第二章 第一話(1)『子守唄』
時間は遡り、ここはゴート帝国を南北に貫く、大陸路。
幾人もの騎士と、様々な鎧獣に囲まれた大きな馬車が二台、石塊を巻き上げながらけたたましい速度で走っていく。道行く人々は、何事かと目を奪われるも、角を持つ狼を象った紋章を目にし、急いでその目をふせた。
その紋章こそ、帝家の紋。そこらの民草が逆らっては生きていけない、権力の証。
秋とは思えぬ低い曇り空が、昼間だというのに、辺りを薄暗くしていた。
その薄暗い世界にあって、更に薄暗い馬車の中に、この国の実質的な最高権力者たる、ハーラル皇太子が乗っている。向かい合った席には、控えるように神妙な面持ちで、〝黒衣の魔女〟エッダと、もう一人、男が座っていた。
男の名はギオル・シュマイケル。
ゴート帝国国家騎士団の一つ、グリーフ騎士団の団長である。
少し長めの金髪を総て後ろに流し、落ち窪んだ眼窩の奥には、濃灰色の瞳が、鋼に似た冷たい輝きを見せていた。頬は削ぎ落としたようにこけており、全体的に細い、針金のような男である。細身の分だけ手足は長く、立てばかなりの長身である事が伺えた。彼の事をよく知らぬ者が、その細い手足で剣が振るえるのだろうかと考えるが、それは思慮の浅い人間の考えであった。
ゴート帝国グリーフ騎士団のギオルと言えば、隣国にまで知れ渡った、一流の剣士である。彼の細剣から繰り出される剣速は、余人をもって神業とまで言われていた。
その神速の剣士が、ハーラルの前では、借りた猫のように畏まっていた。
だが、そこに恐怖の色はない。
あえて言うなら、それは心酔。
エッダの瞳に映る畏敬の色とは異なった、戦士として、剣士として認めた男に対する、誇りを伴った畏れの色。
おもむろに、ギオルが口を開く。
「殿下、何故、ソルゲルごとき三流騎士に、このような重大な命を任されたのですか。最初から私が赴いていれば、このような大袈裟な事にもならなかったでしょうに」
窓の外を眺めるハーラルが、ギオルに視線を移す。
「あの帝家鎧獣が、まさか騎士たる人間を見つけ、認めるとは思わなかったのだ。何せ五〇〇年以上、地下で眠りについていた骨董品だからな」
「……信じられませぬな……、建国の御世より生きる鎧獣など」
「だが、事実だ。少なくとも記録上は間違いない。インゲボーの調査でもそう出ておる」
「しかしです。失礼を承知で申し上げれば、今回の行幸とて、何も殿下御自ら出向く事もありませなんだろうに。私だけでなく、他の四大騎士団の手練れもおりますれば」
「それよ。エッダにまで、似たような事を言われたわ」
皮肉めいた笑みを浮かべ、黒衣の女官を見る。魔女とも呼ばれるその女性は、控えるように「はっ」とだけ言った。
「だがな、ギオル。ヴォルグ騎士団は、皆それぞれの駐屯地で忙しい。ゴゥトとて、グスターヴの奴を出しては事が大きくなる。それにな、相手はあの〝ザイロウ〟だ。エッダの報告によれば、全く未知の力を顕現させたという」
ハーラルの目が、獣性の熱を僅かに帯びる。
「……見たいのですか?」
「ああ、見たい。余、自らこの目で確かめたい」
ギオルは大きくため息をつくと、首を小さく左右に振った。
「また、殿下の悪い癖ですな」
皇太子は薄く笑った。
ハーラルは思い出す。
己の幼き日の事を――。
※※※
彼の記憶の始まりは、石畳が敷き詰められた街路であった。
星空が落ちて来そうな冬の夜に、使い古されて薄くなった毛布にくるまれ、その街路を歩く母の背におぶわれて、うつらうつらと眠っている――そんな暖かい日々。
彼の養父は、帝都の片隅で酒場を営むしがない平民だった。酒場の親父であるのに、客よりも飲んだくれているような、そんなどうしようもない男。お決まりのように、養父は女房や子供に平気で手を上げ、彼は母と二人して、部屋の片隅で震えるような毎晩を送っていた。
だが、母の手は優しかった――。
暖かかった――。
貧しくとも、母の作った干鱈の灰汁煮は、どんなご馳走よりも、優しい味として彼の舌の根に残っている。母の唄ってくれた子守唄は、未だに忘れる事など出来ない。
養父が酔いつぶれて店が開店休業になると、母はその目を盗んで、よくハーラルを外へと連れ出してくれた。帝都の冬は厳しく、凍え死んでもおかしくない程の冷気が充満していたが、家に監禁されているより、どれだけ心安らかであったか。
そんな毎日は、物々しい靴音と、鎧獣の蹄の音によって、突然終わりを告げた――。
前触れもなく、いきなり表れた騎士達。
手には、皇帝の印が押された書面。
幼いハーラルは、騎士達が何を言っているのか理解出来ず、ただただ恐ろしかった。
騎士の一人が彼を抱きかかえると、彼を連れて家から出て行こうとする。
ハーラルはそれを必死で拒んだ。
いやだ。
母様と離れるなんて、絶対に嫌だ。
母は泣いていた。
その手を必死で伸ばしても、母は伸ばした手を見るばかりで、掴もうとはしてくれない。
いやだ。
いやだ。
騎士は告げる。
ハーラル様。貴方はこんな所に居て良い方ではありませぬ。
ハーラルは、騎士が何を言っているのかわからない。ただただ母と離れるのが嫌で、必死でもがいていた。けれども騎士の頑健な腕は、幼子の抵抗など、毛程も意に介さず、彼を養家から連れ出して行った。
泣き腫らした彼の目が次に見たのは、見た事のない模様で彩られた石造りの壁。水晶の装飾。磨き上げられた大理石の華美な部屋に、冬であっても寒さの欠片もない、暖炉のある空間。そこで彼を待っていたのは、サビーニと名乗る、この世のものとは思えぬような美しいドレスをまとった、これまたこの世の人とは思えぬ程の美しい婦人であった。彼女こそ、彼の実の母であるという。
いわく、出産間もないサビーニのいる居城に、隣国の兵がおしよせ、その戦火に巻き込まれ、彼を失ったのだという。それを、城仕えをしていた下女の一人が助け、今日まで育てていたのが、つい最近判明し、急ぎハーラルを迎えに行ったというわけだ。
ハーラルが生きている事を知ったサビーニの喜びようはなかった。滂沱と涙を流し、ドレスが汚れるのも構わずに、彼を抱きしめた。
その優しさは今も変わらない。
だが、彼の心は、ぽっかりと空洞が出来たように喪失感で満ちており、サビーニの喜びとは真逆の、虚ろげな反応しか示さなかった。サビーニはそれを、養父の虐待によるものだと考え、思いつく限りのものを彼に与え、心の傷を癒そうとした。それで彼を救おうとしたのだ。だが、ハーラルが求めたのはただ一つ。
母様の元に帰して。
それだけであった。
だが、サビーニはそれを許さなかった。他の何もいらない。彼のたった一つの願いは、最も聞き入れ難い願いであったのだ。
月日が過ぎ、やがてハーラルは、実母と名乗る女性の期待に応え、自らが錬磨し、結果を出せば、いつか母に会う事を許して貰えるかもしれないと考え、必死で日々の研鑽に励んだ。
勉学に励み、武術を鍛錬し、鎧獣について学んだ。こと、鎧獣についての教えや鎧獣を使った武術の学びは、彼の性格に合っていたらしい。それをする時のみ、彼は日々の悲しみや養母への想いを一時的に封印し、没頭する事が出来た。
そして、必死で励む彼の姿に心を打たれた者がいた。彼に鎧獣の武術師範をした男――後のグリーフ騎士団団長、ギオルであった。
ギオルは、ハーラルの秘めた想いを察し、城兵の目を盗んで彼を養母の元へと連れて行こうとしたのだ。一度なら――、一度なら良いであろう――、と。
養母との突然の別れは、ハーラルに空虚な感情を芽生えさせ、折角の器量も、これでは無為に帰してしまう。ギオルはそう考えたのであった。
そしてある日、それは決行された。
幸い、無事に城を抜け出し、二人は養家のあった路地まで辿り着く事が出来た。
だが、養家に辿り着くと、そこにはあるはずの家はなかった。
あったのは、全くの見知らぬ家。見知らぬ家族。
後に分かった事だが、ハーラルを虐待した罪により、養父はハーラルが連れて行かれた後、すぐに帝都所払いを申し渡され、間もなく野垂れ死にしてしまったという。
肝心の母はというと、養父が去ったのと同時に、この家から姿をくらました事は分かっているが、一緒に連れ立った形跡はないという。
彼女は、いなくなったのだ――。
そう、サビーニは、彼を養母に会わせなかったのではない。
会わせられなかったのである。
その事実を知った時からであった。
彼の何かが決定付けられたのは――。
あれだけ焦がれた母は、もういない。
この時、彼の心の空洞は、永遠に埋まる事のない深淵となって、彼の中心にしっかりと根付いたのであった。
彼が思うのは一つ。
強くなければならない。
強くあれば、あの時、自分を攫った騎士の腕を振りほどき、母の元へと戻る事が出来たはず。甘えや共感などはいらない。己を律し、この国を律し、世界を律する強い意志こそ、何ものにも代え難い、強さの証である、と。
そうしてここに、氷の皇太子、ハーラル・ユングリング・ゴートが、誕生したのであった……。




