第二章 第六話(1)『黒豹獣王』
黒騎士。
もしくは黒騎士卿。
それは伝説と同義で語られる。
どこの国にも属さず、どの騎士団や傭兵集団にも入らない、流浪の騎士。
同時に、最強の騎士。
常に仮面を着け、その素顔を見た者はいない。
本名も謎。出身地、年齢、ありとあらゆる事が謎に包まれていた。
だが、あげた武勲は数知れず、戦場のあちこちで伝え聞く戦い振りは、まさに全騎士の、憧憬の的であった。
何より驚くべきは、黒豹という中型鎧獣でありながら、他のどの鎧獣も足下にも及ばないという、規格外の強さにある。
噂では、サイの鎧獣騎士一個部隊を、黒騎士一騎で全滅させたとか、ゾウの鎧獣騎士を一刀の元に斬り伏せたとか、その手の話は後を絶たない。
そしてこの謎の鎧獣騎士が、いずれに住まい、いずこに行くのか誰も知る者はいない。
それゆえに、表れるのは神出鬼没。ある戦場にふらりと姿を見せると、片方に加勢し、自らが加勢した方を勝利に導く。その後、法外な値の報酬を請求し、それを受け取ると、またふらりと風のように去っていく。
金銭が目当てのようでいて、そうでもない。貧しい国に加勢した際は、その国の窮乏に見合った額を要求するらしい。なら、何が目的かというと、これは誰も知らない。
謎の鎧獣騎士。
ギオルは、かつて戦場で一度出くわした事があったが、その強さはまさに鬼神のようであった。
並みいる鎧獣騎士を次々に斬り倒す姿は、〝最強〟というに相応しい。
〝黒騎士〟
〝百獣王〟
〝獣帝〟
この三体をして、通称〝三獣王〟。
この三体が、現在、最強の鎧獣騎士であると、巷間に囁かれていた。
その一角が、何故か今、目の前に立っている。
目の前で、彼らを眺めている。
どうしてここに? とその場にいる全員が思うが、神出鬼没であるが故に、その問いは全く意味をなさない。何故? という問いかけも同様だ。疑問は答えと共にある事も、全員が同時に理解していた。
だが、解せない事が一つある。
ギオルは、イーリオの体を離すと、黒騎士に体を向けて、地に降り立つ。
「黒騎士卿。これはいかなる仕儀か」
大鷲の顔で問いかけた。
彼が指摘しているのは、グリーフ騎士団の人間を、不意打ち同然にいきなり斬り捨てた事だ。
黒騎士は、表情の分からぬ仮面の顔で、大鷲の鎧獣騎士に視線を送った。
「いかなる? それはこちらの台詞よ。ギオル・シュマイケル」
若い男の声。だが同時に、老練な低音の声。声音までもが年齢不詳。
ギオルは、己の背中に冷たい汗が流れるのを感じずにはいられなかった。グリーフ騎士団団長である彼をして、黒騎士という存在は、皇帝や皇太子といった至高の位にある人々とはまた違った意味の、雲の上の存在であるからだ。
「それはどういう意味ですかな?」
「見れば貴公、そこにいる子供の騎士二人と、女一人を、鎧獣連れの騎士団で、取り囲んでいるではないか。それに、そちらの娘を鎧獣騎士で取り押さえるなど、これがいかなる仕儀と言わずして、何と言う」
「これなる少年は、ただの子供にあらず。この数の騎士団でさえ、ようよう捕まえられた程の手練れ。それに、これは我が国の事。そこもとには無関係の事にござろう」
ギオルの言葉に、黒騎士は低い呻きにも似た笑い声をたてた。
その場が緊張に凍りつく。
「当節の騎士は、剣よりも口の方が達者と見える。いかな理由があろうと、子供は子供。その子供相手に大人が幾人も雁首をそろえていたぶるなど、何とも見下げ果てたものよな」
黒騎士の侮辱に、さすがのグリーフ騎士団の面々も、色めき立つ。
「ほう。やるか? だが、いくら背後を取られたとはいえ、生身の人間相手に二人も斬られてしまう鎧獣騎士など、いかほどの腕前かな」
これにはさすがに、グリーフ騎士団の騎士達も、我慢がならなかった。
「言わせておけば!」と、思わず剣をとり、黒騎士に襲いかかる。
相手が鎧化していなかったのも、彼らの強気に発破をかけた原因であろう。
だが、彼らの前に、優美な姿の黒豹がいつの間にやら躍り出てきた事で、騎士団員は、思わず足を止める。
「やはり腰抜けと見えるな。鎧化してなければ勝てると踏んだのであろう。子供相手にいたぶる騎士の考えそうな事よ」
相手の心をひたすら逆撫でするような、幾度もの挑発。
ギオルはというと、怒りよりも、あの黒騎士が何故こんな事をするのか、不思議でならず、その疑念だけが思考を占めていた。
黒騎士は、ゆっくりと黒馬から地に降り立ち、黒豹の前に出る。
その仕草に、ギオルは思わず戦慄する。
――いかん!
「そこまで愚かであるなら、貴様らの後学のためだ。相手をしてやろう」
そう言って、黒騎士は己の外套を脱ぎ捨てると、次に、腰に吊り下げた剣も外した。
おもむろに告げる。
「黒化」
言葉と共に、背後の黒豹が前足を高く上げ、全身をムササビのように広げると、仮面の騎士に覆い被さった。同時に煙が吹き上がるが、その異様さに全員が言葉を失った。
黒煙。
朦々と吹き上がるのは、白化のような白煙ではなく、真っ黒な煙。
まるで水に墨を流したかのように広がる黒煙の渦。
〝黒化〟。
それは、黒騎士だけが発する、突然変異の白化。白化の煙が白色なのには理由があるのだが、黒騎士のそれは、何故か真っ黒の煙を発して鎧化する。
この世で唯一。
黒煙を放つ鎧化。
その噂を耳にした事はあったが、騎士団の殆どが初めて目にしたのだろう。噂だけで見た事のない鎧化に、全員が息も忘れていた。いや、例え何度か目にしていたとしても、その異様さには気後れを感じずにはおれない。
黒煙は瞬く間に掻き消え、中から、鎧化した黒騎士が、その姿を現した。
豹頭人身。
黒装の鎧獣騎士。
その授器は黒。
誰の手によるものとも知れぬ、曲線を多用したラインの、優美な授器。
そして、手に持つ武具も、漆黒の剣。
刀身も、柄も、何から何までが黒曜石よりも磨かれた黒をしていた。ウルフバードと形状は異なるが、同じゆるく弧を描いた、片刃の剣。
黒刀〝ダインスレイブ〟。
ティンガル・ザ・コーネなどに比べれば、少々細身ながらも引き締まった体躯は、まるでしなやかな鞭のよう。黒豹というエキゾチックな猛獣と相まって、王者とは異なる、まさに強者とも呼べる風格を漂わせていた。
〝黒騎士〟レラジェ。
それが、この鎧獣、そして鎧獣騎士の名だ。
駆り手の名は不明だが、鎧獣の名は、広く知れ渡っていた。
その強さの伝説とともに。
黒騎士は、猫科特有の精妙な足取りで、ゆっくりと騎士団の方へ歩み寄る。
ギオルは声も出ない。
――いかん! 黒騎士と争っては!
ギオルが心中で、声にならない叫び声をあげようとすると、彼の近くで鎧化を解き、エッダに介抱されていたハーラルが、頭を上げてこちらを見た。ティンガルこと皇太子ハーラルは、この圧倒的存在感を放つ招かれざる強者を視認すると「何だ……?」と呟いた。
迫力に気圧されながらも、そこは元・傭兵の集まり、グリーフ騎士団。伝説がいかほどのものかと、まずは数人が、黒騎士に踊りかかっていった。
だが、騎士達が、振り上げた剣を下ろす事は、永遠になかった。
黒騎士に向かっていったはずが、まるで目に見えぬ力で吹き飛ばされたように、全身を弾かれる騎士団員たち。地に横たわった時、彼らは全員事切れていた。
騎士団の人間は、何が起きたかわからない。
だが、ギオルはかろうじて目視していた。
唯一度。
一度だけ横に薙いだ黒刀の一閃。
黒き豹頭人身の騎士は、それだけで数人を吹き飛ばしたのだ。その妙技はまさに神域の御業。
次に黒騎士は、ゆっくりとした足取りで、グリーフ騎士の一人に近付いていった。
今起こった出来事に恐怖を覚えたその鎧獣騎士は、思わず数歩後ずさるも、思い直したのか、足に力を込めて素早く駆け出す。
野生馬の走術、駆撃の動きだ。
だが、不思議な事に、ゆっくり動いているだけの黒騎士が、何故か野生馬の行く先々で待ち構えている。傍から見ていると、まるで野生馬の方が、黒豹へと向かっていってるか、吸い寄せられているかのようであった。
その奇妙な様子に、底知れぬ恐怖を覚える騎士団員達。
相手が狼狽えるのを待って、再び黒刀を一閃。
野生馬の鎧獣騎士が地に崩れる。
ここにきて、騎士団員の足並みは乱れた。黒騎士の尋常ならざる動きに、全員が恐慌をきたしたのだ。
だが、恐怖の波が広がりきる前に、黒騎士は静かに一言、
「済まんな。後学にならんようだ」
と、吐き捨てると、その姿を消した。
目にも止まらぬ狩撃走。
「あ」とか「う」とか、一言呻き声をあげると共に、残りの全員。十名近い鎧獣騎士全員を、わずか数瞬のうちで斬り伏せたのだった。
「命が尽きては学ぼうにも学べん。生まれ変わって出直すが良い」
最後の一人が崩折れるのを待って、黒豹の騎士は、黒刀を一払いする。
「しかし、昨今のゴート帝国とは、こうも脆いものか。これなら私一人で、国をまるごとたいらげられそうだな」
嘲りの言葉だが、反論のしようもない。それほどの絶対的強者。
先ほどのザイロウが見せた、巨獣の持つ度外れた強さとも根本的に異なった、別格の計り知れなさ。それと対峙するギオルは、自分の腕がたつ分だけ、相手との差がより明確に感じられた。恐らく己でさえ、大人と赤子、いや、それ以上の差があった。例え自分に大空という地の利があっても、攻撃で近付いた瞬間に、己の首は胴体と離れているだろう。
そう確信した。
黒騎士の侮蔑混じりの台詞にも、何一つ動けないギオルであったが、だがそれに対し、怒りも露に反駁する者がいた。
ハーラルである。




