第三部 第一章 第四話(2)『友達』
斬り伏せた敵の数は、これで何十騎になっただろう。
ゴゥト騎士団や灰堂術士団と名乗るオグール公国の刺客らに襲われてから数えると、その倍はくだらないだろうが、今のイーリオにそれを数える気は起こらなかった。
灰堂術士団らに襲われたのは三日前の事。
あの後、激しい襲撃を何とか振り切り、三騎は撃退をしつつかろうじて敵の手から逃げ出す事に成功したのだった。
とは言え、あの厄介な灰堂術士団なる鎧獣術士三騎は誰一人仕留められなかったし、結果、ザイロウだけでなくサイモンとエドガー二人の鎧獣も相当に疲弊をしてしまう。
逃げ切った後でイーリオは二人の軽挙に散々小言を言ったが、それをこの二人がどこまで真剣に受け止めたかは分からない。相変わらずのふざけた言動だし、油断するとまたしょうもない行いをしでかしそうで気が気ではなかった。
そもそもこうまでして逃げてどうなるというのか――。
怪盗騎士ゼロに無理矢理引きずられて脱獄したとはいえ、何かアテがあるわけではない。
逃亡の経路だって無茶苦茶だ。
襲われるから振り切ろうとしているだけで、何処に行けばゼロと合流出来るのかは分からないし、大体ゼロに会ったところでそこから先の展望があるわけではなかった。
しかしそうこうする間もなく、逃げた先で野宿していると、今度は別の追跡集団からの襲撃に合いこれをからくも撃退。
昨日一日だけは何もなく過ごせたが、今日は朝からグリーフ騎士団の追手に追撃を受けている。
既に己やザイロウだけでなく、連れの二人とその騎獣もヘトヘトだろう。
こうなってくると、果たして脱獄した事は正解だったのか、それすら正誤の判断がつかない。
ハーラルに完膚なきまでに敗北し、シャルロッタからも拒まれた。
一体自分は何をしているのか。
イーリオの瞳の先には、何の明るい光も見えてはこなかった。
落ち込んだ肩を荒い息で上下させていると、こちらも追手を片付けたエドガーが近寄ってくる。
「しっかし、何でこうも襲われるんだろ? いくらなんでも襲われすぎじゃね?」
確かに彼の言う通りだった。
灰堂術士団らに襲われたのは、まあきっかけがはっきりしているだけに分からなくもない。けれどもその後からは、なるべく身を潜めるのに適した場所を選び、隠れ忍んで逃げているつもりなのに行く先々で追手に見つけられてしまう。
いくら感知に優れた追跡者がいたとしても、二日とあけずに襲撃を受けるのはあまりに多過ぎた。
……それがまさか、あの灰堂術士団らの探査術によるものだとは、この時の三人に分かるはずもない事であった――。
※※※
逃亡したイーリオらがまだ捕まらぬとの報告を聞き、とっくに捨て去ったつもりの感情任せな一面が顔を覗かせそうになるハーラルだったが、剥き出しになるぎりぎりのところで何とか自制していた。
天下の大帝国が、いち逃亡者を捕らえきれぬとは騎士団の沽券に関わる事態だったが、そればかりにかまけてもいられないからだ。
戴冠する前から皇帝位に就いていたようなものだったから、公務的に変化はなかったが、彼にはシャルロッタとの婚約、そして婚礼という国事が控えている。
大国の君主が伴侶を娶るとなれば、それは個人的な恋愛事情というより政治的な色合いの方が濃くなるもの。ましてや新皇帝の相手なら、各国がこぞって皇女王女を差し出そうとするのが通例だったし、そうなれば尚の事、国同士の力関係に左右されてしまう。
〝銀の聖女〟シャルロッタとの結婚はそれらへの牽制にもなるし、伝説に彩られた〝聖女〟が若き皇帝の妻になるとなれば、民心に訴えるものも小さくないだろう。
さて、その相手であるシャルロッタは、三皇家のひとつホルグソン家の屋敷で、上にも下にも置かない大事さで、牢獄住まいのような日々を送っていた。
周りは驚くほどに慌ただしく立ち回っていたし、彼女もそれに伴って今日は数十着目のドレスのためにこちら、明日は使者との対面のためにあちらと、幽閉されていたわけでは決してなかった。
だが、自由さはあろうがはずがない。
何より、心の自由という意味では、囚われた囚人も同然だった。
だからだろう。
心が虚ろなせいで自分の疲労に気付けないでいたのは。
無理をした、というより、慣れぬ状況をそうと理解出来ぬほどの心理状態であった事に、体の方が参ってしまったのだ。
ある朝、シャルロッタは寝台から起き上がれなくなっていた。
ホルグソン大公家だけでなく、宮廷からも急いで薬師や名のある医師が呼ばれたが、体に異常は見受けられなかった。病いの兆候もない。皇帝家お抱えの最高医師ですら彼女の症状が分からなかったが、それもそうだろう。
心の病に効く処方は、医術の内にはないのだから。
後の世で言う気鬱というものであり、どうした事かと周りの方が焦った。
しかも残念な事に、あの人心を翻弄する〝黒衣の魔女〟エッダですら、心を患う娘の症状にどう手を打てば良いか分からず、結果、ある人物が呼び出される事になる。
その日、いつもの治療師とは違う女性の訪れに、ホルグソン大公家では戸惑いの色を隠せないでいたが、あのエッダの命で寄越されたのだと聞けば、拒む訳にはいかなかった。
次期皇后に相応しい立派で設備の整った、だがどこか温もりのない居室に、その女性が入室する。
寝台から身を起こそうとするシャルロッタに、丸顔の女性は「そのままで」と気遣う笑顔を向けた。
「失礼致します、公女様。私は国家最高錬獣術師のインゲボー・スキョルと申します」
「錬獣術師の方……」
笑顔を浮かべたまま、インゲボーはシャルロッタの寝台に近寄り、添え付けの椅子に腰を下ろした。そして付き添いの者数名に、頷きで退出を指示する。
ここから先はインゲボーに任せるよう。
それがエッダからのお達しだった。
「病いで伏せっておられる殿下に、錬獣術師風情が顔を出すなど奇妙な事とお思いでしょう」
「いえ……。私の方こそ、このような状態になり、皆様にさぞご迷惑がかかってるかと思うと……」
「そんな事、貴女様はお気になさらないでくださいませ。――実は私は、貴女様の事をよく存じ上げているのです。殿下は覚えていらっしゃらない……いえ、お目覚めになっていなかったので当然でしょうが」
「……?」
帝城アケルススの地下で、建国以前より眠る聖女――。
ハーラル皇帝即位前の儀式〝戴冠の序〟に、インゲボーも立ち会っていた。
その事をインゲボーは言ったのだ。
それはシャルロッタが、出自不明の水槽の中、碧翠色の液体に浮かび眠りについていた時の事。彼女が彼女として目を覚ます以前。
シャルロッタが水槽から目覚め、アケルスス城の地下から出奔したのはその後である。
「貴女は、眠っていた頃の私をお知りでしたか……」
「はい。私がここに罷り越しましたのも、当時、あの水槽の管理を任されていた私なら、貴女様のご不調に何か気付く事があるかもしれぬと、そう城の者が考えたからです。でも――」
「でも?」
「私に出来る事は、多分……何もないでしょう」
「?」
インゲボーは努めて和やかな笑みを浮かべた。
シャルロッタの知る女性の錬獣術師といえばレレケが真っ先に思い浮かぶが、彼女とはまるで異なる人間に見えた。レレケのような芝居じみた言い回しも大仰な仕草もない。どちからと言えば中流貴族の淑女のような、落ち着いた品性さえ感じさせる女性。
けれども、こうやって気遣う微笑み方は、どことなくあの奇妙で優しい彼女を思い起こさせ、シャルロッタの警戒心を少なからず弱めていった。
「これは私の、ただの勘です」
「勘?」
「ご無礼な言い方になってしまいますが、貴女様が公女でも聖女でも、一人の女性なのは私と同じです。ですから、貴女様が伏せっておられる原因が、医薬や施術でどうにかなるものではない事くらい、何となく気付きます。おそらく原因は、心の中にある。――そう、大切な人への想いのようなものではないかと……。いかがでしょうか?」
インゲボーの声色は少し低くかすれた音が混じり、優しい響きを持っている。
僅かな無言の時が流れ、シャルロッタは顔を逸らして俯く。
目を閉じているのが何のためであるか、問う必要はなかった。
「私に何か力になれるような事は、ないかもしれません。けれど、もしよろしかったら、お聞かせ願えませんでしょうか? 貴女様とあの若者の話を」
インゲボーの言葉に、シャルロッタがゆっくりと顔を上げる。長い睫毛が濡れていた。
「私は彼の事を詳しく知りません。でも、少しだけ会った印象では、とても優しそうな、真面目で一生懸命な青年なんだろうと感じました。決して国家に対して陰謀を目論んだり、争乱の種を撒くような人ではない。それだけは少し会っただけの私にだって分かります。――だって彼、初対面の私の弟にこう言ったんです。〝巻き込んでしまい、申し訳ありません。でも、どうかお力を貸してください〟って」
その時のイーリオが目に浮かんだのだろう。
瞳に浮かぶ感情の波が、堪えきれずにシャルロッタの両目からこぼれ落ちそうに揺らいでいる。
今更目に浮かぶ――。
四年前より背が伸び、逞しい青年になったイーリオの顔が。
変わっていないのに変わった。四年の間に変わったあの人の顔が。
ずっと会いたかったはずの――イーリオ。
「シャルロッタ様はどのように想っておられますか。彼の事を」
「どう……」
「同じ、一人の女として答えてください。私も貴女様を聖女や公女としてではなく、一人の女性として話します。構いませんか?」
真っ直ぐ、真摯な目で見つめるインゲボー。
色々思う所はあれど、この場ではただの〝女〟として剥き出しの自分をぶつけるのが最も正しい。そう、インゲボーは考えた。
それが通じたのだろう。シャルロッタは頷きで返す。
「貴女はまだ、彼の事が好き?」
目を逸らし、心の揺らめきが表にあらわれる。
いや、そうではなかった。
思い出していたのだ。イーリオの事を。彼との思い出を。彼と出会ってからの事を。
水槽から目覚めて、彼がいた。
彼を初めて見た時「ああ、この人だ」と思った。だから彼に言った。ずっと私といて欲しいと。彼もそれに応えた。
好きと言うのなら、最初から自分は好きだったのだとシャルロッタは思う。
でも、それはどこか夢の中で見ている、頼りげない幻のようで――。
それが好きかどうかと問われると、どこかよくわからないもののように思えた。
でも――
「あの人は……私をずっと、探していた……」
四年もの間離ればなれになって、自分の事などもう忘れるか諦めていてもおかしくないはずだったのに、彼は以前と変わらず――いや、以前よりもっとひたむきに、自分に会いに来てくれた。
そうだ。
私が〝私〟になって、初めて自分は己に向き合ったのだ。
幻のように儚げな、夢見心地の〝好き〟ではない。
彼が再び表れたあの時――
そして牢獄に繋がれた中――
そんな絶望的な状況の中でさえ――
――私はあの人を、もっと好きになっていた。
こぼれ落ちた心の滴に、インゲボーは
「そう」
とだけ呟いた。
しばらく時が過ぎ、シャルロッタが落ち着くのを待ってから改めてインゲボーは尋ねる。
「そんなに想い合っているのに、一緒にはなれない……。それは私が力を貸してどうにかなる問題でもない。そうですね?」
シャルロッタが小さく頷く。
「良かったらその理由――無駄だと思われるかもしれませんが――私にお聞かせいただけないでしょうか?」
しばしの沈黙の後、シャルロッタの首がゆっくりと左右に振られた。
追求すべきかどうか。
それは個人的な理由なのか、もっと別の何かによるものなのか。
インゲボーの直感は、少なくともそれこそが今回の一件の本質を知る、大きな手掛かりになると告げていた。でも、無闇に追いつめて彼女の心をより深く閉ざしてしまっては元も子もない。
「私には、弟がいます。血の繋がってない弟です。今は四大騎士団の団長にまでなっていますが、元は私の父が両親をなくし、孤児院に連れられた知人の子供を引き取って養子にしたんです。幼い頃から、実の弟以上に仲良く育ったんですが、いつからだったか――お互いに自分達に血の繋がりがない事を別の意味で意識しはじめました」
脈絡なく話し出したインゲボーの自分語りに、シャルロッタの俯いていた顔も徐々に上を向く。
「血の繋がりはなくとも、戸籍上はあくまで弟。どれだけお互いの気持ちに気付いていても、違えてしまえば道ならぬ恋になってしまう。だから私も弟も、決して実らぬ想いを抱えて、ずっとただ想い合ってだけいるのです。……今でも。――聖女である公女殿下と自分が同じだなんて言いません。でも、私は私なりに、殿下のお気持ちを分かるつもりです」
黙って聞いていたシャルロッタが、再び顔をそむけた。
こんな身の上話で彼女の心が開けるとは思ってなかったが、それでも一縷の望みに縋ろうとしただけ、インゲボーも落胆を隠せない。
けれどしばらくした後で、おもむろにぽつり、とシャルロッタの口から声がこぼれた。
「ひとつ……お願いがあります」
「何でしょうか」
「私と彼に巻き込まれる形で、ジョルトという方も帝国に捕らえられていると聞きます。出来ればその方を、解き放っていただけませんでしょうか?」
イーリオに協力した、ジェジェンの御曹司。インゲボーも会っている。
だが、彼は外交に利用するため厳重な警備が立てられ監禁されていた。しかも先日の脱走騒ぎがあったせいで、彼の見張りは一層厚くなっている事だろう。
政治的な手段で解放するには、インゲボーの立場は宜しくない。むしろ脱走などより難しいだろう。とはいえ、脱走の幇助など、今の彼女に出来るはずもなかった。
でも――
「どこまで出来るか分かりませんが……出来る限りの事はしてみましょう」
口だけであってもないよりはマシ。
無論、空約束で終わらせるつもりもない。本当に出来る限りの事は彼女もしてみるつもりだった。
「交換条件……というつもりはございませんが、でしたら私も殿下にお願いがございます」
「何でしょうか?」
「例え苦しくとも、どうか元気におなりくださいまし。それが私からの願いです」
シャルロッタの顔が切なげに歪む。
まだ――
こんな中でもまだ――
自分を励ましてくれる人がいる――
「それともう一つ」
「はい」
「私と友達になってくださいませんか?」
少しの間を置いて、シャルロッタが大きく頷いた。
無論、二つの願いに対する返事である。
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もうすぐ大型連休GW。
でもコロナで外出も自粛、ツラい……。
そんな退屈さを少しでも紛らわせられたらと思い、年始に続いて今回も行います!
毎日投稿SP!
今回は5月3日(月)〜7日(金)まで!
最後の7日は通常の金曜投稿で、設定集だけの公開ですが、あとがきに告知もございます。
なので楽しみにお待ち下さいませ!