第三部 第二章 第五話(2)『謝罪』
ゴート帝国総騎士長にしてヴォルグ六騎士の一人リヒャルディス・グライフェンの脳裏にあったのは、処刑される間際の友が言った最後の言葉だった。
友とは皇帝戴冠式の折りにイーリオなる若者を担ぎ上げた、シュタイエルスカ大公トルステン・ステンボックの事である。
トルステン大公は事件後牢につながれ、あまり日を置かずに死罪に処されたのだが、その直前、かつての友の末期の言葉を聞いてやろうと、リヒャルディスが牢を訪れていたのだ。
リヒャルディスが足を運んだのは、慰めにきただけでなく、どうしてこのような事を起こしたのか、その真意を直接自分で問い質したかったというのもある。
トルステンは言った。
――
「儂はハーラル様が憎くてこのような事をしたのではない。七年前、六騎士を罷免されたのも腹立たしい事ではあったが今となってはどうでもいい事だ。恨みがないわけではないが、もう忘れた。
では何故だと? 儂はな、リヒャルディス、二〇年前のクロンボー城襲撃の真相を聞いた。
ああ、そうだ。
つまりあのオーラヴ殿下は紛れもなく本物だという事だ。
無論、今更帝位を騒がそうというのではない。
ハーラル様は立派な為政者になられたし、いくら一歳違いといっても政を知らぬ御方を皇帝にそえるなど愚行も甚だしい。そんな事くらいは理解しておる。そこまで耄碌はしとらんぞ。
儂はな、オーラヴ殿下が生きていた事でもう一つの噂も本当ではないかと考えたのだ。お主も耳にしてないか? そうだ。ハーラル様の、〝あの噂〟だ。
馬鹿馬鹿しい? 確かにな。儂も少し前まではそう思っていた。根も葉もない悪しき噂に過ぎぬだろうと。
しかしな、オーラヴ殿下が生き存えていたという噂がまことであった以上……もしかしてハーラル様のも本当ではないかと思ったのだ。
何よりそのハーラル様の〝噂〟。その火元がどこか聞いた事はあるか?
噂の火元はな……亡くなられた先帝陛下だという話だ。
そうだ。ゴスフレズ陛下自らが、己の息子に血の繋がりはないと風聞を流していたのだ。
それこそ馬鹿馬鹿しいか。だがよく考えてみろ。あのエッダという遣り手の女官がいるにも関わらず、ハーラル様の〝噂〟は未だに絶える事がない。あんなもの、あの女官なら早々に火元を突き止めて広まらせぬように出来そうなもの。にも関わらずそれをしないというのは、出来ないと言った方が正しいのではないか?
ああ、確たる証はないに等しい。
オーラヴ殿下と僅かな風聞のみが根拠――いや、勘のようなものかもな。
だがそれでも〝噂〟が真実なら全て辻褄が合う。だからそれが真実かどうかを確かめるため、儂は戴冠の間で物申したのだ。
もしも〝噂〟が本当なら、これこそ明らかな謀反。五〇〇年続く帝国皇室が何処の誰とも知らぬ者にすげ代わってしまうという事だぞ。
例えどれだけハーラル様に才気があろうと、儂は帝国に仕える者としてこれを見過ごすなど出来なかった」
――
それこそ誇大妄想の成れの果てでしかないと、その時のリヒャルディスは一笑に付してこれを撥ね付けた。だが、真意を語ったトルステンの瞳に妄執の色はなく、むしろ帝国に忠義の篤い、リヒャルディスの良く知る彼の姿そのものではなかったかと、今になって思う。
そして彼の処刑直後より起こる立て続けの変事。
囚われたオーラヴを名乗る若者の脱走に、それに何故か加担した黒騎士。
何より皇太后の殺害と、事件を起こしたとされるソーラ・クラッカだ。
続け様に異常事態が起こる今の状況も、トルステンの語った話と何か関係があるのか。
何も分からないが、関係がないと断ずるには、あまりに状況が不可解すぎる。
そして今度は、帝都内での六騎士ヴェロニカとビョルグ団長の決闘だ。
こうなった以上、リヒャルディスも無視を決め込むなど出来そうもなかった。
分かれ間際、トルステンは彼を呼び止め最後にこう言った。
「いいかリヒャルディス、我が旧き友よ。悪意ある何者かが例えどれだけ事実を糊塗しようとも、真実とは刺青のようなもの。偽りの服で隠そうともそれを消す事は出来ない。お前ならば正しき道を見つけ、本当に託すべき次代へと帝国を導いてくれると信じている」
厄介な話を残してくれたと、リヒャルディスは重苦しい溜め息を吐かざるを得ない。
だが、これこそが半世紀にも渡り帝国の禄を食んできた自分が為すべき最後の奉公かもしれんなと、思い直しもした。
ともあれ、まずはヴェロニカとビョルグの事件の始末である。
マグヌス総司令への報告を終え、彼は緊急の会議を行う手筈に取りかかった。
その少し後の話である。
日々の合間に時間を作ったハーラルは、何度となく訪れているホルグソン大公家へと足を運び、シャルロッタへの見舞いに向かった。
見舞いとは名目で、目的は先だっての雨の日に行った振る舞いについて、謝罪を述べに行ったのである。
以前の事があったせいか、再びシャルロッタの体調はあまり優れぬ方に向かったらしいが、寝込むほどでもないらしく、努めてにこやかに皇帝の訪問を迎えた。ハーラルはたどたどしくも謝りを口にし、詫びに何か願い事がないかを問うと、彼女は意外にも、囚われたジェジェン首長国の御曹司を解放してほしいと訴えた。
聞けば彼女はジェジェンの御曹司ジョルトと面識があるらしく、かつて旅の途中で、彼に助けられた事があるらしい。
詳細も聞き、なるほど己よりも他人の身を案じる優しさは聖女らしいとハーラルも納得をした。とはいえ、御曹司の身柄を将来の妻にお願いされたからといって二つ返事で解き放っては皇帝として示しがつかないだろう。
今すぐに解き放ってはやれないかもしれないが、遠くない内に解放すると彼は約束した。シャルロッタからすれば少し残念だったのかもしれないが、これが精一杯の譲歩だという事も理解はしてくれているようだった。
ハーラルは今まさにその帰りであり、アケルススの城に到着したところであった。
謝罪を口に出来た事、彼女の願いも聞き届けられそうな事。
どれも悪くない結果だったせいか、このところ怒りに塗れていた若き皇帝の表情に、どことない柔らかさが滲み出ている。
さすが聖女様だと、後で臣下たちはシャルロッタを褒めそやす事になるのだが、そんな中、帰城したばかりのハーラルに総騎士長のリヒャルディスが謁見を申し入れた。
ハーラルも六騎士のヴェロニカとベルサーク騎士団のビョルグ団長が私闘に及び、許可なく鎧獣騎士を発動した事は耳にしている。おそらく総騎士長の話とはそれであろうと察しはついたし、何より今の彼は気分が少しだけ良かった。
謁見を受け容れ、リヒャルディスを玉座に招き入れる。
「失礼申し上げます、皇帝陛下」
声にほんの僅かな翳りがあったのだが、ハーラルは気付かない。
対して、傍らに侍るエッダはそれを勘付いていたが、こちらはこちらでそんな素振りを露とも見せなかった。
リヒャルディスが告げた内容は、果たしてハーラルの考えていた通り二騎士の私闘についての事であり、裁量は総司令官らに任せると事務的に答えた。
「話はそれだけか?」
冷たいような物言いだが、ここ数日の彼からすればこれでもかなりマシな方である。
リヒャルディスは機嫌をうかがうというより、何か含みのあるような間を置いて、もうひとつの目的もゆっくりと口にした。
「されば陛下。臣よりひとつご提案がございます」
「提案? 何だ、申せ」
「先の戴冠式で捕縛した者らの内、身柄を拘束したままにしているジェジェン首長国の御曹司ジョルト・ジャルマトについてですが、あの者を許してはいかがでしょうか?」
ハーラルの表情が大きく動いた。
つい先ほど、シャルロッタからその願いを聞かされたばかりで、同じ内容をこの老宿将からも請われるなど、思いもよらなかったからである。
真っ先に彼が考えたのは、総騎士長と聖女が示し合わせているのか? という疑念であったが、それは即座に否定した。両者が直接であれ誰かを介してであれ繋がっている事は考え難く、仮にそうだとしても同じ日に同じ内容を告げるなどすれば関係性を疑われるのは必然。両者共にそんな愚かな人間でない事くらい、ハーラルにも分かる。
とすれば偶然なのだろうが……。
「どうしてだ、総騎士長?」
目を薄くして、値踏みするようにリヒャルディスを見るハーラル。
言動のみならず、一挙手一投足すら見逃すまいという視線だ。
「は、元はと言えばあの者も、かのトルステン大公とオーラヴ殿下を騙りし両名にたばかられたようなもの。彼奴らに助力したのもあの者なりの義によってであり、むしろあれも巻き込まれたにすぎないと言えましょう。とはいえ、帝国を騒がせた一人であるのも事実ですが、この長期間の軟禁にて、その罪科も果たされたと考えるべきではないでしょうか。であれば、陛下の御心が大帝に相応しきである事を知らしめる為にも、あの者を解き放つのは悪しき事ではありますまい」
「ジェジェンへの外交の手札として利用する――それは如何する?」
「ジェジェンは過ぐる年のアンカラとの戦で弱りきっておりまする。立て直すのに精一杯で事を構えるなどおろか、対外的な施策にかまけている余裕すらないでしょう。御曹司の身柄を返す事は、恩を売る事になりはすれ、恨まれる事などございますまい。むしろ大きな貸しを作る事にもなるでしょう」
ハーラルは片肘をついて、しばし考えた。
リヒャルディスの言はもっともである。ジェジェンの男については、むしろ軟禁状態が長くなるにつれ、扱いを持て余していたという方が正しかった。
まあ、利用価値など後でいくらでも作れるだろうと考えて放置していたといえばその通りであり、そこに気が回らなかったのが実際である。目に見えぬ熨斗をつけて大仰に返してやれば、労せずして貸しが作れるというものだし、であれば充分役に立ったと捉えるべきであろう。
問題があるとすれば戴冠の儀に横槍を入れられたというハーラルの感情的な部分のみであるが、事件の関係者という以外に、ハーラルはジョルトの事まで腹立たしく思っている訳ではなかった。
顔を傾け、傍らのエッダに目線でどうかと尋ねる。
「陛下の御意のままに」
これに対し反対はないという答えだった。
ハーラルは視線をリヒャルディスに戻した。
「よかろう。明日の席上でそれを申すがいい。皆に異論なくば、良き頃合いであの者を解放するがいい。――あと、明日の会議は総騎士長や総司令に任せる。決まった事だけ耳にすれば、余はそれで構わぬ」
「は、かしこまりました」
恭しくリヒャルディスは頷いた。
彼は思う。やはりこの若き主君は大帝国を統べるに足る器の持ち主だと。
立て続けの変事に加え、亡き友の言葉が頭から離れないでいたリヒャルディスは、ならばと己の主君の器を量ろうと思い、ハーラルに対しジョルトの解放を提案してみたのだ。
返答如何によっては考えねばならない事もあるかもしれぬ――。
ようは己の主を値踏みしたのだが、むしろそれは疑念を振り払う結果になった。
この僅かな問答で、彼のみならず全ての帝国騎士たちが己らの心を決めたといえるかもしれない。それほどの影響力をリヒャルディス・グライフェンという老人は持っているのだ。
――トルステンの言葉が真実であろうとなかろうと関係ない。儂はこのお方を主と定める。
武辺に生きる者らしい覚悟を秘め、リヒャルディスは玉座の間を後にした。
それと共にハーラルも自室にて休むと言ってこの場を後にする。
その傍ら、一人エッダのみ残務的な処理をするためしばしその場で応対などをしていたが、やがてそれも終わり、彼女もまたしずしずと己の居室へと向かった。
その道すがら、城の回廊で何かを思いたったようにエッダが足を止めた。
しばらく瞑目するように身じろぎひとつせず、道半ばで凝としていたのだが、やがてふと前触れもなく、もう一度歩きはじめた。
――ふむ、気のせいかしら……。
誰かに見張られているような気配を感じた彼女は、何気なくそれを探ったのだが、周囲からめぼしい感触は受け取れなかった。
己に権力がある以上、監視や密偵まがいの者に尾けられる事はままあった。だからそれ自体は大して珍しくもないし、仮にそうだとしても自分には何重もの〝仕掛け〟を施してある。
そのひとつがまさに今、己の自室で待っているだろうし――もしも探られているのだとしたら――むしろ己自身を餌にし、そいつを釣り上げても良かろうと黒い策謀を巡らせる。
一方でエッダを見張る〝不死騎隊〟三番隊隊長のルーベルトは、一瞬、己の存在に気が付かれたかと身を固くしたが、どうやらそうではないと小さく安堵をする。
彼がエッダに目をつけたのは、例の団長同士の争いを起こしたオグール公国の術士が吐いた情報によるものだった。
回廊の暗がりの中、足音も静かに歩く〝黒衣の魔女〟と、それを尾行する影の騎士団の暗殺騎士。
互いにある種の闇に棲まう者同士がまみえる時、事態はどう動くのか。
この先に待ち受ける暗がりに光明があるのかすら、誰にも何も分からなかった。
本日よりお盆! という事で、告知していたお盆毎日投稿を本日から開始します!
第三部の二章もいよいよ終盤。是非期待してください!