第三部 第一章 第五話(2)『青氷』
ゴールデンウイーク特別企画 毎日投稿週間! 二日目!
少し先の話を語ろう。
ビョルグ・スキョルがイーリオ捕縛に向かった数日後、シャルロッタの体調が優れないと耳にしたハーラルは、その様子をエッダに尋ねた。
何故かエッダは、その質問にいたく機嫌を良くしたようにハーラルには見えたのだが、彼女のそうした反応の理由は、彼にも意味不明だった。
エッダが、尋ねた以上の様子を具に語ってくれたお蔭で、ハーラルは何となくシャルロッタの容態が優れない事の原因を理解した気になった。
なった、などと確信を持って言えないのは、あくまでそれがハーラルの想像でしかない事を、彼自身が分かっていたからだ。
事ほど、自分は女心というものに疎いのだな、と自嘲してしまう。だがそれはどうやらエッダも同じであるらしく、どうしてか彼女はシャルロッタの容態が優れない原因を、分かっていないようだった。
そこでハーラルは、国家最高錬獣術師のインゲボー・スキョルを呼び寄せる事にした。
玉座の間に招かれて、かしこまるインゲボー。
「いきなりの呼び出しで済まぬな」
「いえ、ところで本日はどのようなお召しでございましょうか? 見ればエッダ様もお見かけ致しませぬが……」
人払いがされ、ハーラルとインゲボーを除けば、ここにいるのはティンガルボーグのみである。
「うむ。ちと、個人的に尋ねたい事があってな……。そちは銀の聖女の見舞いに行ったと聞く。そこで、彼女の体調不良は慣れぬ環境からくる気鬱ゆえ、しばしの時をおくべきだと申し、結果、少しずつ聖女は快方に向かっているとの事」
「はい。陛下もご存知なように、聖女様は永くお眠りあそばしておりました。その後の急な変化で、身体と心、両方が戸惑われたのでしょう」
「成る程な。して、それはその……本当に環境の変化だけ、なのであろうか?」
「え? ――と、申されますのは?」
「いやその、何か別の原因……例えばだ、先頃、余に挑んで来た不届き者がおったろう。オーラヴ皇子を騙ったあの者だ。その、あの時の騒動を目の当たりにした事でいらぬ心労を覚えたとか……。そんなような事だ。そんな何か別の事も、影響があったりするのだろうか?」
ハーラルの真意をはかりかねたインゲボーは、しばしの間目をしばたたかせて、返答に迷う。
皇帝は何を聞きたいのか?
どういう意図があるのか?
この歯切れの悪い言い方は何だ?
数瞬の間を置いて、インゲボーは彼女ならではの直感でひとつの結論に至る。それが確かかどうかは分からない。だが、言い方ひとつで確かめようもあるだろう。
「正直なところを申し上げてよろしいでしょうか」
「うむ、許す」
「あの若者の事は……少なからず影響があると思います」
聞いた直後、喉を鳴らしそうな動きで、言葉に詰まるハーラル。
「しかし心というものは、時としてその本人にさえ分かりかねぬものでございます。自分の思いや考えは、果たして本当に自分が思っている通りなのか。それを思い込んでしまっていいものなのか。しばしばそれは、他者や別のきっかけで露になったり、変節する事すらございます」
「変節?」
「心変わり、と申しましょうか。しかしそれは変わったのではなく、往々にして気付いた、という方が近いものかもしれません。大事なものを見失った人が、本当に大切なものを見つけ出すように、やるべき事が分からなくなった者が、本当にすべき事を見つけ出すように」
「つまりどういう事だ」
「もし聖女様に変化を齎す事が出来る方がいらっしゃるとしたら、それは現在、陛下をおいて他にないのかもしれません」
「余が」
「そして大事なのは、変化を齎そうとする人間は、己自身の変化にも、恐れや躊躇いを持ってはいけないという事です。自分というカラの中にいる人間の言葉や行いは、届かぬ事が多いものです」
「余が自分のカラに閉じこもっていると申すか」
「そうではございません。陛下は陛下のお立場、陛下としての在り様というものがあるかと思われます。しかしそれでは〝皇帝陛下〟としての言葉でしかございません。陛下ご自身の内面からくる言葉であれば、それは聖女様の苦しい心にも届くやもしれません、という事でございます」
ハーラルは押し黙った。
ここまで言ってしまっていいものか。
これはインゲボーにとって賭けであった。
だが、たどたどしい歯切れの悪いハーラルらしからぬ問いに、人払いをしての相談。何より、全幅の信頼と言っていいほどのエッダすら閉め出したこの状況は、明らかにハーラル自身の変化に違いなかった。
イーリオ、シャルロッタ、ハーラル――。
どれだけ立場の違いや宿命はあれど、彼らも年頃の若者らしい悩みを抱えていると、インゲボーは強く感じた。それは時として、若者にとっては世界と秤にかけても釣り合わないほどの重さを持った苦悩なのだ。
だったら、そんな青々しい悩みだからこそ、真摯に向き合おうと彼女は考えた。
まだ、ジョルト解放のお願いを口に出せる段階ではなかったが、これも積み重ね。エッダではのれない繊細な悩みを打ち明けてくれた今だからこそ、ある意味別の形で信頼を得る事が出来るかもしれなかった。
「どうすればいいと思う」
「そうですね……お見舞いに行かれるなど、いかがでしょうか」
「そんな程度でいいのか」
「そんな程度だからです。心の距離を縮める――文字通り、その一歩にすればよろしいかと」
眉間に皺を寄せ、ハーラルは目を閉じて沈黙する。
「分かった。聞きたい事は聞けた。礼を申すぞ、インゲボー」
「滅相もございません。また何かわたくしめでよろしければ、何なりと御呼び下さいませ」
「ああ、また頼む」
一礼をして、玉座の間から退がろうとするインゲボー。
しかしその背中に、ハーラルは唐突に思いついたような声をかけた。
「あ、ちょっと待て」
振り返る若き国家最高錬獣術師。
「はい。何でございましょう」
「その……その、何だ……。もしも、余が見舞いに行くとすれば、何か持って行った方が、聖女は喜ぶかな。どう……だ?」
しばし考え込むようにした後、インゲボーはつとめて明るくこう言った。
「聖女様は、身を寄せていた侯爵家で、お菓子を召し上がるのを喜んだ、との話を聞いた事がございます。何かそのようなもの――身体に負担にならない甘いものでも持参されては如何でしょうか」
「菓子、か……。なるほど、あい分かった。呼び止めて済まぬな。またお主に意見を聞かせてもらうやもしれん。もう、退がって良いぞ」
最後の一言に、インゲボーは心の中で小さな喝采を覚えた。
何が正しくて、どちらの想いが良いのかは分からない。ただ、恋路というものは当事者でしか結論を出せぬもの。その点について、ある意味彼女は誰の味方でもなかったのかもしれない。
※※※
話の時を、少し戻す。
山賊団〝山の牙〟の助けを受けたイーリオは、彼らの事情をひと通り聞いた後、自分はどうであれ、むしろ彼らがどうしたいのかを、逆に尋ねた。
「本当に会いたいのはあの赤毛の馬の男だよね、ガボール」
まだ顔色の良くないガボールだったが、山の牙の女首領グレタの問いに小さく頷く。
彼ら山の牙の話によれば、ここはゴート帝国領でもかなり南の方まで来ているらしい。
追いに追われた結果、既に帝都から相当に離れた地まで来ていたようだった。
「ジョルトさんだね」
「ジョルト……」
「そう、ジョルト・ジャルマトさん。ジェジェンのアールパード大首長の長男で、僕の友人」
頭に手を当てたガボールは、瞑目したまま動かない。
しばらくして、おもむろに呟いた。
「何か、聞いた事がある気がする……。どこかで……誰かが……。でも、まだ分からない。分からないけど、やっぱり僕は、イーリオ、君に協力する事にするよ」
グレタは頷き、周りの山賊たちは露骨にげんなりした顔を浮かべた。
イーリオからすれば、ガボールと彼の〝アーヴァンク〟は大変心強い味方であるから有り難い申し出だったが、グレタ以外の山賊にとっては、とんでもない厄ネタを拾ってきたようなものだろう。
実際、彼らの連れる鎧獣も彼ら自身も、決して実力のある方ではない。というより言ってしまえば戦力外。戦いで役に立つ事など有り得ないだろう。
ただ、この後彼らは別の意味でイーリオの道行きの助けになった。
とりあえず、ジョルトを助けるにせよシャルロッタに再び会いに行くにせよ、何か方法を考えなければならないとイーリオは考えた。そして何より、落ち着く場所が必要であると。
となれば帝国領内でも、帝国側の目が行き届かない場所に行くのが最良だと言える。それに対し山賊達は、このまま南、かつて自分達が縄張りにしていた辺りに行くのがいいと教えてくれた。
そこはイーリオが、前の山の牙を滅ぼした付近。
ホルテと言う名の街の辺りだ。
そもそも彼ら山賊が跋扈出来ていたのも、その一帯に帝国側の目が行き届かなかったからお目こぼしされていた、という実情もある。それは今でも変わらないらしい。
そして山賊達が助けになったのは、その情報というより、むしろここからだった。
彼らが道行きの先導に立つと、その後襲撃は驚くほど減ったのである。
サイモン達と行動していた時も、なるべく敵と出くわさないように心がけていたつもりだったが、やはりこういうものにも達者かそうでないというのはあるものだ。
何より、彼ら山賊は裏街道しか歩けぬ身で、こうした追撃者の目を躱す事には長けている。
ただ、敵側には灰堂術士団なる特殊な術を使う連中もいたから、完全に遭遇しなかったわけではなかったが、それでも三日で一度ほど。イーリオ、ガボールの二人だけで対処出来るほどであった。
そしてやっと、ホルテの街近くにまで、彼らは辿り着く事となる。
山間を流れる大河の支流で身体を休め、街に着いてからの事を話し合う一同。
休める場所を確保出来たら、まずはザイロウやアーヴァンクを診てもらわなければならない。
調整師と呼ばれる錬獣術に精通した職の者か、もしくは錬獣術師か。
特にザイロウよりも、アーヴァンクの方が難しいだろう。
しかし今のまま放置すれば、そのアーヴァンクですらこちらの足を引っ張る事になりかねない。何せ獣能を使うと、中のガボールの記憶がなくなる――などという、とんでもない副作用があるのだから。
となると、相当に腕の良い者に診てもらうのが一番であり、実はイーリオには、それについて心当たりがあるのだった。
そんな事を話していた時――
目の前にある川は、横幅もかなりあれば底も相当に深い。
少しだけ下流の方に目を向ければ、水流の落ちる激しい音が聞こえるところから、おそらく滝になっているのだろう。音から察するに結構な高さがあるのかもしれない。その分だけ流れも急で、あまり側には寄らないようにしていたのだが、ふと、山賊の一人が味のある表情で、怪訝な目を遠くに向けていたのだった。
仲間が彼に「どうした?」と問うと、
「いや、ほら、アレ……。何か流れてきてんのか?」
と、滝とは反対の、川の上流を指でさした。
イーリオもその方向に視線を向ける。
流れが速いので川面も荒れ気味だが、それでも飛沫で何か大きなものが動いているのが分かる。
岩? 思ったのは皆同じだろう。
だがそうじゃないと、速度が告げている。
ハッと気付く間もないほどの勢いで、その飛沫がすぐ側まで迫ってきた。
「避けて!」
と、イーリオが叫ぶのがかろうじてだった。
川面が瀑布のように弾け、いくつかの巨塊が飛び出してくる。
川原を吹き飛ばし、辺りに石と濡れた土砂が礫となって飛び散った。
その只中に、白い影。
イーリオはザイロウを側に寄せ、即座に鎧獣騎士となった。
確認するまでもない。敵からの襲撃は明白。それ以上に危険すぎる圧迫感が、項の毛をチリチリと逆立てているように感じるほど。
ガボールもグレタを庇いながら、アーヴァンクを側に寄せる。
すぐに「離れて」とグレタに告げると、彼も鎧化した。
二人が見つめる先に、三つの巨影。
高さは十四フィート(約四・三メートル)にもなるが、高さばかりでなく壁のような大きさがあるため、山の牙の山賊連中は、その場で腰を抜かしていた。恐ろしさに声もでないようだ。
雪のように純白の体毛。
身に纏う授器は碧翠色で、三騎とも音叉のような刃先をした、二又槍を持っている。
極北に棲む最大級の捕食動物。
ホッキョクグマの鎧獣騎士が、水中から躍り出たのだ。
「そ……その紋章……! まさか……!」
山賊の一人が唇をわななかせて呟く。
ホッキョクグマ達の鎧に施された、斧を振るう熊の紋章。
「ベ……ベ……ベルサーク騎士団……!」
恐怖のあまり己の鎧獣の存在すらも頭から消え去り、足をばたつかせるように川岸とは反対の山側に逃げようとする山賊ら。
しかし振り返った山肌の方から、別の影が悠然と姿を見せた。
途端に口をあんぐり開けて、山の牙の連中は動きを止める。
巨大な獣と、大柄な男。
獣は体高だけで五フィート(約一・五メートル以上)はあるだろうか。体長は十三フィート(約四メートル)にもなる信じられない巨大さ。
全身には白い筋の入ったアメジストに似た紫色の鎧を着ている。後ろのホッキョクグマと酷似しているが、顔つきや体格がどこか違った。
その背に跨がる男も巨漢。
だが、褐色の髪にオレンジの瞳をした顔立ちは、体型に不釣り合いなほど貴公子然としていた。
その顔を見て、イーリオも目を見張る。
「貴方は……北央四大騎士団の――」
帝都で自分に協力を申し出てくれた、あの若き団長。
「ビョルグさん……!」
巨獣の背から降りたビョルグは、鉄面皮の冷血な瞳でザイロウを見つめた。
「帝国から逃げる事が出来るなど、本気で思ったのか」
巨獣――古代絶滅種・暴帝北極熊が頭を撫でられ目を細める。
ヴォルグ六騎士のリヒャルディスが駆る〝ヤロヴィト〟と同じ種。そして、帝国でもヴォルグ六騎士に並ぶ者の一人。
「お前達を残らず始末する。我が騎士団と私の〝ヴェレス〟が」
ベルサーク――即ち〝狂戦士〟の異名を持つ人獣騎士とその団長が、最大最強の壁となって立ち塞がっていた。