第三部 第三章 第二話(1)『邪心不軌』
珍しく眦を吊り上げ、眉間の皺も深く怒りを露にしている。
まるで彼女の主が垣間見せるような憤りの表情だが、膚の色が冷たいままなのは、〝魔女〟と嘯かれる彼女らしいと言えよう。
とはいえ、あの〝黒衣の魔女〟エッダがここまで感情を前面に出しているのも珍しい。
しかし向けられた矛先の方はと言えば、縊り殺されそうな怒りを前に微塵も動じていない。涼しげなものである。
「何故こんな事をした! 答えろウルリク」
「陛下のため、邪魔だからだ。それ以外に何がある?」
エッダが怒りを向ける理由を全て承知した上で、ヴォルグ六将の一人ウルリク・ブーゲンハーゲンは尚も虚無的な笑みと態度を崩さなかった。
二人がいるのはエッダの居室。
彼らが密議によく使う部屋でもある。
エッダは収まらぬ怒りが吹き零れるように立ち上がっていたが、ウルリクは長椅子に座したまま、長い足を組んで彼女を見上げている。まるでどちらがこの部屋の主か分からない。
「確かに我らの周りを嗅ぎ回られるのも目障りではあった。だが、全滅させただと?! そんな事をすればどうなるか……。想像するのも容易い話ではないか」
「そうだな。陛下とて何が起きたか不審に思うだろう。だがそれを探る術は陛下にはない。何せ探る為の組織が消滅したんだからな。後は頼るとするなら、お前か吾輩ぐらいしか残されてなかろう。であれば話も早い。結局は何もなかった事になるというわけだ。何も、な。結果、不死騎隊なる奴らは完全に舞台から退場と相成った。文字通りなかったものとして。それの何が問題だ?」
「そう上手くいくものかっ。頼りとしていた部隊を失った陛下のお気持ちはどうなる。心の喪失感は。下手をすればここまで順調に進んでいた聖女との結婚にすら良くない影響を及ぼすやもしれんのだぞ! お前、〝賢者〟などと渾名されていながら何故こんな程度もわからん」
呪いの魔法が使えたなら、今直ぐヒキガエルにでもしそうな勢いのエッダである。それでもウルリクはただ鼻で笑うのみ。
「それこそ馬鹿な話だ。今更何を言う? 我らにとって重要なのは〝座標〟。〝魂の座〟だ。あの皇帝陛下どのが何をどう思われようが関係ない。〝座〟が移り〝新たなロムルス〟となればそれはただの器に過ぎん。どのみち事が成れば、早晩ただの肉の器にしかならんというのに、お気持ち? 感情だと? お前こそ何を言っている。我らの目的はそんな〝ごっこ遊び〟などではないぞ」
ごっこ遊びという言葉に、脊髄反射的な激昂を面上にのぼらせるが、何とかエッダはそれを表に出さず抑え込んだ。出せば――この軽薄な〝賢者〟の方が正しいと認める事になってしまうからだ。
「そうかも――そうかもしれんが……だが、感情こそが鍵なのだぞ」
「鍵ではない。因子のひとつだ。そしてこの場合、虚無と非力感こそが、つがいを生む有効な手段であると我らは結論づけている。喪失感? 実に結構ではないか。ハーラルが心に虚無を抱えれば抱えるほど、あれは器に相応しくなる。それに実に文学的だと思わないか? 傷付いた二羽の小鳥が世界を救うなど」
悪趣味な――と吐き捨てるように呟くと、エッダは苛立たしげに一度腰を下ろす。
いくら責めようが無駄だ。彼ら〝エポス〟に通じる道理はない。
その事を一番良く知っているのが、他ならぬ彼女自身なのだから。
エッダが怒りも露に責め立てているのは、先頃ウルリクが行った帝国の暗殺騎士部隊〝不死騎隊〟を全滅させた件についてであった。
ウルリクは偽の情報を不死騎隊に掴ませて彼らの主力をおびき寄せると、それを一人でをまるごと壊滅させたのである。
壊滅とはいえ、騎士団相当の部隊だ。当然、残存する不死騎隊も帝都にはまだいたのだが、灰堂術士団を使ってそれらも炙り出し、最終的にウルリクは僅かに伝令役として一人のみを残して後は全て始末していったのである。
これでこの帝都において、エッダやウルリクの事を探る者は誰一人としていなくなった。正に安泰――と言えなくもないのだが……。
ようは口封じ的な事をするべきだとお互い考えていたものの、あまりにやりすぎだとエッダは言っているのだ。
確かに通常の謀事であればその通りであろう。探られるのが目障りだからと組織ごと相手を潰してしまえば話は大きくなる。
何より己の主であるハーラルの心証的にどうであるか。エッダはそれに対し声を荒げて非難していたのだったが――。
「お前……まさか本来の目的を見失って、ハーラル陛下が心配――などというのではなかろうな」
光すら吸い込みそうな虚ろな目で、ウルリクが鋭い針のように尋ねる。
目を合わせればこちらの心底までも、根こそぎ黒く塗り潰されそうなほどだ。
「目的は忘れておらん。だからこそ陛下の心身を案じておるのではないか」
「言っておくがな、アレは〝ロムルス〟であって〝ロムルス〟でないぞ」
〝ロムルス〟という名に全身を強張らせるエッダ。
そんな事、言われずとも分かっている――分かっているのに何を――
そう言いたげな顔で。
「違うな。〝ロムルス〟など、遥か彼方の昔に存在意義をなくしている、と言う方が正しいか。今や素粒子ひと粒ほどの価値すらない。遥か以前にあったモノ。過ぎ去りし失敗作だ。よもやと思うがお前……ロムルスなどというものにとらわれているのではなかろうな。だからこれほどまでにハーラルにも拘る。あれをロムルスの代替品か何かだと思って」
「やめろ」
振り返ったエッダの面上に血がのぼっていた。
「陛下をモノ扱いするな……!」
絞り出されたエッダの言葉に、ウルリクはやはりな、という風に目を薄くしただけ。無表情かつ無言のまま、何も言い返しはしなかった。
「何だ……何が言いたい〝ヘルヴィティス〟」
違う名で呼ばれたからか、ウルリクはその問いにも何も答えない。
やがて組んでいた足を解き、長椅子からやおら立ち上がって別の言葉で返した。
「いずれせよ案ずる事はない。もしもお前の懸念通りハーラル陛下が泣きついてくれば、お前があやしてやれ。そのためのお前だろうが。全てが虚構の〝女〟よ」
エッダは何も言い返せず、立ち去るウルリクを睨み続けていた。
部屋の扉が閉じられた後、手近にあった花瓶を投げつけるエッダ。
外まで響く音をあげ、水と生け花が扉一帯に巻き散らされる。割れた陶器の欠片が散らばり、まるで持って行き場のない己のようだとふと思う。
何より、これではまるで己が手をくだして殺めたサビーニ皇太后と同じ〝人間〟のようではないかと愕然とした。
―― 一体自分はどうしたんだ。この渦巻く想いは何なんだ。
いや、答えなどいらない。
自分はあの時――千年前のあの時――全てを捨てて願いを叶えると誓ったのだから。そのためだけに、自分はあるのだから。
いつの間にか冷たい汗が顔中を濡らしている事にすら、エッダは気付かないでいた。もしかするとそれは、花瓶で飛び散った水飛沫だったのかもしれない。けれどもそれすら、今の彼女にはどうでも良かった。
――手を……手を打たなければ。
何かに取り憑かれたような目で、しばらくしてからエッダもまた居室を後にした。
扉を閉じたすぐ後に、ウルリクの後方で何かが割れる音が響いた。けれども一度立ち止まっただけで、彼は眉ひとつ動かさず、再度城の廊下を進んでいく。
人払いの出来る場所で報告はするが、他の者らもモニターはしているだろうと察しはつける。
ともあれ、全ては順調だ。長らく喉に引っ掛かった小骨のように煩わしかったエッダも、ようやっと壊れつつあるのだとはっきりもした。
そもそも自分達に言葉など不要なのだ。
言葉など意思伝達の手段であり、そこには常に虚と実が入り混じる。人はそれを利用し、時に感情で訴える事もあれば思いを眩ませたりもしてきた。
だが自分達はそうではない。
そしてエッダもかつてはそうだった。
しかしそれを失った時、彼女は不自由な〝人間〟のように言葉を頼りにしなくてはならなくなったのだ。
――だから先ほどの言葉の真意も聞き逃す。
不死騎隊の殲滅? ハーラルを軽んじている? ロムルス? そんなものはどうでもいい。
言葉の数々など所詮目くらまし。重要なのはそこではない。
言葉であれば裏を読めば伝わるだろう。だがそれすら怒りで思考の曇ったエッダは読み取れていなかった。
それがどれだけ致命的であるか、彼女自身まるで気付いていない。それこそが決定的な事実である。
――世界をデザインする我々が、本当の意味でハーラルには何も期待していないという事実に。
だから最初に言ったのだ。
〝陛下のため〟と。
ハーラルを本当の適合者として見ているのならこんな回りくどい手は使わない。〝あれ〟のように直接作り直せばいいだけだ。
それをせずにいちいち手の込んだ事をする本当のわけ。
即ち、エッダの考える我々の目的と、我々の考える我々の目的は違うという事だ。
以前のあの女なら違ったであろう。
こちらをよく知るあ奴なら、最初の一言で何かを察したに違いない。だが、今のあれは老いた駄馬も同じだった。
おそらくハーラルが表れる以前のエッダであれば、そうでもなかったはずだ。いや、既にそうなりつつあったのかもしれないが、ハーラルという存在が、何よりも決定的になってしまった。もしくは早めてしまったというべきか。
――あとは七つ目の扉の開放と〝鍵〟の入手だが……とはいえ保険も必要か。
予定通りに進めば討伐隊が引き金になってくれる可能性はあったが、うっかりなどというのもある。
――〝奴〟のお気に入りだからな。死なれても構わんだろうが。
別に失ってもそれはそれで問題ないのだが、使える手駒を無闇になくす必要もないという考えも、ウルリクとて理解出来た。ならば発案者に骨折りして貰うのが一番だと結論付ける。
それは彼個人の思考であり、同時に他の者らの思考でもあった。
その思考の先に何があるのか。
かつてはそれを看破出来たであろう魔女も、今やもういない。
全てが賢者の操るままに、踊らされつつあった。
ウルリクが出て行ってしばらくした後、エッダは気配を殺し、全ての知覚を開いて人知れず地下へと潜った。
そこはかつてシャルロッタが何百年も眠っていた水槽のある地下空間。
未だに緑色に光を放つ水が水槽の中でたゆたい、奇妙な形状の水槽からは、低く幽かな地鳴りに似た音が響いている。
その水槽の裏。背面からはいくつもの管がウネウネと伸び、まるで絡まった蛇が塊になったかのようだった。
それら無機質な蛇たちは壁面を突き破ってどこまでも続いているように見えたが、壁の横に小さな扉があった。
暗くてよく分からないうえに様式が違うから扉だと気付く者はほぼいないだろう。大きさも小柄な女性一人がかろうじて入れるほどの扉だ。
エッダがそれに手を翳すと、蛍のようなぼんやりした光が翳した部分に灯り、空気音をたてて扉が自ら開いた。
それをくぐると、入った時同様、自動的に扉は封をされる。
明かりはない。完全な暗闇。
地鳴りに似た音が大きくなっただけ。
エッダは明かりのない中で歩き出す。
同時に、エッダ自身から光が灯された。燭台を翳した訳でも明かりを入れた訳でもなかった。
彼女の額が発光しているのだ。
それは神之眼だった。
鎧獣の額にある生命の結石神之眼。それと同じものがエッダの額に浮かんでいた。
――気の置けぬ、などではない。
ウルリク達もつまるところ排除すべき障害と何ら変わりない事を、エッダはよく分かっていた。分かっていたはずだったのに、事態がいよいよ差し迫るにつれ、いつしか仮そめの同胞にも似た仲間意識が生まれていたのかもしれない。
黒母教の看板を掲げてる連中は露骨だし論外だが、ウルリクに関しては同じ帝国の者だという錯覚をしかけていたのか。だとしたら我ながら脇が甘過ぎるとエッダは自嘲する。
――それがここで露になったのなら、むしろ助かったのかもな。
何の事はない、自分も気が逸っていただけだし、この段階ならまだどうとでもなるはずだ。むしろ強く自戒をすべきだろうが心なしか安堵さえ覚える。
そして気が逸るという事自体が、ウルリク達からすれば嘲笑の対象になる事を、彼女は気付かないでいた。
闇に覆われた中、彼女から発せられる光に照らされ、人の姿ではない影が浮かび上がる。
――この帝都と城の中で、知らぬ事はないだと?
ウルリクがよく嘯く言葉を思い出しながら、エッダは冷笑した。
自分より〝力〟があると言っても、こと帝国、いやこの城の中の事であれば、自分は誰よりも知っている。そしてどれだけ人智を超えた知識や力であっても、時にそれが培ってきた歳月には及ばない事とてあるのだ。
そう、彼女は心の中で述懐した。
影は眠っているのか、微塵も動こうとしない。
だが投げ出した四肢から四足歩行の生物である事だけは分かる。
それも二体も。
――いざとなれば自分にも最後の手段はある。
これの準備も出来ていた。エッダはその最終確認に来たのだ。
例えあのウルリクだとて、城の地下にある隠し部屋に、更に深い隠し部屋があるとは知るはずもないと彼女は確信していた。
魔女と賢者、それぞれがそれぞれの邪心をもって相手を踊らせようと策を巡らす。
果たしてどちらが操り人形になるのか。
それとも全てが運命という形なき壇上で踊る踊り子であるのか。
歴史と題された演目だけが、揺るぎなくそれを脚本に記すのみであった。