第三部 第一章 第三話(3)『暗夜騒擾』
春間近の帝都の夜という事は、未だ残雪の暗がりと同義である。
特にその夜は月も雲間に隠れ、仄かな明かりさえも闇に吸い込んでしまうような静謐さで満ちていた。
ゴート帝国帝都ノルディックハーゲンは、難攻不落の都市である。
閉じられたわけでなく、メルヴィグ王都のレーヴェンラントのように、開かれた大都市だが、ひとえに防衛網が厚いというのがあった。
都市の主要な各所には、ヴォルグ騎士団の内、必ず家軍の一つが近衛部隊として配置され、更に要所要所でゴゥト騎士団も警邏の任務に着いている。また、持ち回りで右翼、または左翼大隊のヴォルグ騎士団が都市防衛に必ず配属されてもいるので、文字通り質と物量双方でこの都市の防御は固いのだと言えた。
更に言えば、皇帝即位が終わったばかりの今、帝都には北央四大騎士団の全団長格が居合わせてもいる。つまりこの時にだけ限って言えば、今のノルディックハーゲンは世界で最も治安の良い都市であったかもしれない。
だから油断があった――と決めつけるのも酷な話だろう。
誰がどう考えても、あの皇帝即位で起こった騒ぎの直後に、何か別な事が起きるなど、考えつくはずもないのだから。
火の手があがったのは、深夜の二時頃。
誰も彼も眠りの神が誘う庭に招かれている刻限。
アケルスス城の東側で爆音が谺したと思ったら、城壁の一部が吹き飛ばされていたのだ。
当然、城内は蜂の巣を突ついたような騒ぎになる。
事故か? 事件か? 一体どうした?
そんな声が各所で飛び交い、下の者より上の者、それも中間管理の者ほど混乱をきたして狼狽えが頂点に達した時。
今度は北側のはずれで警戒に当たっていた巡邏の者らが、正体不明の賊に襲われたと報せが入る。
立て続けに起こる正体不明の襲撃に、帝城の騎士らもどう判断すべきか躊躇してしまった。しかし何がどうであれ、防衛力の物量で今の帝都に勝る地はないのだ。
北と東、それぞれに向けて騎士団員らが派遣されると、それぞれ違った待ち伏せが彼らを出迎える事になった。
まずは東。
騎士団員が二〇数騎おしかけると、今度は立て続けに新たな爆発が彼らを包み込んだ。
壁が粉々になり、足場も崩れてその場で動けずにいる帝国騎士たち。
もっとも、堅牢堅固な鎧獣騎士であれば、この程度で致命傷になる事などなかったから、あくまで足止めされたほどの結果しかなかった。
それでも〝仕掛け〟の当人であるピカレとスモレットからすれば、これは上々すぎる結果だったと言えよう。
彼らは自らの齎した破壊の爪痕を確認すると、次の〝現場〟に向けて移動を開始する。
次に北。
向かったのはゴゥト騎士団と、左翼大隊のブーゲンハーゲン家軍を合わせた十数騎の騎士たち。
こちらは東側と異なり、はっきりと「襲われた」との報告が入っている分、向かう面々も気を引き締めて油断などなかった。
だが、彼らが到着した直後。
闇夜を味方につけたその〝二つの影〟は、連携を緊密にした大陸屈指の騎士たちを、次から次へと倒していったのであった。
背後。かと思えば、今度は上。
驚く間もなく右、左、と攻撃の予測がまるでつかない。
どころか、敵の姿形が掴めない。
夜目の効く鎧獣騎士が少なかった、というのもあっただろう。夜行性ならば体構造上、闇夜であろうが僅かなりとも視認できただろうが、ここに派遣された騎士らに夜行性の種別はあまりいなかった。これは指揮をした中隊以下の部隊長の手落ちであり、襲撃者にすれば運も味方につけたと言えただろう。
「これだけの闇夜でも、やっぱ俺たちは輝いてるな。戦場における星。まさにスターだな」
影の一つが言った直後、鼻先スレスレで別の影の剣先が掠める。
「うおっ! アッブねえぇぇ。何すんだよっ!」
「いや、ほんとに星にしてやろうかと思って」
「馬鹿? お前バカ?! てか、今マジもんの殺気籠ってたぞ!」
「惜しいなあ。もうちょっとで夜空のお星さまになれたのにねっ♪」
「そのツラで可愛く言うな! アホか! ……てか、そんなでも頼りになるんだから、余計に腹が立つなぁ」
丸みを帯びたシルエットの方が節棍のような武器で敵を吹き飛ばせば、捕食獣らしい輪郭の方が、両手剣で血の流星を巻き散らす。
おそろしく強い――
戦っている最中にも関わらず、会話はふざけきったもの。だが、それが許されるほどの手だれ。
歴戦の猛者である帝国騎士らが手も足も出ないほどだった。
「まあ、その内ヤバい奴も出て来るだろうから、そん時ゃ頼りにしてるぜ、相棒」
丸い方が声を低めて格好つけると、もう一騎が「ういぃ」と茶化した相槌で返す。
「何だよそれ」
「いやあ、えらくカッコつけたなあと思って」
「つけてねーわ。これでも健康優良悪党稼業の俺達だぜ。ちょっとやそっとで砕けない、ダイヤよりも固い絆の俺らに、勝てるヤツなんざいねーよ」
「うえい、また言った。まためっちゃカッコいい事言った。フゥ~♪ えらくカッコいい台詞言うよなぁ。へえ、どんなヤツが言ってんだ? どれどれ……。――って、うわおガッカリ」
「振り返って仰け反るな! いや、仰け反りながら攻撃躱すな!」
「ガッカリ」
「ガッカリって何だよ! 何? 人の頭指差して」
「古代の土器」
「土器?! 俺の見た目が土器ってか? どこがだよ! 愛くるしくもスマートなビジュアルだろーが!」
「どこがスマートだよ。どっちかってーと墓に埋まってるコロコロした土器じゃねーか。スマートの意味を世間様に相談もせず勝手に変えるなよ」
「人の鎧化を出土品みてーに言うな!」
無論この二騎は、ゼロに協力している例の二人組、サイモンとエドガーである。
彼らに課せられた役目は撹乱。
堅固な警備に対し、生じさせた隙を衝く事。
そして肝心のゼロはと言えば――
爆発音がみしりと埃を落として牢屋にも伝わったが、それが何であるか、暗がりでうずくまるイーリオには分からなかった。分かろうともしなかった。
だが、光も射さぬ暗闇に立つ濃密な気配だけは、虚ろな彼でも無視出来ぬものだったらしい。
顔を上げ、天上にすら届きそうな黒い巨体を見つめたものの、それが誰であるか、イーリオは分からなかった。
「……」
影は見た目通り、人間を超えた怪力で鉄格子を苦もなくひん曲げると、腰を屈めてイーリオに向き合う。
「立てるか?」
「……?」
「おい、俺だよ。忘れたってのか、まさか」
「その声……確か、泥棒騎士の……ゼロ」
「泥棒じゃねえ。怪盗騎士ゼロだ。お前をここから助けに来た。さ、行くぜ」
鎧獣騎士らしい大きな手の平を差し出す、人豹のゼロ。しかしイーリオの反応は鈍かった。不思議そうな目で豹頭を見つめるのみ。
「どうして、君が……?」
「ま、そりゃ当然の質問だよな。――頼まれたんだよ、ある人に。で、俺は俺で目当ての品を手に入れるため、お前を〝盗みだす〟のに協力したって事さ」
「ある人……?」
「おっと、そいつは言えねえぜ。名前を伏せてくれってのも依頼の内だからな。――さ、もうお前の鎧獣も逃がしてある。厄介なのが出る前に、とっととズラからぜ」
半ば強引にゼロはイーリオを肩に担ぐと、巨体とは思えぬ俊敏さと軽やかさで、一切の音もたてずに牢屋を後にした。
イーリオは彼で、自分の鎧獣であるザイロウも逃げ出しているという言葉に反応し、ゼロの言葉を受け容れた、というのもある。しかし、気になる事はまだあった。
「ちょ、ちょっと待って。僕はともかく、もう一人、ジョルトさんは? もう一人ジョルトさんって仲間がいるんだ。彼はどうなったの?」
押し殺した声で、だが抵抗気味にイーリオは問いかけた。
「そりゃ、無理だ」
「え? 無理? 無理って――」
「お前のお仲間は知ってるよ。あの赤毛の馬の騎士だろう? あいつはお前より厳重な――どっちかってえと賓客に近い待遇で拘束されてんだよ。牢屋なんかには入れられず。多分、お前より何か利用価値があると値踏みされたんだろうな。だから、あいつまで助けるってのは無理だ」
「そんな」
「それに時間もねえ。依頼者が絶好の機会を作ってくれたからここまで出来たが、普通ならお前を助け出すなんてマネ、お宝をくすねるより難易度高ぇんだぜ。お前一人が精一杯だ。あの馬のアンちゃんについてはまた別の方法を自分で考えりゃいい。今は何より、お前は自分の事だけ考えてな」
答えながらも、既にイーリオを抱えたゼロの身は、帝城の敷地を抜けている。
ここからは、静まり返った街路が遠く広がっていた。
身を隠す場もあるだろうが、追手にとっては追跡のし易い構造になっていた。何せアケルスス城を中心に放射状に広がっているのが、ノルディックハーゲンの特徴なのだ。しかも各騎士団の騎士団堂や詰所も配置されているし、地の利は当然、帝国側にこそあったからだ。
その闇夜の街を疾風の速さで駆け抜けるゼロと、彼の纏う紅斑豹のオルクス。
紅斑豹とは、ヒョウの黒い体毛部分が色素変化で赤茶を帯びているものの事をいう。
オルクスはクロヒョウだから全身が黒く、その分毛先が赤茶に薄くなっているように見える。
赤茶の黒豹騎士はかなりの速度で走っているにも関わらず、気配を気付かれる心配もないほどの無音だった。
気付けば、城の騒ぎも音がやんでいる。おそらくサイモンとエドガーの二人が、こちらの動きを察して脱出をしはじめたからだろう。落ち合う先は帝都の外。まずはそこまで行けるかどうかだ。
そこへ、路地を蹴立てる無数の足音と、金属的な鎧の擦れ合う音が、ゼロ=オルクスの耳朶を打った。
――チ、もうか。
進行方向をずらし、別の経路を選ぶゼロ。
こうなる事は予想済みだが、それでも手が早いと感じざるを得ない。さすがは最強国家の首都である。
足音と気配は、分刻み――いや秒刻みでどんどん広まっていく。
やがてゼロたちは、建物の影に身を潜めて、そのまま身動きの取れない状態になってしまった。
――あいつらが来てくれさえしたらな。
サイモン&エドガーの二人がいれば、この包囲網もどうにかなるかもしれない。
ふざけた言動ばかりだし、捉えどころのない二人だが、騎士としての実力は目を見張るものがあった。だから囮として働いてもらったのだが、ゼロでは戦って切り抜ける事が出来ない。
何せゼロは剣を取っての戦いが出来ないからだ。
「おい、ここだ!」
身を潜めた路地の反対側で、帝国の鎧獣騎士が大声をあげた。
夜目の効く獣なのだろう。
警戒を怠ったというより、包囲網が狭まってきているという方が正しかった。このままでは捕まえられるのも時間の問題だ。
路地から屋根、屋根からまた別の暗がりへと、激しい動きで追手を振り切ろうとするが、すぐに足が止められてしまう。
気付けば、大通りにしか逃げ道がない状態に陥っていた。
――くそ、俺とした事が誘い込まれたってのかよ!
殺気はかつてないほど濃厚。
――せめて、こいつの鎧獣まで辿り着けてれば……。
ゼロは戦って突破口を切り開けないが、あの銀毛の大狼がここに居れば敵陣に向かっていく事も出来ただろう。それほどの実力はあるとゼロも分かっていたが、如何せん、大狼の鎧獣に関しては、ピカレとスモレットに任せてある。つまり、どのみち帝都を抜け切らないとそれに頼るのすら不可能という事だった。
やむを得ず、大通りの方に駆け出ると、そこには数十騎以上の鎧獣騎士が、十重二十重と待ち構えていた。
その中。
小型の人狼騎士が、剣を構えもせずに一歩前に出た。
「ここまでだ、賊よ」
低く無機質だが、貴族特有の流暢な発音の公用語。
「おいおい……まさか、ヴォルグ六将かよ……!」
ヴォルグ六騎士の一人。
第二外征獣騎総長エゼルウルフ・ヘリングと、彼の駆る〝ハティ〟だ。
別名〝戦場の支配者〟。
あらゆる戦闘状況を予知し、全ての敵の動きを逃さないという彼につけられた二つ名は、伊達ではない。獲物を仕留める狩人として、これほど恐るべき人物はいないだろう。
前後左右、屋根の上まで、至る所に帝国騎士の姿。
完全に万事休すだった。
こうなればと、腰に吊るした剣の柄に手をかけようとするが、そこで指先に震えが起きる。
いや、仮に己の心に打ち克つ事が出来たとしても、これほどの敵勢を前に、何が出来るというのか。
「もう、いいですよ」
担がれたイーリオが、諦めの声をかけた。
普段のゼロなら、尻尾を巻いて逃げるかさっさと観念していた事だろう。無理な事はしない。危険な橋は渡ろうとも、命をドブに捨てる真似は彼の性分ではなかった。
けど、何故だろう。
本来なら諦めの言葉を一番言わなそうなイーリオが、こうも早々と白旗をあげたからだろうか。いつものゼロらしくなく、ここで匙を投げる一言が、どうしても喉から出て来なかった。
――俺は誰だ? 大陸を股にかける怪盗じゃねえのかよ。
しかし、いくら彼が息巻いても、状況が好転するはずもない。
「さっさとその詐欺師を降ろせ」
エゼルウルフ=ハティが、剣を抜いた。
突きつけられる剣砕きの剣。
考えを巡らせる。
何も浮かばなくても必死に考える。
その時だった――
ゼロの目の前。エゼルウルフらの背後。
包囲網の騎士達が、巨人の腕で薙ぎ払われたように、吹き飛んだのは。
つんざく轟音。
宙を舞う帝国の人獣騎士たち。
その中央――
闇の中にあって、なお暗黒の色をした騎士が、そこにいた。
「黒騎士――!!」