表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
第一部 第二章『白虎と銀狼』
28/743

第二章 第一話(1)『子守唄』

 時間は遡り、ここはゴート帝国を南北に貫く、大陸路。


 幾人もの騎士と、様々な鎧獣(ガルー)に囲まれた大きな馬車が二台、石塊を巻き上げながらけたたましい速度で走っていく。道行く人々は、何事かと目を奪われるも、角を持つ狼を象った紋章を目にし、急いでその目をふせた。

 その紋章こそ、帝家の紋。そこらの民草が逆らっては生きていけない、権力の証。


 秋とは思えぬ低い曇り空が、昼間だというのに、辺りを薄暗くしていた。

 その薄暗い世界にあって、更に薄暗い馬車の中に、この国の実質的な最高権力者たる、ハーラル皇太子が乗っている。向かい合った席には、控えるように神妙な面持ちで、〝黒衣の魔女〟エッダと、もう一人、男が座っていた。


 男の名はギオル・シュマイケル。


 ゴート帝国国家騎士団の一つ、グリーフ騎士団の団長である。

 少し長めの金髪を総て後ろに流し、落ち窪んだ眼窩の奥には、濃灰色の瞳が、鋼に似た冷たい輝きを見せていた。頬は削ぎ落としたようにこけており、全体的に細い、針金のような男である。細身の分だけ手足は長く、立てばかなりの長身である事が伺えた。彼の事をよく知らぬ者が、その細い手足で剣が振るえるのだろうかと考えるが、それは思慮の浅い人間の考えであった。

 ゴート帝国グリーフ騎士団のギオルと言えば、隣国にまで知れ渡った、一流の剣士である。彼の細剣レイピアから繰り出される剣速は、余人をもって神業とまで言われていた。

 その神速の剣士が、ハーラルの前では、借りた猫のように畏まっていた。

 だが、そこに恐怖の色はない。

 あえて言うなら、それは心酔。

 エッダの瞳に映る畏敬の色とは異なった、戦士として、剣士として認めた男に対する、誇りを伴った畏れの色。


 おもむろに、ギオルが口を開く。


「殿下、何故、ソルゲルごとき三流騎士に、このような重大な命を任されたのですか。最初から私が赴いていれば、このような大袈裟な事にもならなかったでしょうに」


 窓の外を眺めるハーラルが、ギオルに視線を移す。


「あの帝家鎧獣ロワイヤルガルーが、まさか騎士スプリンガーたる人間を見つけ、認めるとは思わなかったのだ。何せ五〇〇年以上、地下で眠りについていた骨董品だからな」

「……信じられませぬな……、建国の御世より生きる鎧獣(ガルー)など」

「だが、事実だ。少なくとも記録上は間違いない。インゲボーの調査でもそう出ておる」

「しかしです。失礼を承知で申し上げれば、今回の行幸とて、何も殿下御自ら出向く事もありませなんだろうに。私だけでなく、他の四大騎士団の手練れもおりますれば」

「それよ。エッダにまで、似たような事を言われたわ」


 皮肉めいた笑みを浮かべ、黒衣の女官を見る。魔女とも呼ばれるその女性は、控えるように「はっ」とだけ言った。


「だがな、ギオル。ヴォルグ騎士団は、皆それぞれの駐屯地で忙しい。ゴゥトとて、グスターヴの奴を出しては事が大きくなる。それにな、相手はあの〝ザイロウ〟だ。エッダの報告によれば、全く未知の力を顕現させたという」


 ハーラルの目が、獣性の熱を僅かに帯びる。


「……見たいのですか?」

「ああ、見たい。余、自らこの目で確かめたい」


 ギオルは大きくため息をつくと、首を小さく左右に振った。


「また、殿下の悪い癖ですな」


 皇太子は薄く笑った。



 ハーラルは思い出す。

 己の幼き日の事を――。



※※※



 彼の記憶の始まりは、石畳が敷き詰められた街路であった。

 星空が落ちて来そうな冬の夜に、使い古されて薄くなった毛布にくるまれ、その街路を歩く母の背におぶわれて、うつらうつらと眠っている――そんな暖かい日々。

 彼の養父は、帝都の片隅で酒場を営むしがない平民だった。酒場の親父であるのに、客よりも飲んだくれているような、そんなどうしようもない男。お決まりのように、養父は女房や子供に平気で手を上げ、彼は母と二人して、部屋の片隅で震えるような毎晩を送っていた。

 だが、母の手は優しかった――。

 暖かかった――。

 貧しくとも、母の作った干鱈バカラオ灰汁煮ルーテフィスクは、どんなご馳走よりも、優しい味として彼の舌の根に残っている。母の唄ってくれた子守唄は、未だに忘れる事など出来ない。

 養父が酔いつぶれて店が開店休業になると、母はその目を盗んで、よくハーラルを外へと連れ出してくれた。帝都の冬は厳しく、凍え死んでもおかしくない程の冷気が充満していたが、家に監禁されているより、どれだけ心安らかであったか。

 そんな毎日は、物々しい靴音と、鎧獣(ガルー)の蹄の音によって、突然終わりを告げた――。


 前触れもなく、いきなり表れた騎士達。

 手には、皇帝の印が押された書面。

 幼いハーラルは、騎士達が何を言っているのか理解出来ず、ただただ恐ろしかった。


 騎士の一人が彼を抱きかかえると、彼を連れて家から出て行こうとする。


 ハーラルはそれを必死で拒んだ。


 いやだ。

 母様モーと離れるなんて、絶対に嫌だ。

 母は泣いていた。

 その手を必死で伸ばしても、母は伸ばした手を見るばかりで、掴もうとはしてくれない。

 いやだ。

 いやだ。

 

 騎士は告げる。


 ハーラル様。貴方はこんな所に居て良い方ではありませぬ。


 ハーラルは、騎士が何を言っているのかわからない。ただただ母と離れるのが嫌で、必死でもがいていた。けれども騎士の頑健な腕は、幼子の抵抗など、毛程も意に介さず、彼を養家から連れ出して行った。


 泣き腫らした彼の目が次に見たのは、見た事のない模様で彩られた石造りの壁。水晶の装飾。磨き上げられた大理石の華美な部屋に、冬であっても寒さの欠片もない、暖炉のある空間。そこで彼を待っていたのは、サビーニと名乗る、この世のものとは思えぬような美しいドレスをまとった、これまたこの世の人とは思えぬ程の美しい婦人であった。彼女こそ、彼の実の母であるという。

 いわく、出産間もないサビーニのいる居城に、隣国の兵がおしよせ、その戦火に巻き込まれ、彼を失ったのだという。それを、城仕えをしていた下女の一人が助け、今日まで育てていたのが、つい最近判明し、急ぎハーラルを迎えに行ったというわけだ。

 ハーラルが生きている事を知ったサビーニの喜びようはなかった。滂沱と涙を流し、ドレスが汚れるのも構わずに、彼を抱きしめた。

 その優しさは今も変わらない。

 だが、彼の心は、ぽっかりと空洞が出来たように喪失感で満ちており、サビーニの喜びとは真逆の、虚ろげな反応しか示さなかった。サビーニはそれを、養父の虐待によるものだと考え、思いつく限りのものを彼に与え、心の傷を癒そうとした。それで彼を救おうとしたのだ。だが、ハーラルが求めたのはただ一つ。

 母様モーの元に帰して。

 それだけであった。

 だが、サビーニはそれを許さなかった。他の何もいらない。彼のたった一つの願いは、最も聞き入れ難い願いであったのだ。

 月日が過ぎ、やがてハーラルは、実母と名乗る女性の期待に応え、自らが錬磨し、結果を出せば、いつか母に会う事を許して貰えるかもしれないと考え、必死で日々の研鑽に励んだ。

 勉学に励み、武術を鍛錬し、鎧獣(ガルー)について学んだ。こと、鎧獣(ガルー)についての教えや鎧獣(ガルー)を使った武術の学びは、彼の性格に合っていたらしい。それをする時のみ、彼は日々の悲しみや養母への想いを一時的に封印し、没頭する事が出来た。

 そして、必死で励む彼の姿に心を打たれた者がいた。彼に鎧獣(ガルー)の武術師範をした男――後のグリーフ騎士団団長、ギオルであった。

 ギオルは、ハーラルの秘めた想いを察し、城兵の目を盗んで彼を養母の元へと連れて行こうとしたのだ。一度なら――、一度なら良いであろう――、と。

 養母との突然の別れは、ハーラルに空虚な感情を芽生えさせ、折角の器量も、これでは無為に帰してしまう。ギオルはそう考えたのであった。


 そしてある日、それは決行された。

 幸い、無事に城を抜け出し、二人は養家のあった路地まで辿り着く事が出来た。


 だが、養家に辿り着くと、そこにはあるはずの家はなかった。

 あったのは、全くの見知らぬ家。見知らぬ家族。


 後に分かった事だが、ハーラルを虐待した罪により、養父はハーラルが連れて行かれた後、すぐに帝都所払いを申し渡され、間もなく野垂れ死にしてしまったという。

 肝心の母はというと、養父が去ったのと同時に、この家から姿をくらました事は分かっているが、一緒に連れ立った形跡はないという。


 彼女は、いなくなったのだ――。


 そう、サビーニは、彼を養母に会わせなかったのではない。

 会わせられなかったのである。


 その事実を知った時からであった。

 彼の何かが決定付けられたのは――。


 あれだけ焦がれた母は、もういない。

 この時、彼の心の空洞は、永遠に埋まる事のない深淵となって、彼の中心にしっかりと根付いたのであった。

 彼が思うのは一つ。


 強くなければならない。

 強くあれば、あの時、自分を攫った騎士の腕を振りほどき、母の元へと戻る事が出来たはず。甘えや共感などはいらない。己を律し、この国を律し、世界を律する強い意志こそ、何ものにも代え難い、強さの証である、と。


 そうしてここに、氷の皇太子(イクプリンス)、ハーラル・ユングリング・ゴートが、誕生したのであった……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ハーラル、そんな過去が。 そして、去っていった母の行方が気になるところですね…。 果たして再開や、思わぬ形でのつながりがあるのか。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ