第三部 第三章 第三話(2)『白馴鹿』
話を現在に戻そう。
見張りに囲まれながら、何とかジョルトは脱出の機会を窺っているのだが――
未だに目処は立たず、はや一日目の宿に泊まる事になってしまう。
このままの速度でジェジェンまでの道のりを行けば、一体どれくらい日数がかかるやら知れたものではない。
ざっと見積もっても数ヶ月。当然、事態は最悪の結末を迎えてしまうだろうし、そんな悠長な事を受け容れるわけにはいかない。
命を賭して受け継いだ意志だ。どうにかして見張りの目を盗み逃げ出せれば良いのだが、その機会がやってくる気配はなさそうに思えた。
そうこうしている内に二日目の朝を迎え、ジョルトを送る一行は再び馬車での行程を進みはじめる。
長旅なうえ拘束されているのに等しいから、体があちこち痛む。馬車の席で体を伸ばそうとして「おい、変な動きはするな」と咎められた時だった。
いななきが耳朶を打ったかと思えば、馬車が盛大に揺らいだ。
護衛含む三名が狭い車内で転がり、その場で体を互いに打ちつける。
咄嗟にこれは――! と反応しようとするが、残念ながら護衛の錬度はその程度で綻ばない。万力の握力でジョルトを掴み、止まった馬車から引きずり出すようにして扉を開けた。
「何が起きた?」
外にいる仲間を呼びつけながら護衛騎士が外へ出ると、土煙が辺りいっぱいに濛々とあがっている。
更に「ぎゃっ」とか「ぐっ」とか悲鳴のようなものまで聞こえてきた。
「くそっ、一体何がどうなっている――〝アウドムラ〟!」
ジョルトを見張る騎士の一人が己の騎獣の名を呼ぶと、煙を割ってヨーロッパバイソンの鎧獣が姿を見せた。同時にもう一騎、大振りのイノシシも表れる。
腕を掴んだ騎士の方が腰から縄を取り出し、その場でジョルトを馬車にくくりつける。見れば馬を繋ぐ轅が根元から砕かれ、馬もどこかにいなくなっていた。
護衛二人はすぐさま鎧化をした。
知覚は最大限。
視界が悪くとも、襲撃者に遅れを取る彼らではなかった。
ないはずだった。
直後、土煙の中から光る一対の瞳が浮かんだ。
目を見張る二騎。
次の瞬間、イノシシの方が後方に吹き飛ばされて馬車のコーチが粉々に砕かれた。
そのはずみで、ジョルトの戒めも解かれる。急いで走り出し、己の騎獣〝アリオン〟の名を叫ぶ。
「おのれっ」
逃げ出したジョルトを捕まえようとバイソンが手を伸ばしたところへ、白い巨影が腹部と頸椎への連撃を与えた。護衛の者は騎士としてかなりの腕前であっただろうが、不意を衝かれたうえに相手の攻撃が凄まじかった。
堪らずその場で膝から崩れ落ちたところへ、白い巨影が駄目押しの一撃。
先ほど吹き飛ばされたイノシシの騎士と仰向けに倒れた巨牛騎士の二人は、何も出来ぬまま強制解除をされていく。
とはいえ、騎獣も駆り手も命に別状はないようで、共に気絶をしているだけで済んでいた。
襲撃者がかなりの手練れだと知り、ジョルトは下手に動けない自分を悟る。そこへ、段々と土煙が晴れていき、白い巨影の姿も露になった。
純白の全身。
手に持つ槍も白いが、ツノの先まで白い姿は神々しさすら覚えた。
シロトナカイの鎧獣騎士。
鎧に施された意匠は六芒星に鹿。
六芒星を象るのは大陸広しといえどゴート帝国のヴォルグ騎士団のみ。
何がどうなってるか分からないでいるとそこへもう一騎、今度はシロトナカイを遥かに凌ぐ巨大なシカ種の人獣が姿を見せる。その大きさにも目を奪われたが、ジョルトは姿にこそ見覚えがあった。
しかし何より彼を驚かせたのは、巨大鹿が連れていたのが己の愛馬だった事だ。
「アリオン!」
名を呼ぶと、紅毛の馬縞馬は喜ぶように己の相棒の元へと足早に駆けよる。
首筋を抱きしめるように撫で、肌をこすり合わせるように抱擁する一人と一頭。だが、再会に浸れる状況ではなかった。
目の前にいる二騎の鎧獣騎士。
シロトナカイはともかく、問題は記憶に残るもう一騎だ。あまり思い出したくない苦い記憶であったが、ともあれ状況が分からない。
「あんたの事はよく覚えているぜ。ヴォルグ六騎士の一人、確かヴェロニカさん――だったけ?」
巨大鹿――ギガンテウスオオツノジカ――から鎧化解除の声が出され、鹿類史上最大サイズの巨大鹿と、その背に跨がる妖精のように美しい女性が姿を見せる。
ヴォルグ六騎士にして右翼大隊司令長官ヴェロニカ・ベロヴァ。
「どういう事だ……? 何で同じゴート騎士でこんな事をする?」
警戒を最大限に引き上げ、隙なくジョルトは二騎を睨んだ。だがヴェロニカはその問いに答えず、シロトナカイが鎧化を解除すると、文字通り跳び上がって駆り手の騎士の側へ寄った。
「大丈夫? 怪我はない? どこにも傷なんてないよね? ね? ね?」
「大丈夫だよ、ニーカ。僕に怪我なんてないさ、ほら」
「ほんとに? よく見せてユーリ。かすり傷ひとつしちゃ駄目なんだから」
ジョルトの事などまるで眼中にないヴェロニカ。
シロトナカイの騎士の顔を撫でるように――いや、実際撫でまわしながら、青年騎士をまじまじと見つめている。
何と言うか、ちょっとイタい感じの恋人にしか見えない。
ジョルトはといえば呆気に取られて何も言えないでいるばかり。ようやっと彼の存在に気付いたヴェロニカが、若干の照れ隠しもあらわに咳払いをして彼に向き直った。
「ああ、その、無事ですか、ジョルト殿」
男言葉に変わったのはともかく、ユーリとかいう騎士との扱いの差に、頬が引き攣るジョルト。
「いや、大丈夫っつうか……。説明してくれねえかな、この状況を」
辺りの惨状を指してジョルトが再度質問をすると、ヴェロニカは頷いて横の男性を紹介した。
「こちらの素敵すぎる好青年は私の副官で、将来の……その、わた、わたくしの……お、お、お……」
「僕達は将来を誓い合った仲です。僕の名はユーリ・イェリーチと申します」
言葉を引き継いだユーリの説明に、ヴェロニカは「きゃー」と黄色い悲鳴をあげる。
顔は卒倒しそうなくらい真っ赤で、威厳の欠片もない。
ユーリの容貌はヴェロニカが言う通り、非常に整った顔立ちをしていた。
絹糸のような琥珀色の髪と同色の瞳。白雪で化粧されたような輝く肌と薄桃色の唇は、さながら身分も高貴な王侯貴族にしか見えない。
しかし彼は、れっきとした庶民階級の出であった。
絶世の美女と呼ばれるヴェロニカと並んでも何ら劣らない、いや、実にお似合いな美貌の二人である。まるで妖精国の王女と王子が人の世に降り立ったかのようだ。
一方でユーリがした自分自身の紹介に、何故かヴェロニカが顔を覆って俯いていたせいで、代わりにそのまま彼が後を継いだ。
「僕達は貴方を助けに来ました。お騒がせした事、何より今まで長い間拘束した事、帝国を代表してお詫び申し上げます。どうかお許し下さいませ」
「ちょ、ちょっと待て。何の説明にもなってねえぞ。助けられたのは見りゃあ分かる。だから何であんたらが同胞に剣を向けてまで俺を助けたか、その理由を聞いてるんだ」
「それは、リヒャルディス総騎士長の密命です」
ユーリが理由を言った後、表情をいつもの硬質性のものに戻したヴェロニカが本来の役目とばかりに説明を続けた。
「貴方の解放を願い出たリヒャルディス総騎士長が、これを貴方に託したいと言って我々を派遣したのです」
ヴェロニカが出したのは一枚の書状。
不死騎隊のロベルトと合わせればこれで二通目だ。
「どうかそれを、メルヴィグ王国のレオポルト王に届けてもらいたいのです」
「レオポルト王に? 俺が?」
予想だにしていなかった名前。ジョルトが問い直すのも当然だった。
「遠くない内に起こるかもしれない、我が帝国とメルヴィグ王国との戦争を避けるためです」
ジョルトの顔から血の気が引いた。
同じ内容はロベルトの書状にも書いてあった。となれば、これで前の書状の内容がかなり確かなものになったという事でもある。
「貴方がこのままの道程でジェジェンに戻れば、その間に帝国とメルヴィグとの戦端は開かれるでしょう。それでは遅いのです。我々は武門の帝国であれど、徒に他国への侵略を良しとするものではありません。だからどうか、事を鎮めるためにもこの話をメルヴィグ王にお伝え願いたいのです」
にわかには信じ難いような――だけどロベルトからの書面も考えれば嘘偽りではなさそうだった。とはいえ――
「何で俺なんだよ」
「我々のしている事、これはれっきとした帝国への反逆行為に他なりません。例え国を案じてであっても、許されるものではないでしょうし、それゆえ身動きが取れない。だからこれ以上、我々自身の手で事を為すのは難しいのです。我々の知るいかな朋輩も同じでしょう。ならば人物として信頼の足る、けれども帝国とは無縁な人間にこの願いを聞いてもらいたい、そうリヒャルディス閣下は望まれたのです」
言っている内容は、どこかロベルトの語った理由と似たようなものだった。
――何で俺にばっか、こんなお鉢が回ってくるかねえ……。
信頼されるとは態のいい言葉だが、ようは貧乏くじを引いただけではないかと微苦笑しか浮かんでこない。とはいえ、それを無下に出来ないのも自分であるとジョルトは分かっていた。
「ま、いいさ。どうせ俺も南に用事があったし、何よりメルヴィグにはハナっから行くつもりだったしな。ついでに請け負ってやるよ。ただし、俺が運良く辿り着けるかどうかは分かんねえぜ。そこんとこは分かってくれよな」
「はい。貴方なら必ず成し遂げてくれると信じております」
言葉とは真逆の返事。
絶世の美女から正面きってこう言われると、さすがのジョルトも言い返せなくなってしまう。
「ったく……人の話聞いてたのか? 調子狂う人だぜ、あんたの主人――いや、未来の奥さんは。なあ?」
傍らで控えるユーリに話を振ると、彼よりもヴェロニカの方が再び耳たぶまで真っ赤にしてマントごと顔を埋めた。
「ちょっとニーカ、駄目だよ、そんな顔を隠しちゃあ」
溜め息をひとつ漏らし、ジョルトは己の愛馬にして騎獣、アリオンをその身に纏った。
そして目的のひとつであるリヒャルディスらがどこの方角に向かったのかも、その場で尋ねる。
「貴方も戦場に向かうのですか? それが貴方の言う用事なので?」
「そうさ。もうひとつの野暮用ってヤツだ。と言っても、イーリオの奴に加勢しようってんじゃねえよ。……最初はそのつもりもあったんだが、今はあんたらから預かったコレもあるしな」
「そうですか。くれぐれもお気をつけください」
「ああ、何にせよありがとう。助かったよ、ほんと」
「いえ。――ちょっとニーカ、いつまで照れてるの」
「だってユーリぃ……未来の奥さんだなんて……いいの?」
「いいも何も……」
かつて自分の動きを容易く封じた、あの凛冽な六将の姿とは思えぬ落差に、ジョルトは顔を引き攣らせる。
「あんたら、ほんとお似合いの二人だぜ。こっちまで恥ずかしくなっちまうよ。――じゃあな」
別れ間際の言葉に、益々ヴェロニカはユーリのマントに顔を埋めてしまった。
それを横目に、ジョルト=アリオンは風になって駆けはじめる。
急げ。
向かう先は友の待つ戦場だ。