第三部 第二章 第三話(3)『不帰雨涙』
――今より二六年前。
現在の帝国総司令官マグヌス・ロロが、二七歳の若き時代。
この時、既に彼は当時の国家最高錬獣術師ホーラー・ブクより古代北極羆〝ウェルーン〟を受け取り、押しも押されぬヴォルグ六騎士の一人として近隣諸国にまで武名を轟かせはじめていた。更にその武功から、筆頭騎士を叙任したばかりの頃でもある。
ある時、彼は帝国の名代として当時はまだ隣国であったイリリアという西の王国に向かう事になった。後に属領となるのだが、そのための条約締結など、外交特使としての赴任であった。
そこで彼は、一人の女性と出会う。
当時はまだうら若き乙女であったサビーニというイリリア国の姫だ。
後のゴート帝国皇后であり、ハーラルの母になる人である。
十七歳のサビーニは、若き英雄騎士マグヌスをひと目見るなり恋に落ち、彼が国にいる間、ずっと彼の元へと通い詰めるほどであったという。マグヌスもまた、美しくも積極的な彼女を憎からず思い、二人の距離は徐々に縮んでいった。
ちなみに十歳差と言えば離れているようにも思えるが、貴族や騎士の間でその程度の開きなど、大した年齢差とは言えないのが通常である。
だが任期は一年で終わり、騎士と姫との恋物語は実を結ぶに至らず終わりを告げたかに思えた。
しかしその五年後。
イリリア王国は正式にゴートの一部に編入され、その年の帝国の祭日である誕生祭の席に、元国王やサビーニ姫も呼ばれる事になったのである。
そこでサビーニは、マグヌスと再会する事となった。
この時までに、既にサビーニの美しさは諸国にまで広く知れ渡り、今まで何度も求婚の申し出もあったという。だが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。初恋の人、マグヌスへの思いを胸に秘めていたがゆえであったのは、言わずとも明白だろう。
そしてサビーニは、この瞬間しかないと想いの丈を目一杯マグヌスに告げ、これを彼も受け容れた。五年越しに、二人は遂に男女の契りを結ぶ事になったのであった。
――が、この時。
サビーニの美しさに目だけでなく心も奪われた男がもう一人。
他ならぬゴート帝国皇帝ゴスフレズⅢ世であった。
ゴスフレズは美しい姫を是非にもと願い、旧イリリア国王もまた帝国の皇室と繋がりを持てるとあればと喜んでこれを快諾した。無論、姫の恋など知るはずもなかったからなのだが。
当然、サビーニはこれを強く拒んだのだが、今や王国は帝国の属領。姫も姫ではなく、ただのいち貴族の子女にすぎない。となれば、これを拒否するなど出来ようはずもなかった。
彼女はマグヌスにも助けを求め、マグヌスも何とかならぬかと密かに根回しするも、その努力は遂に実らなかった。
結局、若き不世出の英雄騎士と小国の美しい姫との恋は儚い結果を迎える事となるのだが、しかし結婚までのほんの僅かな逢瀬で、既にサビーニにはマグヌスとの一粒種を身籠っていたのであった。
それにサビーニが気付いたのは、ゴート帝国に嫁いだ後の事。何とか自分の運命を受け容れ、失意から立ち直ろうとしていた矢先の事である。
己の宿命はどこまで呪われたものであるのかと自暴自棄になりかけた彼女だったが、それが逆にサビーニを強くした。この運命を利用し、代わりに密かな決意を胸に秘めたのである。
マグヌスとの間に出来た子を、皇帝にする――。
それは権力に屈さざるを得なかった非力な彼女がなし得る、唯一の復讐だったのかもしれない。
後にマグヌスはその事実を知るのだが、サビーニはそれを口外不要と彼にきつく言った。
そうは言えども、身籠った日数を数えればいずれ分かるのではとマグヌスは反論するも、元より後宮は男子禁制の領域。早産になったと偽るよう周りと口裏を合わせればどうとでもなるとサビーニは彼を無理矢理納得させる。それでも無茶で危険な綱渡りであったが、結果、ハーラルは世に産まれる事になった。
以来、マグヌスはサビーニ妃への想いや未練を断ち切り、あくまでいち家臣として節度ある距離を保ってきた。
ハーラルに対しても同様である。
後に帝都の貧民街より彼を見つけ出した時も、血を分け合った肉親としてではなく、一人の臣下として彼を宮廷へと誘ったのだ。
サビーニの想いも分かっていたし、彼なりに複雑な感情があったのだろう。
もし真実が明らかになれば、自分はともかくハーラルすらも殺されてしまうのは間違いない。何より、サビーニがどう思おうとも、この時はハーラルが帝位に就く可能性は、極めて低かったのである。
何故なら、宮廷に迎えられた時のハーラルの皇位継承権は第三位。
上には聡明で武門の誉れも高いヴァーサ皇子に、体は虚弱なきらいもあるが、勉学に優れていると評判のエーリクがいた。ハーラルに皇帝のお鉢が回ってくる事は考え難く、だからこそマグヌスもこの状況に目を瞑ったのであった。
……それがよもや、皇帝にまでなってしまうとは、夢にも思っていなかったのである。
そんなものは言い訳だし、どのように言い繕っても権力簒奪の托卵と言われれば反論の余地などなかった。当然、彼にそのような野望などない。この状況に至っても、国権を私する気もなければ、欲心など小雪ひと欠片も見当たろうはずがなかった。
保身のため、家のため――そう言われればそうかもしれない。
だが、果たして本当にそうだろうか。
己や周囲を真実との天秤にかけ、それだけで事実を糊塗したのだろうか。
若き皇子が成長していく姿に、マグヌスは何も見なかったのだろうか。
ハーラルが、幼い頃のある日に言った言葉。
マグヌスは自分にとって父のような存在だ――。
その言葉を耳にした時、マグヌスは何も思わなかったのか。不動の心は揺るがなかったのか。
全ては本人にしか分からぬ事であった。
だが、マグヌスの過去――即ち、己の出自にまつわる真実を知っているハーラルからすれば、例え理由がどうであれ、それらは苛立たしく腹立たしいものでしかなかった。
どうしてマグヌスは帝都帰還後すぐ、怒りも露に母サビーニの仇を討つと言ってくれなかったのか。
かつての関係が過ちであったと思っているのだろうが、その過ちの結果が自分なら、自分という人間は――その存在は過ちでしかないのか。
だからマグヌスは、かつての想い人が殺されても、怒りのひとつも見せなかったのか。
今でも母の事を、ほんの僅かでも想っていてくれているのなら――
自分に対しほんのひと欠片でもいい、特別な感情を持っていてくれるなら――
そうハーラルは願うも、現実は彼の望み通りにならない。
……マグヌスが口にした言葉は、冷静で道理の通ったもの。
彼は正しい。
彼は帝国総司令官として、正しい振る舞いをしたのだ。
だからこそ、それが腹立たしかった。許せなかった。
どうして――
どうして一緒に怒りを見せてくれなかったのか。
どうして一緒に涙を流してくれなかったのか。
自分はやはり、貴方に見捨てられた子なのか。
皇子になるべく、皇帝になるべく、見捨てられたのか――。
空虚な思いと割り切れない感情が、吹雪のように心の中を吹き荒れ、ハーラルはやり場のない怒りでどうにかなってしまいそうだった。
そんな皇帝は、氷の皇太子と呼ばれていた時代の何倍もの恐ろしさを漂わせており、周囲も触らぬ神に祟りなしとばかりに、彼を避けるようにしていた。
だからお忍びで三皇家のホルグソン大公家に向かうと言い出したときも、誰一人それに異を唱えはしなかった。とはいえ、ハーラルがホルグソンの屋敷に向かう事自体は別におかしな話ではない。何故なら屋敷には、婚約者であるシャルロッタがいるからだ。
自分の婚約者に会いに行く。
とても普通の事だ。
普通でないのはハーラルを取り巻く状況と、彼の感情である。
聖女の体調は、徐々に回復しつつあると聞いた。だから、様子はどうだと見舞いに行く――。そう言ってハーラルは供もほとんど着けず、大公家へと向かった。
帝都のホルグソン邸では、庭にある東屋で、インゲボー・スキョルとお茶をしているシャルロッタの姿があった。
皇帝の姿を目にしたインゲボーは、慌てて礼をとる。シャルロッタもそれに倣うが、インゲボー以上に表情は固かった。
「済まぬが外してくれ。しばし彼女と話がしたい」
人払いを命じたハーラルは、庭園に誰も近付かぬよう、指示を出した。無論、インゲボーもその場から離れた。
二人きりになったハーラルとシャルロッタ。
思えば完全な二人きりになった事は、今まで一度もなかったかもしれない。
彼女と会う時、側には必ずエッダか、他の誰かがそこにはいた。最前、見舞いに伺った時もそうだった。
シャルロッタが身を固くしているのが、ハーラルにも伝わってくる。ハーラルも、何をどう切り出せばいいのか言葉に迷う。
長いのか短いのか分からない沈黙が、曇天の空のようにどんよりと流れた。
「お見舞いに来てくださり……ありがとうございました……」
か細い声で先に口を開いたのは、シャルロッタの方だった。
「うむ」
「陛下のくださった菓子……美味しかったです」
「そうか」
また、沈黙が降りる。
何をどうすればいいのか。そもそも自分は何故ここへ来たのか。ハーラルは分からなくなっていた。
「その……陛下……」
「うむ」
「皇太后様の事、誠にお悔やみ申し上げます」
言葉と共に、ハーラルの表情が凍てついた。
「陛下……?」
ゆっくりと、シャルロッタの方を向く。
「何故だ」
「何故……?」
「何故、母上が殺されねばならんのだ」
「陛下……」
「どうして母上が死んで、誰も悲しまんのだ……!」
「そんな、私も皆も、共に悲しんでおります」
「いいや、違う。誰も悲しんでおらん。誰も彼も本当の意味で悲しんでおらん。皆どこか、死んで良かったとほくそ笑んでおる。余には分かる。言葉にせずとも聞こえてこずとも分かる。皆、母上の死に安堵しておる」
「そんな……」
目を合わせず、真っ白に色の抜けた己の頭髪を掻きむしるハーラル。
あまりに唐突な、皇帝の変貌。
シャルロッタは当惑した表情を浮かべるだけ。どう返せばいいのか、彼女に分かるはずもなかった。
「何故だ。どうしてだ。教えてくれ」
急に顔を上げ、ハーラルはシャルロッタの両肩を掴んだ。前触れのない行動に、シャルロッタは何も出来ずにただ為すがままだった。
「余が……余が、皇帝ではないからか。本当の皇帝ではないからか。偽物だからか!」
「な、何を仰って……」
「偽物が産んだ偽物の皇子だからか。だからお前も、余を皇帝とは認めなかった。違うか」
それがかつて、自分が帝城地下の水槽に封じられていた時代の話であるとは分かったが、シャルロッタはその時の事をはっきり覚えているわけではなかった。
地下の儀式の際、自分は眠っていたのも同然であり、無意識下で行われた事なのだ。それを何故と問われても、どう説明すればいいのか。
「お前は今でも、あのイーリオを愛している。そうじゃないのか!」
両肩をきつく掴まれ、思わずシャルロッタの顔が歪む。
母の死。
マグヌス総司令の過去。
己の過去。
己の真実。
そしてどうしようもなく沸き上がってくる、彼女への想い――
「それでも余は、お前の夫だ。お前は余を愛するしかないのだ!」
何も――
何も考えられなくなっていた。
気付いた時には、無理矢理押さえつけるような恰好で、ハーラルは銀の聖女の唇に、己を重ねていた。
頭の中が真っ白になるハーラル。
唇を放し、シャルロッタの顔を見つめ直した時、ハーラルの両手から力が抜けていた。
頬を伝う滴――
彼女の目から、一筋の涙が、こぼれ落ちていた。
「そうか。やはり、そうなのか……」
顔を伏せるシャルロッタ。
「その……違います。違うんです」
「……」
「突然な事でしたから、その、つい……驚いてしまって……」
ハーラルの氷蒼色の瞳が、凝と彼女を見つめていた。
「では、もう一度するぞ。いいか」
彼女の細い肩に、ハーラルがもう一度手を伸ばそうとすると、シャルロッタは思わずびくり、と身体を震わせてしまった。
無意識であれ何であれ、それは当然の反応であったろう。だが、ハーラルにはそれが分からない。
今は己しか見えていない彼には、何も分からなかった。
彼はその手を宙で握りしめ、静かに引っ込めた。
その顔に表情はない。とても冷たく、とても悲しい顔だった。
「……体調が優れようと優れなかろうと関係ない。お前と式を挙げる」
自分で己の肩を抱くような仕草をして、シャルロッタは顔を俯かせた。
「まずは帝国のしきたりに則り、二週間後に婚前式を行う。そこで余とお前は夫婦の契りを交わすのだ。そしてその一週間後、各国の代表も招き、盛大な式を挙げる」
途切れたハーラルの言葉。
沈黙なのか何か別の理由なのか、思わずシャルロッタが少し顔を上げると、そこには正負どちらの感情ともつかない混濁した瞳のハーラルがいた。
「その結婚の場で、余は各国に宣戦布告の詔勅を出す」
「え……」
「まずはメルヴィグだ。メルヴィグを征服した後はジェジェンにカディス、アクティウム。勿論カレドニアにも本格的な進攻を行う。分かるか? 余は誰にもなし得なかった世界帝国の皇帝になるのだ。ゴートの歴代皇帝、誰一人としてなし得なかった最大の版図をこの手にする。そして余こそが皇帝の中の皇帝であると、世界中に知らしめるのだ。シャルロッタよ、お前はその世界皇帝の妃として、余と共に頂点の玉座に座るのだぞ。どうだ、嬉しかろう?」
そこには先ほどまでの傷付き、やつれた顔の青年はなかった。いや、やつれているのは同じかもしれない。
ただし、その瞳に狂疾めいたものが宿ってはいたが。
何も答えられず、怯えた子鹿のような目で見つめるシャルロッタ。
「ふん。嬉しくないか。まあいい。お前も分かる時がくる。失ったものを埋めるには、それと同じ大きさのものでしか埋められぬという事がな……」
「陛下……」
「お前が手放したあの男以上の男に、余はなってみせよう」
パラリ、パラリと、小さく雨音が、東屋の屋根を叩いた。
既に空は夜の帳のように暗く、天からの涙は徐々に勢いを増していくだろう。
申し訳なさそうな顔をして、インゲボーがこちらに近付いてくるのが見えた。
「皇帝陛下、公女殿下、雨が降って参りました。お体が濡れるといけません。どうぞお屋敷の中へ」
だがハーラルは、それをやんわりと拒否した。
「いや、用は済んだ。インゲボー、後は頼んだぞ。余はもう戻る」
そう言って、そのまま彼は一人濡れるのもの構わず、屋敷の外に向かい歩き出す。
戻るとは城に向かってなのか。
本当に戻るべき場所はそこなのか。
それとも彼が宣言した、新たな戦場こそが戻るべき行く宛てなのか。
東屋に残された二人の女性は、野ざらしの花のように、頼りなげに震えるだけであった。