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銀月の狼 人獣の王たち  作者: 不某逸馬
外伝「叛剣異聞」
201/743

外伝〈一〉『紅色鴉~ガボールの受難~(1)』

 すぐにかえってきてね?



 大きな目に心細い輝きを滲ませながら、六歳になったばかりの幼子おさなごは、目の前で膝をつく僕に、ふるえる声で問いかけた。長身の父親の膝に抱かれながら、まるでそこから離れると、己の身が砕けてしまうかのように、力一杯しがみついたままで。


 ええ、勿論ですとも。


 そう答えたのは見栄ではなかった。

 この時は真実、ほんの数日ばかりの任務だと思っていたのだ。


「すまんな、ガボール。妹の身勝手に、お前を巻き込んでしまって」


 覇気に富むシメオン公子が、我が子と僕に視線を配りながら、慰めるように言った。その声は平素の公子らしからぬ、どこか疲れを帯びた色を滲ませているように感じた。


「勿体ないお言葉です、殿下。元々、亡くなった兄の任務だったので、弟の僕が復命するのは当然の事です。それにツァラ家が〝破剣獣〟の幕下で任に就くのは代々の習わし。殿下が謝られる事など何一つございません。それよりも、ミハイロ様の事が……」


 公子の膝の上で頬を紅潮させる色白の幼子おさなごは、口をへの字に曲げて顔を伏せる。その姿に、ミハイロ様のお付きであった僕の心は、激しく動揺した。


 シメオン公子の一人息子にして、亡くなった奥様の忘れ形見。


 ミハイロ様。


 生まれつき体が弱く、病がちなミハイロ様は、体質もあってか、ひどく人見知りが激しく、乳母であれ誰であれ、父親を除けば、僕以外、誰一人として心を開かなかった。

 僕はと言えば、ちょっと複雑な家庭環境にあるだけの、ただの中流貴族の子供でしかない。そんな僕が何故ミハイロ様に気に入られているのか。ミハイロ様は、何故僕には心を開いてくださるのか。今もってはっきりとはわからないのだが、僕自身、このか弱いきみを誰よりも大切に思っているのは間違いなかった。

 正直、父であるシメオン殿下はいざ知らず、ただの世話役の僕ですら、ミハイロ様にはいささか過保護すぎるきらいがあるのかも、とたまに思う事もある。けれど、母親を早くに亡くし、宮廷中から白い目で見られるミハイロ様の境遇を考えれば、そうならざるを得ないのも、止むなしと思っていた。


 いやいや、開き直りじゃない。


 大きくつぶらな瞳に、抜けるような白い肌。トゥールーズ人らしからぬ白金の柔らかな巻き毛。

 年齢になれば、さぞかし美形な若様になられるのは間違いないほどの、それはそれは愛おしくも愛くるしい姿は、お守りするのに十二分な理由だし、何よりミハイロ様は――幼いからでもあるが――身分の貴賤を問わない、とてもお優しい心を持っておられる。


「息子の事は案ずるな。この子ももう六歳。それくらいの分別はつこう」


 シメオン殿下はそう言うものの、ミハイロ様は、いやだいやだをするように殿下の胸元に顔を埋めた。

 やれやれと言った表情だが、息子の柔らかな巻き毛を撫でる殿下の手つきは、まるで母親の代わりもしなければ、というように、優しいものだった。


「どうしておばさまのごようじに、ガボールがいくの?」


 声をふるわせるミハイロ様のお気持ちを思えば、あのけばけばしい公女様の顔が、魔女のそれのように思えてくる。

 それに、ザハリヤ宰相。痩せてるのか太っているのか分からぬ不健康な男。そうだ、そもそもあの男が、カタリン公女にいらぬ事を吹き込まなければ、僕がミハイロ様の元を離れる事などなかったのに!

 宰相と言えば、至高の位にある、僕など及ぶべくもない殿上人だが、ザハリヤ宰相の場合は、敬う人間などごく少数だ。害はあっても益などない。大公様の庇護をいい事に、小悪党のような行いを重ねる絵に描いたような君側の奸に、例え心の中でさえ、尊敬など払えるはずもなかった。


「仕方ないのだ。お前の叔母様は、一度言ったら聞かぬ性格だし、それにガボールの家はヴカシン将軍の下にいる。バリエボ村への同行は決められていた事なのだ」

「わかんない。ガボールがいなくなって、ちちうえもいないと、ぼく……ぼく……」


 ミハイロ様の声が嗚咽に代わる。


 ああ、もう。

 本当に腹立たしい。

 こんな幼い若君を悲しませてまで、行く必要がある用向きなのか! たかだか己の欲を満たすためだけなのに。


「紅色の鴉――でしたか」


 いたたまれなくなって、僕は気を紛らわすように言った。


「ああ。なんでも非常に珍しい鳥でな。オグール人の集落でそれを見たと言うんだ。その鳥を手にすれば、若返りになるとか何とか言いよってな。全く……ザハリヤの奴も面倒な話題を持ちかけたものよ」

わたくしがバリエボ村の出身でなくば、別の者にお命じになられたはずです。申し訳ございません」

「お前のせいではないと言っておろう。お前だけではない。ヴカシンとて巻き込まれた身だ。私が何とかしてやれば良かったのだが、このところの内乱で騎士スプリンガーの数も減っている。カタリンの道楽に、貴重な騎士スプリンガーを裂く余裕などないのも事実だ。ああ、無論、お前がどうと言うのではないぞ」


 殿下はそう言うものの、僕が騎士スプリンガーとして二流、いや三流なのは間違いないこと。何せ、自分の鎧獣ガルーさえ持てた事がなかったのだから。つまりは素人騎士も同然。だから僕が、カタリン公女の護衛を仰せつかる事になったのだ。

 兄が内乱でのいくさで命を落とさなければ、僕が〝ジイリッハ〟とツァラ家を継ぐ事などなかったし、一生、ミハイロ様の世話係として過ごしていただろう。


 そもそも僕は、正式なツァラ家の人間ではなかった。

 僕ことガボール・ツァラは、先代である父が、村娘に手を出して産ませた子――つまりは庶子だった。だから幼い頃は、この首都ゼムンではなく、ここから離れたバリエボという村で育ち、やがて一三歳になる頃、どういう経緯でかわからないが、母親ごとツァラ家に引き取られ、以後は貴族の子息として育つ事となったのだ。

 ひと通りの勉学作法に武芸などは教えられたが、自分が貴族として、騎士として才能がないのは誰よりも己で分かっている。実際、それが幸いして、反乱組織の鎮圧に駆り出される事がなかったのも事実だから、皮肉と言うしかない。


「だが安心しろ。カタリンの件が片付けば、すぐにミハイロの世話役に戻してやる。いや、お前はもう騎士なのだから、戻った時にはミハイロ付きの騎士だな」

「ほんとう? ちちうえ」


 真っ先に喜んだのは、僕ではなくミハイロ様だった。鼻頭はながしらを赤くしている。


 本当に、この若様は――。

 愛くるしいだけに、胸が締め付けられる。


「ああ。本当だ。だから、お前もほんの僅かな辛抱だから頑張るんだ。そんな風に泣いていては、ガボールがお前を心配で任務を遂行出来んぞ。ガボールが任務を出来ねば、お前の元に戻ってくるのがそれだけ遅くなってしまうという事だ。……だから、わかるだろう?」

「……はい」


 悲しげな表情を滲ませたままで、それでもミハイロ様は、理解したように頷いた。

 僕とて心配でならない。が、ミハイロ様が耐えようとしてるのだ。耐えなければいけない。


「ガボール、お前も気をつけて行くが良い。いくらお前が村の出で、反乱も鎮まっていると言っても、まだあちこちでオグールどもとの争いは絶えんと聞く。紅色の鴉とやらも、オグール人の隊商キャラバンにいるのだから、よくよく注意して行動するのだぞ」


 シメオン公子の言葉の端々には、トゥールーズ人特有の、オグール人への侮蔑がこもっていた。むしろこれでも、公子は、優しい方だと言えるかもしれない。

 この首都ゼムンでは、おおっぴらにはオグール人の出入りが許されていない分、露骨な差別や迫害の現場を目にする事は、ほとんどないと言っていい。一方で、中央から離れれば離れるほど、トゥールーズ人による他民族への差別はひどいものになっていく。実際、幼い頃を辺境の村落で育った僕は、そういった場面に何度となく遭遇していた。


 そして、それらの迫害が危険水位を超えて決壊してしまったのが、前年のオグール人による反乱だった。

 勢いだけで結成された反乱だけに、組織立った行動には成りきれず、そこを突いた公国側が、反乱軍の首魁を捕縛する事で、何とか一年も満たない内に鎮圧するに至った。しかし、その火種は未だ消える事なく、公国中のあちこちで燻ったままなのは言うに及ばない。

 それに、公国側をさんざん悩ませてきた、オグール人らへの協力者・協力組織らも捕まえられずにいる。何でも、オグールの民の間では、その協力者をして、〝黒獣の救世主〟などと呼んでいるらしい。

 つまり、シメオン公子の助言は、もっともだという事だ。


「は。殿下のお心遣い、肝に命じておきます。しかしご安心を。村にはオグールの友人もおりますし、何より僕、いえ、私は騎士スプリンガー。公女殿下と私の身に何かあるはずもございません」

「そうだな」


 力強く頷くシメオン殿下の声に被さるように、ミハイロ様がこちらを向いて言った。


「ぜったい――ぜったいかえってきてね」

「勿論ですとも」


 僕が笑顔で返答すると、ミハイロ様は意外な事を口走った。


「ぼく、はやくおっきくなって、ガボールをまもれるきし(・・)になるから。ぼくがまもれるようにがんばるから」


「ミハイロ、お前がガボールを守ってどうする? お前はガボールに守られる側だぞ」


 幼児の屈託ない言葉に、彼の父は苦笑しながら嗜めた。

 だが、ミハイロ様は首を左右に振った。


「ううん。ぼくがガボールをまもるんだ。ぼくも、ちちうえみたいなりっぱなきし(・・)になって、ちちうえとガボールをまもるんだ。そしたらずっと、いっしょにいられるもん」


 どこまでも優しいミハイロ様――。

 体の弱さから、騎士にはなれないだろうと侍医に告げられたにも関わらず、それでも跡継ぎである事を誰よりも自覚している。まだ六歳だというのに。


「ああ……そうだな……」


 シメオン殿下も、それ以上は言葉にならなかった。

 彼の母である、自分の妻。その奥様によく似た愛くるしい我が子の髪を、再びゆっくりと撫でる。母親の代わりであるかのように。




 公子とミハイロ様との謁見が終わって退出すると、全身をひどい徒労感が苛んだ。

 まだこれから、色々な手続きがあるというのに、もう一日以上の労働をしたような気分に感じる。

 それで意識が散漫になっていたのあるかもしれない。呆っとしたまま廊下を進んでいたら、急に前方が塞がれ、突き飛ばされるように、大きく尻餅をついてしまった。


 ……だが、後になって思えば、これは僕の注意不足ばかりが原因ではないと思う。

 それに気付くのは、随分後になってからだし、今は目の前に表れた大きな影に目を奪われるしかなかった。


 その影は、僕の全身に覆い被さるほどの幅広いもので、殺気だった視線をこちらに向け、睨み据えていた。


 顔中に無数の傷跡。トゥールーズの軍人らしく、頭の両側から後頭部にかけて刈り上げ、前髪と頭頂部の毛髪を伸ばして後ろで結わえてある。見た目にそぐわぬオリーブの香水が、影の体から漂い、鼻をついた。


「お前だな、クソガキ。公女様に取り入ろうとするヴカシンの使いっ走りは?」


 は? 何を言ってるんだ?

 だが僕は反論するよりも、その迫力とそれ以外の部分に目を奪われ、言葉を失ってしまう。

 傷だらけの顔で見下ろした男は、五つの剣が重なった紋章を付けていた。


 聖剣騎士団。


 それも、紅の三ツ菱形は、第三大隊の証。即ち――


「五剣将……!」

「ああ? 呼び捨てとはいい度胸だな?」


 長いマントから逞しい腕を覗かせて、男は僕の胸元を掴むと、吊るし上げる格好で、強引に体を立たせた。


「うっ……く、くっ……!」


 苦しいと言いたいが、喉を圧迫されて声が出ない。それが余計に気に障ったのか、胸元を掴んだ手に、更に力を込めて締め上げてくる。更に息が詰まった。


「何だぁ、男ならはっきり言いやがれ、このタマナシが」


 呼吸が出来ない。段々と視界が狭くなってくる。何だ。今日は一体どういう厄日だ? 僕の主であるミハイロ様から離されたと思えば、今度はこの国最強にして(・・・・・)最高の騎士の一人(・・・・・・・・)から、締め上げられている。


「止さぬか、ボラ・ドゥーカス」


 背後から、別の男の声。

 途端に、男――ボラ将軍の締め付ける力が緩んだ。


「ヴカシン……! それに、ネヴァン」


 台詞とともに、僕は床の上に落とされた。再度尻餅をつくが、尻の痛みより、酸欠の苦しさが勝り、僕は何度となくむせこんで、荒い呼吸を繰り返す羽目になった。

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