第二部 第五章 第五話(2)『狂神刻限』
〈第二次クルテェトニク会戦――五戦図(2)――〉
大平原中央で二体の巨人が姿を見せた頃、連合右翼で〝覇剛獣〟ノイズヘッグと戦っていたイーリオは、かつてない苦戦を強いられていた。
無理もない。トクサンドリアの闘技場では全てにおいてノイズヘッグに圧倒され、手も足も出なかったのだから。あれからそれほど時も経っていないのに、劇的に強くなれるはずもなかった。
一方で、ファウストは冷笑を禁じえなかった。
覚悟だの負けないだの、誰でも口先だけならどんな強い言葉も吐けるだろう。しかし言葉や意思だけで強さを手に入れられるなら、誰も苦労などしない。
そんな嘲る思いを内心で吐き捨てる。
目紛しい攻防の中、白い炎を身に纏う白銀の人狼騎士に、血管が浮かぶほど筋肉質に変異した黒獣騎士が、激しい蹴りを放った。駆動騎の蹴撃とは異なった、鞭打つような鋭さ。
防御した片腕から、全身に痺れるような感覚が伝わる。体勢を立て直そうとしたザイロウに、続けざま直上から斬り下ろしの剣。今度は受けでなく足捌きを使い、紙一重で躱す。レーヴェン流の防御技〝守動〟の動き。これはただの回避ではない。続くカウンターとの合わせ技が定番なのだが、同じレーヴェン流を習得しているファウストなら、その意図に当然気付かぬはずがない。
ザイロウが反撃の動きに入る半秒もない直前、ノイズヘッグが剣の軌道を跳ね上げるような斬り上げに変えた。半ば強引な変化。しかしそれはザイロウの顎を掠めた。
鮮血が宙に舞う。傷は浅いだろう。しかし続くはずの動きが牽制されたばかりか、体勢も崩された。
咄嗟に炎身罪狼を応用して高精度の分身を作り出したのは、イーリオの戦闘経験からくる勘であった。
この技は、かつてセリム皇子の駆った蒼色羚羊のアムルダードが出した異能をヒントに編み出したもので、後年〝怪幻火〟と名付けられる事になる。だがこの時は、咄嗟の閃きで出したに過ぎなかった。
しかし相手への目眩ましには有効で、まさにこの時がそうであった。
ノイズヘッグが斬り下ろした人狼は、そのまま幽玄の霞となって霧と消える。ザイロウ自身は幻を囮にした〝脱け〟を行い、離れた間合いをとる事に成功していた。
彼我の距離、六五フィート半 (約二〇メートル)ほどで睨み合う両者。
大狼の黄金の瞳には、決死の思い。持てる余裕などあるはずもなく、トクサンドリアの時以上に圧倒され続けている。
「まだそんな技があったとはな。器用な鎧獣だ」
ファウスト=ノイズヘッグが言い放つ。声にとげとげしさがあった。
体毛ごしでも分かる脈打つ血管。速度や攻撃力を上げる意味ではザイロウの炎身罪狼と同じ効果になるが、ノイズヘッグのものはまるで質が違った。
〝血閃深化〟
ノイズヘッグの獣能は、血液を超常変化させるもの。
血液中の血漿を制御。血流や血漿浸透圧に血液成分、そして血中に含まれるネクタルを操り、肉体を強化するのだ。
結果、速度のみならず頑健かつ剛力さも併せ持った肉体に変化させるだけでなく、あらゆる毒物への抵抗力も倍増するという、肉体増強の極地ともいうべき異能なのである。
ザイロウの炎身罪狼も爆発的なエネルギーを発生させるが、増強効果が齎す馬力が違った。このままではいずれ力押しで負けてしまうのは瞭然だ。
しかしファウストは、この状況に満足するどころか不満と苛立ちさえ覚えはじめていた。
自分に勝ってみせるなどと大言を吐いた相手。
それに対し小手先の技に惑わされ、いまいち決定的になりきれない己。
実力差だけなら、もうとっくに決着はついている程度の相手なのだ。手こずる事自体、ファウストにとっては屈辱でしかなかった。
こうなれば決闘場の時の再現だ。
ささいな技で抵抗するなら、その技ごとねじ伏せてやろう。
「貴様の手品ももう見飽きた。そろそろ終止符をうってやろうか」
「……そう簡単にいくかな」
イーリオには珍しい、精一杯の虚勢。
「それも飽きた。貴様はもういい」
言った直後、ファウストは厳かに第二の異能を号令した。
「〝狂神ノ刻〟」
黒色豹獅子の両目が、赫く血走って光る。
瞬間、光に似た速さで輝く剣を閃かせると、ノイズヘッグの両腕両足から血飛沫が飛んだ。
己の剣で四肢に傷を――?
何が起こるか分からない恐怖よりも、間近に迫った圧倒的な死の宣告に、イーリオの指先は凍るように震えていた。
自傷したノイズヘッグの血はすぐに止まる。が、やがてそれは奇妙な変化を見せはじめた。
血液とは液体。生き物ではない。生き物の中に流れる命の流れそのものでしかないはず。
しかしノイズヘッグの四肢から垂れる血は、まるでアメーバのようにうねうねと自立した動きを見せはじめ、黒き人獣の体に纏わりだしたのであった。
――な、何が……。
異様さが根源的な恐怖に繋がる。
赤黒い液状は見る間に形を変え、両腕両足頭部など、体の各所に付着し、徐々に固まっていった。
「覇剛獣ノイズヘッグの異能は、二つとも血を操るもの。元々覇獣の内、覇撃獣は〝王を援護する力〟、覇雷獣は〝集団を制圧する力〟、そしてこの覇剛獣は〝王を側で守る力〟として作り出されたものだ。それはつまり王すらも凌駕する力を許されたという意味でもある。でなくば、王を守るなど言えんだろう?」
うねうねと動いた血は、今や光沢を輝かせるほど硬化しつつある。
「つまり最強の個人武力として産み出されたのがノイズヘッグというわけだ。――ふっ、王を守る力がその王を殺せるというのだから皮肉なものだな」
赤黒く光る鎧に身を包む、黒き獅子の騎士。
それは血塗られた――ではなく、血そのもので作られた鎧。
「我が血液を無敵の武装に変える――それがこの〝狂神ノ刻〟だ」
今のイーリオとザイロウは、果たしてこれに抗しえる事が出来るのか……。
因縁は最終局面へと、急激に加速をはじめていた。
※※※
現在、クルテェトニクのどの戦線も、連合が押される形で膠着状態になっていた。
一言で言えば、連合が不利になりつつある。――そういう事だった。
個々の戦場で失った将の数だけであれば、アンカラ・オグール同盟軍の方が押されているように見えるかもしれない。しかしアンカラ側は、その事にさほどの痛痒も感じてはいなかったし、それはメルヴィグ大連合軍も理解していた。むしろジリジリと戦線を後退させつつあるのは、自分達の方であると――。
何故なら、失った将はオグール軍ばかり。
アンカラも地竜騎士団や猛猪騎士衆は壊滅に近いが、そもそもこの二つの軍は、アンカラにとって露払い程度の認識でしかなかった。仮に事後を考えた場合でも、本国の第五軍以下の部隊もいれば、征服後に現地調達も出来るので補充のやりようはあるというのがアンカラ側の考えである。
何より、主戦力である二大騎士団、紫象騎士団と紅犀騎士団が健在ならば、それで充分だと彼らは確信していたからだ。
実際、戦場の右側では地竜騎士団を撃破させたものの、肆号獣隊と陸号獣隊、それにジェジェンの部隊が、中央とは別部隊の紅犀騎士団の勢いに呑まれつつあった。
また戦場中央左側の弐号獣隊と紫象騎士団の別部隊との戦闘は、人象の側が完全なまでに圧倒しつつあるのを、ぎりぎりで堪えているのが誰の目にも明らかだった。
唯一互角に渡り合っているのが、アンカラ帝国最大最強部隊アフリカゾウで構成された紫象騎士団主力部隊と激戦を繰り広げている壱号獣隊のみである。
そして最も危険な状態にあったのが中央右側、伍号獣隊と漆号獣隊であった。
対するはシロサイ、クロサイで構成された紅犀騎士団最主力部隊。
戦端を開いた当初は、カイ軍師の用意した鎧獣騎士用クロスボウの援護で有利に進めていたが、残念ながら弓具のほとんどが既に損壊しているのが現状である。
サイは最も分厚い硬皮を持つ種類の生物だ。防御においてこれに並ぶものはなく、突進力・突貫力でもゾウすら凌ぐ事があるほど。
前衛の伍号獣隊が覇獣騎士団で最も防御戦闘を得意としていると言っても、それはこのサイ達と戦う前までの話である。
――こちらが決壊するのが先か、それとも……。
連合の軍師であるカイも、あとは自軍を信じるしかない。正に胸突き場。
カイの中では三獣王の二騎を除いて、ある三騎の動きでこの戦争の勝敗は決すると読んでいた。
一騎がレオポルト王。
次にイーリオ。
そして最後の一騎がどうなるかはまだカイにも分からなかったが、それを待つだけでなく、当然彼自身も動いた。
伍号獣隊が不利になると予測していたカイが、大きく迂回させる形でクリスティオ率いるアクティウム部隊を呼び寄せていたのだ。
アクティウム部隊を構成するのはシマハイエナ、イタリアオオカミ、アカオオカミ、アダックス、スプリングボックなどといった、中から下級に属する体格等級のものばかり。数が増えても焼け石に水の可能性もあったが、僅かでも時が稼げればというのが連合――いや、カイの狙いだ。
そのアクティウム部隊が中央右に合流しようという矢先、部隊を率いるクリスティオに、部下のブランド・ヴァンが不意に待ったをかけた。
「どうした?」
「は、申し訳ないのですが、王弟殿下と部隊は、先に向かっていて下さいませ」
「どういう事だ? 何をする?」
タテガミオオカミの顔を不審げに顰めるクリスティオ。
問われたブランドは、巨大イタチに僅かな攻撃性を滲ませて、斜め後方を睨んで答えた。
「どうやら戦場を駆け抜けていると、いらぬ汚れまで着くようで。少し後塵を払っておきたいと思います」
巨大イタチの〝マイナス〟が見つめる先にクリスティオも視線を走らせ、小さく頷く。
「分かった。しかし時間はかけるな」
「御意」
アクティウム部隊が先を急いだのを背中で感じつつ、マイナスは鎌剣で構えをとった。
「出て来い、オグールの騎士よ」
何もない平原に向かって、ブランドが言い放つ。ただ口にしたのではなく、言葉に殺気を乗せて。
やがて平原の一部が奇妙な揺らぎを見せはじめ、風もないのに大きなざわめきへと変化する。騙し絵が解かれるような奇妙さでそこから姿を見せたのは、ゲムズボックの人獣騎士。
「よく気付いたねぇ。俺のグラス・ガヴレンの獣能〝陽棲陰息〟を勘だけで見破ったのはアンタが初めてだよ」
陽気な男の声。
戦場に似つかわしくない声音だが、油断の出来ない人物だとブランドは知っていた。
「勘ではない。その異能は擬態に近いものだろう。嗅覚と記憶力があれば景色の変化に気付く事が出来るし、ましてやそこに殺気が混じれば見破る事も然程難しくはない」
「へえ。大したもんだ」
ゲムズボックが波刃細剣を無造作に構えた。
隙だらけで隙のない――そんな佇まい。
「俺の名は灰堂騎士団・十三使徒の第六使徒ジョバンナ・マルディーニ。あんたの名前は何て言うんだい?」
「俺の名はブランド・ヴァン。アクティウム王弟クリスティオ殿下に仕える騎士だ」
「聞いた事がないねえ。まだあんたみたいなのがあの国に残ってたなんて、世界は広いじゃない」
ブランドは名前を聞かずともジョバンナを知っていたし、彼の騎獣グラス・ガヴレンの事も同様だった。
ブランドのかつての名はベアトリーチェ・サヴォイア。
灰堂騎士団の客将として席を置いていたからだ。
しかし、授器のみならず巨大イタチの毛色も見た目も大きく変化したせいか、ブランドの駆るマイナスがシュガールという名前で呼ばれていた事に、敵は気付いていないようだった。
「悪いがお前の始末は俺がここで着ける」
マイナスの手に鎌剣。
死神鎌とは勝手が違うが、もともとブランド――ベアトリーチェ――はこちらも得手にしている。
「言っておくが、俺はなかなか強いぜ」
軽い口調のジョバンナ。
それが口火となり、両者の姿が闘争の速度で消えた。