第一章 第一話(終)『約束』
朝を二回過ごし、三日目の午後には、少女は立ち上がれるまでには回復していた。
助けた翌朝には、目を覚ました少女であったが、衰弱がひどく、しばらくは発熱もあったが、幸い、村の医療師が滋養の薬湯を煎じてくれたので、それを飲ませ続けると、みるみるうちに精気を取り戻していった。
だが、残念というべきか困った事に、少女は何故倒れていたのか、それどころか己が何という名前で、どこから来たのかさえ覚えていなかった。
いわゆる記憶喪失という状態だ。
医療師や、神秘に通じるといわれる錬獣術師のムスタでさえ、さすがに記憶の神を降ろす術は持ち合わせていない。当然の事ながら、少女と一緒にいた銀狼の鎧獣が何なのかさえ覚えていないかと思いきや、銀狼の名前のみ、少女ははっきりとした口調で答えた。
「この子は〝ザイロウ〟」
まるで鈴を鳴らすかのような軽やかで耳障りのいい声に、イーリオは思い出の中の母をふと思い出した。母とは幼い頃に死別し、その面影すら知っているはずもないのに、何故かイーリオには母の面影が、その声が、いつもうっすらと思い出す事が出来るのだった。
「ザイロウ……」
不思議な響きの名前。どの言語にも似ていない。
しかし、何故だろう。不思議とその名前にも、イーリオは遠い記憶の底にある何かに呼びかけられるような、さざ波が立つのに似た思いがざわざわと押し寄せてくるように感じた。
それが不安なのか、未知への興奮なのかは分からない。けれど、気付けばイーリオは、いつも肌身離さずに身につけている母の形見のペンダントを、無意識に指で撫でていた。
ザイロウは、まるで己の主を守るように、少女の側を片時も離れはしなかったので、錬獣術師としての好奇心をかきたてられるムスタにとっては、ご馳走を前におあずけを食らった犬のようなヤキモキする思いで、少女の回復を待っていた。
だが、少女が回復したとして、これからどうすべきかもわからないムスタとイーリオにとって、当面の問題は、少女を何と呼ぶかであった。
これには、イーリオが答えをだした。
「シャルロッタ」
それが少女につけられた名前であった。その響きを確かめるように、シャルロッタは己の新たな名を、何度も何度も繰り返し呟いた。その姿に、イーリオは思わず目を細める。
だが、その名前に、ムスタは複雑な思いを抱かざるを得なかった。シャルロッタとは、喪った妻の名。イーリオの母の名であった。だが、ムスタ自身、他に良い名前が浮かぶでもなく、渋々ではあったが、イーリオの決めたその名を受け入れる事に決めたのだった。それにこの娘とて、早々にこの家を立ち去るであろうし、あんな奇妙な場所に倒れていた少女と、いかにもいわくありげな鎧獣だ。あまり深く関わらない方が良いに決まっていた。
「シャルロッタ、君のその服、とても変わっているね。ゴート北部のものでもないし、メルヴィグやアクティウムのものでもない。……もしかして、アンカラの方から来たとか?」
己と年齢も近いせいか、イーリオはすぐにシャルロッタを受け入れ、シャルロッタもまた、イーリオと打ち解けた。だが、記憶がないせいか、それとも、生来のものなのか、どこか遠く見ているような、おっとりというよりも少し間の抜けたような雰囲気が、彼女にはあった。
ザイロウと同じ銀色の髪は、肩までの短さであったが、尼僧のようなものではなく、むしろ異国の姫のようであったし、透けるような白い肌と、夜の星空のような瞳は、何ともいえない異趣な魅力があった。容姿で言えば、そこらの村娘などとは比べ物にならないほどに美しいのだが、どこの国の様式とも知れない、肌に吸い付くような奇妙な形状の彼女の衣服は、美しさよりもその容姿と相まって、村人達にはどこか忌避するように感じさせたものだ。だが、イーリオは、そんな事は意にも介さず、シャルロッタを介抱し続けていた。
イーリオもまた、シャルロッタと並んでも見劣りのしない、整った容姿をしている。
年齢は今年十六。五・六フィート(約一七〇センチ)ほどはある身長に、緑金の髪と瞳。
どこか貴族の子息のような顔立ちは、父・ムスタよりも母に似たのだという。実際、母は帝都に住まう貴族の娘であったらしい。肌は、ガリアン人特有の白さを持ってはいるものの、父と共に長年山に分け入っているせいか、少し雪焼けして赤味を帯びていたが、それが逆に精悍さを際立たせていた。
「そうかも……。あたしの服、イーリオのとは、少し違う」
自分の着衣をしげしげと眺め、まるで他人事のようにシャルロッタは言った。
「そんな形、見た事がないや。服だけじゃないよ。ザイロウだってそうさ。その、もし君が許してくれさえしたら、父さんはザイロウを調べてくれるよ、そしたら、君の事も、少しはわかるんじゃないかな。ねえ、どうだろう?」
「調……べる?」
「大丈夫。父さんは腕のいい錬獣術師なんだ。決して君やザイロウに危害を加えるようなことはしないさ」
イーリオの言葉を聞いているのかいないのか、か細い声で、シャルロッタは質問した。
「錬獣術師って何なの?」
「そうだね……、鎧獣は、わかるよね?」
イーリオの質問に、首を横に振るシャルロッタ。鎧獣であるザイロウの名前は知っているのに、鎧獣そのものはわからないというのも奇妙な話であったが、イーリオは丁寧に説明をはじめた。
鎧獣。
人型に変容する人造の生物であり、生命を持った武具にして防具。
超常の力を有した、この世界における最強の兵装。
最大の特徴は鎧化と呼ばれる人型になれる事。普段は動物そのものだが、全身を覆う生きた鎧として人間にまとわれると、狼男のような人獣に似た姿となる。
この人獣となった姿を、鎧獣騎士と言った。
見た目は変身にも似ているが、融合するというより、鎧のように、全身にまとっているような感じだ。また、見た目は動物そのものと言ったが、一点異なる部分があり、それが神之眼という宝石に似た結石が露出しているという点である。多くは額に形作られ、これを持った野生の原種は〝神之眼持ち〟と呼ばれていた。
「そう言った原種から、ザイロウたち鎧獣を作り出せる人の事を、錬獣術師っていうんだ。錬獣術は、その術や学問全般の事」
分かったのか分かってないのか、シャルロッタは、ふうんと、どこか上の空で頷いた。
「錬獣術師は、鎧獣の専門家だよ。だから、父さんが調べたら、このザイロウが、誰に、いつ、どうやって作り出されたかが分かるはず。そしたら、君の故郷や素性も、それを手がかりに分かるかもしれない」
「ねえ」
どこを見ているのか分からない瞳で、シャルロッタは尋ねた。
「ん?」
「何で、鎧獣を作ったの?」
「へ?」
「動物を、何で鎧獣なんていうものにしちゃったの?」
「それって、どういう?」
質問の意図が分からず、イーリオが戸惑い気味に目を逸らすと、いつの間にかシャルロッタは、真っ直ぐとした眼差しで、イーリオの瞳を見つめていた。その吸い込まれそうな瞳に気圧されるように、イーリオは何とか問いかけに返答しようとする。
「……そうだね。戦うため……かな?」
「どうして戦うの? どうして戦うのに、鎧獣がいるの?」
「そりゃあ強いからさ。鎧獣を身に着けた鎧獣騎士となった人間は、とてつもなく強いんだ。もし鎧獣騎士に普通に人間が勝とうと思うなら、それこそ一国の軍隊が必要になってくるほどっていうしね」
「じゃあ、戦わなきゃあ、いいんじゃないの?」
「そう出来れば、良いんだろうけど……」
「出来ないの?」
イーリオが返答に窮していると、二人の居るイーリオの家の庭先に、ムスタがのそり、と姿を現した。
「金、名誉、食い物、誰かを守るため、誰かを追い落とすため、憎悪、愛情――、理由は古今東西様々だろうが、人は何かの欲に突き動かされて、人同士で争うものさ。それは獣だって同じだろう」
ムスタの言葉に、再び分かったのか分かってないのか、不思議そうな目をするシャルロッタ。
「よ……く……?」
「欲するということだ。何かが欲しい。何かを守りたい。この世の人を突き動かす衝動さ」
「あたしは……欲しいの……何だろう?」
「それを探る意味でも、ザイロウを調べさせて欲しい。大丈夫だ。ザイロウに危害を加えたりはしない。約束しよう。だから、いいかな?」
シャルロッタは、ムスタの目を真っ直ぐに見つめ返して、こくり、と頷いた。まるでこちらの心の底の底までも見透かされているような目をする。
だが、シャルロッタの了解を得たので、ムスタは自分の体躯と同じ位はありそうな、大柄な狼を撫でると、着いてくるように促した。ムスタの言動を理解しているというよりも、鎧獣の扱いに長けているムスタの行いを理解したのだろう。シャルロッタの側にいたザイロウは、その身を起こした。ほんの少し、心配そうにシャルロッタに視線を投げたものの、そのままムスタの研究室に続いて行く。
シャルロッタはその姿を見ず、先ほどのムスタの言葉をずっと反芻していた。
「あたしの……欲しいもの……」
「そうだね。きっと見つかるよ」
彼女が記憶喪失で困っているからか、それとも、なにがしかの母の面影を重ねているのか。イーリオは優しく微笑みかける。
そのイーリオの言葉に反応して、やがて大きく目を見開くと、シャルロッタは突然、イーリオの両手を掴んだ。
「あたし、イーリオが欲しい」
「は?!」
「あたしの欲しいもの、イーリオ」
どういう意味で言っているのか。言葉通りなら不思議な美少女に告白されたという、極めて幸福な状況なのだろうが、その言葉がどういう意図で発したものか理解出来ず、イーリオは握られた両手を慌てて振りほどいて、思わず立ち上がるほどに動揺してしまう。
村育ちとはいえ、異性と全く縁のない生活をしてきたわけではない。実際、村娘たちからは、黄色い声をかけられた事も少なからずあったものの、イーリオ自身は、異性そのものに、あまり興味がなかった。父の学問。父の教え。それはこの世の神秘である錬獣術。むしろイーリオは、それに強い興味や探求心をそそられており、奥手というよりも異性に縁のない暮らしを、自ら望んできた節がある。
「いや……、その、あの……、それって、どういう?」
「どういう……? あたし、欲しいもの、貴方」
言葉と共に、体をずい、と寄せるシャルロッタ。体の輪郭がはっきりと分かるシャルロッタの服は、女性になろうとしている少女特有の柔らかな曲線を、否が応にも意識させてしまう。
思わず顔を赤らめてしまうイーリオ。こ、こういう時、どうしたらいいんだ? 頭の中まで真っ赤になってしまったような感覚。
「欲しいっていうのは、つまりその……付き合う的な……なんて言うか、オトコとオンナ的な……いやいや、僕は何を言ってるんだ」
「付き合う……?」
「いや、その、何て言うか、将来的には二人が結ばれる未来も視野に入れるというか、……いや、だから僕は何を言ってるんだ」
「ううん。あたし、イーリオが欲しい。イーリオがあたしを守って欲しい」
「いや、だから、守って、って――守って? ん? 守って、って、守るの?」
「あたしを守って」
じっと見つめる瞳。
言ってる言葉は、それでも充分、朴念仁のイーリオには刺激的なのだが、彼の早まった動悸は、急速に落ち着きを取り戻していった。
「ああ……そう、そうだね。うん。勿論だよ。君の事は、僕が守るよ。当然じゃないか」
その言葉で、無表情に近かった虚ろげなシャルロッタの顔に、ほころんだ蕾が開くように、一瞬で明るい笑顔が咲いた。満開の笑みに、思わず動悸を早めてしまうイーリオ。
「うれしい」
笑顔のまま、シャルロッタはイーリオに抱きついた。イーリオは、柔らかな少女の温もりをその身に感じて、ただただ硬直するしかなかった。
ただ、この時の他愛ない言葉が、後の二人の運命を決定づけてしまうとは、この時は誰も知る由がなかった。ありふれた、でも奇妙な出会いをした少年と少女の出会いは、この世界そのものをも揺るがす、運命となっていく――。
その頃、研究室に入ったムスタは、目の前の銀狼に、戦慄を覚えるほどの衝撃を受けていた。
それは、あり得ないはずの数字。あり得ない存在。
「馬鹿な……。こんなこと……!」
だが、自分の計測に間違いはない。何度やっても、同じ数字を指している。
九〇〇歳以上。
計測通りなら、この鎧獣の年齢は、九〇〇歳以上ということになってしまう。
しかも、この鎧獣が持つ授器、これは通常のアロンダイトでも、非常に希少なデュランダニュウムでもない。全く未知の鉱物で錬成されていた。
「一体…………こいつは……」
ムスタの戸惑いを知ってか知らずか、美しき銀狼は、ただ静かに泰然としているのみであった。
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