第三部 第一章 第一話(1)『北行』
野いちごの葉が、風に吹かれて揺れていた。
花が咲くのは当分先で、実がなるにはまだまだ遠い。
けれども命は生き急ぐ。離れて見えるフキタンポポの鮮やかな黄色や、クロッカスの紫の花弁が、ぽつりぽつりと顔を覗かせ、初春の先触れを街道に告げている。まるで新たな芽吹きが、春の訪れを今か今かと急かすかのようだった。
しかし冬の終わりが近くとも、北国の寒さはなかなか去ろうとしない。特に翳りの多い山あいともなれば、冬将軍の名残りが冷気の掌で人体を撫でまわそうとするものだ。
覇獣騎士団のカイ・アレクサンドルから貰ったミンクの襟巻きに顔の下半分を埋め、イーリオは思い出していた。
第二次クルテェトニク会戦の後、イーリオは単身ゴート帝国に渡ろうとしたのだが、その前に軍師であったカイに呼び止められたのだ。無論、親友二人にすげない返事をしただけに、その声に応じるつもりはなかったのだが、カイも待ったをかけた訳ではなかった。
カイはイーリオの思いを理解した上で、ゴートに渡る為の準備や路銀を用立ててくれ、更には彼が知りうるゴートの情報を余す所なく教えてくれたのだ。
知りうると言っても、イーリオにとって役立ちそうな内容に絞った上での情報であり、そこにはカイの気配りが感じられた。
別れ際、カイは言った。
「今の私が君に出来る事は、これくらいしかないのかもしれない。でも君の旅立ちを私に報せてくれたのは、レナーテさん――レレケさんなんだよ。それは知っておくといい」
だからと言って今のイーリオにはどうにもならない。
シャルロッタを取り戻す。
それが焦眉の急であり、彼の全てなのだから。
次期皇帝ハーラルとシャルロッタが結婚する――
どういう事情や背景があってそうなったのかは分からない。ただ、居場所ははっきりしているし、探しあぐねていたこの四年間とは違う。だから迷いもなかったし、仲間と縁を切ったのもその為だった。
とは言え、どうやって彼女を取り戻すか――
想いはあっても、現実的な方法としてこれは非常に困難な話だった。
だからカイは、イーリオに情報を与えてくれたのだ。
激情のまま突っ走ろうとも、捕縛されるか殺されるかが関の山だろうから、僅かでもいいから行動だけでも冷静にすべきだろう、と。
そのカイの話によれば、まず婚儀の前に、そもそも皇太子ハーラルの戴冠自体、反対している派閥もあって完全に地盤が固まっている、という訳ではないらしい。
皇帝派などと呼ばれるその一派は、皇帝ゴスフレズⅢ世の影響を強く受け、別の皇子の擁立を目論んでいる、というのが専らの噂らしいのだ。
別の皇子――それは亡くなったと思われていたハーラルの兄オーラヴ。
つまりイーリオの事である。
しかしイーリオがオーラヴであるという事は、メルヴィグ王国の一部の人間を含め、ごく限られた者にしか知られておらず、ゴート帝国にまで伝わってはいないらしい。
となれば、もしシャルロッタを取り戻すために動くなら、その血筋を利用すべきだとカイは言った。だが、自分がそのゴートの皇子ですと名乗り出たところで、下手に動いてはもみ消されるどころか門前払いを喰らうのがオチだろう。
ではどうすべきか?
ここで利用するのが皇帝派の人間だ。
皇帝派の有力者に接触し、その人物に後ろ盾になってもらい宮廷に乗り込む。それが最も確実な、シャルロッタに近付く方法だろうとカイは言った。
そしてその人物こそ、ゴート帝国西部域のシュタイエルスカ領領主トルステン・ステンボック大公――今、イーリオが向かっている地の主であった。
理屈は分かる。
逸る気持ちとは別に、手順を踏むべきなのも何とか理性的に頷けた。
だが問題は、そのトルステン大公に会う方法だった。
素直にいけば、百獣王の高弟を名乗り、食客を願い出て会うというのがもっともなやり方だろう。だが果たして、それで本当に会う事が出来るのか。
荷馬車に揺られながら、イーリオはさてどうしたものだろうと思案の波に耽っていると、横で黄金の瞳がこちらを伺っているのに気付いた。
彼の唯一無二の相棒。苦楽を供にしているかけがえのない分身。
大狼のザイロウが、心配なのかそれとも叱咤しているのか、どちらともとれるような目で、凝と見つめていた。
思えば、こうして旅の供がザイロウだけになるのも久々に思えた。
アンカラ帝国にまつわる一件に関わってからは、必ず誰かと一緒に旅をしてきたし、それが心強くもあった。だが、今は一人と一騎だけ。己が決断したのだから心細いなどと思うべきでないし、そんな弱気になってるつもりもない。
ただ、自分がしっかりしていなければ、半身ともいえるザイロウにすら愛想を尽かされそうに思えたのも確かである。だからイーリオは、黄金の瞳に言い聞かせるように、小さく頷いて返してみせた。
ザイロウは鼻をふす、と鳴らすのみ。
もっとしっかりしろ、と言わんばかりに頭を前足に乗せてそっぽを向いた姿を見て、イーリオは苦笑を浮かべた。
「どうかしましたか、騎士様?」
荷馬車を操る農夫が、首を傾けて不意に尋ねる。
イーリオとザイロウを乗せているこの荷馬車は、道行きが同じだったので途中の同乗をお願いした、近隣の農夫のものである。
「いえ、独り言です」
「そうですか。……そうだ、お一つどうですか?」
御者の席から、干しリンゴを差し出す農夫。イーリオは礼を述べて受け取り、それを齧った。
「――ところで騎士様、この道、何て呼ばれてるか知ってますか?」
「鉄の道、ですよね。アロンダイトを大量に運んだ幹線道路のひとつ」
イーリオはそもそもゴート帝国の出身である。多少なりとも馴染みがあって当然だろう。
「今はこの先の鉱山からも出尽くしちまって、すっかり足が遠のいてますがね。ひょっとして、騎士様はこの辺りのご出身なんで?」
「いえ、ゴートではありますが、僕はシロンスク州にある村の出です」
「ああ、なるほど。あっちはベルセリウスの殿様でしたかねえ。ここのご領主様もご立派なお方ですが、最近はここいらも何かと物騒になっちまいまして。だからまあ、騎士様が乗ってくれるなら有り難いと思ったわけですよ」
ヘヘヘ、と気の良さそうな顔で笑う男。
帝国領土はかなりの広さになるので、当然、各州の政事は州を治める領主に任される事になる。イーリオの出身であるクナヴァリ村は、ベルセリウス卿が治めるシロンスクという州にあり、今いるシュタイエルスカとは隣り合わせであった。
「物騒ですか?」
「ブリッゲンの山があるでしょう。あそこに前にいた山の牙とかいう山賊どもがこっちに流れてきまして。これといった悪さはまだないんですが、やっぱり気味が悪くってね。何せその連中、鎧獣騎士までいるってんだから手がつけれないんですよ」
山の牙という名に、イーリオは遠い記憶を喚起させられる。
それは確か、ゴートから旅立った時、最初に巻き込まれた山賊団の名前――。
けれどもそれは、イーリオとその時の仲間とで、壊滅にまで追い込んだはず……。
「山の牙って、何年か前に潰されちゃったんじゃなかったでしたっけ? また、復活したんですか?」
「潰されたんですか? それはあたしらも知りませんでしたが、何か率いていた人間が変わったとかで、ここらをうろついているんですよ。あたしらみたいにこの道を使う身にとっては、迷惑な事なんですがねえ」
あれから五年も過ぎれば、そういう事もあるだろうとイーリオは考えた。だが、今の話に妙な引っ掛かりも覚える。
それが何か、答えを導き出すより前に、不意にザイロウが伏せていた首をもたげた。
「どうした? ――ッ?」
ザイロウの異変にイーリオも反応するが、同時に全身を重々しい倦怠感が襲った。
手足の先が痺れている。視線を落とすと、両手の指が震えていた。
――これって……。
脂汗が背筋を伝う。
寒気、悪寒。舌の根に残る――普通なら気付きもしない程度の――ごくごく微細な違和感。
「マジかよ。いつもは即効で気絶するってのに、さすがは騎士様だな」
馬車の手綱を放し、御者がゆっくりと荷台に足を踏み入れた。
手には短剣。
対してザイロウが牙を剥き出し、攻撃的な唸り声を上げている。
「お、おいおい、鎧獣ってのは人を襲わないんじゃないのかよ」
堪らず農夫――いや、農夫を装った男は足をすくませた。当然だろう。騎士でもなければ、目の前で六・五フィート (約二メートル)もある巨大な狼に威嚇されて、恐怖するなという方が無理というものだ。
一方で手綱を放された馬はといえば、道行く先にいくつかの影を見た途端、鳴き声を出して徐々に速度を落としていった。
「あれは鎧獣騎士……? 貴方は……!」
街道の先に数騎の人獣騎士たち。
ハイエナ、アカシカ、シンリンオオカミといった姿があった。皆、装備の統一性もなければ手入れも荒々しい。見るからに正規の騎士団員にはほど遠い出で立ちだ。
「そうさ、俺達がその〝山の牙〟さ」
農夫だった男は人のいい笑みを捨て、悪相のいやらしい薄笑いを浮かべている。
「あのリンゴか……」
「ああ。独自の痺れ薬を干しリンゴに塗った後、リンゴの煮汁を上からかけ、そこから更に乾燥させた秘伝の特別製だからなあ。ハナの効く人間にだって見破れねえぜ。おっと、ヘンな真似はするなよ。いくら鎧獣騎士だって、鎧化してなけりゃただの人間とケダモノだ。アンタがどこの誰だか知らねえが、例え騎士団の団長だって人間のままなら怖かねえぞ」
今の言葉で察しがつくイーリオ。こいつらは山の牙と名乗っているが、五年前の連中とは全くの別のようだ、と。
もし五年前の人間と関わりがあればイーリオに気付くだろうし、それなら復讐という線も考えられる。だがこの男は五年前の事件も知らないと言ったばかりか、ザイロウを見ても特段反応をしていない。
――となれば物盗りのようなものか。
身体は痺れて動きも鈍いが、鎧化すれば解毒作用も働く。舐めているわけではないが、この程度の連中なら、物の数にもならないだろう。
それでも――
――まさかこんな連中の罠に引っ掛かってしまうなんて……。
油断なのか戦疲れなのか。戦争から大した回復も待たずに来た、そのツケがこんな形で出るとは。
それこそまさにイーリオの油断に他ならなかったであろう。
そんなイーリオの様子を、街道横の林の中、凝と伺う瞳がある事にさえ、彼は感じ取れていなかった。
やはり疲労の蓄積は尋常ではなかったのだろう。ただ、今はその事実すらも省みる事が出来ない。
それを知ってか知らずか、無表情の瞳は何も語らず、無機質なままずっと見続けている。更にその傍らには、別種の凶悪な目を向ける巨きな影もいたが、その気配にすらイーリオは気付いていないのだった。
やがて二つの影は、気付かれる前にと思ったのか、ゆっくりとした動作で林の奥へと消えていく。
完全に動きを止めた荷馬車を、山賊らしい調整の少なそうな装備をした鎧獣騎士たちが取り囲む。
「お頭は来てねえのか?」
「来てるさ。どっかで見てるだろうよ。まあ、俺らの罠に引っ掛かるようなマヌケに、お頭が出るまでもねえだろうがな」
男らは嘲るつもりで笑ったのだろうが、イーリオも反駁する気さえ起きない。
むしろ「確かにそうだ」と自嘲気味に笑ってしまう。
それが目についたのだろう。「ああ? 何笑ってやがる」とハイエナの一騎が睨みをきかせて手をあげたが、当然、そんな程度の凄味などイーリオに効くはずもない。
――もう充分だろう。
一気に畳み掛けて蹴散らす。イーリオの気迫がにわかに変わった事にザイロウも気付いた。
が、その時――
取り囲んだ内、ドールシープの人獣が視線を飛ばして反応する。
街道の後方。
イーリオらが来た道の向こうに、激しい馬蹄の響きが近付いてきていた。
「何だ?」
土煙も音も複数ではなく一騎。
だが人通りが絶えているせいか、地を蹴立てる音がいやに大きく谺している。
当然、イーリオも気付いた。だが、徐々に輪郭と細部が判然とするにつれ、彼は我が目を疑った。
鹿毛というよりむしろ真紅。
赤褐色より激しい赤の彩は、見間違うはずもない。
すると突然、近付く騎馬から声が放たれた。
「白化!」
驚愕する一同。
訳の分からない状況のせいで、山賊連中は咄嗟に身を固まらせてしまっていた。
その機を逃さず、噴き上がる白煙から飛び出した真紅の閃光は、燃える火の玉のように一瞬で二騎の人獣騎士を殴り飛ばしていた。
「なっ――!」
何だ、と言おうとしたのか。それとも何者、だったのか。
言い終えるより先に、一本角の角飾りを着けた真紅の巨躯は、シンリンオオカミの鎧獣騎士をも、回し蹴りで遥か先にまで吹き飛ばす。
瞬きも追い付かぬ一瞬の出来事。
イーリオも信じられない心持ちで、紅き人馬の姿を認めた。
「ジョルト、さん……」
決別の言葉を告げたはずの相手。
会う事は――力を借りる事はないと断じたジョルト・ジャルマトが、人馬闘士の姿でこちらを見下ろすように立っていた。