第三部 第二章 第五話(1)『暴帝北極熊』
厚い雲が、彩度の低い景色を更に暗くさせる。
いくら春といっても、大陸北部にあるゴート帝国帝都ノルディックハーゲンでは、景色は冬のものにしか見えなかった。そんな色彩の薄い空気の下、巨大な二騎は尋常ならざる闘気を放って、向かい合っている。
一騎は北央四大騎士団・ベルサーク騎士団団長ビョルグ・スキョルの駆る暴帝北極熊の〝ヴェレス〟。
もう一騎が北央四大騎士団・ヴォルグ騎士団六騎士ことゴート帝国右翼大隊司令長官ヴェロニカ・ベロヴァの駆るギガンテウスオオツノジカの〝イアリロ〟。
二騎は同じ帝国の騎士でありながら些細な事で諍いとなり、鎧化をして対峙しているのである。帝都内であるから、当然、鎧獣を用いての決闘など禁止されている。にも関わらずであった。
ただ、諍いと言ってもヴェロニカからすれば誤解も甚だしいと言えただろうし、つまり彼女は仕方なく武装をしているだけでしかなかった。だが、ヴェロニカがきっかけを作った事は間違いなく、その点で彼女はやり方を間違ったというか、この兄妹の関係――いや、ビョルグという人間の内に潜むものを読み誤ったというべきだろう。
そのビョルグ=ヴェレスが、五又銛を突きつけて恫喝紛いに言葉を放つ。
「もし、今直ぐ武装を解いて姉上に謝罪を述べるなら許さんでもない。そうでなくば、司令長官といえどこの銛の錆になると思え」
鎧化によって増幅された声量が空気を震わす。
両者の間にいるインゲボーは、思わず身を竦ませた。いくら彼女が国家最高錬獣術師でも、すぐ目の前、こんな至近で巨大人獣が一触即発となれば、恐怖を感じるのも当然の事だろう。
だがそれでも、彼女はただ顔を青くするばかりではなく、何度も止めるよう声を張り上げていたのたが、興奮したビョルグの耳には何も届いてないようだった。
「姉上――。姉上はお退がりください。ご存知の通り〝ヴェレス〟の能力は辺りを巻き込みます」
有無を言わせぬ弟の固い意志。断固たる――というより視野が狭まっている、という方が正しいだろうが。
呆れた溜め息を漏らしたのはギガンテウスオオツノジカの人獣騎士だった。
「ビョルグ団長、貴公は何をしてるのか分かっているのか。帝都内で団長級同士が私闘をするなど、お互いにただでは済まぬぞ」
「ぬかせ。その言葉は姉上の守護騎士たる私まで愚弄するもの。いいか、貴女がヴォルグ六騎士だろうが天頂騎だろうが、それがどうした。私とて曲がりなりにも騎士団団長。その私に対し安い言説を弄しても無意味だと思え」
「そうではない。帝都内で許しもなく鎧化をするなど、どのような処罰を受けるかと言っているのだ。己の身ひとつならまだしも、お互い背負うものがあると言っている。そうなっては互いの下にいる者らに示しがつかぬと――」
ヴェロニカが全てを言い終えるより先に、ビョルグ=ヴェレスが五又銛で連撃を打ち込んだ。
だが、巨体とは思えぬ軽やかさでこの全てを躱すヴェロニカ=イアリロ。
「聞く耳を持たぬか……」
嘆息と共に巨鹿騎士が三角刃槍を構える。
諦めに似た心地だが、それでも事をこれ以上荒立てずに済む方法がないか、ヴェロニカは内心未だに諦めていなかった。
しかしそれを踏み散らす勢いで、暴帝北極熊が地響きを起こす激しさと超常の速度で踏み込んできた。
一方のヴェロニカは下手に手が出せないと、あくまで防戦一方に徹しひたすらこれを凌ぐしかなかった。
ところがヴェレスが持つ五又銛は銛という刺突武器でありながら、五又というだけあり殺傷範囲が広い。点ではなく線に等しい攻撃は、小型の鎧獣騎士に置き換えるなら、斬撃が直線で迫ってくるのと同じである。それがけたたましい速度を以て何度も繰り出されるのだ。いずれこのまま躱すのにも限界がくるとヴェロニカは判断する。
――こうなれば仕方ない。
不本意どころではなかったが、こんなくだらない理由で殺られてやるほど人間が出来ている彼女でもなかった。
ヴェロニカ=イアリロの動きと構えが不意に変わった意味に気付くビョルグ。一拍の間を置いて両者が距離を取ったところで、屋敷の方からインゲボーの声が聞こえた。
「そこまでです、ビョルグ! もう矛を収めなさい! こんな事、私は望んでいません!」
「姉上……」
先ほどから同じ言葉を何度も繰り返しているのに、ビョルグは今更ながらやっと声が耳に届いたかのような反応をした。
闘争の空気が僅かに弛みを見せる。
しかしこれを面白くないと感じたのが、先ほどいらぬ介入をした灰堂術士団の男であった。
もともと、遠くから様子を伺っているこの男が感情を逆撫でさせる状況を作り出し、強引にいがみ合わせたようなものである。彼にとって上手く運んだ現状を、こんな締まりのない形で終わらせられるのは全くもって望ましくなかった。
つまり、即座にまた術を仕掛けたという事だ。
獣使術で創りだした姿の見えない小鳥を飛ばし、それをインゲボーにぶつける。
目に見えぬ小鳥は彼女の額にぶつかると、そのまま雲散霧消した。なので感知に長けた鎧獣騎士ですら何が起きたのか気付かず、ただインゲボーが仰向けに倒れ込んだかのように映っただけだった。
「姉上!」
人獣の巨体のままビョルグが慌てて駆け寄ると、額から血を流す姉の姿があった。血といっても小石がぶつかった程度で、それほどのものでない事は見れば分かったのだが、激していたビョルグにそんな冷静さがあるはずもない。同時に萎みかけていた怒気が、火山のように再び噴きあがりをみせた。
「……っ! 何をした?!」
当然、ヴェロニカは何の事か分からない。
仲裁をしようとしたインゲボーがいきなり目に見えぬ何かに打たれて倒れたのだ。しかも決闘の最中だったため、ヴェロニカもそちらに注意を払っていなかった。
「待て。だから私は何も知らぬと――」
「おのれぬけぬけと……! よくも……よくも姉上を……二度までもっ!」
五又銛を後ろ手に構え、ビョルグ=ヴェレスは空いた左腕を突き出す恰好で腰を沈めた。
技ではない。
明らかに獣能の構え。
こんな帝都の中、しかも帝城の近くでヴェレスが獣能を出すなどしたら、どれほどの被害が周りに出るか分からない。しかしこうなってはもう止める事など出来るはずもないだろう。
まるで誰かに嵌められたかのような状況に、ヴェロニカは己の軽挙を呪った。そもそも彼女がインゲボーに詰め寄らなければこんな事にはならなかったのだろうから、それが誰かに仕組まれたものにせよ、回避する道はいくらでもあったはず。
だがそれもこれも今となっては全て後の祭りだ。
ヴェレスがどちらの獣能を出すにせよ、躱せば帝都に被害が及び、受け止めれば己がただでは済まない。
となれば方法はひとつ。
ギガンテウスオオツノジカも体勢を変えて三角刃槍を己の前に立てる仕草を取る。
お互い、獣能には獣能という事だ。
『白撃の渦潮』
暴帝北極熊の号令。
『軍衆』
ギガンテウスオオツノジカも同時に発する。
まさにその直後だった――
空気を破裂させる音を後に残し、巨大な物体が両者の間に飛び込んだのは。
瞬間――
屋敷前の広場に落雷の如き激しさで土砂が飛び散り、衝撃の余り二騎の獣能すら発動前に止められてしまう。
二騎の間合い中央に飛来したのは、巨大な板のような物体。
鋭角的で幾何学な意匠が施され、それが何であるか一瞬にして両騎が悟る。
同時に、その巨大な板のようなもの――楯――の所有者が、跳躍でその場に地響きをたてて降り立った。
「総騎士長閣下……!」
ビョルグの駆るヴェレスと同じ、暴帝北極熊の鎧獣騎士。
帝国の筆頭騎士にしてマグヌス・ロロ総司令官と並ぶもう一人の武の象徴。
総騎士長リヒャルディス・グライフェンが、人獣状態である〝ヤロヴィト〟の姿で、両者に割って入ったのだ。
「両者共、そこまでにせよ」
短い、だが有無を言わせぬ警告。
決闘する両者に、先ほどまであった血の沸き立ちなどどこへやら。引き潮の如く、闘気すらも収めさせる迫力に満ち満ちた帝国の守護神のひと声。しかし、それでもとビョルグが声を出す。
「閣下、これはヴェロニカ司令長官と私との決闘です。ここは騎士の誇りを汲んでいただき、どうかこのまま見過ごしてはくれませんか」
「二度言わせるでない。理由がどうあれ、この諍いはここまでじゃ。もしまだ争いを続けるというなら、二人まとめて儂が相手をしてやる」
総司令官職も兼任した事のある、生ける武神だ。
彼の暴帝北極熊は〝泰山英傑〟と呼ばれ、かつてはイアリロと同じく三獣王に列せられた伝説的鎧獣である。
その老英傑を前にすれば、ビョルグとて青二才も同然。これ以上何も言えるはずもなかった。
「分かったら二人とも鎧化を解け。そのまま互いの屋敷に戻り、追って沙汰が出るまで謹慎とする。丁度総司令官閣下も戻ってきていらっしゃる。すぐに呼び出されようがそれまで大人しくしておけ」
元よりヴェロニカに戦う意思はない。むしろ状況的には最悪の一歩手前といった結果だっただけに、ほぞを噛む思いですらあった。
しかし今の事態に幕が下ろされるならば彼女に異議などあるはずもなく、躊躇せずイアリロの鎧化を解除する。
これを目にしたビョルグもまた、内心で唇を噛みながらではあったが、やがて渋々とヴェレスの鎧化を解いていった。
その後、立て続けの凄まじい乱入に、倒れていたはずのインゲボーも目を覚ました。
リヒャルディスの登場に一瞬目を剝いたが、武装を解いたヴェロニカとビョルグを見てどうやら事態は収拾したようだとホッと胸を撫で下ろす。
が、それでもやはり気に喰わないのは事件を起こした真犯人だった。
屋敷から遠く離れた茂みに身を潜める、灰堂術士団の男である。
折角、あともう少しで甚大な被害を出せると期待したのに、予期せぬ闖入者で有耶無耶にされてしまうなど腹立たしさしかない。
「白けるジジイだぜ。こうなったら、もう一丁カマしてやるか」
声に出して三度目の介入を目論もうとする。
しかし愚かな策士は策に没頭するあまり、実は己の身にこそ火が付いているなどまるで気付かずにいたのだった。
再び獣使術の準備をする灰堂術士団の男。すると、不意に彼の手元に暗い翳りが落ちた。
先ほども言ったように、北の帝国領では春先であれど曇天に隠れて太陽など見えない。ならば翳りは陽の光が隠れたからではなかった。
男が頭を持ち上げて視線を巡らせた先。すぐ目の前に、暗紫色のローブに身を包んだ長髪の男が立っていた。
いつ? 誰だ?
疑問が立て続けに頭を掠めようとしたが、それより早く灰堂術士団の男は首の後ろに強い衝撃を受け、その場に昏倒する。
暗紫色のローブの前にまたいつ表れたのか、背の低い暗蒼色のローブが立っていた。
「連れて行け」
暗蒼色のローブが言うと、長髪の暗紫色のローブが頷き、灰堂術士団の男を軽々と担ぎ上げる。
「報告は?」
「吐かせてからだ。せいぜい鳥のように鳴くだけ鳴いてもらおう。それからでいい」
長髪が短く答礼すると、二人は音もなくその場から消え去った。
……まさか暗躍して事件を起こしたその本人が、別の者らに見張られていたなど、当人すらも気付かなかったのであろう。
彼を攫ったのはハーラル皇帝の命を受けた暗殺騎士団〝不死騎隊〟。
この愚者の齎した混乱により、事態は更に色の見えない未来へと進んでいく――。
もうすぐお盆! という事でGWに続き今回も毎日投稿を実施致します!
13日から4日間
最終の16日には追加の設定集(キャラ設定 イラストあり)も掲載予定です
よろしくお願いします!!