第三部 第二章 第五話(3)『邪謀妖刃』
明かりが乏しいのは密議のためではなく、単に人がいると知られないよう消していただけである。事実、エッダが自室に戻ると部屋の燭台には火が灯された。
「如何でしたか?」
客人用の長椅子に腰を下ろしていたのはヴォルグ六騎士の一人、左翼大隊司令長官ウルリク・ブーゲンハーゲンであった。
「どうもこうもありません。貴方達のヘマのせいで余計な手間を増やされて迷惑極まりない。この始末、どうつけてくれますか?」
声に怒りの抑揚はないが、額面通りに受け取るならば叱責に近い内容だ。
それを向けられた部屋にいるもう一人の人間は、身振りだけなら恐縮だと言わんばかりに平身低頭する。しかし、彼の目は笑っていなかった。そしてそれに気付かぬエッダでもなく、余計に不愉快さが募る。
「誠に申し訳ございません。我が手の者がいらぬ争乱の火種を起こしてしまいまして」
「しかも行方が知れぬのでしょう。例の〝術〟とやらで探り当ては出来ないのか」
「は、探りはしたのですが、例の騒ぎがあった場所から痕跡がハタと消えておりまして、今だ足取りは掴めておりませぬ」
男は黒母教のスヴェイン枢機卿が派遣した代理の司祭にして理術師。名をヘンリク・タルボと言う。
「その者、逃亡したイーリオ・ヴェクセルバルグ捕縛の際にも、グリーフ騎士団の連中を放っておいて先に逃げたというではないですか。役立たずな上に無能ときている。この責任は重いですよ、ヘンリク司祭」
「返す言葉もございません。逃亡者の捕縛も含め、必ずやこの挽回はさせていただきます」
「いりません。そもそもソーラを奴らに合流させたのも大所帯にして身動きを取れ難くさせる事が目的。後の事は私が差配します。貴方達は動きだけ見張っていればいい。今後、貴方たち灰堂術士団は我が命のなき行動を厳しく慎んでもらいます。いいですね」
一瞬、鼻白んだ顔を浮かべたヘンリクだったが、すぐに無表情な仮面を被り「御意に」と受け容れた。
その傍らで、ウルリクは一言も発さず薄ら笑いを浮かべているだけだった。
「何か可笑しい事でもありますか?」
「これは失礼。いえね、今、彼らの動きに貴女自ら枷を嵌めてしまって良いものかと思いまして」
「どういう意味ですか?」
ウルリクは眉を上げて、幾分か芝居じみた驚きの表情を作った。
「そうですか、お気付きでないと……。ま、やりすぎたとはいえ、いらぬ事に首を突っ込まぬよう釘を刺す事に成功したという意味では彼らの働きも無駄ではありますまい。これでしばらく、皇太后陛下まわりの事を嗅ぎ回る人間はいなくなるでしょうし」
最後の言葉の際、彼は意図的にエッダから視線を外し、明後日の方向を見るような仕草をした。
エッダは意味するところを察し、内心僅かに驚きを覚える。
しかしそれが表面に出る事はなかった。
「吾輩は〝計画〟のため、団長会議が終わり次第少し帝都を離れようと思います。ついでに例の証書も何とかしましょう。なので彼ら灰堂術士団には帝都まわりの事に目を光らせてもらおうではありませんか」
「……ええ、分かりました。ではヘンリク司祭、貴方には少し席を外してもらいましょうか。私はウルリク卿と話がありますので」
聞いていい内容ではないと言下に示していたが、理由まではヘンリクとて分からない。が、分からなくとも良かった。
深々とお辞儀をし、部屋から退出するヘンリク・タルボ。
「意味などあるのかしら?」
ヘンリクがいなくなると、少しくだけた口調でエッダが呟いた。
「案ずるな。術の気配はないと吾輩が保証する」
「その事ではない。この状況下であの者達を使う必要性よ。イーリオ・ヴェクセルバルグは目障りだけど、それだけでしかない。あれを気にかけているのはあくまでハーラル陛下ぐらいのもの。そして陛下と聖女が結ばれる日はもう指折り数えるだけ。宮廷で最も厄介になる可能性のあった皇太后の始末も済んだ。全ては私と貴方がたの思惑通り。今更〝ヘレ〟の子飼いを使う意味などありはしないのでは?」
「ま、保険というのもあるだろう。無下にしては〝ディユ〟も困る」
意味ありげな笑みに何も意味がない事を、エッダは知っていた。
この男――いや、こいつはいつもそうだ。
賢者だなどと渾名されようとそんなものは上っ面の顔にしか過ぎない。
「他の六騎士どもがいらぬ詮索をせぬように、それにあの国家最高錬獣術師の小娘の動きも封じよとは言った。だが事を大きくしろとは言ってない。……全く、手を煩わせてくれる」
「そう昂るな。それについては吾輩が何とかしようと言うのだ。上手くこちらの垂らした釣り針に食いついてくれているのだから、あとは何とやらではないか。それにだ――」
「それに?」
「来るべき大進攻に向けての準備も整いつつある。ハーラル陛下も思惑通りにご決断なされたようだし、あのマグヌスも吾輩らの手の内。アンカラの二の舞にはなるまいが、後はお前がどのようにしてくれるかだぞ、エッダ――いや、〝アート〟」
「その名で呼ぶな」
別の名で呼ばれた事に、エッダは殺意にも似た嫌悪感を放つ。まるで歴戦の強者のような迫力だったが、ウルリクは虚ろな目で皮肉っぽく笑うのみ。
「……証書の件、任せるわ」
「ああ」
虚無的で空疎な笑み。
ウルリクの顔に貼り付いている表情の奥に、人間的なものはない。
何より、証書の件などという意味ありげで意味のない符牒もまた、彼らしい仕掛けと言えるのだから。
立ち上がったウルリクの気配に応じ、息を殺してこれを探っていた〝不死騎隊〟三番隊隊長のルーベルトは、気付かれぬよう細心の注意を払いながらそっとこの場を去る。
収穫どころではなかった。かなりの情報を手に入れる事が出来たと、ルーベルトは心中で手応えを感じていた。
捕虜にして吐かせた灰堂術士団の男によれば、先のヴェロニカとビョルグの騒ぎを仕組んだのはエッダであるという。元々、事件を探るうえで聖女に近い存在のインゲボーの動きに目を光らせていただけだったのだが、そこから思わぬ大物が釣り上がったというわけだ。
そして奴らの会話から察するに、サビーニ皇太后の殺害には、あの者らが何らかの形で関わっている事は間違いないと言えた。それどころか、帝国の大進攻を画策し裏で操っているのも、あの二人を中心としている可能性すらあった。そしてこれらにまつわる何かのために、ウルリクは一度帝都を離れるという。
証書――それが何を意味するのか分からないが、エッダだけでなくウルリクの動きにこそ、目を離してはいけないだろう。
そんな風に知り得た情報を頭で整理しながら、隠密そのものの動きで巨大な帝城の影から影へと疾駆するルーベルト。
彼ら不死騎隊は騎士でありながら特殊な訓練を受けており、斥候や密偵紛いの行動にも非常に優れたものを持っている。それは一流の戦士どころか鎧獣騎士ですら気配を察知させぬほど。
しかし――この時突然、ルーベルトの行く手に、ぬっ、と影が道を塞いだ。
先ほどエッダの居室から出たウルリクである。
何の前触れもなければ気配すらない。
それよりもこの男の退出と同時にルーベルトも部屋を出たのだ。ルーベルト以上の速度で走らなければ――いや、走ったとしても――先回りなど出来ないだろうに、どうやってここにいるのか。
とはいえ、陰に隠れて身を潜めている以上、自分の存在が気付かれているかはまだ分からなかった。今はただこのままやりすごすべきだろうと彼は考えた。
「時間の無駄だ。さっさと姿を見せろ、子鼠」
空っぽの笑いはそのままに、ルーベルトが隠れている方向へ視線を向けて、ウルリクが挑発的に呼びかけた。
残念ながらこちらの事は見抜かれていたようだった。
「いつから気付いて……?」
物陰から溶け出すように姿を見せると、ルーベルトは全身に警戒を張り巡らせて問いかける。
「ずうっとだ。この城ごとき、吾輩が分からぬ事などありはしない。貴様がエッダを尾けていた時からずうっと気付いていたさ。――だから吾輩はこう呼ばれている〝賢者〟とな。さて……子鼠かと思ったが、鼠ではなく仔猫だったらしい。ついぞ姿を見ておらなんだ、カビ臭い仔猫だ」
ルーベルトは瞠目した。
彼を一目で不死騎隊と見破るなど、普通は有り得ない。そもそも不死騎隊は影の組織。その実態を知るのは皇帝のみであり、衆目の前に出たのも四年前の一度きり。それすらも隊長格は姿を偽り本来の不死騎隊について知る者など誰もいないはず。
にも関わらず、明らかにウルリクはこちらがそうだと見抜いている。
「で、どうする? 我らの事を知るのなら、大人しく道を開けるべきだろう」
「いやいや。貴様ら不死騎隊に嗅ぎ回られてはちと面倒なのだよ。吾輩らにとってな」
「正気か? 我ら不死騎隊は鎧獣がなくとも人を殺める術なら誰よりも長けている。例え六騎士であろうと鎧獣がなければ我らに敵うはずはない。悪い事は言わん。六騎士の名を汚さず長生きしたければ、大人しく道を開けろ」
だがウルリクの表情に怯む色など微塵もなかった。
薄ら笑いを浮かべながら、マントの下より剣を抜き放つ。
「愚かな」
こうなれば仕方ないと、ルーベルトも覚悟を決めて背中に隠した剣を抜いた。
ルーベルトのそれは、隠密行動の護身用なだけに、刀身は長くない。一方のウルリクの剣は、刃渡りこそ細いものの通常の直剣程度の長さはあった。
得物の優位さならウルリクに分があるだろう。しかし特殊訓練を積んでいるルーベルトに、気負いも焦りもなかった。むしろここで六騎士の一人、しかも左翼大隊司令長官を手にかけてしまっては何かと面倒な事になりかねないだけに、どうにか殺さずに済ませないかと策を練ってさえいた。
「どうした? 来ないならこちらからいくぞ」
剣を構えて距離を取るルーベルトに、無造作な動きで距離を詰めるウルリク。いや、単に詰めただけではない。
――疾い!
一瞬で間合いが狭まり、同時に片手持ちの刀身が閃光を描く。
金属のはじかれる音。
ウルリクの見た目にそぐわぬ膂力に、上体ごと吹き飛ばされそうになるのをかろうじて踏みとどまった。
冷酷無慈悲な暗殺者であるルーベルトの総身に、どっと冷や汗が吹き出る。
ヴォルグ六騎士と言っても、それはあくまで鎧獣騎士としての実力であるはずだ。鎧化したならルーベルトの勝機はきわめて低かったろうが、今はそうではない――はずだった。
だが何だ、今の動きと剣力は。
まさか六騎士が、鎧獣騎士とならずとも、これほどの剣腕を持っていようとは……。
およそルーベルトの想像を遥かに超えていた。
「何だその、鳩が豆鉄砲を食らったような顔は。吾輩が鎧獣頼みのヤワな騎士とでも思ったか?」
「ぬかせ」
ルーベルトに侮りからくる余裕は、もうなかった。殺さぬようになどといった甘い考えは即座に放棄し、全力の殺意で目の前のチョビ髭を殺す――。
そうでなくば殺されるのは間違いなく自分だ。
「いいだろう。六騎士殺しの罪、俺が被ってやる」
密命のためとはいえ、無駄に血を流すのはこの任務の主眼ではない。しかし殺らなければ殺られるこの状況で、情報を齎せずに終わるなど、それ以上にあってはならなかった。
短刀を逆手に持ち替え、腰を沈めるルーベルト。
人間の剣士としても一流以上の腕前。
かつてない緊張感に肌をひりつかせながら、それでもルーベルトにはまだ落ち着きがあった。
鎧獣騎士ならいざ知らず、人間相手ならこの程度の修羅場どれほどのものであるか。
むしろかつてない強敵を相手に胸が躍る気分ですらあった。
隙のないウルリクの構え。その間隙を縫うように――
疾走。
からの掬い上げる斬撃。
敵はこれを躱す――と同時に、こちらは足を払って体勢を崩させる。これで致命傷の一撃を叩き付けるだけ。
そのはずだった。
斬撃の後に放った足払いが、その軌跡の途中で逆にウルリクの蹴りに撃ち落とされる。
反撃も合わさった痛打。一撃で脛の骨が折られてしまう。
――馬鹿な? 読まれただと?!
素早く転がり、続く追撃を避けようとするルーベルト。だが次の瞬間、顔面に火花が散るような強烈な蹴りを受ける。
そのまま後方に吹き飛び、ルーベルトは廊下を転がった。しかしルーベルトもまた暗殺者として一流以上の者。転がされた反動を利用して距離を置き、体勢を立て直そうとした。
その矢先――
目にも止まらぬ動きが生んだ、かつてない衝撃。
ルーベルトの全身から、力が脱けていく。
己の腹部を見た。
そしてウルリクを見る。
ウルリクの手に剣はなく、投擲後の恰好になっている。
もう一度見た己の腹に、深々と刺さったウルリクの剣。
血の塊が喉からせり上がり、ルーベルトは盛大に血を吐き出した。
「やはりカビの生えた古猫だったようだ。人一人殺す事も出来ん暗殺者など、役立たずのゴミも同然だな」
口元には薄ら笑い。言葉も嘲りに彩られているが、瞳は底なしの闇のように何も映してないように見える。
ルーベルトは己の命数が尽きかけながらも、暗殺者にあるまじき戦慄を覚えざるを得なかった。
闇の世界に生きる者すら戦く、深い暗黒――
「おの……れ……!」
「ん? その感じ、ひょっとすると吾輩が口を割らせようとしている――などと考えているのか? はは、心配するな。そう警戒せんでも貴様ら不死騎隊の裏にいる人間など聞かずとも分かる。安心してくたばるがいい」
確かにウルリクの言う通りだろう。この国の最高権力者が皇帝一人の今、不死騎隊に命令を下せるのは、この世で一人しかいない。つまり、最初からこちらの手の内全てが見透かされているのに等しいと言えた。
とは言え、このままおめおめ殺されてたまるかと、ルーベルトは最後の力を振り絞る。
挙動の気配を微塵も見せず、懐に忍ばせた暗器を投げつけるルーベルト。しかし短い刃物のそれは、容易くウルリクに躱されると、明後日の方向にある壁へと突き刺さってしまった。
「悪足掻きか。汚れ仕事の暗殺騎士らしい、無様な抵抗だな」
「無様でも……いい。これが、俺のつ……とめ……だ」
ルーベルトの言葉に引っ掛かりを覚えたウルリクは、即座に後ろを振り返った。
先ほどルーベルトが投げたはずの暗器。あれがいつの間にかなくなっている。
更に視線を飛ばした先に見えた、幽かな影。
「ほう……仲間に繋いだか」
「お前の……こ……とは、もう……バ……レた。おし……まい……だ……」
言い終えるより前に再度大きな吐血をすると、そのままルーベルトは事切れてしまった。
座り込み、項垂れた恰好の死体から剣を引き抜くと、ウルリクは虚空に向かって声をかけた。
「後始末は任せるぞ。それと、奴らの足取りも追っているな」
何もないはずの空間にいつからいたのか、一羽のフクロウが降り立っていた。
フクロウは奇妙にも半透明に透けた幽霊のようで、首を九〇度近くぐるりと回す仕草を見せた後、かすれた〝音声〟でこれに答えた。
「万事、滞りなく」
ウルリクは薄ら笑いを消し、もっとも〝彼〟らしい顔でこの場を立ち去っていく。
ルーベルトが情報を渡す事も全て読み通り。これで不死騎隊もこちらの思った通りに踊ってくれるだろう――。
そう考えている事など知る由もなく、闇の騎士たちは彼ら以上の暗黒の賢者によって、翻弄されていくのだった。
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