第三部 第一章 第五話(終)『狂戦騎士団』
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ホッキョクグマの体毛は、実は白ではない。
色のない透明な体毛なのだ。
そして体表そのものは、真っ黒な色をしている。
全身が白い毛で覆われているように見えるのは、光が乱反射して白くなっているように見えるだけで、透明だからはじく事なく太陽光を透過させ、熱を身体に溜めるように出来ている。寒冷地で棲む生き物ならではの体のつくりだろう。
しかも透明の体毛は、一本一本、中がストロー状の空洞になっており、それが断熱効果を高める構造になっているのだ。
暴帝北極熊の〝ヴェレス〟が放った謎の衝撃波。
あれは勿論、超能力でもなければ魔術でもなく、れっきとした獣能である。
中が空洞になった体毛から、超高圧の圧縮空気を放出するというもの。
これの本当の使用方法は、衝撃波を出すためにあるのではなく、水中での移動のために使われるものであった。
圧縮空気は後の世で言うウォータージェット推進となり、これで全身から高圧水流を発生。水中での高速移動を可能にするのだ。
ホッキョクグマは海中でも活動をする事で知られており、元々ベルサーク騎士団も、陸上だけでなく水中での作戦行動も得意とした騎士団なのである。
つまりヴェレスの獣能は、本来水中での戦いで真価を発揮するもの。しかし陸上であっても威力は絶大で、それはイーリオの分身を一瞬で消し飛ばしたのを見れば明らかであろう。
尚、ここにいる三騎のホッキョクグマも、ヴェレスの縮小版とも言える獣能を使える。
とは言え、例えどれほど名のある錬獣術師であっても、ヴェレスの異能がどのような仕組みで出されているのかまでは、初見で分かる者などいないだろう。勿論、イーリオとてそんな原理や構造が分かるはずもない。
まるで魔法の力のようにさえ見える超常の威力に、ただただたじろがざるを得なかった。
それよりも、遂にイーリオは一人だけになってしまった。
滝壷に落ちていったガボールとグレタ。
そしてガボールの騎獣アーヴァンク。
彼らは無事なのか。
腹を槍で貫かれ、それでもグレタを助けようとして、一緒に姿を消してしまった巨大洞穴ハイエナの人獣騎士――。
例え無事だとしても相当に危険な状態だろうから、気が気ではない。
だがイーリオは、彼らを助けに行く事はおろか、この場を離れる事すら許されそうになかった。
目の前のビョルグは、ゴート帝国屈指の実力をまざまざと見せつけている。ベルサーク騎士団団長の肩書きは伊達ではないという事だろう。
しかも、ホッキョクグマ騎士がまだ三騎も残っていた。
ネクタルの補充が充分されていると考えていたイーリオだったが、連日の逃避行による疲労が、今更全身にのしかかってきつつあった。それは、駆り手のイーリオだけでなく、ザイロウの方にも顕著に出ている。
全身を包む白い炎の勢いが、早くも弱まっているのだ。
焦り――疲れ――
息苦しい。視界が霞む。全身が熱っぽく、重い倦怠感で包まれていた。
それが絶望という二文字で表されるものだと知っていても、今はそこから目をそむけるしかない。
それこそが絶望であるなど、今のイーリオは考えたくもなかった――。
目の前のイーリオ・ヴェクセルバルグが、かなりの騎士である事はビョルグも分かっていた。
百獣王カイゼルンの高弟。恐炎公子という二つ名。
何より、あのハーラル帝をして本気を出さしめた相手なのだ。
ここまでの道のりによる疲労がなければ、自分も自分の部下も、こうまで追いつめる事は出来なかったかもしれない。万全の状態で戦ったなら、果たして自分の方が膝を屈せずにいられたろうか。そんな想像をしてしまうほどだ。
技も動きも威力も――どれをとっても一流以上の騎士なのは間違いなかった。
しかしそれよりも、このまま彼を手にかけてしまっていいものか――という思いが、彼を躊躇わせていた。
ハーラル帝に討伐の命を与えられる前に、エッダからそれとなく始末を仄めかされている。
反逆の疑いをかけられた身である以上、それに逆らう事など許されない。
それでも、何とかイーリオにも降伏を受け容れてもらい、捕縛という形にする事は出来ないだろうか……などと考えてしまう。
――いや、駄目だろう。あの〝黒衣の魔女〟に逆らうなど……。
でも、殺したくない。それがビョルグの本心だった。
邂逅としてはほんの僅か。挨拶程度の知り合いと言えばそうだが、イーリオという若者が決して悪意ある人間でない事は、それだけで感じ取っている。いや、そう人に感じさせる青年なのだ。
それに、愛する人を取り戻すため――という想いも、ビョルグには分かる部分があった。
――いや、そんな迷いこそ、持つべきではない。
姉以外には鉄面皮で通しているいつもの顔をヴェレスの中で作り、彼は無理矢理にも心を冷たい底へと沈ませた。それこそが帝国騎士の姿。主命を疑わず、氷山の意思でただ任務を全うすべしと言い聞かせて。
暴帝北極熊が、川幅を更に広げる勢いで、岸辺を蹴る。
巨体の居た場所に、川の水が土砂を混ぜて流れ込むが、それより速くビョルグ=ヴェレスは、白銀の人狼騎士に、五又槍を突き出していた。
喉を狙った鋭い一撃。
イーリオはなけなしの気力を振り絞り、これを仰け反る恰好で的確に躱す。さっきのように剣で受けては、また被撃してしまいかねないからだ。そのまま上体を捻り、腰の力で横に剣を払う。
ヴェレスの胴がガラ空きだった。このまま斬れば当たる角度。
しかし吹雪よりも速い勢いで、ビョルグ=ヴェレスは五又の槍をくるりと返し、剣の薙ぎをかろうじて受け止めた。さっきの突きは完全に伸び切ったものではなく、連撃を想定したもの。それ故に出来た反応だろう。
そのまま腕力だけにものを言わせ、
「むん!」
と吠えつつ、ザイロウを身体ごと吹き飛ばす。
崩れた上体だったせいか、着地の体勢も取れず、上手く受け身も取れないイーリオ=ザイロウ。
とはいえ、衝撃はあったものの、それほど痛みはなかった。
だが、そこへ他のホッキョクグマ騎士が即座に迫る。
直上から突き下ろそうとする二又槍。しかも二体も。どちらかを受ければどちらかが刺さる。避けるか否か。咄嗟の判断が脳裏に浮かんだ。
――獣能を放つ要領で、剣を使え。
いつかゼロが言った、聖剣を使う時の教え。
体内を巡るエネルギーを意識し、それを力一杯流し込むイメージで剣を振るった。
閃光が奔る。
二本の二股槍。それの穂先が綺麗に斬り取られ、騎士の手には柄だけになった槍が残された。
イーリオは剣を払った勢いを生かしてそのまま横向けに転がると、敵からの被撃を間一髪で躱し切る。
驚愕する二騎のベルサーク騎士。
ビョルグも驚きを隠せない。
トゥールーズに伝わる聖剣を継いだ唯一人の騎士とは聞いていたが、ここまで使いこなしているとは思っていなかった。本当に、万全であればどれほどの実力を持っているのか……。
またそれは同時に、その万全の恐炎公子ですら、完膚なきまでに退けた皇帝ハーラルとティンガルボーグも、騎士として計り知れぬ実力を持っているという証でもあった。
武器を失ったベルサーク騎士を残し、地を転がって身体を起こす白銀の人狼騎士。
だが、息は大きく、荒い。
白い炎は消えかかっている。時間が残り少なかった。
このまま敵の虚を衝いて逃げようとしたいが、両足が信じられないくらい重かった。視界も、霧が出たように白く朧げだ。
目の霞みが、目眩に変わろうとしていたからだった。
――駄目だ。
その気のたわみを見逃す、ビョルグではなかった。
迫る猛威。かろうじて避けた直後――
「〝白撃の渦潮〟」
見えざる衝撃波が、ザイロウを直撃。
きりもみ状になりながら、彼方へ飛ばされるイーリオ=ザイロウ。視界が回る。裂くような痛みが全身を襲った。
続け様にくるヴェレスの連続攻撃も、全てを躱しきる事が出来ない。
――死。
そんな言葉が、イーリオの頭をよぎった。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
魂を掻きむしる叫び。
ザイロウの黄金の瞳に、仄かな輝きが灯った。
イーリオらが死闘を繰り広げている位置から離れた場所。
通常の視力では確かめようもない川を跨いだ反対側の更に奥に、この戦いを見つめる人獣がいた。
騎士の姿はしていない。丈長いローブに杖。頭部は牛科のそれ。
ひと目で分かる、灰堂術士団の人獣術士である。
中の駆り手であるタマラは、この戦闘をずっと監視し、もしもの時はビョルグに手を貸す、またはビョルグを止めるためここにいたのだが、どうやらもう終わりは近いようだった。
それどころか、鎧獣術士から視える環重空間の視覚によれば、ザイロウから今までにない変化が生じつつあるようだった。極限にまで追いつめられた状態にも関わらず。
生存本能が露になった時、あれは〝次なる変化〟を発生させるだろう――
スヴェインから受けた言葉が蘇る。
遂にその時がくるのか。待ち望んでいた〝変化〟とやらが。
期待に胸を躍らせ、タマラは成り行きに興奮さえ感じていた。
イーリオの胸中では、坩堝になった衝動が内から自分をがなりたてていた。
生への渇望、死への拒否――。
さながら魂が裸になって、肉体までも熱くさせているかのようである。
渦巻く奔流となった彼の感情。しかしこの状態に、彼自身どこか覚えがあった。
ハーラルに最初に追いつめられた時――
黒騎士とメギスティ寺院で戦った時――
そうだ。あの時だ。
結果、自分は意識を失い、残されたのは破壊の限りを尽くした惨状のみ。
またアレを繰り返すのか――いや、何かがあの時とは異なっていた。
あの時にはあって、今はないもの。
だからクルテェトニクで黒騎士と剣を交えた時には、あんな暴走めいた事が起きなかったんだと、気付く。
過去と今の違い。それは何か。
あの時はいた。
そう、いたんだ。
自分の側にいた。
彼女が。
シャルロッタが。
……でも、今はいない。
自分は一人ぼっちだ。
彼女だけじゃない。誰も――誰一人いない。
その事に気付いた時、激情の渦は時化たように薙いでいき、反対にイーリオの胸の内から真っ黒く澱んでいたものが、溢れるようにせり上がってきたのだった。
大狼の黄金の瞳にも、灯りつつあった光が消え去る。
仲間を捨て、仲間に裏切られ、仲間を失った。
これは自業自得か。
もしも素直にレレケやジョルトに助けを請うていたら、こんな事にはなりはしなかったのか。
とすると、この現状を招いたのは、友を切り捨てた自分自身という事だ。
失ったのは仲間だけでなく、友人もだった。
そして自分が信じていた、愛する人にさえ、自分は拒まれた――。
黒い澱が、心の中を闇に満たしていく。
絶望――。
今、はっきりとその言葉を自覚したイーリオ。
希望などない。あるわけがない。
だったらもう――抗う事に意味はあるのか。
こんな風に戦って、逃げて――そんなものに意味はあるのか――。
何故か急に動きを鈍らせたイーリオ=ザイロウに、ビョルグは不審と警戒の両方を抱きつつ、しかしこれは好機だと悟った。
強制解除させるような一撃を見舞う。
そうして武装を解かせた後、降伏か死かを問い質す。そこでもし死を望めば、それは騎士の情け。望み通りにし、エッダの命令通りとしよう。だがもしも彼が降伏を望む事があれば、何とか訴え、彼の一命を伸ばす方法を考えよう。
そう決意し、ひと息でザイロウの懐にまで肉迫。
暴帝北極熊の、城壁すらも砂のように砕く、凄まじい拳をザイロウの腹に叩き込んだ。
川縁から山肌の方にまで、砲弾のように飛ばされ、土煙をまく白銀の人狼騎士。
濛々とした自然の埃が晴れた時、そこには人獣から強制的に鎧化を解除された、青年と大狼が横たわっていた。
どうしてイーリオは、急に動きを止めたのか。
ヴェレスの放った二度目の獣能が直撃した事で、最後の戦意まで根こそぎ失ったのだろうか。しかし直後の動きには、まだ抵抗の意志が感じられたというのに。
だが、こういう事はビョルグも戦場でしばしば目にしている。何の脈絡もなく、突如戦意を失って死を受け容れる戦士というのは、稀にいるものだ。
何が彼らをそうさせるのかは本人にしか分からない。しかし、同じ戦場にいる限り、その姿は明日の自分を見るようでどこか恐ろしく、そして憐れで悲しくも見えた。ならばその姿を嘲笑うのではなく、ビョルグも同じ戦士として最大限の敬意を持ち接するべきだと、彼は弁えていた。
イーリオの視界に、巨大な白い影が迫りつつあるのが浮かんだ。
腹部への衝撃の後、ほんの数瞬だけ気を失い、気付けばザイロウの鎧化が解けていた。
ザイロウも、傍らで死んだようにぐったりとしている。
いつもなら、こんなになる前に彼に何かを語りかけてくる事が多いのに、ザイロウも本当の限界だったのだろう。
――そう、限界だ。
ハーラルと戦い、帝国から逃げ、ここまで何とか来れたが、もう身も心も限界だった。
大切な何かが、ぽきりと折れた気がした。
目の前で滝に落ちるガボールを目にした瞬間、それは確定的なものになったのだ。
ああ、遂に本当の一人ぼっちになったんだ、と。
もう何も出来ない。何も。何一つだ。
白い巨人が、何かを問いかけているのを感じた。
もういいんだ。もう、楽にして欲しい。もう全部――
全部終わったんだ――
黒騎士が嘲笑っていた。
ハーラルも。
エッダも。
帝国の誰もが、嘲笑っていた。
幻覚の黒騎士が言う。
――所詮、今までのお前は、己一人で何も為し得ていないという事だ。
ああ、そうだったな。その通りだ。
僕はここが、限界だったんだ……。
目を閉じる。
暗い。
死が来たのだろう。
痛みも感じない。
しばらくして、何か声が聞こえた。
何だ? 敵同士で揉めているのか。もうどうでもいい。僕はもう、楽になりたいんだ。
まだ聞こえる。
いや、それは音だった。
金属音もする。何か大きな音と地響きに似た震動を感じた。
だが、瞼が重い。きっと死が近いせいだろう。このまま眠れば、きっと――
「おい、しっかりしろ」
誰かの声がした。
やめてくれ。もう僕は駄目なんだ。僕はもう、全部を失ったんだ。
「死ぬにはまだ早いぞ、イーリオ」
うっすらと見える影。
黒い影。
黒騎士だろうか?
いや、そんな声ではない。
そんな姿でも、ないように思う。
でも、影の色は黒い。真っ黒だ。
そして大きかった――
黒い影の向こうで、白い巨大な影が叫んでいた。
何かを強く。何を言っているのかは聞き取れない。
その声に、黒い影が応える。
それはどこか懐かしいような、でも聞き覚えはないような――
そんな声が、大きな黒い影からしていた。
大陸歴一〇九七年。
ゴート帝国歴五四〇年。
新皇帝が帝国に生まれた春の事。
イーリオは暗い闇の底。
間近にいるモノが残された希望なのか、それとも更に容赦のない絶望なのかも分からず、彼はそのまま深い闇へと、意識を失っていった――。
「面白い!」
「これからどうなるの?! 続きが気になる」
そんな風に思ってくださった方、そしてまだ評価を入れておられない方がいましたら、是非是非、下の☆☆☆☆☆から作品への応援お願い致します!
面白かったら☆を五ついただけると、創作への励みにもなります!!
ブックマークもまだな方がいましたら、こちらもいただけると更に嬉しいです!
何卒、どうかよろしくお願い致します。
……そして明日はゴールデンウイーク特別企画の最終日。
最新話ではなく、明日は設定資料だけの更新になりますが、とある告知もあります!!