第二部 第五章 第五話(終)『起死回生』
〈第二次クルテェトニク会戦――五戦図(終)――〉
大連合軍にとっては、起死回生の一手に思えた事だろう。カイがホーラーに指示を出し、連合全軍に施した全回復全治癒の獣理術が。
なるほど、確かに一時は勢いを盛り返し、最も突破される懸念のあった中央右と左翼ですら、アンカラの二大騎士団を押し返すほどの奮闘を見せた。
アンカラや同盟側にとっては、〝覇導獣〟なる鎧獣術士がかけた術によるものだと目に見えて分かるはずがない。術そのものは通常、視認出来ないからだ。つまり、いきなり敵の動きが開戦当初のものとなり、瀕死だった者ですら復活したのだから、一体どういう事だと戸惑うのも当然だろう。
それらも重なって同盟が押し戻される形となったのだが、しかしそれでも最強で最大の集団である二大騎士団は、紛れもなく最大で最強だった。
群れとなり襲いかかるゾウとサイの人獣騎士は、地力の底なしさも連合の想像を遥かに上回るものだったのだ。
何かは分からないが、連合が勢いを取り戻した。
しかしそれが何だというのだろう、と。
貫けぬ装甲を持ち、砕けぬもののない破壊力を有した巨人の軍勢の前では、復活した連合ですら再び圧し返されるようになるのに、そう時間はかからなかった。むしろ、敵が奮闘を見せるなら、こちらも負けてはいられじと逆に奮起を促す事になり、結果、メルヴィグ大連合軍の崩壊は再度目前に――というところにまで迫ってきつつあった。
無論、カイ・アレクサンドルがこれを読み損なったわけではない。
こうなる事はわかっていた。分かってはいたが、先の段階で敵に突破されたら、それこそ連合の敗北は決定的になっていただろう。だからこそあの時、ホーラーに術を発動してもらったのだ。
それもこれも、どこまでも時間稼ぎ。
もう少し――
もう少しだけ、持ち堪える事が出来たら――
それがカイにとっての賭けなのだから。
あらゆる手を尽くし、可能な限りの時間を稼いだとしても、それでもそこから先はぎりぎりの大博打。
およそ策というにはあまりに無謀な作戦なのかもしれない。
だが、そこに賭けるしか方途はなかった。
そのようにカイは、味方への指揮を行いつつも、一方では弓矢を絞り、クリスティオの戦いに加勢もしていた。だが実際は、完全にシャイターンとの戦いに集中出来ているとも言い難かった。
――まだか。
焦げ付くようなジリジリとした焦りが心を蝕んでいく。それでも耐える。祈る。味方を信じる。
今出来る事はそれしかない。
――まだか。まだなのか。
しかし現実は、祈る事で思いどおりになるものではない。
悲鳴のような通信。
右翼、紅犀騎士団に圧されていた肆号獣隊と陸号獣隊ではなく、その向こうで灰堂騎士団と争っていたジェジェン部隊からの声。
両軍の均衡が破れ、ジェジェンが後退しつつあるというのだ。
まさか、とは思ったが、その後すぐに何とか堪えたと追加の報告はあるものの、陣形は崩れつつある。今ここで灰堂騎士団に抜けられると、肆号獣隊と陸号獣隊は挟撃にあって一気に左翼は壊滅してしまう。
何か手はないか。
カイは必死で有効な手を模索するが、思いつく奇策の類いでは、単純で強大過ぎる力を止める事は難しかった。
そう思っていたら、今度は中央右の弐号獣隊、参号獣隊からの声。
紫象騎士団の勢いを止める事が、難しくなってきているとの事。
参号獣隊のチーター部隊は、相手を撹乱する役割をしていたが、人象部隊はそこを突破口に定めたらしい。こうなっては危険だった。
率いるジルヴェスターやリッキーの苦闘も伝わってきているが、どうしようもない。
まさにその今、一気に風穴を開けんと人象騎士の一騎が、突如凄まじい速度で弐号獣隊の一角に体当たりを仕掛けてきたのだ。
ゾウの速力は最高時速で三七マイル (約六〇キロ)に達するというが、地上最大の生物がその三倍の速度で身を投げ出すようにぶちかましをかければどうなるか。
弐号獣隊の騎士達は羽毛のように吹き飛ばされ、そのうち数名は体当たりをしたゾウ騎士の下敷きになる。
それよりも、今のでザクリと割られた弐号獣隊の陣形。
――不味い!
敵が一気に雪崩れ込む。陣は崩れ、部隊は壊滅する――
誰もがそんな最悪を想像した。しかし止めようがない。
今にも突撃をかけたゾウ騎士が立ち上がって――
こなかった――
前のめりに突っ伏した人象は、ぐったりと倒れたまま、ピクリとも動かない。
いや、それどころかゾウが吹き飛んできた後ろでは、同じ味方のゾウも巻き込まれ、大きな一本道になっているではないか。
これではまるで、突っ込んできたのではなく――
「吹き飛ばされた……だと?」
誰かが呟いた。
当然、紫象騎士団たちも何が起こっているのか理解出来ず、唖然としている。
そして自軍に空いた一本道の向こう。
そこに佇む姿は、ゾウの形をしていなかった。
左右に大きく湾曲したツノ。
それはあまりに大きい。大き過ぎると言っていい巨大さ。
全身も尋常でない大きさをしていた。何より、突き出した拳を戻した際、影で見えなかった全身が陽に照らされてその色が露になった時、誰もが息を呑むのが分かった。
見目鮮やかな、その種では有り得ぬ色彩。
翠緑の体表。
「な、何だ……!」
全身が緑色の、人犀ほどもある巨大な人牛。
やがて巨牛の離れた背後から濛と土煙が上がり、いくつかの旗が翻っているのが見えた。
四つの菱形の紋章。鮮やかな赤地。
敵味方問わず驚きのあまり絶句する。そして叫ばれた、大音声。
「我々はトクサンドリア王国〝東方幻霊騎士団〟! 神々の思し召しによりメルヴィグ軍の助太刀を致す!」
声を張り上げたのは翠緑の巨牛ではなく、後方の別の人牛騎士。女性のものだった。
一瞬、水を打ったように静寂が広がり、やがてじわり、じわりと何かが沸き立っていった。
次いで、連合軍から歓喜の雄叫びが上がる。
そのまったく同じタイミングで、連合左翼を攻めていた紅犀騎士団の背後にも、同じ旗で別の巨牛騎士がサイを数騎吹き飛ばしている。
「我はトクサンドリア国王レオノール・リンヴルフ。神の義によって我が友を助けに参った!」
翠緑の巨牛とそっくりの見た目、巨大さ。
違うのは褐色の体表と、長大なツノが下向きに湾曲しているという事だけ。
翠緑の巨牛はツノの先端が上向きになっているのだ。
「間に合った……!」
これを耳にしたカイは、思わず油断しそうになるくらい、胸を撫で下ろした。
だが敵軍も呆気に取られていたため、カイのそれに気付く者とていなかったのだったが。
そう、これこそがカイの仕込んだ逆転の一手。
盤上に揃えた最後のひと駒にして、この戦を決定付ける最後の騎士。
イーリオらとトクサンドリアに向かい、宴席で交渉した約束の中身。
それがこの、敵の後背を衝き、挟み撃ちにしてほしいという連合軍への助勢願いだったのだ。
だがこれは元々、きわめて可能性の低い賭けだった。
トクサンドリアは宗教国家。神の託宣を重視するため、みだりに兵は動かせないと定められている。カイはそこを何とか説得したのだが、それでもトクサンドリア国内で諸々の賛同を得るのに、今まで時間がかかったのである。
結果、カイは――いや、連合軍はこの賭けに勝ったのであった。
これを目にしたカイゼルンは、思わず悪態めいた呟きをこぼす。
「カイのヘナチョコ野郎め。あの〝エアレ〟を呼ぶなんて算段してんだったら、オレ様なんざ要らなかったんじゃねえのかよ」
「どういう意味だ」
対峙するジャラール大帝が、これを聞きとがめる。
「……知らねえか? あそこに見えるバカみたいにデカい緑の牛。ありゃあな、最強の〝力〟を持つ鎧獣騎士なんだよ」
「最強だと」
「能力とか騎士の実力とかそんなんじゃねえぞ。力、腕っ節、腕力、怪力、所謂ただの〝力〟なら、鎧獣騎士の中でも最強だってんだ。――おそらく獣帝、あんたのそのマンモスよりもだ」
「ほう……。それは貴様よりもかカイゼルン」
「〝力〟ならな。あれの馬鹿力はモノが違う。何せこのヴィングトールと同じ種類の鎧獣だからな」
牛とライオンが同じ種類。
それがどういう意味かは読み損ねるが、この百獣王をしてそこまで言わせるのだから相当の手練である事は想像に難くない。ジャラールはそう値踏みしながら、百獣王を片付けた後はあの緑のにするかと、まるで次の食事を決めるように心中で呟いた。
一方、突如出現した十数騎ほどの援軍と吹き飛ばされた味方に動揺したものの、紫象騎士団はすぐに陣形を立て直した後、一旦目標を変えて翠緑の巨牛に襲いかからんとした。
色鮮やかな緑の人牛騎士はこれを目で捉えると、手持ちの三日月戦斧を構えもせず、空いた片腕の脇を締めた。
「む」
迫るゾウの巨体は、こちらが巨牛であってもさらに上回っている。
それを目の前にして――
翠緑の巨体が一息吐いて――拳で殴りつけた。
巨腕による岩石のような拳。
だがそれは、ただの殴打。あの無敵のゾウに向かって、パンチをするだけ。
ところがゾウの鳩尾に直撃した打拳のひと突きは、先ほどと同じように再びゾウの巨体を吹き飛ばしたのだ
今度は自軍の仲間を大量に巻き込みながら。
敵味方問わず、呆気に取られてただただ目を剝くのみ。
「へっ、ウチの旦那――東方幻霊騎士団団長のヤン王子と〝エアレ〟に向かって真正面から来るなんざ、無謀もいいところだね。例えアンカラの紫象騎士団とやらであってもさ。ねえ、アンタ?」
翠緑の巨牛の後ろにいた、別の人牛騎士が呟いた。
「む」
ヤン=エアレが戦場全体に視線をめぐらせた。
その威風、力強さもそうだが、何よりその巨体。
ウシ科史上最大のジャイアントバイソンとほぼ同じ大きさ。
古代スイギュウの一種、ペロロヴィス・アンティカスの鎧獣騎士。
それがトクサンドリア最強と名高いヤンの駆る騎獣――エアレ。
「それじゃあ殿下。いっちょ久々に大暴れするかい?」
「む」
ヤンは前方を睨んだ。翠緑の肌に、白と緑を基調とした、トクサンドリアの神の騎士たる証の鎧を纏う。
それこそまさに、破邪顕正たる神聖騎士の姿だった。
今まで優勢を誇り、どんな相手でも圧倒していたゾウ達が、この日初めて戦きに足をすくめた。
急展開を告げる第二次クルテェトニク会戦。
戦いはいよいよ、佳境に向かいつつあった――。