第三部 第三章 第二話(2)『千年愛』
ハーラルは裏切りに慣れていない。
正確には権謀術数渦巻く宮廷で育ったため、無闇に他人を信じておらず、ために信を置いた者に対しては全幅の信頼を置くし、それを見る目もあった。
あるつもりだった。
とりもなおさずそれは、彼の周りにいた人間たちのおかげであったのだろう。
サビーニ皇太后、マグヌス総司令、側仕えのエッダ、武術指南のリヒャルディスとギオルなど……。
ここに挙げただけでも彼に対し悪意のある人間はいなかった。
それぞれ思惑や思いはあれど、ハーラルに対し彼を利用をしてやろうといった邪智を巡らす人間たちでない事だけは確かだった。環境に恵まれていた、と言えばそうだが、だからこそ現状をどう捉えていいか分からなかったのだ。
己に無二の忠誠を誓ったはずの不死騎隊。
その者らがいなくなったのだ。連絡も取れない。
隊長が不在でも必ず何らかの接触は出来るはずなのに、誰一人見当たらない。部隊の全員が、ある日を境にふつりといなくなったのである。
不審と不安で焦りのような心持ちになりかけていた時、一人の隊員がハーラルの元を訪れた。
何があったのかと尋ねたハーラルはそこで信じられない報告を耳にする。
総隊長のハルデゴンをはじめ、全員がソーラ達一派の不意撃ちに合い命を落としたと言うのだ。
まさかと耳を疑うも、そこにはかつてのベルサーク騎士団団長やゴゥトの団長らも混じっていたというし、何よりあのイーリオ・ヴェクセルバルグもいたと言う。
彼ら不死騎隊の実力は、他でもないハーラル自身が一番よく知っている。容易く遅れを取るような者達ではないし、下手をすれば自分でさえ勝敗が際どいと思える実力者揃いなのだ。それを全滅させるなどいくらあのソーラ・クラッカでも有り得まいと思うが、そこにそれだけの面子がいたとなれば……。
驚き以上に激情の顔が抑えきれず、ハーラルが怒りに染まる。
「許せぬ! 何があろうと許さぬ! 我が手で八つ裂きにしても飽き足らぬ!」
同時に味わった事のない喪失感が、彼の心に去来していた。
母――ソーラ――そして不死騎隊――
ハーラルが信頼を置く人間達が、朽ちた櫛のように次から次へとポロポロ欠けていくのだ。
何故だ。どうしてだ。
全ては余が皇帝になろうとしたからか。
いや、異変は聖女との結婚を決めた時からか――。
即ち、イーリオが再び表れた時から、何かが狂いはじめた。
そうだ、イーリオ!
あ奴こそが全ての元凶。余にとっての災いのもと。
許し難い想いが一層強くなり、怒りは強烈な憎悪へと変わっていく。何より、彼が己の心に気付きはじめた今、彼にとっても想い人となったシャルロッタの中にまで、いまだに深く彼への感情が居座り続けている。それもハーラルにとっては忌々しすぎる事であった。
何もかもあ奴のせい――。
忌まわしき――
そうだ。無意識のうちに目を背け続けていたが――イーリオという存在そのものが、ハーラルという存在を全て否定しているのだ。
何故なら――
彼が本物であり、己は偽物だから。
イーリオ・ヴェクセルバルグ――いや、オーラヴ皇子。
例えその出自がどのような不義に塗れていても、血筋で言えばあ奴こそ正統な皇帝家の者。対して自分の身に流れるそれに、正統性などありはしない。傍流どころか皇帝の一門ですらないのだ。
何もかも忌々しく、何もかも許し難い――。
それは何より、己という偽りで出来たメッキの紛い物が、正統なる本物という存在によって否定されているからだった。
同時に、紛い物らしい己の醜さが、イーリオという本物によって否応なく露呈させられているからに他ならなかった。
無論それは、ハーラルが勝手にそう捉えているだけなのだが。
――何としてもあ奴を消してしまわねばならぬ。
災厄の種を取り除く意味でも、何より己自身のためにも。
思えば思うほど、身悶えするような怒りと憎悪が彼の身を内側から灼いていく。それは氷のような炎となって見えざる悋気を巻き散らし、周囲の人間を寄り付かせなくしていった。
ただでさえ苛烈さを持った主上なのだ。それがいつにない近寄り難さを増しているとなると、腫れ物に触るどころか自ずと彼は孤立していく。そうして、より彼の苦悩は増していった。
負の感情が齎す悪循環そのものだった。
やがて彼の精神が徐々に変調をきたしていったのも無理からぬ事であろう。
夜中に叫び声をあげて寝室から飛び出したり、わけもなく侍従に打擲を加えたり。
「どうか御鎮まりください、陛下」
周りの誰にも諌められないハーラルに、唯一声を届かせられる家臣。
高級女官のエッダが宥めるように彼を落ち着かせる。
「余は……余は……」
息を荒げて髪をかきむしるハーラル。
北の大帝国。その至尊の位にあり、頭上に帝冠を戴こうが関係ない。
むしろ玉座という孤高の高みに座するからこそ、彼は苦しんでいるのだ。
それがどれだけ過酷な道であろうとも己自身が選んだ事に変わりはないと誰かは言うだろう。自己責任だと。
それは確かに正しい。しかし正しさや真実ばかりが必ず人に安寧を齎すものではない。時に偽りであっても、それが安らぎを齎す事とて人にはあるのだ。
「分かっております。陛下にはこの私がついておりまする。だからどうか、ご安心下さいませ。例えどのような事があろうとも、何が起きようとも、絶対にこの私だけは陛下のもとから去る事はございません。何があろうともです」
幼子をあやす母のように、黒衣の魔女は白い髪の若き皇帝に優しく語りかける。
その言葉は渇いた大地に降る雨のように、心のひび割れを溶かしていった。
「何があってもか。絶対にか」
「はい。何があろうとも。絶対に」
「絶対だな。絶対の絶対だぞ。例えお前の寿命が尽きようとも、余が死ぬまでお前は死んではならん」
「はい。私が陛下より先に死ぬ事はございません。御誓い申し上げます」
エッダの実年齢が何歳なのかハーラルは知らなかったが、それがどれだけ幼稚な我侭であるか、気付かぬわけではなかった。
それでもハーラルは縋りたかった。誰かに縋らずにはおられなかった。
――マグヌスも信じられぬ。他もそうだ。今や余にはエッダだけだ。
それがどれだけ悲しい訴えであったか、今の彼に理解出来るはずもなかった。
同時に、ハーラルの想いを受け止めるエッダもまた、主の心の痛みが分かるだけに悲しみが沁み入っていた。
だからこそ誓った。今この場で。
お茶を濁すのでもなければ偽りでもなく、本当にハーラルよりも自分は先に死なない。死ぬ事はないと。
ハーラルが幸せに死を迎えた後で、それを見届けた自分もこの世から消滅しようと。
彼女にはそれが出来た。
――千年だ。千年以上もの刻を待ってきたのだ。
それに比べれば、この先数十年かそこらを待つ程度など大した事ではなかった。
ハーラルを包み込むようにあやしながら、エッダは思い起す。
自らに課せられた役割。
自分が生み出されたわけ。
――〝真理と欺瞞〟
それこそが彼女の名前。
そこに真実はなく、塗り替えられる真理があるのみ。虚飾こそが我が生。偽りこそが己の意味。そのために生まれた。そのためだけに。
全てを騙し、あらゆる顔で籠絡し、彼女は悪徳の夢へと何もかもを導こうとした。
だが千年前、その軛からあの人は解き放ってくれた。
千年の時を経てもメモリーは色褪せない。何度再生をかけても擦り切れる事などない。
今でもはっきりと覚えている。
――許せ、妃よ。許されぬ裏切りだという事はわかっている。それでも余は……。
それだけで、その言葉だけで全部が裏返り、全てが肯定された。
偽りではない本当の――己の意味も、生きる意味も。
その言葉のお蔭で、永遠の苦しみは永劫の幸福へと変わったのだ。
偽りの化粧をした自分に、あの人はありったけの想いを注いでくれた。
あの人は、己の心の傷を癒すためだと言い訳をしていたが、そうではない。
あの人は彼女がこの世で最も醜いバケモノであると知っていた。知っていながら受け容れてくれたのだ。言ってはならない魔法の言葉を言って。
――愛している。
世界が呪いで満ちたその時、皮肉にも自分は呪いの輪廻から解き放たれたのだ。
愛をくれたあの人によって。
自分はもう非奏者の個性ではない。ひとつの〝個〟となった。
そして自分のために己を犠牲にしたあの人に報いるため、自分は悠久の時を渡って探し続けた。
再び巡る、あの人の魂を。今度こそ本来のあるべき姿にするために。
そして――見つけた。
遂に見つけたのだ。
あの人の魂を。魂の欠片たちが再び紡がれた魂を。
ハーラル。
愛しきあの人――〝ロムルス〟――の真実の生まれ変わり。
間違いなかった。間違えるはずがなかった。あの魔導士どもは候補のひとつと言ったが、違う。
ハーラル様こそ内なる魂の最適者。叶える事の出来なかった願いを、果たす事の出来なかった約束を果たす御方。
その為ならば何だってやる。
――ロムルスとなろうともR.O.M.L.U.S.にはさせない。
R.O.M.L.U.S.――Revived Organic Matter by means of Largely Universal Soul(大いなる普遍的魂によって蘇生された有機体)。
ウルリクが言った、過ぎ去りし過去の失敗作。
ハーラル様がそんなものでない事ぐらい、言われずとも分かっている。かといって奴らの言う新たなR.O.M.L.U.S.でもない。
ハーラル様はハーラル様のまま、真の幸せと巡りあってもらう。そのためになら何だってやろう。
ハーラル様の母君をこの手にかけようと。悪徳の魔導士どもと手を結ぼうと。
いや、例えハーラル様自身に憎まれる事になったとしても。
何だってやってやる。
運命の巫女である〝座標の聖女〟とひとつとなってもらうためになら。
だってあの御方は、紛れもなく千年前のあの――ままなのだから。