第二章 第四話(1)『帝家鎧獣』
風が強さを増したようだった。
茫漠とした脳裏に、ふと、そんな事を思う。
目の前に表れた、白い絶望と、黒い悪夢。大空には、死を告げる猛禽。
――これは何の冗談だろう?
まるで物語の中にでもいるみたいな光景に、絶望よりも虚脱した思いしか湧いてこない。
ほんの数日前まで、自分は山村の父のもとで錬獣術を学んでいたはずなのに。けれども、災厄の訪れたあの日から、己の運命は劇的に変化した。
わずか数日の間で起こった、戦いに継ぐ戦いの連続。そのどれもに勝利し、自分の力を過信し始めていたのかもしれない。
だが、例えこの銀狼が、どれほど強大な力を秘めていようと、駆るのはただの田舎者、イーリオなのだ。磨き上げられた武闘の前には、己の過信など、嵐の前の霞みに等しい。
そして告げられた、白き絶望の声。
――何て言った? ハーラル皇太子だって?
それはこの国の誰もが知る、苛烈な為政者の名。
〝氷の皇太子〟、ハーラル。
まさか、自分たちを追っていたのが、この国の主だったなんて……。
もう、逃げ場はなかった。
少なくとも、今この場には、どこにもなかった。
暗鬱に沈んでいくイーリオの思いとは対照的に、ハーラルは無機質な声で告げた。その内容に、イーリオ達のみならず、彼の側に控える面々も、絶句する。
「為す術なき者を殺すか――。それも良いが、それではここまで来た甲斐がないな。……どうだ、イーリオとやら、もし余と一騎打ちして、余に勝つ事が出来たなら、貴様らを逃がしてやっても良いが」
「殿下……! いきなり何を……!」
空を飛ぶギオルが大地に降り立ち、ハーラルを諌める。
「黙れ、ギオル。それとも何か? 余が、このような素人騎士に、後れをとるとでも言うのか?」
「そうは申しません。けれど、騎士団を連れ、ここまでして尚とあれば、いささか余興が過ぎるのではありませぬか?」
猛禽の嘴から放たれるくぐもった声は、動揺を隠せない。皇太子がこう言い出したら、もう何を言っても無駄だ。だが、言わずにはおれない。
「それに、何度も申しますように、御身はこの国の大事。その御方に万一の事あらば、我が首どころでは済みませぬ」
「ふん。そのために貴様らがいるのであろう。エッダもおる。ならば心配はすまい。ここは余のティンガルと、こやつのザイロウ、どちらが帝国の帝家鎧獣に相応しいか、我が身をもって試させてもらおう」
そう言ってハーラルは、己の外套を脱ぎ捨てた。細身だが、鍛えられた身体が、衣服ごしに垣間見える。
だが、それよりも驚いたのは、彼の発言だ。
何と言った?
ザイロウが、帝家鎧獣?
追いついていけない展開に、思わず、レレケの方を見る。
レレケも同様に驚いてると思ったが、彼女は果たして、どこか納得したかのような表情をしていた。
――そう。やはりね。
帝家鎧獣だという確信があったわけではない。それぐらいの〝格〟はもっていて当然の鎧獣だと思っていたに過ぎない。むしろ彼女にとってザイロウは、〝ただの〟ゴート帝国帝家鎧獣でさえ物足りない、それ以上の得体の知れない〝何か〟であるとさえ、感じていた。
だがハーラルの一言は、これで彼らが必死で追って来た――それも皇太子自らが――理由も、朧げではあるが判明させた。
わからないのは、シャルロッタ、彼女である。
額に神之眼の輝きをもつ、銀髪の少女。
その力が関与している事は間違いないが……。
既に鎧化してあるイーリオの前に立ち、ハーラルは問う。
「受けるよな? 余の誘い」
断れば、死。
ならば、迷いはなかった。
カラカラになった口中の、ない唾を呑み込むと、イーリオは彼の申し出を許諾した。
「ああ」
無機質なハーラルの顔に、はじめて笑みがこぼれる。それは、これから行おうとする戦いとはまるで真逆の、無邪気そのものといった笑顔。その時だけ、彼の顔は、数時間前に見知った、オーラヴという若者の顔に戻っていた。
ハーラルの傍らに立つ白虎が、猫科特有のしなやかな足取りで、ゆっくりと彼の背後に回る。
その身には、水晶のような、または氷の結晶のように蒼く輝く、鋭角的な形状の授器。
虎の中でも、中型に属するホワイトタイガーなだけに、大狼のザイロウをほんのわずかに上回るか、または同程度の大きさであろうか。
〝氷の貴公子〟ティンガル・ザ・コーネ。
それは、錬獣術師の名工、ドレの作による、最高峰の鎧獣。氷という名は、アクアマリンか、ブルーダイヤモンドのように輝く、宝石のような授器からきている。
先帝より、数多くの武勲をたて、武帝の象徴として名高い、伝説級の鎧獣。
こんな時でもなければ、レレケは舌なめずりするような心持ちであったろう。
ザイロウに、カラドリオス。それにティンガルと、希有な鎧獣ばかりが一同に会しているのだ。これほどまでに貴重な場面など、そうそうある訳ではない。
だが、事態は重々しい緊張を孕んで、レレケの探究心など介在する余地のない空気を張りつめさせていた。
ハーラルは静かに告げる。
「白化」
白虎がハーラルに覆い被さり、けたたましい白煙が同時に巻き起こる。瞬時に晴れた先に表れたのは、息を呑むほどの、雄々しく美しい鎧獣騎士。
アクアマリンの輝きをもった授器は、防具として形状を変化させ、そして何より、大きな刃渡りをもつ円月形の剣にその姿を変えた。
世に言う、宝刀〝アルマス〟。蒼白い輝きをもつ刀身は、幾度切り裂いても、刃こぼれ一つしないという。
そして、純白の毛並みに、黒い縞で彩られたモノクロームの体躯。
その身は筋骨隆々たる力感を備え、どちらかというと線の細いハーラルとは打って変わった姿。
両手両足の爪は、人間の身など、一撃で〝潰して〟しまう。
サイやヒグマといった、最強クラスの鎧獣騎士でさえ苦もなく捩じ伏せる、破格の武力。
虎頭人身の皇帝騎士。
〝ティンガル・ザ・コーネ〟が、鎧獣騎士となったその身を表した。
周囲から感嘆のため息が漏れる。
イーリオ達にとっては、死刑宣告への賛意にしか聞こえなかったが。
ティンガルとは、北方の言葉で、虎の意。ザ・コーネとは、掟を意味する。
即ち、掟を持つ虎。
その真意を知る者は数少ないが、この場合、イーリオ達にとっては、悪魔がもちかけた契約に等しい意味にしか、聞こえなかったであろう。
一同が注目している中――、誰もがティンガルを見つめていたのも関わらず、その時――、白虎の姿が掻き消える。土埃だけが残った。
――消えた?!
背後からの声。
「手間をかけさせるな、娘」
イーリオが振返ると、片手で両手首を羽交い締めにされ、吊るされた格好のシャルロッタがその目に映った。ティンガルが、瞬時に移動したのである。
「シャルロッタ!」
色めき立つイーリオ。レレケは、敵のいきなりの挙動に、身動き一つとれない。
「ま、まだ勝負してないだろう! なのに、彼女を捕らえるなんて!」
「誰が全員見逃してやる、と言った? 余が見逃そうと言うのは、貴様ら平民どものみだ。この娘は、連れ戻させてもらう。――ギオル!」
ハーラル=ティンガルが声をかけると、羽ばたきを一つ起こして、ギオル=カラドリオスが、白虎の傍らに降り立った。そのまま、シャルロッタを渡す。
「エッダに娘を渡し、縛っておけ」
「はっ」
再び向き直るハーラル。
「さて、余の騎士団も、まだ手こずっておるようだしな……。貴様との一戦の前に、軽く肩ならしをさせてもらうか」
言うが早いか、ティンガルは再び掻き消えたかと思うと、今度は別方向から悲鳴があがる。悲鳴の主は、千疋狼の狼。瞬時にティンガルの円月刀に斬り伏せられ、次々にその数を減らしていく。
恐るべきはその速度。
元々、虎の後肢は、獲物を補えるため、瞬発力に優れてはいるが、それを計り知れない程に増幅させたのが、ティンガルの速度だ。ザイロウの速度も相当だが、鍛えられた無駄のない動きは、まるで神業のようにしか見えなかった。
そこへ、シャルロッタをエッダに渡したギオルが加わる。
「私もお手伝いを」
そう言って、両手の細剣を閃かせる。
「好きにしろ」
ティンガルの相貌の中で、薄く苦笑するハーラル。
ただでさえ、カラドリオスと騎士団の攻撃で、その数を失っていた幽鬼の狼達であったが、大鷲と白虎の騎士の縦横無尽な戦闘に、みるみる内にその数を、数百体が数十体に、やがて数えるほどへと減らしていった。
それは信じられない光景だった。
千体もの鎧獣騎士並みの力を持った狼達を、瞬く間に斬り捨ててしまうなど。
……だが、実はこれには訳があったのだが、今この瞬間には、イーリオもレレケも、その事に気付いている余裕はなかった。
最後の一体を両断し、ティンガルは辺りを見回す。
三〇人いた騎士団の鎧獣騎士は、その半数を残すばかりとなっていた。
「一体の鎧獣騎士に、ここまでしてやられるなどと……」
しかも、駆り手の騎士は、動きも何も、素人同然の子供である。一応、咬撃や爪撃は申し訳程度に扱ってるらしいが、それもザイロウの性能による所が大きいであろう。
つまり、恐るべきはザイロウという銀狼の鎧獣。
改めて、ザイロウに向き直る、ハーラル――ティンガル・ザ・コーネ。
ちらちらとだけ舞っていた淡雪は、風の強さに煽られ、いつしか勢いを増して舞い踊る、風雪へと変わっていた。




