第三部 第二章 第二話(3)『黒衣策謀』
サビーニ皇太后殺害。
そして犯人の自殺。
全てが闇に消え、その分行き場を失った〝彼〟の怒りは、誰にも制止出来るものではなかった。
「なっ――何故だぁっ! 何故だ! 何故だ! 何故だ! 何故だ! 何故だ!」
声が潰れそうになるほどの叫びを上げ、玉座だろうが何だろうが、目につくもの全てを手当り次第に蹴りあげ、殴りつける皇帝ハーラル。
顔は蒼くなり赤くなり、泣き腫らした痕が目の周りを汚している。
ティンガルボーグすら打擲を恐れて主から離れているのだ。家臣らがどうしていいか分からずおろおろするのも当たり前。やがて八つ当たりに疲れを見せて激しく嗚咽を漏らし出した皇帝に、黒衣の魔女がゆっくりと近付いていった。
「何と申し上げて良いやら……。心中、お察し申し上げます……」
己も涙に濡れた顔を見せ、エッダが肩を震わせながら口元を覆って声をかける。
ハーラルが感情のままに凶暴な眼差しを向けるも、エッダの姿を見てやがて大きな声をあげて泣いた。
皇帝とその忠臣が泣き崩れる姿に、思わず家臣達もさめざめともらい泣きをしていた。
ひとしきり泣き疲れた後、ぐしゃぐしゃに崩れた顔を強い手つきで拭うと、ハーラルは吹雪よりも苛烈な意志を瞳に宿し、エッダに問いかけた。
「母を殺めたのはソーラと申したな。何ゆえだ」
目元を拭いながら、こちらも表情に犯人と目される人物への怒りを滲ませながら答える。
「まだ分かりませぬ。けれども腹心の部下とも言うべきフェリクスが主犯なのは揺るぎない事実。更に、いつどのように聞きつけたのか、ソーラの家軍の大半は、既に帝都から抜け出し、各地に逃げ散っている様子」
クラッカ団が帝都から一斉に逃走を図ったのは、実行犯とされているフェリクスが密かに手配していた事だった。
最前より、ソーラから帝都の動きに気を緩めるなと言い含められていた彼は、一度目のエッダからの呼び出しの後、自分に何かあればただちに帝都を離れろと団員に命じていたからである。
それでも多くの者が、捕らえられる事にはなってしまったのだが。
ちなみにエッダがフェリクスを呼び出した事は、一部の者以外、誰も知らない。無論、ハーラルもだ。
「ただ、これは我らに協力をしているオグール公国の灰堂術士団なる部隊からの情報なのですが――」
「何だ」
「フェリクスが申したソーラ・クラッカの命令によるという話……。その肝心のソーラですが、逃亡をしたイーリオの元にいる様子との事です」
ハーラルの目が大きく見開かれた。
色素を失った白い髪が逆立つようにざわりと揺れ、顔を見た者は思わず恐怖に腰を抜かしそうになる。
怒りの神が憑依したかのような、憤怒の相。
先ほどまで流していた涙など瞬時に蒸発させたハーラルが、低い唸るような声で問いかける。
「それはまことか」
「まことです」
「エッダよ! 今より帝国の全軍をもって逃亡者イーリオ、ならびに謀反人ソーラを捕縛せよ! 生死は問わん――いや、生きて余のもとに引きずり出せ。場合によっては余が直々に、この世に生まれた事を後悔したくなるような苦しみを与えてやる!」
激した声は、帝城を震わせるかと思った。
まさに伝説の〝人虎帝〟の再来――。
居合わせる皆が条件反射のように平伏したのは、言うまでもない事だった。
ハーラルの命を受けたエッダは、慌ただしく事にあたりはじめる。
ハーラルとシャルロッタの婚儀に、サビーニ先帝妃は不要――。
生前、サビーニ皇太后は何かとシャルロッタとの結婚に異を唱えていた。折角ハーラルの気持ちも傾いてきたというのに、ここであの母が口出しでもすれば話が流れてしまいかねない。ましてや〝銀の聖女〟の心は掴み難く、いかにも脆そうだ。婚儀にまでこぎ着けても、皇太后がどんな嫌がらせ以上の行為をしてくるか、それによって計画がどのように乱されるか、分かったものではなかった。
何より、産みの親である彼女は、ある意味ハーラルにとって、出生の秘密そのものを握る懐に入れた危険物も同じ。
いずれ手を打たねば――そうエッダが考えていた矢先の、今回のソーラの行動である。これを利用せぬ手はないと判断したが、予想通り上手くハマってくれた。
思わずエッダの顔にも喜びの色が浮かびそうになる。
この後の手順にも抜かりは出せない。
己の居室に戻った彼女は、待っていたヴォルグ六騎士の二人の姿を見て頷く。
「エゼルウルフ卿、それにウルリク卿。分かっていますね」
ヴォルグ六騎士、エゼルウルフ・ヘリングとウルリク・ブーゲンハーゲンの二人が、心得た顔で頷いた。
※※※
帝都での事件など知る由もなく、イーリオとの決闘を終えたソーラ・クラッカは、部下に命じてイーリオ親子が追手に見つからぬよう、その身を隠しながらの移動を手伝った。
前にも述べたように、クラッカ団そのものが義賊の出である。少し前に協力してくれた山の牙同様、こういった正規の道筋から外れた動きをするのに、彼らは誰よりも長けていた。それに、南のシロンスク州一帯はクラッカに与えられた領地でもある。隠れ事が得意な者が、己の庭で身を潜めるのだ。
どのように探知に優れた敵であれ、本気で姿を消した野生動物並みの一団を見つけ出す事は、ほぼ不可能に近い事だろう。
実際この時、あの灰堂術士団すら一行の足取りを見失っている。
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
イーリオの問いに、ソーラは難しい顔で返答に窮した。
皇帝に逆らってでもイーリオを助ける事が、帝国を蝕もうとしている得体の知れない何かに対して牽制になると考えたからなのだが、それをどう説明すればいいか。言ってしまえばただの直感なのだが、上手く言葉に出来ない。
「ま、こいつにもこいつなりの考えがあるって事だ。いいじゃないか。お前が相手にしようとしてるのは、言ってしまえば帝国そのものなんだぞ。少しでも味方はいた方がいいし、それが帝国の人間なら尚の事良しだ」
ムスタの説明は、大雑把だが本質でもある。
ともあれ、ソーラ達の協力もあり、イーリオ親子は敵に一度も見つかる事なく、目的の場所へと辿り着く事に成功した。
それは、人里離れた山深くの屋敷。
もっとも近い街か村までも、十数マイルはありそうな山間の僻地。
一歩踏み間違えれば道に迷いそうなほど、鬱蒼と茂る木々を縫うように、三階建ての屋敷が急に姿を見せた。
「これは……」
いきなり表れた場違いな建造物に、イーリオは思わず唸り声をあげそうになる。ソーラ達も知らなかったのだろう。少しばかり驚きを顔に浮かべている。
外観だけなら、相当な身分の者が住んでいるようにしか見えない。凝った装飾などなく、それなりに経年した汚れも見えるが、むしろそれが風格のようなものを滲ませていた。問題はひとつ。立地とあまりに不釣り合いなところだろう。
一人、無遠慮なほど堂々とした歩みでムスタが屋敷の扉を叩くと、身なりを整えた男性が恭しく姿を見せた。
「お待ちしておりました、ムスタ様、イーリオ様」
「ああ、久しぶりだな」
「さ、中へお入り下さい。お連れの皆様も、是非どうぞ」
おそらく屋敷の執事のような者であろうか。辺りの風景に似合わぬ洗練された身のこなしに、思わずイーリオとソーラが動きを固くする。
「あ、その……僕らの鎧獣は……」
「ああ、鎧獣なら心配いらん。裏に十騎ほど入れる厩舎があるから、このペーザーに預けておけばいい」
答えたのはムスタだった。
ペーザーという名の執事は、言葉を受けて再び恭しく頷く。
屋敷の中に通されながら、クラッカ団の面々の内、五名ほどは外の警戒にあたらせ、残りは屋敷の別室で待たされる事になった。
「父さん、何か随分この屋敷に詳しいけど」
「ん? そりゃそうだ。この屋敷を設計したのは儂だからな」
予期せぬ返答に、面食らう恰好のイーリオ。
一体この父は、どれだけ知らない顔を見せるのだろう。いや、自分とて五年間も家を飛び出したままだったんだ。人の事を言えたものじゃないな、とイーリオは苦笑気味に自戒した。
「んで、ムスタの旦那。この屋敷は一体誰のものなんで? まさか旦那の別荘なんて言わないッスよね」
「お前ら二人とも、よく知ってる人のものだよ」
執事のペーザーが目の前の扉を開けると、応接間に一人の婦人がソファに腰を下ろしていた。
手には湯気の昇るティーカップ。上品にまとめた白髪混じりの髪は歳経た美しさがあり、衣服も豪奢とは真逆でありながら、気品に溢れている。
初老の女性は、落ち着いた物腰の、誰が見ても一目瞭然な貴族身分の人間。
「まあ、ムスタ。思ったより遅かったのね」
ティーカップを机に載せ、貴婦人はにこやかに笑みを浮かべた。声までも穏やかで優しい。
イーリオもソーラも、きょとんとしている。
誰だ? よく知っているって――でも、この声、覚えがある。
確か――
そう思っていたら、先に声を上げたのはソーラだった。
「あの……もしかして、マリオンさん……ッスか?」
「ソーラ、お久しぶりだわ。私の事、覚えていてくれたのね」
マリオン――
その名、その声――イーリオの記憶から、幼い日々が即座に蘇った。
「イーリオも久しぶりね。随分と大きくなって……見違えたわ。さ、もっと側に来て、私に顔をよく見せて頂戴」
「マリオンさん……マリオンおばさん?」
「ええ、そうよ。思い出した?」
思わず足早に、貴婦人の側へ寄るイーリオ。
そのまま抱きしめたい衝動を察したのか、マリオンの方からイーリオを優しく抱きしめてくれた。
懐かしさと温かな温もりに、思わず涙がこぼれそうになる。
傍で控えていたペーザーなどは、実際に泣いていた。
マリオンおばさん。
ずっと幼い頃の話だ。イーリオが父と二人暮らしをしていた時、住んでいた屋敷から村の方に別の大きな屋敷があり、そこに貴族の女性が住んでいた。それがマリオン・ドレッカーという、この貴婦人だった。
ムスタの古い知り合いらしく、幼いイーリオに対し、まるで母のように何くれとなく世話を焼き、イーリオもまた、実の母のようにマリオンに懐いていた。実際、瞼の母と言われて思い出すのは、このマリオンというとても優しい女性の笑顔だった。
山師のようなムスタに対し、イーリオに上品な物腰が身に着いたのも、マリオンのお蔭である部分がとてつもなく大きい。
だが、イーリオが九歳になった頃、病いで伏せっていたマリオンの夫が息を引き取り、彼女は保養のその地を去らねばならぬ事になったのだ。彼女自身、バンベルグの村を離れる事をとても悲しんでいたが、貴族のしがらみとはどうしようもないものらしい。
泣く泣く彼女は去り、イーリオも数日間は去っていったマリオンの事を思い、泣き暮れた思い出がある。
「え? イーリオもマリオンさんと面識あるんスか?」
抱き合う二人を見て、ソーラがムスタに尋ねると、肩をすくめてムスタが言った。
「赤ん坊からチビの時分まで、あいつにとってマリオンは母親代わりみたいなもんだったんだよ。ほれ、ドレッカー卿が病気になっとったろう。マリオンはその療養で、儂の居た村に屋敷を建てて暮らしていたのよ」
「ああ……」
相槌を打つソーラ。
「さ、立ち話もなんだから、とにかく座って。ムスタもソーラもここへどうぞ」
長い抱擁の後、ソファを勧めるマリオンの言葉に従い、イーリオが腰を下ろす。「おう」「んじゃま」と、遠慮の欠片もない様子で、ムスタとソーラもどっかりと座った。
「父さんの知り合いの隠れ家って……マリオンおばさんの事だったんだ」
「そうだ。ここは儂がマリオンの依頼で作った屋敷だからな。帝国の誰とも関わりたくない。関わらずに済むような場所に屋敷を建ててくれと頼まれて、儂が作った。だから隠れるには打ってつけというわけだ」
「そんな……関わりたくないって言ってるおばさんを巻き込んじゃあ――」
鼻白むイーリオの言葉に、当のマリオンがにこやかな顔で否定する。
「いいのよ、イーリオ。私がムスタに頼んだんだから。何かあったらここに来て頂戴って。それにね、今回の事、私もとても心配していたの」
帝都で起こした一連の事件のことだろう。
こんな僻地にまでその事が知れ渡っているのかと思うと、自分がしでかした事態の大きさに、暗然となる。
――え? こんな場所にまで……?
ふと気付く。
さすがにこのような地に話が伝わるのは、いくらなんでも噂の速度が早すぎた。
「帝都の事件の事……どうしてそれを……?」
「それはね、あの子が教えてくれたの」
落ち着いた、人をどこまでも安心させる優しげな声のマリオン。
彼女は続けて呼ぶ。
「いい加減入ってらっしゃい。いつまでも恥ずかしがっていては、お客様に失礼よ」
マリオンが声を出した方向に、一同も視線を向ける。
イーリオ達が入って来たのとは別の扉の側。開けられた隣室の向こうに、人の気配がした。
誰か人影が動く。
誰だろう?
イーリオの胸が、何かざわつく。
母親のように慕っていたマリオンおばさんの記憶。思い出した昔には、もう一人――
隣室から、少しばかり上背のある若い女性が姿を見せた。
褐色味を帯びた黒髪に、太い眉。長い髪を後ろでひとつに束ねて揺らしている。
白い肌と紺色よりも黒い、深い蒼の瞳。華奢のようにも見えるが、均整の取れた無駄のない引き締まった身体なのは、イーリオなら一瞥で分かった。
何より、照れて頬を赤らめる顔ですら、人を惹きつける魅力が滲み出ている。
若い彼女が視線を合わせ辛そうに、こちらへおずおずと近付いた。
誰か分からない。分からないが、引っ掛かる。
それが徐々に大きくなり、記憶の底から浮かび上がる思い出。
「もう、照れてないでこっちに来なさいな。ムスタとイーリオにご挨拶を」
少し上目遣いをして、女性が頭をペコリと下げる。
黒髪のポニーテールが、動きに合わせて揺れた。
「お、お久しぶりです、ムスタ様、イ、イーリオ……さ、ま……」
「まあ、この子ったら、イーリオ様ですって。様付けするなら名前が違うでしょうに」
呆れたように笑うマリオン。その笑い顔で、耳まで顔を真っ赤にする女性。
そこでイーリオは思い出した。
「あ――もしかして……アネッテ……?」
途端、若い女性の顔が更に真っ赤になりながらもイーリオを向く。
「確か小さい時一緒によく遊んだ……あの、アネッテ?」
黒髪のポニーテール。
泣き虫アネッテ。
瞳に涙をいっぱいに溜め、アネッテが両手で口元を覆った。
「そうよ、思い出してくれた? 私の姪っ子のアネッテよ。彼女が帝都の事件を、私に報せてくれたの」
「え……でも、何で?」
マリオンの姪だから報せた? 何か腑に落ちない説明だ。
「それはね、この子もあの時、貴方と皇帝陛下の戦いを見ていたからなの」
だから――?
それにしては何か引っ掛かる。
横合いから説明の後を継いだのは、意外にもソーラだった。
「そりゃ見てるよな。伯父にあの総騎士長リヒャルディス・グライフェンを持ち、〝北の戦女神〟から〝アウロラ〟を受け継いだ、若きゴゥト騎士団の副団長。その名をアネッテ・ヴァトネ、だな。成る程、得心がいったぜ」
アネッテが、ゴゥト騎士団の副団長――?
思いがけぬ情報に、イーリオの目が点になる。
懐かしい幼馴染との再会は、思いがけぬ形によってもたらされたものだった。