第三部 第三章 第三話(1)『御曹司護送』
不平不満を口に出来る立場でないのは分かっていたが、せめて己の騎獣と離ればなれにするのはやめて欲しいと思う。
とはいえ鎧獣は最強の個人兵装なのだから、駆り手と離すのは当然といえば当然である。その駆り手が要注意人物ならば尚の事だ。
そういった理屈を分かっていつつも、ジョルトは単純にアリオンと離されて結構な月日が経っていたから、それが落ち着かないだけであった。
何もしないから、首を撫でるだけでもいいからと言っても、氷のように冷たいゴート兵は首を横に振るだけである。
仕方なく不貞腐れた態度をとる。
大人しく馬車に揺られるのを我慢するしかないのか――。
目の前には護衛という名目の監視の騎士が二名。
腕は相当にたつのだろう。座していながらまるで隙がない。
ジョルトは懐にしまってある書面の内容を思い起しながら、同時にどうにか見張りの目を出し抜く事は出来ないかと考えていた。
六日前――
監禁が解かれ、故国への送還許可がおりたと知らされた、同じ日の深夜の事であった。
イーリオと違い、ジョルトはジェジェン首長国大首長の息子という事もあり、投獄はされず城の一室に軟禁されるだけという好待遇で日々を過ごしていた。
とはいえ自由は全くない。閉じ込められている現状から解放されるのは嬉しいが、正直ジョルトは複雑な気持ちだった。捕まって以来イーリオと会えていないのは当然だが、彼がどうなったのかも知らされていなかったからだ。見張りに尋ねても教えてもらえなかったし、そもそも誰とも会話すらさせてくれなかったのだから。
そんなもやもやとした心の澱みが沈殿し、なかなか寝付けないでいた夜の事。
何度かの寝返りの後、気配に気付いたのはすぐ目の前に不気味な影が立ったと知ってからであった。
しいぃ――
咄嗟にジョルトは、飛び起きるように体を起こしかけた。だが影は機先を制し、指を口に当てて物音をたてぬように身振りをする。
こちらの動きのツボを心得たかのような挙動に、ジョルトはそのまま硬直せざるを得なかった。何より、こんな間近にいながら気配を感じさせなかった相手だ。その気になればひと息で殺されただろうし、実際、殺気はなかったが剣呑な雰囲気はべったりとその身に貼り付いていた。
「御静かに。どうぞ御静かに」
影が衣擦れのような囁く声で言った。
男の声。不気味な声音であった。
特殊な話法なのだろう。周りには何も聞こえないが、対象となる相手にだけは届く発声法だ。
「ジョルト・ジャルマト様。これを」
影がその身から一通の書状を出した。
「……? 何だ? あんたは一体……?」
「時間がありません……なので、詳しい話は申せません。今はその書状を受け取り、それをマグヌス・ロロ閣下にお渡しいただきたいのです」
「マグヌス・ロロ? どういう事だ? どうして俺が帝国の大将軍に――」
「しっ――お声が大きい」
影が声を潜めるように言うと、そのまま闇夜の沈黙が静寂の波紋となって広がった。
気配を殺す両者――。
影はともかくジョルトまでそうする必要はなかったのだが、影のただならぬ勢いに呑まれて、彼も己の息遣いを消す。
やがて影が、大丈夫です――と言うと、再びジョルトに書状を突き出した。
暗がりでよく見えぬが、鉄臭い匂いが彼の鼻孔を刺激する。戦場で嗅ぎ慣れたそれは、おそらく血の匂い。ただならぬ事であるのは明白だし、自分はまた何かに巻き込まれようとしているのは間違いなかった。
拒否をするという選択肢もあっただろうが――ジョルトはそれを受け取った。
影に、害意がなかったからだ。
受け取った時、指先にぬるりとした感触が伝わる。
匂いの通り、血がある。だが、この感触は新しい。
「あんた――」
影は首を振る。
目を凝らせば、影が髪の長い男なのが分かった。そして全身の至る所に傷がある。生々しい傷痕だ。
「私の名は不死騎隊のロベルト。ハーラル陛下に忠誠を誓う者です」
「皇帝の……? 何でそんな奴が俺なんかに?」
「頼るべき人が貴方しかいなかったからです。お願いします、ジョルト様。どうかその書面をマグヌス閣下にお渡し下さいませ。この国のお方ではない貴方にしか、それを託す事が出来ないのです」
「俺はその皇帝と帝国に長い間閉じ込められてたんだぜ。何でその俺がいきなり表れた見ず知らずの、それも皇帝の部下とやらの願いを聞いてやんなきゃならねえんだよ」
「それは貴方のご友人、イーリオ・ヴェクセルバルグ様にも関わってくる事だからです」
驚きと、やはりな、という思いの両方が胸に去来する。
不死騎隊という名に覚えはなかったが、この男の雰囲気が尋常でないのはすぐに理解した。質問をしたのは意地悪ではなく、見極めるために必要だったからだ。
何を? この書面が何であるか、そして男の真意をである。
「全てはそこに記してあります。読めば貴方にもご納得いただけるはず」
「待て。だったらどうして自分でこれを渡さない?」
「お気付きでしょう? この傷です。それに、あの時ウルリクを欺き生き延びる事が出来たとはいえ、もうそれもバレています。ここを出れば私は殺されるでしょう」
「ウルリク? それってヴォルグ六騎士のウルリク卿か? どういう事だ。何を言ってやがんだ」
「それも全てはここに――。もう時間がありません。これ以上ここにいては貴方にも害が及ぶ。どうか――どうかお願い致します」
待てと言う間もなく、影は目の前にいながら、その身を闇に沈ませるように消えていった。
立っていた場所には何の痕跡もなかった。流していた血の痕すらも。
何が起きたのか。
理解する間もない出来事だったが、血に濡れた一通の書面だけが手元に残った確かな現実だった。
仕方なくジョルトは書面を開いて中身を読むと――その場で彼は驚愕した。
そこに書かれていた内容は、要約するとこうだった。
ハーラル帝の母、サビーニ皇太后を殺したのは、側仕えのエッダとヴォルグ六騎士のウルリクである。
彼らはハーラル陛下の出生の秘密を利用し、皇帝を操って何か途方もない事を企てている。
皇帝出生の秘密とはそう――マグヌス閣下も知っている通り、皇帝が皇室の血をひいてないという事だ。
だが自分達不死騎隊は、それを知りながらもハーラル帝を主君と仰いだ。あの方以外に、この大帝国を率いるに足る人物はいないと信じたからだ。
奴らが画策している計画の真の目的は不明である。
だが、皇帝陛下が先導されているメルヴィグをはじめとした各国への戦も、奴らが陛下を唆して企てた奸計の一つで間違いない。
このまま奴らの好きにさせれば、一体どれほどの事態になるか見当もつかない。
だから我々不死騎隊は、己らの手でこの主上の害を除こうとした。しかし、無念にも力及ばなかった。
あのウルリクのせいだ。
ウルリクと騎獣のジェイロン。あれは紛れもなく本物の怪物だ。比喩ではない。何せ我ら不死騎隊は、奴一人によって滅ぼされたのだから。
あれこそまさに、災厄以外の何物でもない。
だからマグヌス閣下、どうかこの窮状を理解し、ハーラル陛下を助けて欲しい。あの君側の奸を除けるのは貴方をおいて他にない。
それには皇室の血をひく正統な皇帝家、イーリオことオーラヴ皇子の存在も必要になってくると思う。
マグヌス・ロロ総司令官閣下。
どうか賢明にして迅速な判断をお願い申し上げる――
読み終わった時、ジョルトは口を押さえ、声を殺すのが精一杯だった。
あのハーラルが皇帝家の血をひいてない?
皇太后が家臣によって殺され、皇帝を利用しようとしている?
とんでもない事実だった。事実であれば、だが。
とは言え、それを判別する術を彼は持たぬし、また持つ必要もないと思った。あのロベルトと名乗った影に、偽りを言っている様子はないと感じたからだ。
ただの直感と言えばそうだが、あの傷を見れば命懸けなのは分かったし、演技であるかどうかぐらい、ジョルトにだって見抜く事は出来た。
とすれば、自分にこの書状を託したのも納得の出来る話ではある。
かなりの権力を持つ人間が敵勢力であり、誰がどの陣営なのか分からないのなら、確実にどの陣営にも属していない者――即ち外部の者に協力を仰ぐのは常套手段である。
――にしたって、俺が頼られるとはな。
随分と高く評価されたもんだと我ながら苦笑が漏れる。
だがそれ以上に、この命懸けの想いに応えてやりたいという気持ちも沸き起こった。おそらくそれすら見越しての事だろうが、こう言った見透かされ方は、嫌いではなかった。
一方で自身の予言通り、不死騎隊二番隊隊長のロベルト・ウルリッヒは、この直ぐ後、ウルリクの手にかかって命を落としていた。
ただ命懸けの隠密行動が功を奏し、最終的にジョルトに書状を託した事まで気付かれはしなかった。
ところで――
彼は何故一人だけ、生き存える事が出来たのか。
最前、ハルデゴン団長をはじめとした不死騎隊の全隊がウルリク一人の手によって殲滅させられた時、彼もまた一撃で殺された――かに思われただろう。
しかしそれは擬態で、彼は咄嗟に己の獣能を発動。そのお蔭で重傷を負いつつも何とか一命はとりとめていたのだ。
彼の兄エドヴァルドはそれに気付き、その場で死んだフリをしろと指示。万一に備えての命令だったのだろうが、この判断が全ての運命を変える事になるのである。
ロベルトは自分が生きている事を気付かれぬよう、必死で身を潜めた。
そして帝都に戻って書状を書き、これをハーラルに渡そうとしたのだが、そこで灰堂術士団らによって見付かってしまったのである。
その際、ハーラルに渡すはずだった書面は失われ、急いで新たに書いたのがジョルトに渡した一通だった。
これが、ジョルトに至った経緯の全て――。
ところでジョルトもその場では動揺の方が大きく、後になって気付く事になったのだが、書状はただ血に汚れていたのではなかった。
その文字すら、血でしたためられていたのだ。
文字通り、ロベルトが命を削って書いた一通だった。