第三部 第二章 第四話(3)『片恋片想』
夕食の後、もうここも引き払うべきだと考えたムスタとマリオンは、身支度を含めた方針を色々と話し合った。イーリオとアネッテも加わったが、細かな事は大丈夫と言われ、昼間の修行疲れをとる意味でも、甘んじて休ませてもらう事にした。だが、それはそれでまた黒騎士の言葉をイーリオの脳裏に呼び起こさせる。
ムスタは帝国の事情など考えんでいい、イーリオには自分の思う通りにだけ進めと言ってくれた。
頼もしくも優しい父の言葉。
同時に
――だからお前は何も出来ない。
そんな呪いの囁きが頭を離れない。
師匠であるカイゼルンは、誰かに頼るのか?
頼られる事はあっても、あの人は誰にも頼らないだろう。ジョルトやレレケも頼りになる人間だが、果たして彼らは誰かを頼るのだろうか?
彼らもまた、カイゼルンのように頼るのではなく頼られる存在だから強いのではないのか。
とすれば、自分はどこまで行っても弱いままだ。
ここにいる事すら、弱さから目を背けている事に他ならない。温かな仲間や身内の情に甘え、孤高の強さを手に入れようとしない、情けない人間――。それが自分なのではと考えてしまう。
心が掻き乱されたままで休もうにも休めないイーリオは、何の考えもなくザイロウのいる厩舎に足を運んだ。
ザイロウも寝付けないのか。それとも額に着けられたトレモロ・ユニットに違和感があるのか、イーリオが来るのを見越していたように、顔を上げてこちらに視線を向けている。
黄金の瞳は何も語らないし、口は堅く閉じたまま、欠伸一つ見せず高貴にさえ見える顔のままだった。
「お前……そんなにおじいちゃんだったんだな。父さんと同じくらいに思ってたよ。人間にすると」
チラリとも目を向けず、横に座るイーリオに身体を寄せもしない。だが、拒みもしなかった。
「お前に頼る事も……弱さなんだろうか。僕はどこまでも、弱いままなのかな……」
すると、その言葉に不快感を示したかのように、ザイロウが鼻面をしかめておもむろに首を振る。ぶるりとした顔で、上体を浮かせていたほどだ。
「ザイロウ……?」
愚痴をこぼす主を情けないと思って忌避したのか。
騎獣にまで呆れられるとは思わなかっただけに、軽いショックを受けそうになるイーリオ。そこへ、厩舎の向こうから自分を呼ぶ声がした。
「イーリオ? イーリオ、そこにいたの?」
厩舎に姿を見せたのは、幼馴染でゴゥト騎士団副団長のアネッテだった。
手にバケットのようなものを持っており、簡易だがレースの付いたエプロンを身に着けている。
「ああ、うん。どうしたの、アネッテ」
「その……夕食の時からさ、何だかイーリオ、元気がないっていうか、塞ぎ込んでるみたいだったからさ。その……そっちに行っていい?」
アネッテが足を一歩踏み出そうとすると、何故かザイロウが身体を離した。どういう意味か分からないイーリオだったが、不思議がりながら自分がそちらに行くと言って場所を移した。
屋敷の外。昼間の曇天とは打って変わった星空の下で、二人は叢に腰を下ろす。
「何かあった?」
「そんなに表情に出てたかな……」
「出てたよ。伯母さんもムスタおじさんも放っときなさいと言ってたけど、何かやっぱり放っておけなくて」
暗がりなので、彼女の頬の色まではイーリオに見えない。見えたとしてもイーリオが気付くかどうか分からなかっただろうが。
「もし、あたしが力になれる事だったら、何でも言ってね。あたしはイーリオの力になりたいの」
言葉だけならある種の告白に聞こえただろうが、今のイーリオには別の意味をもって聞こえてしまう。
自分は幼馴染にさえも、頼ってしまうのか、と。
父もおばさんもアネッテも力を貸してくれてるが、このままではまた前の繰り返しだ。本当の強さなんて遠いし、ハーラルに勝つ事なんて出来やしないだろう。
だったら、今直ぐ一人でここを発つべきではないのか――。
「……ある人に言われたんだ。僕は、一人では何も出来ない弱い人間だと。だからシャルロッタを取り戻せなかったし、みんなも巻き込んで苦しめるんじゃないかって。本当は、一人で立ち向かえる強さがないといけないのに、僕は未だに……。だからごめん。僕はもうこれ以上、父さんや君の助けを借りるべきじゃないのかもしれない」
思いがけぬ独白に、アネッテは驚きもあったがそれ以上に悲しい表情を浮かべる。
イーリオの矜持。それは身勝手な青年の独りよがりなのだろうが、その事を諭せるほど、アネッテも人生に熟れていない。
ただ、彼女には彼女にしか言えない言葉があった。
「ねえ、覚えてる? あたし達が小さかった時の事。苛められて泣いてるあたしを、いつもイーリオが助けてくれた」
「うん」
「イーリオ、アネッテは僕が守る、っていつも言ってくれてたよね」
それは、マリオンおばさんからの言葉をイーリオが忠実に守ろうとしたからなのだが、アネッテにとっては別の意味を持っていたのだ。
「でもさ、おばさんが別の場所に移るってなって、離ればなれになった日、悲しくって辛くってとっても泣いたの」
「うん。まだちっちゃかったからね。僕も別れるのが辛くって、泣いた」
「あの時さ、あたしあんなにイーリオが泣いたの初めて見てさ、ああイーリオに心配かけちゃ駄目だって思ったの。だからあの時こう言った。あたしも強くなる、今度はイーリオを守れるくらいあたしが強くなるって」
幼い日の思い出。
淡い色褪せた記憶。でも覚えている。
そうだ、あの時だって自分は――
「そしたらイーリオが言ったんだよ。駄目だ、って」
「え? 駄目?」
そんな言葉を言っただろうか。
記憶の中の言葉が、曖昧だった。
「アネッテは僕が守る。これからも。だから強くなっても僕は守らなくていい。どんな時でも必ず僕が守ってあげるからって」
「ああ、そう言えば……」
そうだったかもしれない。でも幼い時の口約束なんてよく覚えているなあと、イーリオは感心してしまうだけだった。
「あたしさ、その言葉があったから騎士になれたんだ」
「――え?」
「騎士なんてなれるのかって周りは心配っていうか反対したんだけど、どんなに辛くなったって挫けそうになったって、きっとイーリオが守ってくれる。あたしがもう駄目だって思ったら、イーリオは駆けつけてくれるんだって思えたの。だから何も怖くなかったし辛くなかったんだ」
無責任で幼いだけの自分の一言が、彼女をここまで変えたのか。
イーリオは、何だか別の誰かの話を聞かされているようだった。
「だからね、イーリオ。あたしはイーリオに感謝してるし、イーリオが弱いだなんて全然思わない。誰が言ったのか知らないけど、そいつ、イーリオの事何にも分かってないんだろうね。ただの馬鹿だよ。そんな奴の言葉なんて気にしないでいい。だってイーリオは、今でもあたしに力をくれてるんだから。きっとさ、あたし以外にもいると思うよ。イーリオがいたから頑張れた、戦えた、力になれたって人が。おじさんだって伯母さんだってそうだよ。騎士を引退したのにわざわざ訓練してまで復帰したのは、イーリオがいたからだよ。イーリオに力を貸したいって人は、イーリオがいたから力を持てたって事じゃないのかな。あたしはそう思う」
そんな風に考えた事のなかったイーリオは、しばし呆気に取られた顔をした。
自分という存在が、ただ頼ってるだけの非力なだけではなく、自分が人に力を与えているかもしれないだなんて、まるで想像もしていなかった。
同時に、黒騎士を――そうとは知らないからだが――馬鹿と斬り捨ててしまうアネッテに、イーリオはおかしみを覚えて吹き出してしまう。
もしそれを言った者が黒騎士だと知ったら、アネッテはどんな顔をするだろうか。いや、それでも彼女は黒騎士に対し馬鹿だと言うんだろうなと思えた。
思えたらまた、余計におかしくなって笑ってしまうイーリオ。
「え? 何? 何で笑ってんの? ちょっとお、人が励ましてるのに、何で笑うのよぉ」
予想外の反応をされたアネッテは、恥ずかしさに顔を赤くしながら口を尖らせて抗議をあげる。
「いや、ごめん。違うよ、今ので別の事を思い出しちゃって。ほんと、ごめん」
笑顔の涙目を拭いながら、イーリオはにこやかに謝罪する。その涙が笑いから浮かんだものにしては大きな笑いでなかった事を、アネッテは気付かないでいた。
「でも、ありがとう。うん、もうさっきの考えはなしにする」
「……まあ、イーリオが元気になったんならそれでいいけどさ。これだって意味がなくなっちゃうし……」
「ああ、そうそう。それ何? さっきから気になってたんだけど」
横に置いてあったバケットを指して、イーリオが問う。バケットの上には柔らかな布が被せてあり、中は見えない。
何故かアネッテは少し恥ずかしそうに、おずおずとバケットを手に持った。
「その、ね。元気がないんなら何か元気が出ればいいかなぁって思って……。ちょっと作ってみたんだけど」
被せていた布を外すと、えも言われぬ香りがイーリオの鼻孔をくすぐった。
いや、訂正しよう。何とも言えない匂いが、イーリオの嗅覚を痛打した。
「これ……」
「簡単な焼き菓子なんだけど……良かったら食べてみて」
焼き菓子なんだ、とイーリオは表現に困って絶句する。
炭化しているのもあればどうやら生焼けに近い粉のかたまりのものもある。どこをどうすればこんな不揃いな出来になるのか。いや、そもそもこれは菓子でいいのか。
何か見た事のない新種の物体ではなかろうかと考えたところで、イーリオは思い出した。
アネッテは小さいときから恐ろしいほど料理が下手だった事を。
ゴートの貴族女性は、一般的な嗜みとして幼い頃から料理を覚えさせられる。料理は貴族女性にとって当たり前の教養だというのがこの国の風習なのだ。
ところがアネッテは、致命的なまでに不器用で、どうやっても料理が上手くいかないときていた。
まあそれもあって、苛められていたのだが……。
しかしまさか、大きくなった今でも、腕前がそのままだったとは――。
――い、いや、味はひょっとしたらいいのかも……。
でなくばこんな風に出してきたりしないだろうと思い直す。
不安げに見つめる幼馴染の瞳。
可愛い妹のような彼女が一生懸命に作った手料理とあらば、頼られる兄的存在の自分としては拒む事など出来ないと、イーリオは小さく首を振る。
「イーリオ?」
「あ? うん? いや、何にもないよ。ちょっとね、虫が飛んできてね」
誤摩化してから、勢いで思わず菓子のひとつを手に摘んでしまう。
それを口に近付ける時、生唾を呑み込む音がやけに大きく響いたように思えた。
そのまま勢いに任せて、手に取ったひとつを口に放り込むイーリオ。
噛み締めた時、口中に広がるかつてない味覚に対する暴動が、思わず盛大な咳き込みをさせた。
「ゥゲェッホッ!! ゲホッ! ゲホッ! ゲホッ!」
「だ、大丈夫?!」
涙目になってるイーリオに動揺と心配をした後、アネッテは悲しい顔になって落ち込んだ。
「やっぱり駄目だった? 伯母さんにも止めた方がいいって言われたのに、これなら自信あるからってあたし……。未だに料理が下手なままで……ごめんなさい」
下手だという事に自覚があったんだという驚きと、これが自信作だという事実とが相まって、イーリオは一瞬かけるべき言葉を見失う。同時に、さっきザイロウが顔を顰めて離れたのは、この菓子のような物体のせいかと気付く。
――あいつめ……。
いや別にザイロウは悪くないのだが、イーリオは無性に文句を言いたくなった。
「ごめんなさい。力になれたらって思ったのに、こんなの……」
アネッテが泣きそうになっている事に気付き、イーリオは顔を青ざめさせていたものの、ある決心をした。
「ち、違うんだ。ただ咽せただけだよ。アネッテの料理が不味いわけないだろう」
「もういいよ。そんな気遣いまでさせて」
「違うったら。ほら」
そう言って、再度焼き菓子モドキの何かを、口に入れるイーリオ。
アネッテが目を丸くして驚く。
「ちょっ……そんな無理して食べたら――」
「無理してないって。ほら」
口に入れた物体を無理矢理呑み込んだ後、イーリオは三つ目に手を伸ばしてこれも食べはじめる。
咀嚼する度、あの世とこの世を彷徨うような心持ちだったが、何とかイーリオは現世にとどまり続けた。
「ああ、美味しいなあ」
「ほ、ほんとに……?」
「本当だよ。だからもういっこ貰っていい?」
今自分は、ハーラルや黒騎士と戦った時よりも、死神が間近に来てるんだろうなと感じる。多分、お菓子の世界の死神だろうが。
信じられない表情のアネッテだったが、続けて三つも平らげて四つ目に手を伸ばそうとするイーリオに、彼女は嬉し涙をこぼしながら満面の笑みを浮かべた。
……ちなみにイーリオは、この後盛大に腹を壊して出発を遅れさせるは、それで結局アネッテをしょんぼりさせるは、ムスタから阿呆だと言われるはで散々な目に合う事になる。
体内に重いものを感じつつ、イーリオはそろそろ休もうかと言ってアネッテと共に屋敷へ戻ろうとした時だった。
ザザっという気配がしたかと思えば、昼間の襲撃の報せを思わせる突風で、彼らの前に宵闇の向こうから巨体の影が躍り出たのだ。
それはバーナードウルフの人狼騎士。
五名いるクラッカ団の護衛ではなかったが、同じ団の騎士という事は一目で分かった。
バーナードウルフが「蒸解」と発し鎧化を解くと、白煙からはクラッカ団の男――前にムスタに話しかけていた――ヤンクが姿を見せた。
「貴方は確か……」
「すんません、夜遅くに騒がせちまって。クラッカ団副官のヤンク・アリモシュです。急いでムスタさんに報せたい事があって来ました」
張り詰めた顔のヤンクを見て、イーリオは胃の不快感を押し殺しながら急ぎ父のもとへと彼を案内した。
夜も更けた中だったが、ヤンクの告げたクラッカ団への襲撃や皇太后暗殺を聞き、一同はやはりすぐにも発とうという事に話は固まる。しかし先ほどのような理由で、結局出立は朝どころか昼近くにまで時を待つ事になってしまった一同。
ムスタから呆れた小言を喰らったのは既に述べたが、人間達の話を分かっているのか、何故かザイロウからも冷たいまなざしを受ける事になるイーリオ。
昨晩は温かな言葉で勇気を貰ったが、どうにもしまらないはじまりだとイーリオがげんなりとした顔を浮かべていたのは言うまでもなかった。
「面白い!」
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