第一章 第七話(終)『千疋狼』
「〝千疋狼〟!」
イーリオは、己を鎧う白銀の狼に命令を下す。途端に、ザイロウの額の神之眼が光を放ち、さながら白化のような白煙を、全身から吹き出した。
いや、それは煙というより、妖気を充満させた濃密な霧。
「何だ?! 奴の獣能か?」
砦の松明の明かりでさえ、全く届かなくなるほどの、突然の濃霧。
レレケもゲーザも、これを遠巻きに見ていたドグでさえ、訝しげな気持ちになる。
霧を発生させる獣能……。聞いた事はないが、視覚を奪うという意味では、確かにある程度効果的だろう。
だが……。
周囲に気を配り、警戒を強くしてしまえば、熊の知覚を持ってすれば……。
ゲーザは視界不良になった事に、多少驚きはするものの、全身の感覚を研ぎすませる。
背後に気配。
振り向き様、鉄槌の一撃。
「ギャウッ!!」
――ギャウッ、だと?
妙な手応え。
すると今度は、上下左右、四方から無数の気配が襲来する。
――何だ? 何が起こってる?!
気配は殺意をまとった敵意となり、文字通り四方八方からゲーザを襲ってきた。
応戦の構えを取るも、どこから対処していいかわからない。
最初は背中。何かに噛み付かれ、それを振りほどこうとするも、次に足。腰。左肩。右腕。正面から向かって来た時、ゲーザは初めて気付いた。
――狼?!
全身が銀色に発光する、幽鬼のような狼が、群れとなって次々に襲ってきたのだ。
やがて霧は徐々に薄くなり、朧にだが、辺りが鮮明になっていく。
対峙する方向。
人狼の鎧獣騎士が姿を現すと、ゲーザ=ボルソルンは戦慄した。
人狼の周りに、無数の――そう、無数とも言える膨大な数の狼が、群れとなって佇んでいたからだ。そのどれもが、今自分に噛み付いている、銀色に発光した、幽鬼のような容貌をしている。
これが、ザイロウの獣能。
〝千疋狼〟。
レレケの行った獣使術と原理は似ており、自身の神之眼から力を放出。擬獣に酷似した狼を作り出し、これを使役する。イーリオ=ザイロウは、さながら、群れのボスといったところだ。この〝千疋狼〟が恐ろしいのは二つ。一つは、一匹一匹の力が、通常の狼や鎧獣のそれではなく、鎧獣騎士並みの力を有している事である。事実、ゲーザ=ボルソルンは、未だに全身に噛み付いた幾匹もの狼を、引き剥がせずにいる。もう一つは、その名の通り、千匹の狼を作り出しているという事だ。即ち、千体もの鎧獣騎士を同時に相手にするのである。例えどんなに強力な鎧獣であっても、同時に千体を相手に、生き残れるはずもない。
だが、ザイロウからこの獣能を伝えられたイーリオが驚いたのは、この力の内容ではなかった。
――獣能が、三つ?
ザイロウの思念は、確かにそう応えた。
普通、獣能は、一体につき一種類しか発現できない。よしんば、修練に修練を重ね、しかも、優秀な鎧獣であったなら、ごく稀にだが、獣能を二種類持つ事もあるという。しかしそれは例外だ。それこそ、〝黒騎士〟や〝百獣王〟などの伝説級に限られた話である。だが、このザイロウには、既にして三種もの獣能を発現できるという。
それはまさに規格外。
レレケの言う通りであった。
イーリオは、ザイロウの導きに従い、三種の内、〝今の〟自分でも発動出来る獣能を選び、これを実行したのだった。
「な……何だ?! これは……? くッ! 振りほどけねえ」
人熊の鎧獣騎士は、もがいて抗おうとするも、幽鬼のような狼達の力は、群れという力となって、最強クラスの鎧獣をしてもまんじりともさせない。
見ていたレレケは、口をあんぐり開け、眼鏡を思わず外して凝視する。自分の手が届く距離にも、千体の狼の内の一体が立っている。好奇心に駆られ、レレケが幽鬼の如き狼に手を伸ばし、その体に触れると、ひんやりとした感触が伝わってくる。
「素晴らしい……!」
ドグも驚いていた。驚くというより、何が何だか訳がわからなかった。さっきまで防戦一方だった狼の鎧獣騎士が、何かを叫んだと思ったら、突然の霧。次には、幽霊のような狼が、大群になって現れたのだ。
――あの奇妙な女といい、この狼の鎧獣といい、こいつら、マジで妖しか化け物の類いか?
そう思うのも無理はなかった。
やがておもむろに、イーリオは狼達に命を下す。
片手を上げ、振り下ろす。
声は出さずとも、意思は通じていた。何故なら、狼は、僕自身だからだ。
千疋の狼は、白銀の残光をひきながら、一斉に人熊に襲いかかった。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!」
ゲーザは恐怖する。だが、どうにもならない。無数の狼が、獲物を仕留めようと次から次に牙をたてていく。その様は凄まじい。だがこの場合、熊の鎧獣である事が、逆に不幸な結果となった。固い皮膚と毛皮の装甲は、なかなか致命傷に至らない。全身が血まみれになり、牙のいくつかは鎧獣を食い破って、中のゲーザにまで届くも、それでも死を与えてはもらえない。
見るも無惨な姿になっていくゲーザ=ボルソルンだが、イーリオは滾る野生が己の血を沸き立たせているのか、その姿から、決して眼を逸らそうとはしなかった。
その時、頭の中で、何かが瞬きを発した。
視線を送ると、シャルロッタが立ち上がり、こちらを見て、頷く。
その仕草だけで、イーリオは理解した。右手に握った片刃の剣に目をやる。
そして今度ははっきりと、シャルロッタが告げた。
「使って。〝ウルフバード〟」
イーリオも頷く。
その手にした剣が、神之眼と共に発光する。
光は刃に集中し、目に見えぬ熱を放つ。
人狼は跳躍した。
一足で人熊に近付くと、同時に幽鬼の狼が、潮が引くように、さっ、と飛び退く。
一閃。
袈裟懸けに、斬り降ろす。
剣閃は残光を放ち、人熊のその跡からは、蒼白い炎が吹き上がった。それはたちまち全身に広がり、一気に人熊の鎧獣騎士のみを燃やし尽くしていった……。
すると、命じる間もなく、イーリオ=ザイロウの全身から白煙が立ち昇り、元のイーリオと、ザイロウの姿が現れた。
――勝った……んだ。
鎧化を解いた事で、疲労と虚脱感が、一気に彼の全身を包み込んでいった。
残っていた山賊達は、頭領がやられたのを見て、今度こそ我先にと逃げ出して行く。最強と思っていた頭が葬られたのである。もう誰も、イーリオらに立ち向かおうとは思っていないようだった。
イーリオとザイロウの姿を見たシャルロッタが、嬉しそうに駆け寄って来る。
「シャルロッタ……!」
イーリオも、思わず微笑み返し、両手を広げると――両手は空をきった。
「……」
シャルロッタは、屈んでザイロウの首筋に抱きついている。
「定番かよ……」
イーリオが呟くと、それを見てゲラゲラと笑う声。見ると、こちらも鎧化を解いた、ドグとカプルスが座り込んでいた。怪我は大した事ないらしい。
「笑うなよ。ていうか、何で君が助けたんだ? いや、そもそも、君は何なんだ?」
「ンだよ、まずは助けてもらった礼だろう。おめえ、人としてなってねえな」
「人を攫った人間が人を語るな! 何を偉そうに……。まぁ……、礼は一応言うけどさ。……ありがとう……」
「え? 何て? よく聞こえなかったぞ?」
「乗るか! そんなベタな手に。ていうか、君を許した訳じゃないんだ。町での事は、さっきのでチャラなだけだからな。もう二度と、僕らの前に姿を表すなよ」
「おいおい、連れねえじゃねえか。こっちはアンタと違って怪我人だぞ。せめて町まで連れてってくれよぅ」
それを聞いていたシャルロッタが、ザイロウからおもむろに顔を上げると、こう言った。
「イーリオ、この人、ドグって言うんだよ。あっちの大きい猫ちゃんはカプルス」
「え? あ、ああ……そうなんだ。でもシャルロッタ、もうこの人達と関わる事はないだろうから、名前なんて別にいいんだよ」
「何で?」
出た。彼女の〝何で〟。
「いや、この人達とは、ここでさよならするんだ」
「何で?」
「そうだぞ、何でだよ?」
「君は茶々を入れるな!」
「何で? イーリオ。この人、あたしを助けてくれたの。イーリオも助けてくれたよ。だから仲間」
まさかの発言に、イーリオは文字通り絶句する。しばらく後に、まずはドグが喜びを表した。
「おお! さすがシャーリーちゃん! デキた子だよ、全く!」
「は? な、何がシャーリーちゃんだ! 勝手にアダ名をつけるな! 略すな! つか、何言ってんの、シャルロッタ? こいつは、君を攫った張本人だよ?」
「でもその後、助けてくれたよ? だから仲間だよね?」
ほころんだ蕾が咲くように、満面の笑みで微笑み返すシャルロッタ。イーリオは言葉が出ない。
この子の場合、まずはこの世間ズレした思考から、何とかしないと……。
イーリオが頭を抱えていると、更に追い打ちをかけるように、シャルロッタが、いつものようにズイ、とイーリオに近付く。見ていたドグが、思わず「わ、わ!」と声に出さずに驚いた。
「ね? イーリオ?」
間近に迫った彼女の顔に赤面し、思わず「うん……」と、頷いてしまうイーリオ。
「やった」
そういって、いつものように、そして今度こそ、シャルロッタは、イーリオに抱きついた。
そしてドグも、今度は声に出して「わ、わ!」と叫ぶ。
「賑やかですねえ。あんな激闘の後だというのに」
彼らの後ろから、眼鏡をかけなおしたレレケが近寄って来る。
「初めまして、シャルロッタさん。私はレレケ・フォルクヴァルツと申します。イーリオ君の、新しい仲間です」
シャルロッタは、きょとんとした後、微笑んでレレケに手を差し出す。
「イーリオの仲間なら、あたしの仲間だね。よろしく、レレケ」
「よろしくシャルロッタ」
互いに微笑みながら、握手を交わす二人。だが、レレケの瞳の奥は、微笑んでいなかった。
――この子、さっき〝ウルフバード〟って言ったわよね……。
その名を口にしたのは、これで三人目。
そして、最初の一人は、既にこの世にいない。
レレケの父である。
二人目は……。
それにこの少女、イーリオが言った通り、額に神之眼を発現させていた……。今はもう影も形もないが、神之眼を持った人間を、神話では〝神の人〟と呼ぶと、神学者から聞いたことがある。この銀狼の鎧獣に、銀髪の少女……。
心が波立つのを必死で押し隠しながら、レレケは無邪気な少女と少年達を、複雑な思いで眺めていた。
……時に、ゴート帝国歴五三五年。大陸歴一〇九二年。
早すぎる寒波が一段落し、秋らしい空気が木枯らしと共に訪れた、そんな秋の事である。




