第三部 第三章 第一話(3)『泰山英傑』
イーリオの放った術の影響で感知の狂わされたエゼルウルフは、すぐさま状況を把握するためグライフェン軍に伝令を送ろうとした。同時に感知に頼るのを一旦やめ、この状況で考えられる敵の一手を想定する。
敵はまず、こちらの目と耳である自分の感知と、灰堂術士団を潰しにかかった。こちらはまんまとそれに嵌まり、立ち往生している。となれば次に打ってくる手は――。
凡将であれば感知が狂わされた時点で混乱しそうなものだが、それをためらいなく切り捨て、己の才智で判断しようとする辺り、エゼルウルフという男の機智の鋭さがはかれようというものだ。
これが通常の相手なら、この時点で体勢を立て直したヘリング家軍によって反撃を受けもしただろう。しかし、この時エゼルウルフらの軍が相手にしていたのは、彼の事を最もよく知る相手であった。
耳馴染みのある狼の遠吠えが聞こえた直後、エゼルウルフは自軍を振り返り襲撃に備えろと叫ぶ。だがそれすらも敵の手の内であり、そうであろうと知りつつも下知を飛ばして下唇を噛むエゼルウルフ。
予想通り、突風のような速さで賊軍――と帝国側が呼称しているだけだが――が彼らの軍を襲った。形的には側腹をつくような恰好であり、分断を狙っているのは明らかだった。
「ヒャッホー!」
谺するクラッカ団の雄叫び。
多少開けているとはいえ、起伏のある林間である。
まるで林の柱を縫うように、数多の人狼たちが次々にヘリング家軍の騎士たちに攻撃を仕掛けていく。
その動きは俊敏にして迅速。果断で迷いなく、反撃を指揮するこちらが追い付かぬほど。
なるほど、これこそがクラッカ団の恐ろしさであるかとエゼルウルフは敵にして改めて実感した。反りは合わぬが味方となれば心強い事このうえない。だがひとたびその牙が自分に向かってくるとなると、これほど戦い辛く手強い集団もないだろう。
しかし彼とてゴート帝国にその人ありと呼ばれた戦術家にして用兵家。集団の戦で遅れをとる事など、誰よりも彼自身が許しはしない。
「〝邪霊嗅覚〟!」
獣能を発動し、自軍のみならず敵軍の動きすら完全捕捉して建て直しを図ろうとする。だが、クラッカ団の動きにはそれを見越した速さがあった。何より、首領たるエゼルウルフ=ハティの前に、黒毛の人狼騎士が立ち塞がり、彼の指揮を掻き乱していく。
「ソーラ!」
「エゼルウルフ! この間の決着といこうじゃねえか!」
互いに狼。互いに希少種。
黒と白の同系種同士の対決が火花を散らそうとしている頃、距離を置いた別の戦場では、これとは異なった雌雄を決する戦いがはじまろうとしていた。
イーリオ親子の前に立ちはだかる古代絶滅種にして最大級の捕食動物、暴帝北極熊。
その鎧獣騎士〝泰山英傑〟のヤロヴィト。
かつては三獣王の一角に列せられ、その堅牢さ、万軍を以ても打ち破る事能わじと評された最強の守護神。
手に持つのは刺突盾と呼ばれる、巨大な盾。槍と大型盾をひとつにしたかのような攻撃にも長けた武装である。
そこに対峙するのが、白銀の人狼騎士イーリオ=ザイロウと、彼の父ムスタ=フォルンジュートだった。
ザイロウついては今更言わずもがなだが、ムスタ、ましてやフォルンジュートについて知る者は今となっては少ない。
クロクマとヒグマの混合種。
〝黒飛爪〟と呼ばれた黒羆の鎧獣騎士。
イーリオは父と父の騎獣の実力を、一度直接目にしている。
格で言えばメルヴィグ覇獣騎士団の主席官やヴォルグ六騎士にも何らひけをとらないとさえ思う。だが、こうして並び立って戦うのははじめての事だ。
「いくぞ」
ムスタが気負いなく言い放った。
黒紫の鎧が同色の残像となって戦場を奔る。
イーリオもそれに合わせて動いた。交差するような疾走。
取り巻く敵も味方もただ目を奪われるだけ。捕捉さえ出来ていなかった。
フォルンジュートは熊類にしてはおそろしく動きが速い。黒羆だからというわけではない。この個体の性能であり、単純にムスタ本人の実力によるところが大きかった。
それでも、閃光――
そして衝撃音。
二騎の剣が盾に弾かれ、それぞれ宙を回転して着地する。
こちらの息は合っていた。あの巨大な盾だ。片方を防げば片方は別の動きで防ぐだろうと踏んでいたのだが、リヒャルディス=ヤロヴィトはまるで短刀でも取り回すような軽快さでこれを余すところなく易々と防いだのだ。
が、ムスタもイーリオも驚きはしない。むしろそうなるだろうと予想もしていた。
だから着地と同時にムスタは続け様の攻撃を放った。
「〝飛天槍士〟」
巨大な投槍の如く、人熊の拳が宙を飛ぶ。
イーリオ=ザイロウもそれに呼応し、自分ごと回転しながら体当たりめいた突撃をかけた。
速度は疾風をも超える。反応など追い付けるはずもなし。
ならば――とばかりにヤロヴィトもまた異能を解放した。
「〝無敵鎧〟」
爆風のような衝撃。
余波が凄まじい音となって一帯に谺する。
土煙が晴れる頃、黒羆の腕は元の位置に戻り、あちこちに傷を負ったザイロウもその傍らに並んだ。
「やられたな」
「ていうより、防がれたオマケでこの有り様だよ。あれは一体……」
ザイロウの傷は既に癒えつつあったが、これは反撃を喰らったからではなかった。こちらの攻撃が完全に防がれ、その際、自身の威力が反動となって己に返ってきた事で自ら傷付いてしまったのだ。
「三獣王――〝泰山英傑〟」
「〝泰山英傑〟……」
「初代三獣王の一騎にしてわずか一騎だけでゴート帝国の大軍を退けた伝説の鎧獣騎士。それがあのヤロヴィトだ」
ムスタの言葉にイーリオの背筋がぞくりとなる。
三獣王。武術の師であるカイゼルンと同じ称号。
かつてそれを名乗る事を許された騎獣。
「鎧獣騎士において防御というのは戦いの要にならん。人技獣体の四法にも防御はなく、あくまで〝動〟こそが戦いにおける最重要だとされている。だが、その防御を極限にまで特化させ、戦闘の域に高めたのがあのヤロヴィトという鎧獣だ。ましてや駆り手はグライフェン流の宗家リヒャルディス。〝砕・咬・裂・動〟全てを極めている上にヤロヴィトならではの〝防〟まで備えた騎士の完成型――ってわけだ」
土煙が完全に消え、表れた姿は――異形だった。
白亜の体毛全てが硬質性を帯び、まるで巨大な人獣の彫像のような姿。
イーリオがすぐに思い起こしたのは、かつて共に戦った覇獣騎士団・伍号獣隊ルドルフの駆る〝ガグンラーズ〟だった。
あれと同じように、全身が鎧のような姿に変わっている。だが同じではない。
ガグンラーズの獣能は全身を板金鎧のように変化させるが、この暴帝北極熊の姿はまるで大理石の如きものである。
ヤロヴィトの異能〝無敵鎧〟は、全身を巡るリン酸などのリン物質を硬化させ、体表のみならず内部にまで硬化を促したもの。まるで動く岩山にも等しい硬さは、あらゆる攻撃を全く通さない。
難点があるとすれば、ガグンラーズのように機動性を維持出来ないというところだろうか。
全身を硬化させてしまうため、動きはどうしても固くなってしまう。だが、リヒャルディスの技倆と経験は、それを補って余りあるほどのものがあった。
「さすがはムスタだな。それにハーラル陛下と一騎討ちをした恐炎公子と言ったところか。儂にこうも容易く獣能を出させるとは」
暴帝北極熊の頭部まで無機質な像のよう。そこから聞こえるリヒャルディスの声音には、氷を溶かし込んだような冷徹さが滲みでていた。
「何がさすがだ。アンタみたいなのを相手にするこっちの身にもなれってんだ。なぁ、イーリオ」
先ほど矢のように飛ばした己の腕を確かめるように動かすと、ムスタ=フォルンジュートは小さく身体を揺すった。
その行いといいどういう意味だろう? イーリオが訝しげに父を見ると、手に持つ剣を右に左に持ち替えている。
――この動きは……!
曲芸のような準備運動。
すぐに直感する。これは紛れもなく、父ムスタが考案した必殺の技。それを放つ前に見せた動きだ。
となれば自分は何をすべきか――。
イーリオとて数多の戦いを潜り抜けてきた身だ。ムスタに言われるまでもなく、呼応した動きとて出来るはず。
「合わせろよ」
呟くムスタ。
頷き返すのを待たずに、黒羆の姿が掻き消えた。
同時にイーリオ=ザイロウも動き出そうとするが、今度は相手がそれを待たなかった。
小山のような巨体と巌のような身体からは想像もつかない動き。
爆発かと思えるほどの地揺れが響いたかと思えば、銀狼の死角を衝いた豪風。咄嗟の感知で上半身を捻り、かろうじてこれを躱すも、寸暇もなく爪撃が襲いくる。
その際、再びの地揺れ。
「ドゴゥン」という腹の中まで揺らされそうな震動に、敵味方関係なく周囲の者までよろめきふらつきかけるほど。
今までに味わった事のない硬さの爪撃が、ザイロウの右上腕を肉ごと抉り取っていく。
鎧獣騎士は痛覚を遮断する。にも関わらず被撃の余波による衝撃だけで、中のイーリオにも鈍い痛みが走った。
――今のはグライフェン流の!
グライフェン流は踏み込みに重点を置いているのが特徴だ。先ほどの地揺れはそのためであり、一撃目は刺突盾を使った〝独骨〟という技。その後の爪による斬り裂きが〝連骨〟と呼ばれる角度の変えた攻撃方法だった。
硬化により見るからに鈍ったはずの俊敏さでこうも鋭く躱し辛い攻撃を放つとは、およそ想像だに出来ぬ錬度の動き。
しかしイーリオとてただやられるだけではない。反撃のように剣を払い、僅かながらヤロヴィトの体勢を崩す。
そこへ影を縫うような、黒紫の旋風。
だが、ヴォルグ騎士の老将はこれを読んでいた。初撃の刺突盾を宙で回転させ、槍そのものの動きでムスタ=フォルンジュートの連携を叩き落とそうとする。
これに対し、ムスタの動きは予想を超えていた。
刺突盾の上を滑るように転がり、宙で一回転。そしてそのまま――
「〝飛天槍士〟」
左の前腕部が弾丸となって暴帝北極熊の頭部を殴り飛ばした。
仰け反る最高防御の守護騎士。
ムスタはフォルンジュートの腕を戻し、イーリオの側へ着地した。
「大丈夫か?」
「うん、何とか」
右腕の傷は深かったが、ザイロウは持ち前の治癒力で既に回復しつつある。
それよりもフォルンジュートの放つ異能の非常識さだった。
〝飛天槍士〟。
以前にも述べたように熊類の身体は見た目からは想像も出来ないほど柔軟に出来ている。ムスタはそれを利用し、かつて伸縮自在の四肢といった獣能などを生み出したが、フォルンジュートのこれはその元祖であり究極形ともいえるものだった。
筋繊維に伸長と圧縮を施し、前腕の半分下を切断したように切り離す。この際、腕は分離しているのではなく細く紐状になって繋がっており、いわば鎖分銅のような形状になっていると考えれば良かった。
これだけならただ腕を伸ばしたのとさほど変わりはなかったが、ムスタはここにグライフェン流の爪撃をあわせた。踏み込み強く、身体を連結させてたたき出すように拳を放つ事で、まるで拳が弾丸のように空を飛んで相手を裂き、殴りつけるのだ。
間合いや挙動を無視した高威力の遠距離攻撃とも呼べるこの技をして、ムスタとフォルンジュートは黒き旋風〝黒飛爪〟と呼ばれたのである。
直撃した勢いでたたらを踏むヤロヴィト。
フォルンジュートの感触では手応えはあった。だがこの程度でどうにかなる相手ではない。それは古強者であるムスタなら百も承知だった。
だからこれすらもただの前段。
フォルンジュートの両手で、再び剣が右に左に持ち替えられる。
――出る!
イーリオは直感した。
リヒャルディス=ヤロヴィトが体勢を持ち直そうとしたその機を逃さず――
槍投げのような恰好で剣を大きく振りかぶるフォルンジュート。
背中の広背筋と右腕の隆起が恐ろしく膨れ上がっていた。
そのまま全身全霊の勢いで己の剣を投げつける。
ほぼ同時に――
爆発したように大地が炸裂し、ムスタも剣の軌道に沿って跳躍をする。
目にも止まらぬ動き。知っているイーリオだからこそ分かっていたが、目で追えていたわけではない。超常の動体視力を持つ鎧獣騎士ですら視認はほぼ不可能。
投げた剣を空中で掴むと、投擲の勢いそのままに、フォルンジュートは刃を横に薙いだ。
山間部全体を揺らす音響と震動。
揺るがぬはずの泰山英傑が、豪雷のような猛烈さを受け、遂に吹き飛ばされる。
これがムスタの編み出した彼独自の必殺攻撃。
〝破裂の流星〟。
全力を振るって剣を投げ、それを上回る速度で投げた剣を掴み、勢いを活かして斬りつける。
投擲、突き、斬撃、当て身。
これらが一体となって襲う途方もない攻撃。
構造的にも物理的にも人体では絶対に不可能。とはいえ、鎧獣騎士ならば出来るのかといえば、およそ不可能に近い。自分で投げたものに追い付くなどそれ自体が既に神業に近い動きだ。それどころかそこから斬撃を放つなど、物理法則を捩じ曲げているに等しい動きと言える。
だがムスタはこれを編み出し、目の前で放ってみせたのである。
イーリオに披露した時同様、技の余波でムスタの周囲から草木や土が抉れるように吹き飛ばされていた。
「やった……?」
イーリオが呟く。
技は完璧に決まったように見えた。破壊力については今更言うまでもないだろう。
これひとつで剣の届く範囲全ての敵を、まるごと両断した事すらあるのだ。当たれば必殺。あのマグヌスにすら躱すという選択肢を選ばせたほどなのだから。
「いや……」
ムスタが己の腕に痺れを感じながら呟く。
相手は絶対防御の完成型〝泰山英傑〟なのだ。
土煙を払うように白亜の巨躯が起き上がると、何かが落ちる金属音をたててヤロヴィトが動き出す。
――!
イーリオは目を見張る。
金属音の正体は、どうやら鎧であるらしい。
ヤロヴィトの胸部装甲が剥がれ、授器にあるまじき亀裂が走り、砕かれている。頭部にはひび割れだけでなく血と痣もあった。ひび割れなのは硬化したからで、頭部のそれは最初の獣能によるものなのだろう。
だが問題はその胸部。
鎧すらも斬り裂かれたはずであったのに、何故か傷はない。
それどころか白い別の装甲が突き出ていて、暴帝北極熊の胸部分を覆っているようだった。
「儂とした事がすっかり忘れていた。お前にはその技があった事を。何と言ったか……確か〝破裂の流星〟と言っていたか」
「今は読みを変えててね〝破裂の流星〟って呼んでる」
リヒャルディスの声にムスタが返す。
両者ともにまるで動じていない風に聞こえた。だがどちらが劣勢なのかと問われれば、イーリオにも目に見えて瞭然だった。
ヤロヴィトの胸部にのぞく白い装甲が、軋む音をあげて体内に埋め込まれていく。
「あれは……」
「奴の第二獣能だよ。厄介だぞ。ヤロヴィトって鎧獣が最も厄介な相手なら、駆り手のあの爺さんも厄介すぎる相手だ。ま、今のワザでどうにか出来ればと期待していたんだが、上手くいかんもんだよな」
イーリオがヤロヴィトの異能に目を剝いてすぐさま尋ねた。その質問に返答しながら、ムスタは己の調子も確かめる。
リヒャルディスとの戦いはまだ先が見えて来ない。だが、その先の事まで考えなくてはならないのが今の彼らの状況なのだ。
このままグライフェン家軍を圧倒出来たとしても、そしてリヒャルディスを倒せたとしても、まだ帝国軍には後続がある。そこには、これ以上に最悪な相手も。
――さて、どうしたもんかな。
帝国筆頭騎士にしてあらゆる獣騎術の祖である流派を極めた武人リヒャルディスを相手に第二獣能まで発動させたのだ。それだけでも大したものだと賞讃されるべきだろうが、今のムスタやイーリオにとってそれでは駄目なのだ。
目の前の相手に――このとんでもない相手に勝たなければならない。出来れば余力を残して。
だがそんな甘い期待を許してくれる相手でない事は、もう十二分に理解しただろう。
イーリオも決心する。
「千疋狼――炎身罪狼」
白い炎が全身から吹き出し、白銀の身体を幻想的に包み込んだ。
止める間もなく出した息子の結論に、ムスタは黒羆の中で顔を顰めて息をついた。
「仕方ない。いくか」
暴帝北極熊が巨大盾を構えた。
この対決において、はじめて見せた構え。
戦いの神がいるとするならば、この激闘の行き着く先に望むものは何なのか、それは誰も知り得ない。だが神々でなくとも終わりは遠くないと、誰しもが感じ取っていた。