものであろうが、それすら黒騎士の目的はまるで見当もつかなかった。
しかし黒騎士の介入がなければ、イーリオは帝都から脱出する事さえ叶わなかったかもしれない。そうなれば聖女シャルロッタの心にどのような闇を与えていたか――。
――災いが不幸を打ち消すなんてね。
大した皮肉だとも思う。
そんな事をぼんやり考えていると、大公屋敷の門前で、何やら揉めている人の姿が見えた。
インゲボーは御者に馬車を止めるよう告げると車から降り、足早にそこへ近付いていった。
「だから聖女様は結婚を控えて多忙であらせられるのだ。貴様らにどのような所縁があろうと、今は誰一人お会いする事まかりならん」
どうやら聖女に会いたいと言っている者がいて、それを例の護衛隊が拒んでいるようだった。
困り果てた顔の訪問者は、初老と老人の間に見える夫婦。
外身は貴族のもので、身分も悪くないように見える。ただし身なりの割りに供の者が誰一人ないのが妙で、どこかちぐはぐ感があった。
「私達は聖女様に親しくさせていただいた者。どうか一目だけでもお会いする事は叶いませんか」
老夫婦の内、夫の方が柔らかな口調で哀願する。
「ならぬと言っておろう。さっさとここから去れ」
「でしたら、せめてこれだけでも……。どうか聖女様にお渡し願えませんでしょうか」
にべもない護衛騎士の拒絶。
ならばと夫人が布に包まれた板のようなものを差し出そうとする。
「贈答品の類いは一切受け取らぬ。受け取っていては埒が明かぬからな。どうしてもと言うなら城に行って手続きをするが良い」
「そんな……これはシャル――いえ、聖女様にとって大切な物なのです。どうかお渡しくださいませんか」
「ええい、しつこい。ならぬものはならぬのだ」
そう言うと、門前の女騎士は老婦人の手にある布包みを弾き飛ばした。
渇いた音をたて、路面に転がる贈り物。
夫婦は顔を青ざめさせ急いで布包みを拾おうとすると、先に手に取った者がいた。
インゲボーである。
「大丈夫ですか?」
夫婦が大事そうに抱えていたものだ。インゲボーも丁寧な扱いでそれを差し出すと、夫婦は二人揃って深々と礼をする。
「いくら何でも乱暴にすぎませんか」
門の騎士を睨みつけ、インゲボーは強い非難を口に出す。
「また貴女か……。貴女もエッダ様の許可がなくばお会いする事は叶いませぬ。会える際は連絡もいくと何度も申したはず。貴女も今日はお引き取りください」
溜め息も露に、無礼を顔に貼付けたような言い方をする女騎士。
権力を傘に着るというより、己の職務への絶対的な忠義心をこじらせたような態度だった。そうでなくば、本来は国家最高錬獣術師である彼女に対し、このような無礼な態度を取る事など許されるものではないからだ。
「貴女は確かこの部隊の隊長――ノンナと言いましたね。この事、貴女達の言うエッダ様にご報告させていただきます」
「ご自由に。我々には相応の裁可が与えられております。貴女が何をなさろうと、我々の行いはエッダ様――いえ、陛下のご意志にあるという事をお忘れなく」
苦々しい感情が染みとなって心に広がっていくようだった。しかし言い返したところで徒労に終わるだけという事も知っている。
色々なものを呑み込み、インゲボーは老夫婦を助けるようにしてその手を取った。
「行きましょう。良ければ私の馬車でお送り致しますよ」
悲しみと無念に涙を溜めた婦人が、夫の方を見る。
夫は深く頷いて、厚意に甘える事を了とした。
馬車に二人を乗せたインゲボーは、夫婦が遠方から来たにも関わらず、今日の宿も取っていないと聞いて驚いた。
「それではどうなさるおつもりだったんですか」
「いえ、本当なら知り合いの家に泊まるはずだったのですが、その知り合いが何やら騒動に巻き込まれたとかで、屋敷はもぬけの殻だったのです。どうやら一族郎党全員がいなくなったようでして」
騒動――と聞いてインゲボーはすぐに何の事か思い当たった。
おそらく先のシュタイエルスカ大公トルステンによるオーラヴ皇子――つまりイーリオの戴冠時の騒ぎに端を発した、皇帝派の粛正の事であろう。
あれで少なくない数の貴族連中が処罰されたのは、最近の話である。
「それで何にせよ、まずは聖女様にお会いしておこうと二人で話しましてな……。ところで貴女様はどちらの御方でありますので」
「これは失礼致しました。私は帝国にて国家最高錬獣術師を勤めておりますインゲボー・スキョルと申します。その……失礼ですがお二人は聖女様とご面識があるような事を仰っておられたようですが」
夫婦は顔を見合わせ、小さく了解を取る。おそらく話して良いかと確認しあったのだろう。
そしてインゲボーは信頼をされたようだった。
「そのような立派な御方に助けていただけたとは……誠に何と御礼を申して良いやら。私はトスティ・リューリクと申します。恥ずかしながら爵位も持った身なれど、今は隠居も同然の田舎貴族です。こちらは妻のオリガ」
あまり耳にした事のない名前であったが、何故かインゲボーはその姓名に聞き覚えがあった。
どこでだろう? 記憶をまさぐり、すぐに彼女はそれに行き当たる。
「リューリク……もしやリューリク侯爵でいらっしゃいますか」
「私をご存知でしたか。いや、私のような田舎者を知っていただいてるとは」
「知っているも何も……リューリク侯爵と言えば、聖女様をご養女になされたあのリューリク様ではござませんか……! ホルグソン大公の家にご養女として迎えられる前、聖女様がお暮らしになられていた、あの――」
イーリオと離れた後、三年以上の月日をシャルロッタが過ごした家。彼女を娘に迎えた最初の家族。
「すると聖女様の前のご両親であるのに、あの騎士達は追い返したのですか……!」
インゲボーに沸々と怒りが沸き起こる。無礼を通り越して横暴にすら思えたからだ。だが、老夫婦はそれをやんわりと訂正した。
「いえ、彼女らには私どもが誰であるかと告げませんでした。ただ、聖女様に縁のある者とだけ名乗ったのです」
「それはまた……何故? 聖女様の前のご両親と名乗れば、さすがにあの者らとてこんな非礼極まりない態度を取る事はなかったでしょう。よろしければ今すぐにとって引き返しますが」
「ああ、いえいえ。それはご遠慮くださいまし。その……自分達の身の上を名乗りそれであの娘に会えば、それは権力を利用したのも同じ事でしょう。それは、私らも望みませんし、あの娘もきっと喜ばぬと思いますから」
謙虚で腰の低い、好感の持てる人達だとインゲボーは感じた。
ただ、名乗るくらいならしても罰は当たらぬだろうし、不快に感じる人間などいないとも思ったが。
「では、育ての親として、聖女様にお会いに来られたのですか?」
「育ての親というのもおこがましいですが。何せ我々の家にいたのはわずか三年余り。とはいえ我々夫婦は、あの娘の事を本当の娘のように思っておりました。ただ、本来であればもう二度と会ってはならぬという約束だったのです。それを承知しながら、どうしても一目会いたいと思いまして……」
「約束? そんな約束を聖女様と?」
「いえ、あの娘ではありません。あの娘を我々に引き合わせた人物とです」
「そして、我々から攫っていった――」
婦人の言葉には、やるせなさよりも恐怖のようなものが滲んでいた。この温厚な夫婦を恐れさせる人物とは誰であるのか。
「それは一体……」
躊躇いの重さが沈黙の長さに比例していた。
だが、インゲボーの事をよほど信頼してくれたのだろう。声を潜めるようにしてトスティが告げる。
「……黒騎士卿です」
まさかという名に、インゲボーは言葉を忘れて絶句する。
黒騎士がシャルロッタをリューリク侯爵家に?
しかも話の通りなら、ホルグソン大公家に養子縁組をさせたのも彼の手引きだという。
イーリオを帝都で助けた事といい、何が何やら訳が分からない。目的も何も見当がつかない。
ただ同時に、これはひとつの事実も示していた。
黒騎士の行動――それには確固たる目的があると。
本当に災厄よろしくきまぐれで行動しているのならば、こうも同じ物事に関わったり、同じ人物の周りに出没しないはず。
明らかに黒騎士は、何らかの意図を持って動いている。それは間違いないと確信した。
「黒騎士卿はもう二度とあの娘と会う事はならんと言いました。そもそも、それは娘に迎えた時の条件でもあったのです。ですから横紙破りをしたのは私ら夫婦の方。尚の事、親だなんて名乗る事は出来ません」
生真面目すぎる考えだとも思えたが、もしかしたらそれは良い判断だったのかもしれないとインゲボーは考える。
黒騎士の思惑は分からないが、こうなるとエッダやウルリクらとも何らかの繋がりがある可能性が出てきたと考える方が自然だろう。何せ聖女との結婚を強引に進めたのがエッダであり、それに強い賛同を示したのがウルリクだからだ。
となれば、もしリューリク夫妻がシャルロッタに会いに来たなど彼らの耳に入れば、この二人の身すら危うくなる可能性があった。今ならばただの聖女崇拝者か何かが謁見を申し入れたぐらいにしか思われていないはずだ。
「その……今から宿泊先を探すのも大変でしょう。むさ苦しいところではありますが、よろしければ私の邸宅を今晩の宿となさりませんか?」
「そんな……助けていただいた上にそのような事まで」
「ご遠慮なさらなくて大丈夫です。実は私、聖女様とはお友達なんですの」
リューリク夫妻が目を丸くする。
二人への同情もあるにはあったが、インゲボーにも彼女なりの考えがあった。無論、二人の身を案じてという方が大きかったが。
「聖女様――二人の時は名前で呼び合ってます――がご体調の優れぬ折、私がお体を診た事がございまして。それをきっかけに私達はご友人になったのです」
「何と、そうでしたか……」
「ですからシャルロッタ様のご両親であれば、友人のお父様お母様という事になります。屋敷にお泊まりいただくのに何の遠慮もございません」
労るような笑顔を向け、インゲボーは二人の手を取る。
錬獣術師と言えば変わり者が多いとされる中、彼女の社交性と人当たりの良さは天性のものであった。
夫婦は再び互いの顔を見ると、以心伝心で返答を同じくした。
「それではお言葉に甘えて……本当に何から何まで、有り難うございます」
インゲボーが笑顔で答えた時、オリガ夫人の抱えていた布包みが彼女の目にふと止まった。
「そういえば、その包み――」
「ああ、これですか。これは、あの娘が私達の手元に置いたままになっていたものでして。おそらくわざとそうしたのでしょうが、折角精魂込めて手掛けたものでしたから、せめて嫁ぐ前に渡しておきたいと思ったのです」
「もしよろしければ、見せていただいても構いませんか?」
「ええ、いいですよ」
夫人は穏やかに微笑むと、布包みをほどき、中のものを取り出した。
「あの娘が自分で編んだものなんです。私に一から教わりたいと言って。最初は全然上手くいかなくって苦労したんですが――」
布包みの中にあったのは、木枠にはめられたキャンバスであった。
そこには、絵具で塗られた絵画ではなく、丁寧に織り上げられた絵織物が描かれていた。
帝国の一部地域で根付いている絵織の絵画。
織り機や櫛を使ってタペストリーなどを編んでいくのだが、そこにあるのはあのシャルロッタが自らの手で織り描いたものであるらしい。
目にした瞬間、インゲボーは息を呑んだ。
「これには対になる絵があって、そこにはあの娘の自画像が描かれていたんです。それは、私達夫婦にと言って渡してくれたものなんですが、多分これは、あの娘が自分のために描いたものだと思います」
シャルロッタが自分自身のために織り描いた一枚。
その通りだと、声にならずインゲボーは頷いた。
本人に聞かずとも分かる。ひと針ひと針、糸の一本一本隅々に至るまで、彼女の想いがそこに溢れているようだったから。
「インゲボー様は、これが誰かご存知ですか」
にこやかに尋ねる夫人の声。
インゲボーは小さく「はい」と答えた。それに対し、オリガ夫人は何も問い質さず、ただ優しくそうですかと返すだけだった。
「この絵……もしお二人さえよろしければ、私に預からせてくれませんか?」
二人は思いもよらぬ提案に、戸惑いを見せる。
「いただこうというのではございません。この絵……夫人の仰るようにシャルロッタ様にとってとても――とてもとても大切なものなんでしょう。ですからこの私が責任をもって、どうにかしてシャルロッタ様にお渡し致します。――いかがでしょうか?」
突然の申し出なのだ。拒絶されるのが当然であったろうし、そう言われるのは覚悟していた。
だが、屋敷に招いた後、夕食の折りなどをみて、何度もお願いをしよう。そう、彼女は決心していた。
しかし彼女の思惑は、予想だにせぬ暖かい声で返された。
「分かりました。この絵、貴女にお預けいたしましょう」
夫人が告げたのは、二つ返事で構わないという答え。今度は反対にインゲボーが目を丸くする番だった。
「え、その……自分で申し上げて何ですが……よろしいのですか」
「ええ。だって貴女はあの娘のお友達ですもの。それに会ったばかりだけれど、貴女はとても信頼の出来る女性だわ。ねえ、貴方」
「はい。私らは何の取り柄もない田舎貴族ですが、年の功というものでしょうか――人を見る目はあるつもりです」
トスティ侯爵も、微笑みで了承を言ってくれた。
インゲボーは何よりも丁寧に、受け取った絵織物を布に収め直す。
「ありがとうございます。必ず、この絵はシャルロッタ様にお渡し致します。必ず」
「こちらこそ。どうかよろしく御願い致します」
互いに深々と礼を述べ合う三人。
インゲボーは絵に描かれた〝顔〟を思い起し、これが最後の機会になるかもしれないと覚悟を決めた。
シャルロッタから何かを聞き出す、最後だと。
その絵に描かれていた人物に、全ての望みを賭けて――
緑色の髪の青年。
イーリオに。