第二部 第五章 第七話(終)『悪報』
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〈第二次クルテェトニク会戦――七戦図(終)――〉
「久しいな、狼の孺子よ」
男とも女とも、老人とも若者ともつかぬ声。
漆黒の体毛。純黒の鎧。暗黒の剣。
ありとあらゆる黒を凝縮した、三獣王の一騎。
黒騎士レラジェ。
レラジェとはこの黒豹の鎧獣の名前。駆り手の名は黒騎士。名前は誰も知らず、彼なのか彼女なのか、年齢も出身も、ありとあらゆる事が謎に包まれた、最強騎士の一人。
何より、イーリオにとっては因縁の相手。倒すべき宿業の騎士であった。
「お前が……何故……?!」
重い体に抗うように、聖剣を杖にして立ち上がるイーリオ=ザイロウ。
体力が尽きかけているなど関係ない。自分の中がぐちゃぐちゃにかき回されたような、言葉では形容し難い感情が、彼の体を動かしていた。紐付けを通して、それがレレケにも伝わる。
怒り――後悔――屈辱――恨み――憎悪――敵意――
そして僅かばかりの――喜び――?
だが、いくら感情が前に出ても、肉体はどこまでも正直だった。思うように足が前に出ない。
そうこうしていると、今度は別のゾウ騎士たちが、倒れた味方を踏みつけるようにこちらへ迫ってきている。目は血走り、口からは自我を失ったような泡をたて、狂疾にかられた魔獣そのものの凄まじさで。
おそらく、止まろうにも止まれないのだろう。恐怖にかられた彼らに、前後の見境などあろうはずがなかった。
クロヒョウである黒騎士など、紫象騎士団からすれば嬰児と大人ほどの体格差がある。
比較にすらならないように見えたが、一瞬――
瞬きも追いつかぬ黒の影は、ザイロウの視界を残像となって走ると、いつの間にやら象頭の騎士を全員倒していた。皆、一刀で。
あの、堅牢堅固で傷付ける事すら不可能と言われた最高硬度の紫象騎士団を、何の苦もなく次々に斬り伏せたのだ。
死体が文字通りの山と重なり、その上に一人立って睥睨する、黒の獣王。
―― 一体。
一体どれほどの修練を積めば、あの場所に立てるのか。
先ほどまでの激情もどこへやら、あまりに圧倒的すぎる黒騎士の武勇に、イーリオは己の感情をも戸惑わせていた。
あまりに違いすぎる。
あまりに桁外れな。
自分の師も三獣王であれば、その実力は誰よりも分かっていたと思っていたが――。
「ひっ、ひぃぃっ!」
情けない悲鳴を上げ、生き残ったゾウ騎士の一騎が腰を抜かして後ずさる。
黒騎士はその醜態を一瞥したが、既に興味を失っていたようだ。
一瞬で掻き消えた姿は、既にイーリオの目の前にいた。
目は離してない。わずかな気配も逃さず、凝と集中していたはず。
――にも関わらず自分が、いやこのザイロウが、まるで知覚出来ずに懐に入られるなんて……!
イーリオの戦慄は絶望の色を帯びはじめていた。
自分は三年前、いや、四年前のあの時から変わった。
師匠に連れられ鍛えられ、いくつかの戦いや戦争も参加し、多少なりと武功もたてた。二つ名で呼ばれるほどには実力もついたし、今もあの覇獣の一騎をこの手で倒したほどだ。
でも……けれど……。
まるで届かない。
あまりに遠い頂きに立つ者。遥か高みは、手を伸ばしても届く事さえないというのか――。
「活躍は耳にしているぞ、孺子。いや、今は恐炎公子などと呼ばれているのだったな」
黒騎士の声。睨む大狼の瞳。
「シャルロッタはどうした……?! お前が連れ去ったんだろう?!」
そうだ。
例えどれだけ手が届かなくても、それが何だと言うのだろう。
自分がこの人物を追う理由は唯一つ。
彼女を取り戻す事。
それだけだ。
しかし、ここで人間のものとは思えぬような、不気味な笑い声が響いてきた。
「クックックッ……そうだ。まさにそれだ、孺子」
黒騎士の笑い声。
「何……?」
「孺子よ、お前、こんなところで何をしている?」
「どういう意味だ」
「他国の戦争に首を突っ込み、傷だらけになるまで必死で戦って実にご苦労な事だ。だが、お前はそれで良かったのか?」
「だからどういう意味だ」
「お前の想い人のあの娘――。あれはもう、俺の元にいない」
「いない……だと」
「そうか。あれが何処にいるか、ジェジェンの若造から聞いたのではなかったのか。あ奴は目にしたと聞いていたがな」
この会話を耳にしていたレレケは、この言葉に血の気を失う。
まさか――と。
「ジョルトさんが……? どういう意味だ」
「俺がここに来たのは、それを尋ねに来ただけだったんだがな。そうか、知らぬか。ならば教えてやろう」
「何……?」
紐付けの向こう、レレケが声を出そうにも、声にならない。
それはイーリオが望んでいた答えだったから。それを告げなかったのは、何よりも自分なのだから。
「お前の想い人の娘、あれは今、ゴートにいる」
「ゴート……?」
「そうだ。そして雪解けを待って、ある男のものとなる」
「は……?」
ある男?
何だそれは。
イーリオの思考が霞む。
「お前もよく知る若者だ」
「どういう意味だ。何だ、ものになるって」
「ゴート帝国次期皇帝ハーラルだ」
ハーラル?
ハーラルが何故? どうしてその名前が?
真っ白い髪になった、最後に会った時のハーラルの姿を思い浮かべる。そこから記憶を辿った。
――そうか、銀の聖女の、あの伝説か。皇帝と認められるための儀式。あれのために再びシャルロッタを自分のものにしようというのか。
そのようにイーリオが考えを巡らした時、黒騎士はそれよりも信じられない事を告げた。
「ハーラルは皇帝の戴冠を期に妃を娶るそうだ。そう、お前の想い人であるあの娘。あれがハーラル皇帝と結婚をする」
結婚?
誰が? ハーラルが? 誰と?
意味が、分からなかった。
「な、何で――!」
「あの娘は、今や帝国貴族の養女となっている。身分も申し分ないし、聖女と結婚出来れば、かつてないほど祝福を受けた皇帝になる事が出来る。そういう事だろうな」
違う、そうじゃない。何で、何でシャルロッタが――。
「だから俺は聞いたのだ。こんなところで何をしていると。こうしている間にも、お前の想い人は、あの皇子の腕に抱かれておるやもしれんのになあ」
思考の全てがとんだ。
真っ白にになり、何もかもを忘れて、黒騎士に襲いかかった。
だが、気が付いた時には、自分を呼ぶ声がしていた。
イーリオ君! イーリオ君! と。
我を失い剣を振るったはずが、何故か黒騎士の足に踏みつけられている。
何をどうされたのか。まるで分からない。分かるはずもなかった。
自分を呼ぶレレケの声は、今も虚しく響いている。
「その力尽きた体で、よくもそれだけ動ける。お前はまったく、実に期待を裏切らぬなあ」
ザイロウの口吻を通じて、土の味がした。片足で踏みつけられただけなのに、身動き一つとれない。
「お前は以前、俺に一太刀傷をつけた。その時の礼はしてやったが、このまま育てば、更に俺を楽しませてくれる事になりそうだ。だからこれは、俺からの褒美だと思えばいい」
耳元に近付く、黒騎士の声。
「一ヶ月後、帝都の城で皇太子の婚約が発表される。当然、そこにはあの娘も来る」
「……」
「どうするかは、お前次第だ」
どうするもこうするもない。
――ここでお前を倒す。シャルロッタも取り戻す。
だが、指先一つ動かせなかった。今この場で膾に斬られようとも、抵抗すら出来ないように思えた。
そこへ――
轟音が、空気を突き破った。
途端、踏みつけていた黒騎士の重みが体から消える。
次いで起こされる、イーリオ=ザイロウの身体。
その目に映ったのは、緑の巨体。
ザイロウの何倍も大きな、おそろしく筋肉質に隆起した人牛の姿。
「む」
唸るような声。
「その声……ヤン殿下……?」
「ん」
紫象騎士団たちを蹴散らして、東方幻霊騎士団のヤン・ヴァン・リンヴルフ王子が、イーリオを救うため、ここに来たのだった。
「フッ……トクサンドリアの傭兵王子か。相変わらず助けの多い事だな、孺子よ」
黒騎士は既に距離をとってある。
ザイロウの黄金の瞳は、それでも歯向かう意思を失っていない。
「だがあの娘を取り戻したいのなら、そうやって誰かの手を借りていては、駄目だろうな」
「な……に……」
「所詮、今までのお前は、己一人で何も為し得ていないという事だ」
そんな事はない。そんなはずはない。
「さあ、お前がこれからどうするか、見せてくれ」
言葉の後で忍び笑いを地響きのように唸らせながら、いつの間にか黒騎士の姿は消えていた。
表れたのと同じように、唐突に。何の脈絡もなく。
「そんな……そんな事、ない……」
霞む意識の中、イーリオは最後まで黒く消えた虚空を見つめ、やがて意識を失っていった。
メルヴィグ連合王国・客将イーリオ・ヴェクセルバルグ
大狼の鎧獣ザイロウ
――戦闘不能のため戦線離脱