第三部 第二章 第四話(4)『氷虎帝』
大いに喜ばれると期待した使者であったが、テンペラ画のように動かないハーラルの表情を見て、小さくない焦りと思慮をはかりかねたかもという狼狽で、顔が引き攣るのを抑えられないでいた。
どういう事かは分からない。しかしエール教教皇からの正式な申し出の意味が分からなかったのではと、再度同じ内容を告げようとしたのだが、「それはもう聞いた」とにべもない声でぴしゃりと遮られる。
虎の尾を知らず知らずに踏んだのではと、滝のような冷や汗をかく使者を興味無さげに見つめつつ、ハーラルは傍らのエッダに問いかけた。
「どうしたものかな」
エッダは満足そうに頷きながら、恭しく一礼する。
「何かご案じめさる事がおありでしょうか。誠に結構なお話と臣は考えまするが」
「その称号をこうも軽々に受けて良いものかという事だ。余はそれほどの実績を残しておらん」
「先だって陛下が降したのは、あの武名高き〝恐炎公子〟。百獣王の高弟です。それに、過ぐる年より陛下の武名は近隣諸国に轟いております。三獣王の称号を戴くに、何ら不足はないかと思いますが」
エール教よりハーラルに齎されたのは、二代目人虎帝――即ち三獣王の称号を贈るという話であった。
先年、メルヴィグで起こったクルテェトニク会戦で三獣王の一角〝獣帝〟が百獣王に倒され、座のひとつは空席となっている。そこで、エール教教会は箔付けと帝国との関わりを密にする意味も込めて、ハーラルにその名を与えようと申し出たのであった。
無論、エッダの言った通り、ハーラルの武功はそれを受けるのに何ら差し支えない。戦績だけなら連戦連勝常勝不敗である。となれば、もしこれを受ければ正にかつての〝人虎帝〟クヌートの再来となり、国内、中でも帝国軍の士気が大いに高まる事は必至だった。
だがこれを耳にしても、何故かハーラルは手放しで喜ぼうとはしなかったのだ。
「陛下のご実績は、三獣王と呼ばれるに何ら不足はございません。それに陛下であれば、これからも無敗で居続けるのは必定。受ける理由はあれど拒む理由などないかと存じまするが」
「マグヌスがおる」
「はい?」
「常勝無敗。我が国の守護神。帝国の英雄。かつて三獣王を倒しながらもその号を受けなかった我が国きっての騎士。マグヌス総司令と余なら、真に相応しいのは彼奴であろう」
二五年以上前、三獣王〝獣剣公〟を倒し、いまだ大陸に敵なしと言われる最強の騎士。
総司令官マグヌス・ロロ。
当時より三獣王の号に相応しいのはマグヌスと言われ続けていたが、彼はこれを固辞している。だが、百獣王や黒騎士と比べても、彼の武名が何ら劣らないのは誰もが頷くところであった。
となれば、そのマグヌスを差し置いて三獣王と名乗るのは、いかに皇帝といえどおかしかろうとハーラルは言っているのだ。
「確かに総司令閣下は歴戦無敗の大将軍。しかれど陛下――もしもの話と含みおきくださればでございますが――もしも陛下と総司令が剣を交えたとして、陛下が負ける事は万に一つも有りませぬ」
「余がマグヌスに勝つだと? 己の実力ぐらい分かっておる」
「いえ、そうではございませぬ。マグヌス閣下は生粋の帝国武人。いかなる事があれど主上に対し剣を向ける事など絶対にないでしょう。ですから陛下が陛下である限り、マグヌス閣下が陛下に勝つ事はないのです。その証拠に、総司令閣下は以前よりこの世で戦いたくない相手が三人いると仰せでしたが、その内の一人が陛下なのです。となればいかがなりましょうや。マグヌス閣下を除けば陛下と武を競える者が他におりましょうか?」
「ふむ……」
ハーラルはそのまましばし沈思した。
エール教会の使者からすれば、どれだけ心地良くない時間だったかは想像に難くない。
一方で説明をしたエッダは、薄い笑みを顔に貼り付かせてそれ以上何も語らなかった。彼女にしてみれば、ハーラルがこれを受けようが受けまいがどちらでも良かったのだろう。目出たい話だから反対する理由がないだけで、それはハーラルとて似たようなものだった。
しばらくして、おもむろにハーラルが口を開いた。
「〝人虎帝〟というのが気に入らぬな」
「は……?」
エール教会の使者が、意味をはかりかねて首を傾げる。
「二代目〝人虎帝〟――クヌート帝は偉大だが、余がその後塵を拝するというのが気に喰わぬ。余は余。百獣王なら先代から今代へと継承もされれば鍛えられもしているから分かるが、余がクヌート帝より何かを学んだわけではない。余は己の力のみで今の力を得た。だから二代目になるというのが気に喰わぬと申しておる」
「は、はぁ……で、では、ご辞退なされると……?」
「そうは申しておらぬ」
そう聞いて、使者は少しだけ安堵した。今回の三獣王の話は、政治的な色合いも濃くあったからだ。
現状、大陸での力関係はアンカラ帝国が敗れた今、ゴート帝国の一人勝ちと言わざるを得ない。版図もそうだが国力もかつてないほどに富み、諸国が大国間の争いで疲弊した今、まさに敵なしと言える状況なのだ。
となれば、そこに確固たる地位を築くのは勿論、最近ではエール教を脅かしつつある黒母教への牽制という意味合いも大きかった。
だから皇帝が断ると言えば、使者としての面目は丸潰れになってしまう。
「でしたら陛下、別の号にすればいかがでしょう?」
「別の? ふむ。例えば何かあるか」
エッダの提案に、使者も顔を輝かせる。
貴人の威圧に打たれているというのもあるだろうが、実に分かり易い男だな、とハーラルは興味の欠片もない目でチラリと見た。その冷たいまなざしに触発されたか、使者も勢い込んで自ら別案を口に出す。
「あの……例えば氷の皇帝――氷虎帝、などはいかがでしょうか?」
言った後、おそろしく冷め切った瞳を向けられ、思わず上擦った悲鳴をあげそうになる使者の男。
「そ、その、この北の大帝国を統べる皇帝陛下という意味を込めたつもり……で、ございます」
語尾が徐々にか細くなり、そのまま使者は顔を俯かせる。言った後、これは失言の類いだったかと、にわかに顔を蒼くさせたが、もう遅い。
ところが玉座に座る若き皇帝は、意外にもこれに頷きで返した。
「氷虎帝か。ふむ、人虎帝にもかかっておるし……悪くはないな」
「はい。陛下のティンガルボーグを示しているようで、実に良い響きかと思います」
エッダも追従の言葉で同意する。
「ならば使者殿、号は〝氷虎帝〟という事で教皇猊下にうかがってくれぬか。それで問題なくば此度の話、ハーラル慎んでお受け致そう」
「は、はい! 問題などございませぬ。早速にも戻り、猊下に言上仕ります!」
冷たく威圧に満ちた反応に竦み上がっていた使者は、喜びの余り見えぬ尻尾を盛大に振っているようで滑稽ですらあった。
さて、後は正式に教皇からの承諾が下りれば、ハーラルは三獣王〝氷虎帝〟と名乗る事になり、栄えある二人目の偉大な騎士皇帝として、その名を歴史に刻まれるであろう。
喜ぶエッダや家臣達とは別に、ハーラルはそれに何の感慨も湧いてこない。彼の頭にあったのは別の事である。
そのひとつを明らかにするため、ハーラルは皇帝しか入る事を許されぬ帝城奥の間の一室に足を運んだ。
そこは先に話題にものぼったクヌート帝によって作られた別室。
とある者達に指示を出すため誂えられた地下の間である。
ハーラルが来ると、音もなく燭台に火が灯され、奥行きの見えぬ空間にいくつかの不気味な影が浮かび上がった。
「ご足労賜り、誠に恐悦至極に存じます」
闇の中、影の中央にいた一人――暗い色の赤毛の男が恭しくかしずいて皇帝を出迎えた。
「久方ぶりにお主らの手を借りたい。良いか」
「は、何なりと仰せくださいませ」
「我が母がソーラ・クラッカに殺された。それが本当に奴の手によるのか。何の目的なのか。それを調べて欲しい。出来るか?」
赤毛の男が顔を上げ、少し眉をひそめる。不敬な態度にもなろうが、彼らと皇帝との関係は、一般のそれとは少し違う。
「我々で宜しければ。ですが、そのような事は〝表〟の者どもらで事足りるのでは……?」
「気になる事が少しあってな……。余の与り知らぬところで動いている何かがあるのか。それを知りたいのだ。それには誰の手の者でもない、お主ら〝不死騎隊〟が適任だと思うてな」
不死騎隊一番隊隊長エドヴァルドが、胸に手を当てこれを受ける。
「御意。ならば早速、お調べ致しましょう」
「任せたぞ」
帝国の影の騎士団。
内部粛正を専らとした不死騎隊ならば、隠密調査にも優れていようとハーラルは考えたのだ。
マグヌスにはソーラの件で反駁したが、やはり彼も気にはなっていたのだ。
ソーラ・クラッカという男がどういう男かを思い出せば、どうにも納得のいかない事件ではあると。しかし、冷静になれぬ自分もいれば、周りもこれに疑問を抱いていないようにも感じられ、どうにも収まりの悪い心地をずっと抱えていたのだ。
そこで、身動きの取れぬ皇帝ならではの手で、独自に事件の背景を探ろうと考えたわけである。
この翌日、今度は別の者を呼び寄せ、ハーラルはとある相談をする。
彼女と会う時は人払いをする事が多く、この時もエッダすら席を外され、二人だけで話をする事になった。
しかしエッダはこれに対し、特に何も思っていない。むしろ喜ばしいとさえ思っていた。何故ならこの女性と二人で会う時は、そのほとんどが銀の聖女に対する相談事であったからだ。
「謝罪――でございますか?」
意外すぎる単語を聞かされ、国家最高錬獣術師インゲボー・スキョルはにわかにどう答えればいいか判断に迷った。
「ああ、うむ。その、何だ。お主は聞いておらぬのか、シャルロッタに。この間余が訪れた日の事を」
「ああ、あの雨の日の……。いえ、特には何も……」
シャルロッタの様子がおかしかった事には気付いていたが、彼女から何も喋らぬ以上、インゲボーは特に問うたりはしない。とはいえ、やはり何かあったんだとハーラルの一言で察しを着ける。
「聞いてないなら、いい。で、その、ひょっとして、シャルロッタが余の振る舞いに嫌な思いをしたのではないかと考えてな。もしそうなら謝っておきたいと思うのだが……。こういう時、女性に対し謝るにはどうすればいいか……その、そういう経験がないから……知恵を借りれればと思ってな」
この話題になると、いつも決まってハーラルの歯切れは悪くなる。
苛烈な恐ろしい皇帝ではなく、どこにでもいる若い青年になるのが、インゲボーにとっては少し面白くもあり愛らしいなと思えるところであった。
「そこはもう素直に、済まなかったで良いのではないでしょうか」
「そんなあっさりとした言葉で良いのか? 良い訳がなかろう。嫌な――嫌な思いをしたのならだが――そんな思いをさせられて、あっさり一言で済ますなど、許されるのか」
「でしたら――」
そこでふと、インゲボーはある閃きを思いつく。これはもしかして、と。
「何だ?」
「でしたら陛下、聖女様に何か望みはないかと尋ねてみてはいかがでしょうか」
「望み?」
「はい。言葉でいくら謝るよりも、行動で示した方が謝罪の念は伝わるものにございます。ですから、聖女様の願いをお聞き届けあそばせば、よろしいかと存じますが」
「望みを聞く……なるほど」
別に大した事を聞かされたわけでもないのだが、真面目にかつ大袈裟にハーラルは考え込む。
いつもならこれをにこやかに見ているインゲボーだが、この時は導き出される結果に、少なからず緊張をしていた。
「ふむ、確かにそうだな。妙案だ。いつもお前の言葉には大いに助けられている。感謝するぞ」
「滅相もございません。お役に立てて光栄にございます」
深々と一礼し、満足げなハーラルのもとから退去するインゲボー。
表情は強く隠していたが、己の心臓の高鳴りが耳にも届きそうなほど、内心は別だった。
これは千載一遇の機会に他ならない。彼女は周囲に不審がられぬように細心の注意を払いながら、それでも急いでシャルロッタのいるホルグソン大公家に向かった。
目的はひとつ。
ハーラルからの問いに、ジョルト・ジャルマトの解放をお願いするのだと伝えるためであった。