第三部 第二章 第三話(4)『秘慕情』
右、左。下。右。
変則的というより目視出来ぬほど鋭く繰り出される攻撃に、イーリオは躱すだけで精一杯のように見えた。だが、そこは最強の騎士〝百獣王〟カイゼルンに鍛えられた身だ。
手が出せないようで、どれも擦りもしていない。
やがて先に音を上げたのは、攻撃側のアネッテの方だった。
「ねえ、さっきからどういうつもりなの? あたしが女だから手を抜いてる、なんて言わないわよね」
頬を膨らますアネッテの手に、木刀が握られている。その可愛げな表情に、イーリオは困った仕草で後頭部を掻いた。
「いや、凄い剣捌きだ。躱すのが精一杯だよ。さすがゴゥト騎士団の副団長だね。ほんと、びっくりした」
「何その取って着けたような感想」
「いや、本当に凄いって」
マリオンの屋敷に来て二日目。
ザイロウはムスタに預け、イーリオは身体が鈍るといけないからと庭で稽古をしていると、アネッテが自分も一緒にとはじめたのだ。そのまま、軽く手合わせとなったのだが、やはりそこはイーリオの方が上手だったらしい。
「……その、さ」
「うん?」
「聖女様の事なんだけど……。イーリオはほんとにまだ、取り戻すつもりなの」
「え? それって……どういう意味?」
自分から尋ねておきながら、アネッテは視線を外して顔をそむける。
「その、取り戻したいって言ってもさ、聖女様には嫌だって言われたんだよね? 直接。それでもまだ、取り戻せるって思ってるの?」
「それは……正直、分からない」
「分からないのに行くの? 命懸けで?」
「そう、なるかな」
「何それ。馬鹿みたい……」
言った後、ハッとしてアネッテは益々顔をそむけた。
「馬鹿だよね。うん、自分でも馬鹿だなあって思う。でも、あんな風に言われたけど、シャルロッタは悲しい顔で――見た事のない悲しい顔で言ったんだ。きっと、今も彼女は泣いていると思う。……だから僕が、泣き止ませてあげないと」
「あたしには分かんない。……ほんとに馬鹿みたいだね」
そっぽを向いたまま、溜め息をつくアネッテ。
イーリオの角度からは見えぬ瞳に、彼女なりの感情の色が見え隠れしている事を、彼は気付いていなかった。その事を安堵するべきか悔やむべきか。若きアネッテには、分かるはずもないのだろう。
ともあれ、人生とは積み重ねていく後悔と経験の数に比例して豊かになる事を、若者達はいずれ知る事になる。それもこれも、全ては年を重ねて振り返る事であり、当座の若者たちには関係のない話であった。
「そういやさ、アネッテは自分の鎧獣も連れて来てるんだよね」
「え? うん」
「ゴゥト騎士団って事はアイベックスの仲間なのかな? 良かったら見せてくれない?」
「うん。いいよ」
話が変わった事で、アネッテは密かに胸を撫で下ろしていたが、同時に自分も気付かぬほどのチクリとした痛みも、心の中に覚えていた。
二人が屋敷裏手の鎧獣厩舎に向かうと、そこにはザイロウの前で何かをしているムスタの姿があった。
「父さん、ザイロウの調整?」
「お、うむ……まあそんなところだな」
膝をつくムスタの手には、穴の開いた装飾的な輪っか状のものが握られていた。それを試すすがめつしつつ、ザイロウの神之眼に触れ、何度も何かを確かめる素振りをする。
「何をしてるの?」
「あん? だから調整だ。コイツを使えるようにするためのな」
手に持つ輪っか状のものは、イーリオもどこかで目にした事のある形だ。いや、そのもの自体は初めてみるが、これに類するものを何度も目にしている気がする。
そうだ、つい最近も見た。
あの敵たち。それにレレケの使う――
その時、突風の勢いで屋敷の裏手に大きな影が突如として舞い降りる。
気配に気付いた時には、もう影は目の前。
人間の知覚で認識するのは、どだい無理という証だろう。
それはシンリンオオカミの鎧獣騎士。
この屋敷の周囲で、警戒の任のため残っていたクラッカ団の内の一騎だった。
人狼騎士は、焦りも露に急いでまくしたてる。
「みなさん、敵襲です! 周囲の〝結界〟が突破されました。間もなくここが襲撃されちまいます!」
敵襲。
イーリオも、にわかに総毛立つ。
何より、この屋敷が人目に触れる事のないよう張り巡らされた結界が、こうも早く突破されてしまうとは、ムスタですらも少々驚いていた。
ちなみに結界とは、何か超自然的な力によるものや、魔術的な仕掛けなどでは当然ない。この場が見つかり難くなるよう、天然自然を利用し、複雑な迷路を、屋敷の周りに形成している――その迷路を指して、結界と呼んでいた。
「もう居所が見付かったとは。思ったより早いな。あれか、オグールの鎧獣術士というヤツだな。……全くホーラーの奴め、厄介なモノを発明しおって」
ボヤくムスタだが、表情に切迫したものはない。
反対にクラッカ団の人狼騎士はあちこちが傷付き、血を流している。当然、伝わってくる切迫感が違っていた。
そして既に戦闘はあったという事も示していた。
「父さん、ザイロウは?!」
すぐさまザイロウを出して迎え撃とうとイーリオが尋ねるが、ムスタは首を振って否定する。
「調整がまだ済んどらん。今出してみろ。儂が怒る」
「そんな」
「心配いらん。ここは儂が――」
ムスタが膝を伸ばして立ち上がろうとする。しかしその前に、イーリオの後ろから活発な声が響き、軽やかにそれを押しとどめた。
「ここはあたしの出番ね。ムスタおじさんもイーリオも、見てるだけで大丈夫」
言うや否や、厩舎に向かうアネッテ。
「え、アネッテ。でも――」
「これでも騎士団の副団長なんだから。それにさっきイーリオも言ってたじゃん。あたしの鎧獣が見たいって。だったら鎧化も一緒に、直接見せてあげるよ。それと、あたしの実力もね」
だが、イーリオが気にしたのは彼女の実力などではなかった。
振り返り、クラッカ団の騎士に尋ねるイーリオ。
「襲撃ってもしかして――ゴゥト騎士団、ですか?」
人狼は深く頷いた。
「はい。ゴゥト騎士が二〇騎に、グリーフ騎士が一〇騎。しかもグリーフには〝三獣士〟まで来てます」
「そんなに……」
数もそうだが、同じ騎士団の連中を相手に、アネッテは果たして戦えるのか。仮にも部下であり仲間である者らに手にかけるというのだ。
先ほど訓練で使った木刀は野に捨てられている。
厩舎に消えた幼馴染の姿に、イーリオはわずかな不安の目を向けざるを得なかった。