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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
第三部 第一章『希望と絶望』
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第三部 第一章 第一話(2)『暗闘秘話』

 ゴート帝国の宮廷内で、エッダの名を知らぬ者はいないだろう。

 ゴート帝国皇太子ハーラル側仕えの高級女官ながら、帝国内における権勢は宰相にも等しいと言われている女性である。


 黒髪黒瞳に、黒色の衣服を好むその見た目から、ついた渾名は〝黒衣の魔女〟。


 昨今、見た目からではないだろうが、帝国内にも布教が広まりつつある黒母教との繋がりも囁かれている。

 むしろそういった新興勢力すらも取り込んでいるのだとすれば、その影響力は計り知れない。ハーラルの親政における、事実上の参謀役と専らの噂であった。まさに最高権力の代行者と呼ばれるに相応しい。


 その彼女が、上述した黒母教から来客があったと報せを受け、帝城の来賓室へと足を運んでいた。

 部屋に先んじて待っていたのは、黒と黒灰色を基調とした司祭服姿の人物。


「待たせたわね、スヴェイン司祭(ロイファー)

「お気になさらず。時勢が時勢ですから、何かとご多忙な事とお察し申し上げます」


 おや、と意外な顔を浮かべたスヴェインは、そのまま別種の黒服に身を包む淑女を見つめた。


「何かしら」

「いえ、ご無礼(つかまつ)りました――ところで本日は、黒母教の司祭でもオグール公国の錬獣術師(アルゴールン)でもなく、公国の名代(みょうだい)として罷り越した次第です。このたび公国に新設されました〝灰堂術士団(ヘクサー)〟の長官、および灰堂騎士団(ヘクサニア)の総長代行としてでございます」

「総長代行……そう、貴方が。私も聞き及んでいるわ。メルヴィグとの負け戦」

「仰る通り、返す言葉もございません。とはいえこのような状態も、今だけでございます。私の総長職も一時的なものにすぎません」


 態度も素振りも仰々しい。芝居がかった動きはどこか挑発的ですらある。

 だがそれを見つめるエッダの表情は、彫像のように変わらない。冷たさは凍土を覆う氷よりも寒々しい光を放っていた。


「さて、建前はこの辺りで……ここからは別の名代として話をしましょうか」


 途端、スヴェインの目の奥に暗黒が灯った。表情も態度も変わりはないのに、彼の雰囲気が数段重くなる。


「あの不適合者……イーリオ・ヴェクセルバルグと出来損ないのザイロウが帝国の領内に入ったようです」


 エッダの眉根が僅かに動く。

 またその名か、と。


「いかに貴女様といえど、我ら〝灰堂術士団(ヘクサー)〟の耳目が齎す網の精緻さには及びますまい。我らなら、広大な帝国の隅々まで、貴女の欲する情報を誰よりも早くお耳に届けましょう」

「能書きはいいわ。で、その坊やはこちらに向かってるの?」

「いえ、シュタイエルスカに入った後、鉄の道を昇っているとのこと。向かう先はおそらく――」

「モルテヘイム、トルステン大公ね」


 スヴェインの変化と共に、エッダの口振りも変わる。まるで十年来の知己――いや、共謀者のような、近しくも剣呑な緊張感をはらませている間柄であるかのようだった。


「あの坊やもしぶといわね。五年前は何も知らない初心(ウブ)な子供だったのに、まるで今ではいっぱしの騎士気取り。世事にも長けて、良からぬ事でもしようとしているのかしら」

「それについて、エッダ様も知らぬ情報がございます」

「何かしら?」

「イーリオ・ヴェクセルバルグですが、彼はどうやらこの国の皇帝家、その直系に当たる血筋の人間になるのだとか」

「……は?」



「彼の本名は、オーラヴ。亡くなったと思われていた、ハーラル殿下の兄君にあたられるお方です」



 常態であった瞳孔が、徐々に両目ともども大きく開かれていく。

 黒衣の魔女とも恐れられるこの女性が、ついぞ見せた事のない動揺を露にしていた。


 ――オーラヴ? オーラヴですって?


 声に出さずとも、血の気の引いた面上が充分に物語っている。彼女自身、予想もしてなかった話であると。


「有り得ないわ、そんな事」

「確かな筋の情報です。証拠は私も直接目にしておりませんが、かなり確度の高い話かと」

「オーラヴ殿下は二〇年以上前に亡くなった……。けどそうね、仮にもしその話が本当だとして、今更死者が生者の顔をして舞い戻ってきても、誰が信じるかしら。いえ、信じたとて今のハーラル殿下に何ら影響を及ぼすものでもないわ」

「それが余人ならば仰る通りでしょう。なれどその者の別名は〝恐炎公子(エルド・フォース)〟。かの百獣王の高弟で、今や諸国に名の知れた高名な騎士ともなれば、話は別でしょう。皇帝派の連中がこれを知れば、どういう動きをするやら」


 気を鎮めたかに思えたエッダだったが、返すスヴェインの言葉で、目の端に不快感を滲ませる。


「どこまで知られているのかしら?」

「まだそこまでは。しかし広まるのは時間の問題でしょう。そこで一つ、ご提案なのですが……私めに策がございます。かの恐炎公子(エルド・フォース)をトルステン大公にそのまま引き会わせ、(おおやけ)の場において帝位には相応しくないと認めさせる、というものです」

「何ですって?」

「如何でしょう? 衆人のもと、帝位と聖女を()るのに相応しいのがハーラル殿下であると知らしめれば、エッダ様をはじめとした皆様がたにとってこの上ない結果になるのではございませんか? 更にハーラル殿下に反する輩の首も根こそぎ刈取る事も可能となります。そうなればハーラル殿下……いえ、陛下の御世は盤石のものとなりましょう」


 夜の雪原のように、冷たく昏い瞳で凝と見据えるエッダ。

 目の前の芝居じみた長広舌を、権力の名において永遠に封じてしまうのは容易い。けれどいくつかの打算が働く。

 何よりもっとも重要なのは、あの娘の事だった。

 万が一というのもあるだろう。

 娘自身が己をどうするつもりか。それを改めてはっきりさせる事は、やっておいた方がいいのかもしれないと考えた。


「我ら〝灰堂術士団(ヘクサー)〟が貴女様、いえ帝国とハーラル陛下のお力となりましょう」

「自分達の売り込み……だけではないようね。いいわ。詳しい話とそちらの求めるものを聞きましょう」


 芝居じみたスヴェインのお辞儀が、尚一層大仰な素振りで深々と下げられた。

 彼の顔に貼り付く笑みが心の底からなのかどうか、それは誰にも分からない。




 部屋を退出した後、スヴェインは悠々とした足取りでアケルスス城を後にした。その途上、エッダとの謁見を思い出し、彼は少しだけ鼻で笑った。


「哀れなものだ。まるで群れからはぐれた獣だな。誰かの餌食になるか、それとも仲間の慰みものになるか……まあどちらでもいい。いずれ氷は割れた。一つに戻る事は、もうあるまい」


 誰の耳にも届かぬ呟きだったし、よしんば誰かに聞こえたとしても、言葉の真意を知る者はいない。雪と氷の帝国に訪れる春は、生き物よりも先んじて、策謀家たちが蠢き出す季節でもあるようだった。



※※※



 同じ頃、別の意味で氷の帝城と呼ばれるゴート帝国帝都のアケルスス城がにわかに騒がしくなっていた。

 北の蛮族討滅を果たしたベルサーク騎士団のビョルグ団長が帰還したかと思えば、ヴォルグ騎士団六騎士に、グリーフ騎士団のギオルまで帝都に集まってきたというのである。

 これは容易ならざる事態が起きようとしているのではないかと、貴紳淑女たちが噂をたてるのも無理からぬ事。

 やはり皇帝陛下の容態がよろしくないのでは。いよいよハーラル新帝の誕生か、と気の早い宮廷雀どもは、明に暗にささやきかわしている。


 そんな中、帰城間もないビョルグ団長が、広大なアケルスス城のはずれに向かっていた。

 目的のそこにあるのは別邸で造営された、国家最高錬獣術師グロース・ライヒ・アルゴールン専用の研究所である。


「姉上」


 研究所深奥の部屋に入るや否や、まるで子犬が主人に駆け寄るように、褐色の髪色をした青年が声を上擦らせながら駆け寄っていく。目を凝らせばふりふりする尻尾でも見えそうな勢いだが、素振りはともあれ体格だけなら子犬と言うより大型の闘犬という方が正しかろう。

 彼を認めたのは、青年の三分の二か半分ほどの背丈しかない小柄な女性。

 焦げ茶味を帯びた黒髪に暗い碧翠の瞳。丸顔で愛嬌も漂い、一見すると女学生かと思えるような容姿だが、戸籍上は青年の姉で、しかもこの国の最重要人物の一人。



 ゴート帝国・国家最高錬獣術師グロース・ライヒ・アルゴールンインゲボー・スキョルである。



「ビョルグったらもう。先に私の所に来るなんてみっともないですよ」

「ご懸念には及びません。殿下への言上なら済ませて参りましたっ。それより姉上、私を頼られるなど何があったのですか。姉上の願いなら、何であっても聞き入れますよっ」


 青年の名はビョルグ・スキョル。


 瞳はオレンジのように明るく、顔立ちは貴公子のように甘い。むしろ軟弱だの繊弱だの言われそうなほど優しげな風貌だが、体つきはそれに不釣り合いなほど逞しい。

 背の高さだけではなく、見るからに分かるがっしりとした肉体は、首から上とどうあっても調和がとれていない。顔つきだけなら、最前からの言動に似つかわしいとさえ言えるのだが、彼の騎獣と騎士団の名を聞いて、同じ感想を抱く者はいないだろう。


 ベルサーク――即ち、狂戦士の騎士団、なのだから。


「ありがとう、私の可愛い弟。本当に貴方は可愛いわ。弟でなければ私のものにしたいくらい」

「そんな、私と姉上に血の繋がりはありません。姉上が望むなら私は……私は……」

「いいえ、ビョルグ。血の繋がりではないの。貴方は私にとって弟。どこまでも可愛い弟なのよ。だからそんな事は出来ないわ」

「愛しい姉上……」


 互いの頬に手を当て、涙がこぼれそうなほど瞳を潤ませる弟のビョルグ。

 しかしインゲボーが、切り替えも一瞬で手を離し、急に事務的な表情と態度に一変する。


「ところでねビョルグ、四年前の父上の死について、貴方はどう思ってるのかしら」

「父上の……? あの時は……あの時はそう、とてもとても悲しかったです。私を孤児院から救ってくださり、養子として育ててくれたのは父上と母上なのですから」

「そうね。私もとても悲しい出来事だった。父上が帝国の機密文書に手を加えて改竄させ、幾人もの間諜を手引きしていたなんて……。今でも信じられないわ。でもね、最近こんな噂を耳にしたの。父上の処刑は国家反逆でも、正しい罪科は違う。――父上は、皇太子殿下の暗殺を企て、処刑されたのではないか、と」

「殿下の暗殺……?! 父上がですか?」

「そう。けれど、それが本当だとしても、殿下の暗殺も――いえ、それの方がよっぽど帝国に弓引く行いだから、どちらにしても反逆には変わりないわ。むしろ一族全員が罪に問われても仕方のないほどの大罪よ。でもね……そうすると、どうしてその通りの罪状で父は処罰されず、別の罪状を被せられたのか、それが引っ掛かるの」

「それは……それは今姉上が仰った通り、姉上やスキョルの家を守ろうと配慮なされたからでは? 殿下の暗殺となれば、罪は父上一人で済みません。我ら一族全員が処罰されてもおかしくない重罪です。ですから別の罪を父上に科す事で、事をおさめようとしたのではないのでしょうか」

「そうね。それはその通りかもしれないわ。でもやっぱり疑問は残る。もし殿下の暗殺を企てたのが真実なら、どうしてその事を隠すのか。強引な解釈をつけようと思えばつけられるけど、やっぱり隠すべき明確な理由が分からないの。そもそも、父上がどうして殿下の暗殺なんて大それた事を企てたのか」


 インゲボーが愛嬌のある顔立ちには似合わぬほどの、深みのある鋭い目つきで思考に沈む。それをうっとりとした瞳で見つめるビョルグ。


「でね、私、調べたの。何か別の噂や話はないかと。そこでこんな話を聞いたわ」

「何ですか?」

「ハーラル殿下の兄上、オーラヴ殿下が、実は生きておられる」


 さすがに今度は、ビョルグの目の色も変わった。


「……真実(まこと)なのですか?」


 弟に視線を向け、インゲボーは首を振った。


「真偽は分からない。話だけなら眉唾もいいとこでしょう。でも……父上の件がある。父上の皇太子暗殺が事実だとしたら、その動機はもしかしたら――」


 北央四大騎士団のひとつ、ベルサーク騎士団を率いる豪傑ビョルグ・スキョルが、戦場ですら覚えた事のない不気味な戦慄を背筋に感じていた。

 宮廷に暗闘や陰謀はつきものだといえ、よもや自分達の父がそこに深く関わっていたなど、考えもしていなかった事である。


「でもね、ビョルグ、そうなったらなったでまた疑問は残るの。仮に皇子が生きておられたとして、どうして父上は、皇太子暗殺だなんて手段をとったのか、という事よ」

「それは……いわゆる長子継承だから、ではないでしょうか。オーラヴ殿下が生きておられたなら、次の皇帝は――」


 そこまで言ってビョルグは気付く。


「ええ、それならわざわざ暗殺なんてせずに、堂々とオーラヴ殿下を擁立すればいいだけの事。つまり無理にでもハーラル殿下を亡き者にしなければならない理由があったのか、それとも……何か別の理由があったのか」


 一体、父、ゴーム・スキョルは何をして処刑されたのか。もしくは何に巻き込まれたのか。


「貴方を呼んだのは、そういう事。私は私で、そして貴方は貴方で調べて欲しいの。私は暗殺の話がどこまで本当かを調べてみる。貴方はオーラヴ殿下が本当に生きているか、それを探ってくれないかしら」

「で、でも姉上。私のような武官に何を探れましょうか」

「皇太子殿下暗殺が本当なら、真っ先に疑われるのは誰かしら? 最近よく耳にする皇帝派の方々。そこでもっとも中心にいるのは?」

「シュタイエルスカ大公トルステン様……!」

「可能性がもっとも高いのはそうね。トルステン大公なら、何かを握っているかもしれないわ」

「しかし姉上、どうして姉上はそこまでして、お調べなさるのですか? 父上の無念を晴らしたいから、それだけの理由なのでしょうか」


 インゲボーは自分の頭より高い位置にある弟の顔に手を伸ばし、両手で頬を包むと力強く言った。


「正直、私は父上の無念も、帝国の安泰や殿下の事も、全部どうでもいいの。私が嫌なのは何も知らずにいる事。真実を知らずに足元をすくわれるのだけは御免だわ。だから全部を知りたい。何が起きているのかを」


 熱っぽい姉の言葉に、ビョルグの頬も熱くなる。

 このまま姉の小さな体を抱きしめたい衝動に駆られるが、ぎりぎりで感情をおしとどめた。

 もし両腕で包んでしまったら、もうこの気持ちを止められなくなりそうで怖かったから。

 そんな弟の心の内を全て分かったうえで、インゲボーは優しく微笑む。


 そして思い出す。


 ハーラル皇子に起きた、皇帝継承の儀式――その失敗を。


 彼女は国家最高錬獣術師グロース・ライヒ・アルゴールンとして立ち会っていたのだ。

 あの〝戴冠の序〟なる儀式の一部始終を。


 地下に眠る銀の聖女と白銀の帝家鎧獣(ロワイヤルガルー)。それがハーラル皇子を皇帝と認めなかった瞬間を。


 とはいえ、たかが儀式。

 いずれ時を改めればいいとサビーニ皇后や側仕えのエッダらは申し述べたし、その時はインゲボーも大して気にしていなかった。彼女にとって古めかしい儀式など、埃の被った迷信も同然だったからだ。


 しかし今となっては、別の意味を持たざるをえない。

 あれはもしや、オーラヴ殿下存命を示していたのではないか、と。


 皇太子暗殺が何故画策されたのか。

 父は何故死ななければならなかったのか、その本当の意味は。

 インゲボーの好奇心と探究心は、その全てを知りたいと願っていた。

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