第二章 第五話(終)『破滅獣』
ザイロウが再び遠吠えをあげる。
ハーラルが円月刀を振り上げた瞬間だった。
思わずその挙動を止め、遠吠えに魅入ってしまう。そして、遠吠えがやむと、そこには意識を取り戻した目の、イーリオ=ザイロウが立っていた。
銀狼の騎士が、牙も露に叫びをあげる。
「〝巨狼化〟!!」
ザイロウの額の神之眼が輝きを増し、ウルフバードの刀身から、火山の噴火にも似た、猛烈な勢いの蒸気が吹き出す。その色は白濁しながらも赤味を帯び、風雪を掻き消すほどの熱量を帯びていた。
熱波のあまり、思わずティンガルは後方に距離をとる。
さっきから立て続けに起こる意味不明な出来事の数々に、ハーラルもギオルも騎士団も、ただただ唖然とするしかなかった。
蒸気は勢いをどんどん増していき、まるで噴火のように煙の山を作り上げる。
その煙の向こうで、二つの輝きが光を放ったように、ハーラルは感じた。
蒸気は止まない。
だが、その煙から、のそり、と何かが蠢く。
先ほど気付いた二つの光が、今度は確かに視認できる光を放つ。
それは、紅く輝く、双眸。
煙から、獣の前肢が一歩、表れる。
千疋狼の半透明に似た、乳白色の足。だが、千疋狼とは違い、その色はほんのりと赤味を帯びている。何よりの違いは、その大きさ。
一瞬、遠近法が狂ったかと思うほどの、あり得ぬほど巨大な前肢。
ゾウの足ぐらいはあろうか。
続いて、もう一つの足が出、その次に巨大な口吻が表れる。
煙が巻き上がる中、やがてゆっくりと、赤味を帯びた乳白色の巨獣が、その姿を見せた。
超巨大な狼。
大狼などではない。
全長三〇フィート以上、ゾウも超えた、化け物じみた大きさの狼。
「何……だ……。これは……」
目の前の巨大な〝モノ〟に、目を疑うハーラル。体にまとったティンガルも、心なしか震えているようだった。いや、それは自身の震えであったろうか。
本能が叫ぶ恐怖。
獣の世界において、大きさはそのまま強さの序列に繋がる。ならば目の前の〝これ〟は、何だ。強さの枠外にあるとも言える、巨大な体。爪。牙。
神話に出てくる巨獣そのもの。まるで〝煉獄の崩落〟を起こした、〝破滅の獣〟ではないか。
全員が固唾を飲む中、それでも次期皇帝としての威厳がそうさせるのか、ハーラルは円月刀を構えなおし、赤白く煙る巨獣を睨み据えた。
その殺気に気付いたのか、巨獣は唸り声をあげ、目の前のティンガルに視線を向ける。
「こんなもの、虚仮威しにすぎん!」
ハーラルはそう叫ぶと、跳躍し、巨獣に斬り掛かる。
巨獣は身動き一つせず、その動作を見ていた。
円月刀が巨躯にめり込んだ――かに見えた。
だが、刃は通っていない。手応えは雲か霞のよう。
だが刃自体は、硬質な何かにぶつかったように、強く弾かれる。
地に降り立つ、ティンガル。
そこへ、空気の壁をぶち破り、巨大な右前肢が、人虎の体を吹き飛ばす。
土塊を巻き上げ、玩具のように飛ばされるティンガル。それは、先ほど自分がザイロウに行った事の倍返しそのものだった。
「殿下っ!!」
叫び声をあげ、ギオルはハーラル=ティンガルへ寄る。
ティンガルは、あり得ぬ方向に左腕が曲がり、苦悶の呻きをあげて立ち上がろうとしていた。
「お止し下さい! 殿下!」
「黙れっ! 余が……余が敗北するなど、あってはならぬ!」
ギオルの制止も聞かず、ティンガルの両足に力を込めるハーラル。
「あれが奴の獣能なら、余にとて獣能がある……!」
「まさか……、その状態で行うなど、危険すぎます!」
「うるさいっ! ――うるさいっ! うるさいっ! うるさいっ! 貴様は指図するな! 余に指図するな! 余はハーラル! 帝国皇帝なるぞ!」
それは、氷の皇太子の仮面を脱ぎ捨てた、もう一つの顔のハーラル。気品も何もない、獣性の顔のハーラルであった。
まだ皇帝ではないが、彼の中では、既に自分こそがこの国の唯一の存在と同義であった。今はその感情が、仮面からさらけ出され、剥き出しになって吠えたてている。
ハーラルは折れた左腕をものともせず、立ち上がって、ティンガルに命を下す。
「修羅死王!」
白虎騎士の体が胸部を前にして仰け反り、筋肉が隆起したかと思うと、今度はくの字に体を折って、全身を痙攣させる。脈打つ血潮。全身の体毛が逆立つ。
その肩甲骨あたり。筋肉の重なる場所から、めりめりと音をたてて、肉の塊が生えてくる。薄く体毛をまとったそれは、やがて細長く形作られていき、二本の腕へと形を変えさせた。
これがティンガル・ザ・コーネの獣能。
〝修羅死王〟
四本の腕になった人虎の騎士。
別名〝四つの掟〟。
この状態になったティンガルに死角はなく、集団戦において無類の強さを発揮する。
だが、今は集団戦ではなく、巨大な化け物との戦いだ。これがどこまで通用するかはわからない。
ティンガルの中で、激痛と嘔吐感に耐えながら、涎を垂らして息をするハーラル。だがそれよりも、目の前の存在への敵意で、彼の視界は異常な彩に染め上げられていた。
この獣能は、異形な見た目の通り、かなり特殊な獣能で、歴代の駆り手の中でも、修得出来たものは少ない。実際、ハーラルも完璧な形で発動できる訳ではないのだが、それでもこの年齢で、ティンガルの獣能を使える事は、彼の才能がいかほどのものか、物語っていると言えよう。
肩から増えた二本の腕が防具の授器を掴むと、それが白化を起こしたように形状を変化させ、二本の剣へと変化させた。
左腕は使えないので、三本の腕を持った人外の姿の騎士だ。
巨狼 対 異形の人虎。
まるで神話の世界のような戦いの幕開けに、誰もが息を呑み声を失う。
先に仕掛けたのは、ティンガルであった。三本の剣を巧みに操り、敢然と巨獣に立ち向かう。
だが、その剣のどれもが通らぬと知ると、今度は同じ箇所を、何度も何度も執拗に、攻撃した。同じ箇所を攻撃する事で、相手が弱まるのを待とうという作戦だ。
だが、狼に似た巨獣は、これをまるで羽虫にさされた程にも感じていないようであった。
小うるさげに尻尾を振ると、その巨体にそぐわぬ俊敏さで、ティンガルの背後をとる。
しかし、ティンガルの速度も負けてはいない。背後に回った巨獣に対して跳躍すると、今度は上からの攻撃。円月刀を垂直に斬り下ろす。
そこへ、巨獣が再び神速の動きを見せる。土煙一つあげず、後ろ足で立ち上がると、ティンガルを前肢で薙ぎ払う。
潰された虫のように、大地に叩き付けられるティンガル。
新たな二本の腕は、左腕同様、奇妙な方向にねじまがっていた。
グオォォォゥゥゥ。
勝利を確信したかのような咆哮をあげる巨獣。
ギオルはティンガルを助けようと身構える。
勝機はなかった。
だが、ここで主君を助けずして、何の騎士団団長か!
いざともなれば、この身を挺してでも――!
だがしかし、ギオルの助けが入る事は永遠になかった――。
咆哮の後、巨獣は俯き加減に頭を垂れると、現れた時同様、全身から蒸気を吹き上げはじめたのだ。
熱量が周囲にまで伝わる。
蒸気はやがて白煙に代わり、それが晴れると、そこには――。
鎧化が解かれ、ぐったりと横たわるイーリオと銀狼の姿が残されていた。
――強制鎧化解除!
レレケは悟った。
おそらく、ネクタルが尽きたのだ。
あれだけ潤沢に摂取したはずなのに、わずか二度の――ほとんど、この戦いのみで、一気に消費し尽くしたのであろう。
予想だにせぬ成り行きに継ぐ成り行きの連続に、気持ちの方がついていかなかったが、こうなると、本当に万事休すだ。
ティンガルとの争闘には勝利らしきものを手に入れたかもしれない。けれど、だからといって、これで連中が黙って自分たちを見逃してくれるとは到底思えない。
何せ、帝国の最高権力者を、無様に一敗地に塗れさせたのだから。
果たしてレレケの予想通り、大鷲の騎士団長は、翼をはためかせて、横たわるイーリオに近寄っていった。
人一人をゆうに掴み上げられる強靭な足の爪で、彼の上体を無理矢理引き起こす。
「う……う……」
声にならないうめき声が、イーリオの口から洩れる。その時、体を無理矢理起こされた際、戦闘での傷跡で衣服が破れた部分から、彼の母の形見のペンダントが転げ落ちた。
視界の隅でそれを捉えたギオルは、変形したそのペンダントを見て、大きく動揺する。
――このペンダント! 何故?! これが、ここに?!
彼の鍛え上げられた精神が、千々に乱れた。
――どうしてこれを、こ奴が持ってる?!
思わずイーリオを見る。
やがてわなわなとした震えが、全身を這い上がっていった。
ギオルが動揺していた最中だった。
突如、生き残った騎士団員の一人が、うめき声をあげて倒れたのは。
更に、二人目も、倒れる。
「な、何だ?!」
ギオルも、はたと気付き、騎士団達の方に目をやると、丁度、斬り伏せられる、二人目の団員の姿があった。
レレケは、――もしや、助けが来てくれたのか?! ――と、期待に目を向けるも、そこに映ったのは、彼女が見た事のない人物であった。
いや――、知りはしないが、同時によく知っている。彼女も、ここにいる誰もが。
その場にいる殆どの人間が、知ってはいるが初見であった。が、にも関わらず、その人物が誰なのか、全員が一目で理解した――。
その人物は、高原の彼方から、黒馬を駆って表れた。
全身が黒尽くめ。頭髪も、衣服も、身に帯びた剣も、騎乗する馬も、全て漆黒。
異様なのは、顔が見えない事。黒い仮面を被り、その素顔は覆い隠されている。
傍らには、鎧獣がいた。
その鎧獣もまた、体毛のみならず、全身が黒尽くめ。
塗れた黒のような体毛に着けているのは、黒曜石よりも黒い輝きを持つ授器。
しなやかな体躯は、決して大型鎧獣ではないが、肉食獣の持つ、鬼気迫る空気をまとっていた。
黒豹の鎧獣。
黒装の仮面の騎士。
エッダの身なりも黒いが、〝彼〟の姿は、その比ではない。
何から何まで黒。
鎧獣までが黒。
誰かが思わず呟く。
その名は、畏敬と尊崇の代名詞。
「黒騎士……!!」
その場にいる全員が絶句した。




