第三部 第二章 第一話(3)『父親』
薬湯などの効果もあり、二日目の朝にはイーリオはかなり身体を元に戻していた。
既にザイロウも回復器から外に出され、見た目は大丈夫に見えるほどである。
ムスタはゼロ達に頼んでいたものを引き取った後、何かを彼に相談しはじめた。閉め出されたイーリオ達は、仕方なく別の部屋で待つ事にする。
ちなみに、滝に落ちたガボールの事を父やゼロ達に聞いたイーリオだったが、両名ともガボールやグレタらしき者は見ていないとの事だった。
ベルサーク騎士団団長ビョルグに襲われイーリオが倒れた現場には、数名の死体があり、それは全てガボールら二人以外の山賊たちのものだったようだ。
「何を話してるんだろ?」
「さあ、何ですかねえ。兄さんの親父さんが、ゼロに向かって貸しだからな、っつってたのは聞こえてきましたが」
ゼロの仲間、ピカレという骨ガラのように痩せこけた男が、肩をすくめて返事をする。
「貸し……」
父は名の知れた錬獣術師であっても、怪盗と知り合いなんて事はないだろうと思う。実際、態度も言動も、今回会ったのが初めてのようだったが、それでも妙に親しんでいるようにも見えた。
何の貸しなのかはまるで見当がつかぬまま、イーリオは自分の生家を引き払う準備を済ませていった。
引き払うといってもイーリオ自身に何か持ち出すものがあるわけではない。あくまでムスタの研究機材の運搬役だ。そしてこのままゼロも同行するのだと思っていたら、彼らはこのまま立ち去ると言った。
「サイモンとエドガーの件もあったしよ、お前が回復するまでは何か役に立てればと思って、ここにいただけさ。もしもって時に備えてな。ま、そっちの方は結局何の役にも立たなかったけどよ」
確かに警護という意味では、戦闘の出来ないゼロは役立たずであっただろう。しかしそれは襲撃に遭わずに済んだという事であり、悪い事ではなかった。
「そっか。じゃあ、ここでお別れですね。助けていただいてありがとうございました」
ゼロは軽い笑みを浮かべて手をひらひらと振る。
「いいって。――結局、俺らは報酬も貰ったしいい目を見たんだから、礼を言われるもんじゃねえさ。あんたこそ、むしろ酷い目にあったんだから、文句のひとつを言ったって構わないんだぜ」
「そうですか。じゃあ、だったらひとつ言わせてください」
「え? お、おう」
まさかそう返されるとは思ってなかったので、ゼロが思わず口ごもる。
「僕の事は呼び捨てにしてください。イーリオって。僕もゼロって呼ばして貰いますから」
少し目を丸くした後「本当にお前って奴は」と苦笑するゼロ。
「ゼロはこれから何処へ?」
「ん? ああ、ちょっとな……。まぁ、また会う事もあるかもしれねえけど」
歯切れの悪い答えにイーリオが不思議そうな表情を浮かべた時、身を横たえていたゼロの騎獣〝オルクス〟とザイロウが、不意に顔を上げて反応した。
その挙動を二人が見逃すはずもない。
素早く屋敷の窓から外を伺うと、村の方向が騒がしい。どうやら村人達が騒いでいるか悲鳴をあげているようで、やがてムスタの屋敷の方に、ゆっくり近付く影が見えてきた。
影――と言っても人影のようなものではない。
巨大な塊。
それが十重二十重といくつも見える。
遠くてもはっきり分かった。
「あれは……ベルサーク騎士団!」
イーリオが絶句した。
巨大なホッキョクグマの集団がこちらに向かっているのだ。
それも数騎程度ではない。十騎以上はあるだろうか。
この数日間、追手の襲撃は鳴りを潜め、てっきり逃げ切れたのだと思っていたのに、いざここを発とうとした矢先に迫ってくるとは――。
歩みを早めず、ゆっくりと向かっている。さながら王者の行進のようで、急がずともこちらを余裕で狩れると確信しての事だろう。
それを感じたイーリオは、すぐさま己の状態を推し量った。
まだ、四割程度の回復具合。万全とは言い難い――が、戦えなくもないだろう。
ザイロウもおそらくそれくらいの状態だと察した。
「ゼロ……貴方がたは僕の父を連れて裏から逃げて。どうせあいつらの目的は僕なんだから、僕本人が向かえばどうにかなるはずだ。僕なら大丈夫。充分回復出来てるから、最悪、逃げ切れる事だって出来るよ」
おそらくそれは可能だと、言葉の半分は本気だった。
幸い、敵の集団にあのビョルグ団長が見えない。彼がいればそんな自信もなかったが、そうでなくば何とかなるという勝算もあった。しかし、相手はホッキョクグマという地上最大の捕食動物。その人造武装だ。舐めているつもりもなければ、敵を軽んじるような余裕など当然持っていない。
が、これに対してゼロは、あまり――と言うより全くと言っていいほど、取り乱した様子がなかった。
「逃げなくてもいいと思うぜ。ほら、見ろよ」
窓の外に向かって顎をしゃくるゼロ。
すると、屋敷の扉を開け、誰か男性が歩いている。
「え? あれって……父さん? 何をして――」
イーリオの父、ムスタだ。
一瞬、それが父かどうか分からなかったのは、ムスタの特徴でもある髭が、全て綺麗に剃られていたからだった。
「あいつらを追い払うつもりだろうな」
「は? ええ? 父さんが? ――ちょっと待って、父さんってベルサーク騎士団にコネでもあるの?」
「あるんだろうな」
そうでなくば、あんな風に堂々と歩くはずがない。
いや――と考えるイーリオ。
父は〝熊名工〟などと呼ばれるほどの錬獣術師だ。ひょっとしたらホッキョクグマの鎧獣も、何体か手掛けている可能性がある。だからその繋がりで、ベルサーク騎士団にも顔が効くのかもしれない。いや、そうだろう。それに、錬獣術師は技術者としてその国の宝でもあるのだ。ましてや父ほどにもなれば、人材として貴重だから、話し合いで何とか出来るのかもしれなかった。
確かにベルサーク騎士の一団は、出て来たムスタをただの錬獣術師風情と侮っているようではなかった。
イーリオは屋敷の中にいたから声は聞こえないが、対話の雰囲気に侮蔑の様子は見えない。
しかし――。
やはりゼロがここまで余裕の素振りを見せるほど、父の影響力はそんなに凄かったのかと、正直疑問に思う。
よく見ればベルサーク騎士団らも、敬意を払っているというより、別の固さを持っているようにも見える。緊張や相手への礼というより、どことなく高圧的で威圧的な物腰。
会話の内容が聞こえないので断言出来ないが、少なくともイーリオにはそのように見えはじめていた。
先頭に立つ女性騎士が、強い調子で何かを言っている。
交渉――というにはどうも雲行きが怪しくなっているのではないか。
ベルサーク騎士らが降り立ち、皆、装備を取り外す。
見るからに臨戦態勢。これはいけない、とすぐさまイーリオはザイロウを見て頷く。
「おいおい、焦んなって。お前が行く必要はねえぜ」
ゼロの言葉がどういう根拠によるものか、イーリオにはまるで分からない。
「何言ってるの、見れば分かるよ。あの様子じゃあ駄目だ。ゼロ、父さんは君に任せる。僕が行ったら君が父さんを確保して」
ゼロはまだイーリオに待てと言っていたが、それを聞き流しイーリオがザイロウと共に外へ飛び出たのと同時だった。
「〝フォルンジュート〟」
ムスタがそう言ったのは、後から分かった事。
言葉と共にイーリオ達が飛び出たのと反対の位置。
屋敷の工房の扉が内から強引に開かれ、何かが飛び出たのを目にする。
おそらく、ベルサーク騎士団らは警戒をそちらに向けていたのだろうが、イーリオが表れた事で更に注意が散漫となり、動きに遅れが生じた。
反対にムスタはイーリオをちらりと見ると、大して狼狽えもせずに鼻で息を吐く。
「何だ。出て来んでもいいのに」
工房から飛び出たものが、そのままムスタの背後に迫った。
イーリオが目を剝く。
「お前はそこで見ていろ」
何を言っているのという一言が、出てこなかった。
何が起きているのという文字の方が、先に脳裏に浮かんだからだ。
だが、それすらも声にはならず、ムスタの次の号令に、全てが掻き消される。
「白化」
呆気に取られるイーリオ。
背中から黒い影が、ムスタの全身を覆うように被さる。白い煙を間欠泉の勢いで放ちながら。
すぐさまベルサーク騎士団も同じ号令を叫んだ。
大地が爆発でも起こしたかのような噴煙の数。しかし白煙の列柱は、秒の間に空へと消えた。
煙の中からは、白い巨体の人獣騎士らが群れとなって表れる。
その数、十三騎。
捕獲任務というには大仰な数。ちょっとした戦にでも向かう規模の戦力である。
しかしそれ以上にイーリオを絶句させたのは、白に対峙する黒の姿。
少し艶めいた黒い全身。
身に着けた鎧は黒紫と青紫が基調の、体毛以上に艶のある色調。
長く伸びた剣も同様の色で、ザイロウの持つものと同系の、反りのある曲刀だった。
「なっ……どういう事……?!」
それだけしか呟けない。そんなイーリオの肩に手が置かれ、振り返ると彼が微笑みかけていた。
「だから言ってるだろ。お前が出る必要はねえって」
ゼロを見て、もう一度父の方を見るイーリオ。
筋肉の隆起、顔つき、体格などから見るにヒグマのものだが、ヒグマと言えば褐色、灰色、茶褐色だ。あそこまで真っ黒なヒグマは、イーリオの記憶にない。
そんな疑問が顔に出ていたのだろうか。ゼロがにんまりと笑ってイーリオに説明する。
「何でもヒグマとクロクマの間の子なんだとよ、お前の親父さんの鎧獣」
「父さんの……鎧獣?! はあ?!」
「俺たちゃ退がって見てればいいから。〝黒飛爪のフォルンジュート〟ムスタ・ヴェクセルバルグの戦いをよ」
初めて耳にする名。
イーリオは唐突に理解した。
死にかけた自分を助けてくれた黒い影。
あれは父なんだと。