第三部 第一章 第三話(1)『投獄』
拒絶の言葉が、繰り返し脳内で再生される。
どうしてなのか。何故なのか。
この四年間、想い続けていたのは自分だけだったのか。
思い上がりでしかなかったのか。
――イーリオが、一番大好きだよ。
そんな風に言ってくれたのは、いつの事だったろう。
自分が彼女を見つけた。そして外の世界を知らなかった自分を、彼女が導いてくれた。
共に旅をし、共に時を過ごし、彼女はかけがえのない存在になっていった。それは彼女も同じだと信じていた。疑わなかった。
彼女が言ってくれたから。
――あたしは、イーリオのお嫁さんになるんだよ。
あの言葉も、独りよがりの稚拙な思い込みでしかなかったのか。
自分一人が舞い上がって、それを真に受けただけだったのか。
焦点の合わない瞳に映るのは、石で敷かれた暗い床ではなく、遠い日の思い出ばかり。
記憶に残る言葉の欠片と彼女の微笑みたちが、疑問として、或いは願いになって、何度も浮かんでは消えていく。
枷は付けられてなかったが、太い鉄格子は虜囚の己を否応に意識させ、氷室のように冷えた石壁は、心だけでなく体からも生気を奪い取っていった。
アケルスス城から離れた敷地にある、ここは監獄の中。
イーリオは皇帝戴冠の場を騒がせた重罪人として、仮投獄の身となっていた。
枷がないのは、帝家に連なる血筋に配慮しただけで、それすらも言ってしまえばハーラルの気紛れでしかない。皇帝となった彼が命を下せば、イーリオの処遇など如何様にもなされてしまうだろう。仮投獄というのも同じだ。いずれ処分が決まるまでの一時的なものにしかすぎない。
「久しぶりね」
いつの間に居たのか。
鉄格子の向こう側に、黒で全身を包んだ白い顔が浮かんでいた。
「私を覚えているかしら。五年前、皇帝陛下と貴方が戦った時、その場に居たエッダという者よ」
〝黒衣の魔女〟と渾名される高級女官エッダ。
うっすらとだが、イーリオの記憶にも覚えがある。だが、それだけだ。
しかし、彼女の後ろに居るハーラルの姿を目にした時、イーリオは自分でも名状し難い感情のざわめきに襲われた。
「本来は私如き身分の者が、皇帝家の皇子殿下にこのような口をきいて許されるものではないけれど……今の貴方は国の大事を騒がせた大罪人。身分など何の意味もなさないわ」
それがどうしたというのだろう。
自分は帝国の皇子だった――
確かにそれを、イーリオは利用したし意識もしていた。
けれど実のところ、元々イーリオにとって己の出自など、他人事のようにどうでもいい事だったのだ。それを聞かされた時から今に至るまで、そんな事に何か意味を感じた事などない。
錬獣術師の父に育てられた田舎者。
それが自分にとっての本来の出自だ。それ以上でも以下でもなかった。
アンカラ帝国に渡って王族裁判に身分を使った時も、今のように皇帝家の血筋だと言ってシャルロッタを取り戻そうとした時も、ただそれが使えるから利用しただけの事。血統に相応しい身分など望みもしないし、それで何かを成そうとも思わない。それはこれからもそうだろう。ましてや皇帝の位など、微塵たりとも興味がなかった。
シャルロッタさえ取り戻せればそれでいい。
それだけで良かったんだ――
「でもね、貴方は確かに直系の血筋ではあるけれど、その血は呪われたものなの。貴方の本当の父は亡くなられた先帝陛下ではなく、先帝の父君、アルブレヒト様なの。分かるかしら? 貴方はアルブレヒト様がマルグレーテ皇后様にお手を出されて産まれた不義の子。忌まわしい不貞の皇子。だから宮廷から追放され、庶民の子として育てられたのよ」
エッダの語る言葉に、ハーラルが少しだけ表情を動かした。しかしそれが何なのか、イーリオが気付く事はなかった。
「そのまま自分の呪われた宿命も知らず、ただの錬獣術師の子として一生を終えれば幸せだったかもしれないわね。そうすれば獄に繋がれる事もなく、そんな苦しい想いをしなくて済んだのに。ふふ……可哀想な皇子サマ」
「エッダ、嬲るためならもういい。そんなものは余の趣味ではない」
「これは失礼致しました」
ハーラルが冷たい声で嗜めると、エッダは頭を下げて一歩身をひいた。
石畳に固い靴音が響き、ハーラルが鉄格子の目の前にまで来る。
「……聞いた通りだ。余も呪われた身だが、貴様も同じという事よ」
「陛下」
ハーラルの独白に、今度はエッダが声をあげる。しかしハーラルはそれを無視して続けた。
「余と貴様は違うようで似ている。呪われた身の上に、特別な鎧獣を持ち、そして――同じ女性を欲した」
身じろぎするイーリオ。
「だが、欲した理由は貴様と余では異なるだろう。貴様は男としてあの娘を求め、余は皇帝として、聖女を必要とした。つまり、同じように似ていてもやはり貴様とは違うという事だ。余はこれからも生き続け、貴様は近い内に処断される。そして皇帝として欲した聖女にも、これからは一人の男として共に過ごす事になるだろう」
「違う……! 彼女は……シャルロッタは……!」
「シエルだ」
鉄格子を掴み、激しく迫るイーリオだったが、そこにハーラルが氷塊のように感情のない声を放った。
「え……?」
「かつて貴様は聞いたな。余の養母のいた、あのメルヴィグの城で。聖女の本当の名を何というか。――シエルだ」
「……」
「〝天の人〟。それが聖女の真の名だ。これは帝国皇帝に代々聞き伝えされていく聖女にまつわる話のひとつ。貴様がシャルロッタと名付けた聖女の本当の名は、シエルという。分かるか? 貴様は彼女の名すら、今まで知らなかったのだ。どれだけ貴様が恋い慕おうともそれが現実だ。貴様は何も知らぬ。何も分かっておらぬ」
ハーラルの一言一言が、心の中に重しとなって暗く沈んでいく。鉄格子を握る手が、徐々に力を失って滑り落ちていった。
「だからせめて、貴様への手向けにここへ来てやったのだ。貴様が知りたかった聖女の本当の名、それが余が貴様に贈る、たったひとつのもの。それを噛み締めて、残りの時間を過ごすがよい」
力なく項垂れたイーリオに、憐れみの視線を落とすハーラル。
これはかつての自分の姿であり、鏡映しになった己でもある、そう思った。
もしかすれば自分がイーリオの前で膝を屈していたかもしれない。きっとそれは、ほんの少しの運命の違いでしかないのだろう。些細な――ボタンのかけちがいのような僅かな誤差で、彼と己の立場は入れ替わっていたに違いない。だからハーラルは、柄にもなく自らここに足を運んだのだ。
もう一人の自分に、決別をするため。
嗚咽をこぼしだしたイーリオを見て、ハーラルはそれ以上何も告げる事なく、無言で身を翻した。
※※※
前例のない騒動に見舞われたハーラルの即位であったが、その後はつつがなく帝位戴冠が行われた。それどころか、騒動自体もハーラルとティンガルボーグの圧倒的な力を広く見せつけ、むしろ反対に彼の威勢を世に知らしめる事となったのだ。
これにより、皇帝派と呼ばれていた反ハーラル派の人間も、恭順か処罰の二択を迫られる事となり、終わってみれば新政権にとってこの上ない結果となったのである。
首魁であり騒動を起こした張本人のトルステン大公は、身分も領地も剥奪。今までの皇帝派の罪科も一身に背負う羽目となり、死罪が下された。おそらく近日中にも刑が執行される事となるだろう。
その一方で、イーリオに協力していたジョルトについては判断が保留となり、一旦、虜囚ではあるが貴賓待遇という形にせざるを得なかった。
それもそうだろう。為した行いはどうであれ、彼はジェジェン首長国を治める大首長の子息なのだ。
安易に処罰すれば問題をややこしくするおそれがあるし、むしろ彼の身柄を利用してジェジェンに対し優位な交渉をする方が、ゴート帝国にとっては得策と言えた。
また、トルステンに協力したとして逮捕された国家最高錬獣術師のインゲボー・スキョルとベルサーク騎士団ビョルグ・スキョル団長の両名に対しては、トルステンに騙されてのやむなしな行為と結論付けられ、不問とする決定が下された。
姉弟にとって何やら釈然としない結論であったが、罪に問われないのだから文句など言えようはずがない。ただ、どう考えても自分達は利用されただけにすぎないという事が分かるだけに、悶々とした思いが残るのは無理からぬ事であった。
実はそのスキョル姉弟のやりきれない思いそのままに、この騒動はこれにて決着――とはならなかったのである。
帝都民の前で行われた、皇帝と聖剣騎士の公開決闘。
この一部始終を見て、何やら考え込む人影がポツポツといたのだ。
その影の正体。広大な帝都ノルディックハーゲンの一角に潜み、路地裏で話し込んでいる複数の男達。
「おいおい、どうするよ。あんなモンの後じゃ、逆にやり難くなるじゃん」
「ったくだ。本当なら新皇帝即位で浮ついたところを狙うって算段だったんだろ? でもあんなのの後じゃあ、警備とかヤバい事になるの決まってんじゃん。いやもうこれ、諦めた方がいいんじゃねえの?」
フードで顔を隠して話す男たちの中、今の言葉に丸々とした巨漢の影が、「あう」と頷きの声を出す。
「で、どうすんだよ、ゼロ?」
別の男の問いかけに、フードの下、片眼鏡の反射がチラリと覗く顔が、不敵な笑みを浮かべた。
「計画は練り直しだが、目的は変えねえ。ここまで来て引き下がれるかっての。ゼロから生まれてゼロに還る――。このゼロ・ゼローラ様に不可能はねえさ」
痩せ男と巨漢――ピカレとスモレットの二人はうんざりした溜め息を漏らした。もう二人、協力関係にあるサイモンとエドガーは、何やら納得したような、奇妙に驚きを滲ませた表情で大きな相槌を打っている。
彼ら五名は、新皇帝即位に乗じて盗みを働こうと画策していたのだが、そんなところへこの騒ぎに出くわしたのであった。何より、騒ぎの当人がかつて奇妙な縁で共闘したイーリオだっただけに、ゼロは大層びっくりしたし、戸惑いもした。
とはいえ、今となっては完全な赤の他人。
イーリオがどうなろうが知った事ではないし、彼の事など興味もない。
むしろこの状況を逆手に取って、自分達の悪事が何とか出来ないか。ゼロの関心事は、それに悪知恵を巡らせるだけだった。
そしてこの騒ぎに心穏やかでなかったのは、実は彼ら怪盗一味だけではなかったのである。
騒ぎの直後、興奮に包まれる帝都民の群衆から逃げるように離れた二人の男女がいた。二人は顔を蒼くさせながら、数名の男達に合流する。
「こりゃあ、えらいこってすよ、お頭」
合流した内の一人、いかにもみすぼらしい山の出が丸出しの男が、紅一点の若い女性に話しかけた。
「そんな事、言われなくても分かってるよ。――まさかあの時襲ったあの兄ちゃんが、皇帝と一騎討ちするなんて……。一体全体、どうなってのかまるで分かんないし、あんたが言ってた赤い馬の騎士も捕まっちまうしさ。実際どうするの、ガボール?」
女性と一緒になって群衆から抜けてきた若い男が、考え込むように「うん」と頷く。
「何だか分かんねえけど、もう充分じゃないっすか。ここから離れましょう。万が一にも国家騎士団に楯突くような、あんな連中と関わりがあるなんて誰かの耳にでも入ったりしたら、俺達なんざ一瞬でこう、ですぜ」
別の男が首をかっ切るような仕草をして舌を出す。
その頭を威勢よくはたき、女性は苦々しく吐き捨てた。
「そんな事、言われなくったって分かってるよ。だからあんたらは着いて来なくていいって言ってんだろうが。アタイはガボールの為ならどこまでだって一緒に行くんだから。それをあんた達にまで強制してないじゃない」
「そんなあ、冷たい事言わないでくださいよ、お頭ぁ」
「気色悪い声出さないでよ。親くらいに歳取っといて、アタシにばっか縋らないでよね」
この一団は、ゴート帝国領内に入ったばかりのイーリオを襲った、あの山賊団〝山の牙〟の連中である。
彼らの中に、客人であり特別扱いのガボールという青年がいる。彼は記憶を失っており、その手掛かりを追って、イーリオらの後を尾けた挙げ句、この公開決闘の騒ぎを目撃したのであった。手掛かりとはイーリオではなく、彼に同行したジョルトにであった。だが、そのジョルトも今は帝国に捕まって探りようもない。
「もうちょっと、様子を見る」
不意に、ガボールが口を開いた。
相変わらず表情は虚ろで、考えどころか喜怒哀楽すら読めない。
しかしそんなガボールに、山の牙の女首領グレタは、破顔して抱きついただけでなく、一も二もなく同意を口にした。
「そうよね。ここまで来て帰っちゃあ何のためか分かんないもんね。いいよ、アタイも着いていてあげる」
「ちょ、ちょっと、お頭、居るたっていつまでですか? 路銀だってもうあんまりありませんぜ」
「アタイの財布の中はまだあるもん。あんたらは自分らで何とかしなよ。大人なんだから出来るでしょ」
「えぇ……」
「だから帰りたいなら帰んなさいって言ってるでしょうが。ほんとにもう、だらしないんだから」
大の大人が、育てた娘に説教されているようにしか見えなかったし、実際それは当たらずも遠からずの関係性であった。
怪盗に山賊たち――。
彼らが息を殺して闇に潜むこの帝都で。
やがてそう時を待つまでもなく、事態は彼らも巻き込んで動き出す事になるのであった。
「え? これからどうなるの?! 続きが気になる」
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