第二章 第五話(1)『光芒』
円月刀が、肩にめり込む。
だが、両断はとどまっていた。
篭手の授器を交差させ、何とか斬り降ろされるのを防いだのだ。
だが、円月刀の刃は、既に鎧獣の肉を切り裂き、中のイーリオにまで届いていた。
「往生際の悪い」
人虎から声がする。ハーラルの言葉は、いつしか無機質なそれから、嗜虐さを帯びた、低い音声へと変質していた。
肩に食い込む刃に、更なる力が加わる。
ティンガルの二頭筋が、球体のように膨れ上がった。
「ぐあぁぁぁぁっっ!!」
痛みが走る。治癒どころではない。
このままでは――死ぬ。
こんな所で?
こんな風に?
嫌だ。
死への恐怖。相手への恐怖。だがそれ以上に、理不尽な現実への――怒り。
目の前が真っ赤に燃え滾るのは、鮮血のせいではない。
怒りがイーリオの脳髄を痺れさせる。
それは、動物的な本能とさえ言えた。
手負いの獣の本能。
死に対する、最大の反逆。
――ふざけるなっ! こんな所で、死んでたまるかっ!
狼の血が、イーリオの本能に反応する。
生きようとする意思。
人は理知がある。それゆえに、現実を理解し、動物よりも容易く、死を受け入れる時がある。自死行為はその表れであろう。無論、もがこうともするが、同時に心は折れやすい。折れてしまえば、死はもう目の前だ。
だが、獣はもがく。己の肉が切り裂かれても、もがいて生きようとする。死を甘受する素振りも見られるが、あれは人間がそう見たいだけだ。人間の一方的なエゴ。獣の生とは、本能の生。
今のイーリオの感情を支配していたのは、その、生への執着。死への反逆だけであった。
イーリオの頭に、閃きに似た何かが走る。
――ザイロウ? ザイロウか?
それは、声にならない、ザイロウの声。
頭に思念として呼びかける、銀狼の呼びかけ。
イーリオの反逆心が、狼の声を呼び起こす。
流れ込んでくる強烈な思念に、シャルロッタは頭が割れそうだった。
――痛い! 痛い!
それは、イーリオの悲鳴。ザイロウの叫び。
彼らの肉体の痛みが、それ以上の苦痛を伴って、彼女の思考に割り込んでくる。
顔をしかめ、脂汗を流す彼女に、エッダが顔を近づけた。シャルロッタの体は、生き残った騎士団の一人、野生馬の鎧獣騎士が、荒縄で縛って抑えている。
「どうしたの? 痛い?」
艶笑にも似た悪意ある笑みで、エッダは微笑みかける。
「あの鎧獣の痛みが分かるのね? 無理しなくてもいいのよ。〝鍵〟を開ければ、貴女も彼も、楽になれるわ」
苦悶に顔を歪ませながら、シャルロッタは、エッダを睨む。
「ダ……メ……。開けちゃ、ダメ……!」
だが、視線とは別に、その声は、エッダに向けられたものではなかった。
エッダはそれに気付きながらも、悪夢に似た言葉を再度紡ぐ。
「でも、このままじゃ彼は死ぬわ。いいの? それで? やっと見つけたんじゃないの? 〝ロムルス〟を」
その言葉に、シャルロッタは、全身をびくん、と反応させる。
「ロ……ロム……ル……ス」
とぎれとぎれの言葉の後、彼女の額が、ゆっくりと輝きを増す。
光芒はプリズムに幾重もの輝きを増し、やがて光の奔流へと変わっていった。
「う、うわ?! 何だ?!」
思わず狼狽え、荒縄から手を離す騎士。
眩い光は、いつもの線のような光ではなく、幾筋も輝きを波打たせ、放射させていた。やがて、シャルロッタは戒めをされたまま、まるで浮かび上がるように、体を起こし、虚ろげな瞳と額の輝きを、死闘を繰り広げるザイロウに向けた。
突如起こった変化に、騎士団は戸惑い、ギオルも動きがとれない。
一人、エッダのみが、満足げな笑みを浮かべていた。
光が、放たれる。
彼女の額から。
銀狼に。
背後の光に気付くティンガル。視界の端に映る、輝く少女。その瞳は、離れたここから見れば、光を反射して、まるで銀色に輝いているようであった。
「何事だ……?」
すると、ティンガルの腕に、予測外の斥力が加わった。
振返ると、ザイロウが、ゆっくりとではあるが、円月刀を押し戻しつつあった。
こちらの力を緩めたわけではない。一瞬、光に気をとられはしたが、それでも、力負けするような状況ではなかった。
「な……、何だ?! この力……?!」
剣先は、既に体から離れている。刀が上に押し上げられる。
交差した腕の向こう――銀狼の瞳が、光を反射したせいか、プリズムに輝いて見えた。
そして、吹き飛ばされるティンガル。
体を保てず、思わず尻餅をつく。
――よ、余を見下すだと?!
それは、ハーラルにとって信じられない状況。あってはならない光景。
次期皇帝たる自分が地にあり、愚鈍な名もなき子供が、己を見下ろしている。
だが、怒りよりも先に、予測不能な事態が、またしても目の前に起こった。
ウォォォォォォン。
シャルロッタからの光と共に、銀狼が大きく、遠吠えをあげたのだ。
狼の遠吠えは美しく、ザイロウの遠吠えも、神話を絵にした芸術のようであった。屈辱的な姿勢にも関わらず、ハーラルは思わず息を呑む。
やがて、長いのか――短いのか――、分からないような瞬きの間に――。
曇り空の向こう。
灰色の雲が割れ、一条の光が天から降りてきた。
まさに、神話のような光景。
光は真っ直ぐに、ザイロウの背後に降り、やがてその光を昇っていくように、ゆっくりと一振りの剣が、ザイロウの手元に表れた。
それは、先ほどティンガルによって弾かれた、ザイロウの〝ウルフバード〟。
ザイロウは光を昇ってきた己の剣を手に取ると、それを光が差す天空に向かって、高く突き上げた。光は一度大きく膨れ上がり、やがて徐々に収束していく。
ゆっくりと雲が切れ目を戻し、辺りは風雪の空を取り戻した。
ザイロウは、剣を下ろし、シャルロッタの額の光はいつの間にか消えている。彼女は崩れるように、その場に倒れた。
一連の超常現象に、レレケもすっかり魂を飛ばしている。
「こんな事って……」
知らず知らずの内に、声が漏れている事さえ、気付いていない。
超常がおさまり、ハーラル=ティンガルは、息を呑んでいた自分から、我に返った。
「何が起きたというのだ……?」
だが、答える者はいない。
ザイロウは、その傷をすっかり元に戻していたが、心ここにあらずという風に、うなだれている。その姿は、まるで魂を失った人形のようであった。
状況を、ただ、元に戻しただけか……。
ハーラルはそう判断し、体を起こすと、再びザイロウに対峙する。
体を直した程度では、状況は何も変わっていない。その治癒能力はやはり驚異的ではあったが、回復が早いだけでは、ティンガルに勝つ事など叶うはずもない。
※※※
意識の奥――。
混濁した暗い海の向こうで、波間に漂うように、イーリオもどこへ行くとも知れずにたゆたっていた。
やがて、光が明け、そこから景色が浮かぶ。
それは、見知ったような、でも、初めて見るような、既視感とも異なる不思議な感覚。
輝く石室の中。装飾的な内装の豪奢な部屋で、その二人は並んで台の上に寝かされていた。
一人はシャルロッタ。
もう一人は、イーリオ。
いや、違う。
どことなくイーリオに似ているが、目鼻立ちが少しずつ異なっていた。
緑金の髪という、珍しい髪の色が、イーリオに似ていたせいかもしれなかった。
その二人を見つめる、白いフードを被った女性。
その女性の面差しもまた、シャルロッタ。
服装は、イーリオが最初に出会った頃のような、全身のラインがわかる、奇妙な形状の衣服。
二人を見つめるシャルロッタが言う。
「――」
その声は、聞き取れない。
だが、意味は伝わった。
女性の傍らには、巨躯を持った白銀の狼。
それはザイロウに似てはいたが、ザイロウとは少し違うようであった。
わかった。
僕がなろう。
眠りについたまま、イーリオに似た男性は、女性に約束を交わした――。




