第三部 第二章 第二話(1)『破滅狼声』
古代絶滅種アームブラスターオオカミ。
大狼の先祖にあたる大型犬科動物で、大きさは大狼を僅かに上回る。大狼同様、ライオンやトラと同サイズの狼、と言えばイメージし易いだろうか。
ヴォルグ六騎士の一人、ソーラ・クラッカが駆るアームブラスターオオカミの名を〝スコール〟と言った。
黒の毛並みが猛々しく風に揺れ、群れの首領たる王者の風格に満ちている。
「イーリオ、一つ言っといてやる。ソーラとあいつの〝スコール〟はな、儂の知る限りマグヌス総司令以外で敗北したというのを聞いた事がない。それほどの剛将だ。近隣諸国からは、あいつの声が聞こえたら、それは国が破滅する時――なんて言われた事から、ついた渾名が〝破滅の声〟」
助言というより恐怖が増すような前情報をくれた父に、恨みがましそうな視線をイーリオは送った。
「そんな事より、弱点とか戦いのクセとか……もっと役立ちそうな話をしてよ」
「クセなんて言えば、あいつの戦い方はクセしかないぞ。獣騎術の流派などない。完全な我流だ。――そうだな、一つ言えるなら、あいつは多分、いや間違いなく獣能を使ってこんだろう」
「獣能を使わない? どうして?」
「使わないというより使っても意味がない。あいつの駆る〝スコール〟の能力は、ちょっと変わっててな。こういう一対一の対決ではなく集団の戦場でないと真価を発揮出来ん。第二獣能は別なんだが……それはやたら使うもんでもないしな」
時に必殺の決め手ともなる鎧獣騎士の異能・獣能は、戦いにおける基本だ。それ使う事に意味がないと断じるムスタの説明は、イーリオにとって理解し難かった。
「だからといって油断するなよ。獣能がないあいつだからこそ、ある意味最も鎧獣騎士の理想像とも言える」
言葉の意味が理解出来ないが、油断など出来る相手ではない事くらい、イーリオも自覚していた。
北の最強国家に冠たる最強の六人の騎士。
それがヴォルグ六騎士。
その一人が相手なのだ――。
かさばる上着類を脱ぎ捨て、軽装になったソーラが首を鳴らしながらこちらを見て笑っている。
「そろそろいいか?」
ソーラの問いに、イーリオは頷く。
横に並ぶザイロウへと、一瞬だけ視線を巡らせた。
生家から慌てて出て来たのだ。自分もザイロウも、まだ本調子ではないだろう。少なくとも己の体調は六割といったところ。果たしてそれで、どこまで戦えるか。
こびりついた油カスのような不安が思考の片隅で拭いきれずにいたが、これは自分で切り抜けるしかない試練なのだとイーリオは覚悟を決めた。
張り詰めた空気とは真逆に、空は抜けるように青く、コマドリの長閑なさえずりすら聞こえてくる。
そんな初春の街道脇で、二名の騎士が同時に号令を発した。
「白化!」
白煙が消え、姿を見せる二騎の人狼。
片や白銀の人狼騎士に対し、もう一騎は異様な風体の黒毛の人狼騎士。
左右非対称の鎧。
右肩部分には巨大な狼の頭骨を模した肩当てがあり、海洋迷彩のように青基調のまだら模様になっている。その青はもやがかった深い紺青で、まるでかすれたマリンブルーの藍晶石のようである。
手に持つのは刃の反対、石突きの部分にも短い刃の付いた、奇妙な形状の薙刀。
他に例を見ない、隻眼の人狼騎士。
〝狼王〟スコール。
オオカミ種でも最大の部類と言われる大狼よりも一回りほど大きい。だが、佇まいに鈍重さは欠片もない。僅かな挙措にも軽やかさがうかがえる。
音を後に残し、手にした薙刀を肩ならしに旋回させたソーラ=スコール。
思わずイーリオは、目を剝いた。
薙刀の軌跡が見えなかったのだ。
このザイロウの動体視力と、歴戦で養った己の目でもっても、刃先の動きが捉えきれない――。
「いくぜ」
軽い声。
その場で黒狼が、いきなりその身をくるりと旋回させたところまでは見えた。
だが、警戒を高めるより早く、目の前に一瞬で薙刀の刃が迫っている。
――!
身を捩らせ、鼻先スレスレでかろうじてこれを躱すイーリオ=ザイロウ。同時に己も、聖剣で横払いの一刀を放った。不意を突いた相手への、不意撃ち返し。
しかし金属音を響かせ、聖剣が受け止められる。いつの間にそうなったのか。
敵の左手に、分離した薙刀が握られていた。
何よりいくら体勢を崩したとはいえ、聖剣の斬れ味を乗せたザイロウの激しい斬撃を片腕だけで受け止めるなど、信じられなかった。
だが驚いている場合ではない。
寸暇の間もなく、足に衝撃。
視界が流れ、崩れたまま地に転がされるザイロウ。
足払いを受けたのだ。攻撃の流れが恐ろしく早かった。しかも動きの繋がりが読めないから、全て後手に回ってしまう。
さらにスコールの右手に握った刃が、直上から腹部に向けて打ち降ろされる。この体勢で身体の中央への攻撃を避けるのはほぼ不可能。
咄嗟にイーリオは、篭手を出してこの刃を受け止めた。
耳障りな金属の打ち合う音。
力任せに刃を押し退けようと、腕に万力の力を込めるイーリオ=ザイロウ。筋肉の隆起が瘤のように膨れ上がるが、黒狼の上腕はそれを更に凌駕していた。
「うおりゃっ」
野太い掛け声と共に、横向きに弾き飛ばされるザイロウの巨体。
地を転がり、篭手には黒ずんだ擦過傷の痕が残った。
イーリオは、すぐさま身体を起こして迎撃に備えようとするが、しかしスコールの巨体はその場に残されたまま。薙刀をいつの間にか巨大な一本の長柄に戻し、肩に担ぐような恰好でこちらを見ていた。
「なるほど、大したもんだ。あんな形で防ぐなんてよ」
ソーラの声に息切れはない。反対にイーリオは既に息が上がりそうだった。
強い。
恐ろしく強い。
ムスタが言った通り、とんでもない実力者だ。それもかつて味わった事のない類いの。
そのムスタは慌てるでも心配するでもなく、落ち着いた視線でこの戦いを黙って見つめていた。
横に男が並んでも、意に介する様子すらない。だからといって気配に隙があるわけでもなかったが。
「心配じゃないんですか」
男はソーラと同年代だろうか。自分の首領同様、貴族出の騎士団員というには粗野すぎる出で立ちだが、ソーラよりも整った衣服に誂えている。
その隣りには白褐色のバーナードウルフ。
「お前らは揃いも揃って、儂をただの親馬鹿だと思っとるんだろう」
「でも後ろに、黒飛爪がいる。いつでも出る気マンマンってとこじゃないですか」
ムスタの真後ろには、黒羆の鎧獣〝フォルンジュート〟が控えていた。駆り手の気配を察してか、緩んだ雰囲気ではない。
「お前が側に来たから、こいつも警戒したんだろうが。大体、お前らに囲まれてるんだぞ。こっちだってそれなりの構えは取るだろう」
「そりゃすいません。――しかし帝都でも見ましたけど、息子さんさすがですね。ウチの総隊長と互角に渡り合うなんて」
「どこが互角だ。明らかにおされてるだろう。ま、色々腑抜けになっとるあいつにはいいクスリだろうがな」
「ウチの総隊長も、明らかに手ぇ抜いてますしね。でも安心しましたよ」
「何がだ?」
「以前、マグヌス司令が言ってた話です。総司令が最も戦いたくない相手が、この世には三人いる。その内の一人が黒飛爪のムスタだって話です。騎士を廃業したってのに、目筋も腕前も全然衰えてなさそうだから」
在籍期間はごく僅か。
しかし、かつてベルサークの黒い狂嵐とまで恐れられた騎士の伝説は、年経た戦士達の間で忘れられるものではないらしい。
ムスタは鼻で溜め息を漏らすと、くだらないとでも言うように呟いた。
「相変わらず総隊長ともども、血の気の多い連中だな。お前も宮仕えが板について随分大人しくなったと思ったが違ったか、ヤンクよ」
「根っこは変わりませんよ。それにそういうのはほら、ウチにはしっかりしたのがいますからね」
二人が語り合ってる中、視線の先の人狼騎士たちの戦いは、更に激しさを増しつつあった。
イーリオ=ザイロウは、既に炎身罪狼を発動している。
速度も力も桁違いに跳ね上がっているはず。にも関わらず、相手の黒狼はこれを今まで同様にいなしていた。それどころか、刀傷だけでなく、咬撃や爪撃などの手傷を負わされているのは、ザイロウの側であったのだ。
確かに、まだ己もザイロウも完全に回復した状態ではないといえ、ヴォルグ六騎士とは、ここまで凄まじい実力を持っているのか――。そう、舌を巻かざるを得ないイーリオ。
「おい、まさか万全な状態じゃないから――なんて言い訳を考えてんじゃねえだろうな?」
刃を交し合う最中にあって、余裕の声色でソーラが言った。
見透かされている思考に、イーリオは喉から声が漏れそうになる。
「俺達騎士ってなぁ、いつどんな場で戦いになるかわからねえ。少なくともお前が戦ったハーラル陛下は、直前までお前が突然出て来て戦いをするなんて、考えてもなかったろうぜ。それと同じように、てめえの調子が良くなかったなんざ、言い訳にもならねえ。どんな時でも戦い、勝つ。それが一流の騎士ってもんだ」
「言われなくても」
白銀の人狼が歯ぎしり混じりに剣を振るうも、これを旋回する動きで躱し、距離を置くソーラ=スコール。
手にした薙刀を曲芸のように振り回す速度には、疲労の色など寸毫も見えない。
我流で戦う騎士は多い。
獣騎術を習う者も勿論多いが、結局のところ相性というのがある。戦法が自分に馴染まなければ最終的には我流の戦い方にならざるを得ないからというのがその理由だ。
だが、目の前にいる黒狼の騎士の我流は、それらと根本的に異なっていた。
濃密な殺気を隠そうともせず、それでいて闘争の〝機〟を悟らせない。いや、殺気が有り余りすぎて、いつ噛み付いてくるか分からない猛獣とでも言おうか。それでいながら洗練された無駄のない動きは、ある種の体系化された流派に近い鋭さがある。
例えばレーヴェン流などの獣騎術のような、それぞれの型に沿った技と呼べるようなものは、彼にないのだろう。これを技というのなら、今出している動き一つ一つ、どれもが技。
しかも反応速度とそれを可能にする動きが尋常ではないから、術理など彼の前ではまるで無意味に思えてくる。
「さて」
スコールが、無造作でありながら器用な手つきで、不意に薙刀を捻った。
中央の部分から柄が分かれ、長い一本が二本の短い薙刀へ姿を変えた。
さっきから見せている武器の変化はこれだったかと、イーリオは瞠目する。
だがそれ以上に驚いたのは、スコールの次の動きだ。
不意に二本の薙刀を地面に投げるように突き刺したかと思うと、瞬時に腰を沈めてこちらへ襲いかかってきたのだ。
――!
獰猛な爪と牙。
油断はしてなかったが、予測のつかない動きにイーリオは反応をするのさえやっとだ。
が、襲いくる爪は爪ではなかった。
――薙刀?!
さっき地面に刺したはずの薙刀が、いつどうやったのか、両手に持ってこちらを斬りつけようとしている。
思考など間に合わない。
身体の直感に従い、獣の本能が命じるままに身体を旋回させて被撃をかいくぐろうとする白銀の人狼。
その目の前に――別の鋭い爪。
視界が赤と黒に明滅し、吹き飛ばされるイーリオ=ザイロウ。
顔に深い傷。それでも持ち前の超回復で何とか踏みとどまる。
「へえ、今ので倒れねえのか」
見ればスコールは歪な体勢になっていた。
片足を高く突き上げ、頭は対角線上に低い位置。その恰好で、先ほど顔面に受けた爪撃の正体にイーリオは気付いた。
あれは拳の一撃ではない。
蹴りの爪撃。
回し蹴りの要領で、足の爪を抉りつけるように当てたのだ。
「おめえの別名〝恐炎公子〟だっけか? あの百獣王の弟子っつーだけあって動きの筋が違うよな、やっぱ。だがよぉ、戦いってのはお上品な演武じゃねえんだ。武器だって手に持ったエモノだけじゃねえ。この手も、足も――爪も牙も、頭の先から尻尾の先まで何から何まで全部が武器なんだよ。それが鎧獣騎士じゃねえのか? そいつ全部を使いこなさなきゃ、折角ご大層な教えを受けてもお座敷武術どまりだぜ」
嘲るような言い回し。圧倒されている今、言い返す事すら出来ない。
しかし今の挑発で、イーリオは師匠であるカイゼルン・ベルの言葉を不意に思いだしていた。
人間の思考は鎧獣騎士の反応に追い付けない。どれだけ速さに慣れようとしても、思考を上回る速度で動くのが鎧獣騎士なのだ。
が、それでも次に相手はどう動きどう攻めるかを思い描いて戦うのは、自然な事でもある。
ならば達人や一流と呼ばれる騎士は、追い付けない思考という現実がある中、どうやって戦っているのか。
それは直感である。
勘まがいのひらめきなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがあると思われるかもしれないが、得てして戦いとはそのようなものだ。長い戦闘経験の果てか、それとも天性が生み出すものかは分からないが、肉体が反応する直感に従い、相手の動きに反応する。
獣騎術や武術とは、そうした際に柔軟かつ多彩な動きが出せるよう、己の身体に動きを刻みつけるような作業だと言い換えれるかもしれない。
とすれば、このソーラの動きは、天性でもあり戦闘経験により獲得した、彼だけの〝流派〟であると言えるだろう。
ましてや、幼き日に助けてもらった時、既にソーラはこのスコールを纏っていた。とすれば、既に十五年以上も彼はこのアームブラスターオオカミを纏っている事になる。
十五年――
ザイロウとイーリオが共に居た年月のおよそ三倍。
経験も何もかも、この人狼騎士は格が違った。
まさに狼種の頂点に立つ者。
――〝破滅の声〟。
その名が、今更ながらにイーリオの心を冷たく締め付けていく。