第三部 第一章 第二話(4)『戦神姿』
二者を閉じ込めた天蓋だが、遠くから離れて見れば、肋骨で出来た巨大建造物にしか見えなかった。
つまり、骨の間から光は差し込んでいる。
とはいえ、異様だし不気味な事このうえないから皆がおののきを見せるのは当然だった。
しかし今のイーリオは、そんな程度で怯みなどしなかった。
躊躇う事なく、今度はイーリオ=ザイロウが仕掛ける。
白い炎が、光となって軌跡を描いた。
狩猟豹と比べても遜色のない、オオカミを遥かに超えた速度。
だが、ティンガルボーグは微動だにしていなかった。
瞬きもない寸瞬。
「戦神姿――〝水霊〟」
背中に生えた四本の腕に血管の網が縦横に走ったかと思えば、腕そのものが赤黒い剣へと姿を変える。
踏み込むイーリオ=ザイロウ。隙のない足さばきで、ティンガルボーグが躱した。同時に、背中の剣が伸び、叩き付ける一刀で斬り下ろす。
しかし超常を超えた反射速度で、人狼は身を捻ってこれを受け止めた――かに思えたが。
ドロリ
金属的な異能の剣が、液状になってザイロウの聖剣を通過する。
と、肉の裂かれる音。
ティンガルの背中の剣が、聖剣と刃を交えず通り過ぎ、ザイロウの肉体を斬りつけたのだ。
噴き上がる鮮血。
衝撃で石畳に全身を打ちつけるも、イーリオ=ザイロウは続く一撃を警戒して素早く体勢を整える。
向き合う両者。
「今のは……?!」
人虎を睨むイーリオ。既にザイロウの超回復がはじまっている。
「相変わらずの回復力だな、全く。それだけはティンガルボーグをも上回っているやもしれん」
呆れた声を漏らした後、続けてハーラルは言った。
「これが余の獣能の真の姿。その名を〝戦神姿〟という」
ザイロウの獣能〝千疋狼〟も、自身に力を還元する〝炎身罪狼〟という応用の姿がある、白い炎を吹き出している今の状態がそれだ。
ティンガルボーグのあの腕も、それと同じように応用や発展をさせたものなのだろうか。
「腕の数が増えただけに思えたか? これは今やただの腕ではない。以前はそうだったが、今は違う。あらゆる状況に応じて、いくつもの変化を見せる、神の腕にも等しき力。今のは、液状化と個体化を自在に操る〝必中する剣の姿〟」
腕そのものを、血液だけで形成させているのだ。
形状を保っているのは、凝固反応を利用したもの。故に液体にもなれるし個体にもなれる。
「そして――〝地霊〟」
オオカミの危機感知能力が、神速の回避を促す。
飛び退った後、自分のいた地面が、鋭い四本の槍で穿たれていた。開いた距離など関係ない。何十フィートもの距離が瞬時に貫かれていたのだ。
その向こうに、今度は灰色の硬質性を帯びて長く伸びた、ティンガルボーグの腕。
明らかに血液だけで形成されたものではなかった。
「遠間に対しては、矢のような槍で貫く」
ザイロウの中、イーリオの背が粟立った。
気負う思いはまだあったが、騎士としての経験が、戦いのために頭脳を冷やしていく。
今まで出会った強敵の中でも、忘れられない相手――
オグール大公ヴカシン。
天才騎士セリム皇子。
灰堂騎士団の黒き救世主ファウスト。
その誰でもなく、誰よりも上。
騎士としての習熟度なら、ヴカシン大公の方が上だろう。才能ではセリムに及ぶとも思えない。獣能の恐ろしさなら、ファウストの駆るノイズヘッグの方が危険だった。
だが、それらの誰にも増して、ハーラルとティンガルボーグは格上の相手だとイーリオは直感したのだ。
鎧獣騎士の実力を決定付けるのは、鎧獣でも騎士でもない。当然、武装である授器が決めるものでもない。
勿論それらは欠かせぬ要素だし、武術体系である獣騎術や、異能である獣能も重要だろう。
だが、鎧獣騎士としての実力を最終的に左右するのは――相性だった。
駆り手と騎獣の組み合わせによる相性で、実力は大きく上下する。
そしてハーラルとティンガルボーグの相性は、イーリオが出会ったどの相手よりも優れていると確信したのだ。いや、〝出会った相手〟というなら、あの彼らに肉迫するものさえ感じ取れた。
究極の強者、三獣王。
ハーラル=ティンガルボーグの相性は、三獣王のつがいに等しいと言えた。
しかし――
イーリオとて、ザイロウに対して感じる運命は、他の誰にも負けていない自負がある。
ティンガルボーグの異能は確かに驚異的だが、一度目にすれば対処のしようもある。アンカラ帝国で戦ったマンモスのバルムートのように、手の着けられないようなものではない。それだけの自信は、イーリオにもあった。
治癒が済んだ事を確認し、再びザイロウが跳躍した。
「〝鬼火〟」
左腕を横に振るい、宙に白い炎を発生させる。いくつも。
千疋狼を応用した目くらましの技。
だがハーラルならば、これを見破るのは容易いだろう。
しかし――
「愚者の鬼火」
炎がハッタリだと看破した灰色の人虎が、半瞬、身体をとどまらせて迎撃から回避に移る。
同時に、鬼火のひとつが爆風を起こした。
目くらましの火の幻影に混ぜて、実際の燃焼力のある炎も混ぜた二段構え。が、当然、灰色虎の皇帝騎士には、この程度かすり傷にもならない。
しかし避けたティンガルボーグに回り込み、白銀の人狼騎士が既に後ろを取っている。しかも剣は握っていない。いや、それすら幻惑。
黒騎士に傷をつけた、イーリオの得意技。
蜃気楼斬だ。
避けられぬための三段構え。
――獲った!
勝利の感触を確かめかけたその手はしかし、何の手応えも感じさせてはくれなかった。
空を斬る聖剣レヴァディン。
いたはずの人虎騎士の姿は、目の前から消えていた。
咄嗟に前後左右の気配を探るも、見当たらない。跳躍で躱す事すら不可能。いや、そんな動きを逃すはずもなかった。
「〝風霊〟」
声は空から降ってきた。
視線を上に向けた先にあったのは、陽光を遮る大きな影。
天蓋で覆われた空を翔ける、人獣の天使。
翼の生えた、ティンガルボーグの姿だった。
翼長展開した大きさは相当なものだろう。いや、そんな事よりもだ。さすがにこれには、イーリオも唖然とせざるをえなかった。
以前レレケが使った、擬似的に空を飛ぶ羽根を作り出した獣使術。それとはまるで違う。明瞭と質感を持った巨大な翼。
四本の腕の内、二本を巨大な筋肉の瘤に変え、二本を巨大両翼に変えたのが、この〝風霊〟。第二、第三の獣能などというものではない。これではまるで――
「無数の獣能が使えるとでも……!」
空を翔ぶ灰色の人虎騎士が、悠然と大地に着地した。
「それは正確ではない。我が力は、戦況に応じいくつもの姿に〝適応〟する獣能。異能というのなら、変化する異能。それが修羅死王の真の能力〝戦神姿〟」
翼は元の腕に戻っている。まるで六本の腕を誇示するように、手に持つ円月刀を大地に突き刺した。
先ほどイーリオは、ファウストの異能の方が驚異的だったと捉えていたが、それは大きな見誤りだった。こんなもの、獣能の域を超えている。これに近しいと言えば、あの黒騎士くらいか――。
「〝火霊〟」
おもむろに発っされる号令。
――次は何がくる?
思わず身構えるイーリオ=ザイロウ。だが、そんな迎撃の構えなど、続く衝撃の前にはまるで無意味だった。
ハーラルの言葉と共に、背中の四本の腕が粒子となって消える。
大きく、両拳を腰だめにひくと――
宙に向かって左右の拳を突き出した。
瞬間――
凄まじい巨大な発光と衝撃が、人狼の巨体に豪風の勢いで叩き付けられた。
痛みや傷など後のはなし。今は何が我が身に起こったのかまるで理解出来ず、イーリオは視界も無茶苦茶に、骨の壁まで吹き飛ばされてしまった。
いや、それだけではない。
みしり
壁に押し付けられる恰好になったザイロウは、背中に感じる異能の骨に、ひび割れる音を聞き取った。
硬度・九。
金剛石に次ぐ硬さを持つ骨の壁が、謎の衝撃で大きな亀裂を起こしたのである。
全身の圧迫感が消えた時、イーリオは今の攻撃が何だったかをおぼろげに理解する。
おそらくは、背中の腕を巨大なエネルギーに変換し、それで殴りつけたのだろう。
大きさ、破壊の範囲、威力――
レレケの協力も経て、やっとの思いでこの間習得したばかりの自分の異能〝巨狼化・憑狼身〟ととても似ている。
とはいえ、自分のものに比べればいささか威力は劣るようだし、だからザイロウは助かったと言えた。
「しまったな。加減したつもりだったが、壁を壊してしまったか」
壊さないように手加減しただと――?
ハーラルの独言に、イーリオは苦々しさを口中に感じる。全力がこの比ではないとなれば、全出力だとどうなるのか……。いや、それよりもこれでは本当に、手も足も出せてない。
イーリオは決意した。
こうなればもう、あれしかない。
ザイロウの第二獣能。破壊の塊とも言えるあの力を、出す。
出せるかどうか、自信はなかった。クルテェトニク会戦の時は、レレケの助けがあったからこそ発動できたが、今は力の奔流を己だけで制御出来るか、まるで分からない。試した事など、あるわけがなかった。
ぶっつけ本番もいいところ。下手をすれば力に呑まれ、巨大な人狼になってあたりを破壊し尽くしかねない。だが、やれそうな予感もあった。あの時、力の深淵を覗いた先で、自分はシャルロッタを守るのだと誓ったのだから――。
そう、あともう少し。
ほんの少しで取り戻せるのだ。
そのためなら、自分に躊躇う気持ちなどあるわけがなかった。
気息を整える。
全身の状態を探る。
――大丈夫。まだ力を出す余裕はある。
確認して、肚の中心に力を沸き起こすイメージを促した。
「巨狼化――憑狼身」
片腕を高々と掲げるザイロウ。暴れ狂う波しぶきのように力が奔騰するが、それに押し流されないよう、意識を繋ぎ止める。
開いた両目。
片腕から、巨大な腕状のエネルギーが放出されていた。
「これは……!」
ハーラルが、人虎の顔で目を見開いた。
かつて自分が身に受けた力。それを洗練させたもの。
そしてティンガル・ザ・コーネの左腕を、一度は砕いたものでもある。
即座に見抜く。この力は、今、自分が発動している異能で抗しきれるものではないと。
振り下ろされる、輝く巨腕。
叩き付けられれば、天蓋の中は破壊の渦になるだろう。全員が悲鳴をあげそうになった矢先――
「第二獣能――〝不撓鬼神〟」
灰色虎が、第二の異能を発動させた。
巨腕に呑み込まれそうな、人虎皇帝。しかしそれに向かって、ハーラル=ティンガルボーグは跳躍をかけた。
その口は大きく開き、六本の腕は蜘蛛のように広げられていた。
ぶつかる。
衝撃が走った。
かに思えたが――
空中で、ティンガルボーグが巨腕を受け止めていた。
そしてそのまま
目一杯に大きく開いた口で
ザイロウの力の塊を、深呼吸のように吸い込んでいったのだ。
みるみる巨腕が取り込まれ、小さく萎んでいく。それと共にザイロウの片膝が落ち、ティンガルボーグは地におりて、見下ろす形になる。
「そ、そんな……! あの力を……」
驚愕と疲弊で、言葉にならないイーリオ。
信じられない。信じられるものではない。
やっと編み出したあの技、力が、この若き皇帝の前では、擦り傷一つ負わせるに至らないのか。
「ティンガルボーグの第二獣能は、相手からネクタルなどの力を吸い取る力。吸血の怪物――それの鎧獣騎士版といったところか」
息を荒げてイーリオが見上げる。陽光が遮られ、人虎の姿が黒くおそろしい。
「貴様の力は、一度受けたから知っている。だから直感した。もしかすればティンガルボーグの第二獣能で吸い取れるものではなかろうか、とな。果たしてそれは余の読み通りであったようだ。貴様の力は、巨大なエネルギーの塊。ならばティンガルボーグにとっては、ご馳走以外の何物でもない。貴様は食い尽くされるとも知らず、余の前に最高の美味を差し出してくれたのよ」
エネルギーを吸い取る――。
であれば、ネクタル燃焼型のザイロウとは、最悪の相性だ。
しかも千変万化する異能もあれば、根本的な強さも互角以上。
それでも――
シャルロッタを取り戻す。
彼女を取り戻す。
それが僕のここにいる意味。戦う理由。剣を振るうわけ。
ならば勝ち目がなくなろうと、負けを認めるなんて出来ない。彼女がすぐ側に、自分の手が届くところにまでいるのだから――
ここまできて尚、イーリオの目に諦めの色はなかった。
絶望にさえ抗おうとするのは、たったひとつの想いゆえ。
近付く灰色虎の人虎を睨むと、その向こう。
視線の先、骨の壁の隙間から見えた群衆の中に――
――シャルロッタ!
正にこの時、運命の女神の悪戯か、イーリオはシャルロッタの姿を目にしたのだった。
ドレスを着て、髪も伸び、どこか大人びて見違えるように美しいが、見間違えるはずがなかった。両腕を抑えられ、動きが封じられているのが痛々しくさえ見える。
――ここで膝を屈しているわけにはいかない!
彼女が。
この五年間、ずっと探し求めていた彼女が、いるのだから。
膝に力を入れる。ザイロウに語りかける。まだやれるかと。答えは分かりきっていた。ザイロウも彼女のためならば、力も命も惜しまないに決まっているのだから。
――が。
ザイロウの聴覚。そして視覚。
何かを捉え、それをイーリオに訴えかける。
イーリオが聞き逃そうとしていた事。目にしたくなかったもの。
しかしザイロウは己を纏う主に告げる。聞き逃すな。目を逸らすな、と。
視線の先。彼方の向こう。シャルロッタの姿。
彼女はこちらを見ている。そして――何かを言っていた。
――何? 何を言って……。
口の動き。狼の聴力。それらが告げる彼女の言葉。
――も う か か わ ら な い で
イーリオの目が、先ほどとは別種の驚きに見開かれていった。
――何を言ってるんだ。
だが、鎧獣騎士の優れた五感は、この時無慈悲にも、イーリオに絶望の言葉を感知させてしまう。
――わ た し は こ う て い の つ ま に な る
立ち上がりかけた膝から、力が抜けた。
まるで動力の切れたカラクリ人形のように、音を立てて崩れ落ちるイーリオ=ザイロウ。
――そんな……! そんな……!
視界が歪む。息が出来ない。しているのに、出来ない。
すぐ目の前に、ティンガルボーグがいた。
「不撓鬼神」
六つの腕に全身を掴まれ、人狼の首に虎の牙が深々と刺さった。