第一章 第一話(1)『銀狼』
秋のはじめだというのに、もう根雪になりそうな固い雪が降っていた。
初秋の今なら、低地の町に行けばまだまだ麦も実っているだろうが、イーリオの居るブリッゲン山系ではひと足早く冬が到来しようとしている。
暖炉にくべた薪の火を消し、イーリオの父、ムスタが立ち上がる。
それを横目で眺めていたイーリオも、シロテンの毛皮で作った防寒着と、一応の護身具を手にとって、父の後に続いて自宅を出た。
ムスタは、採草と採掘の道具を入れた道具箱を確認すると、「行くぞ」と一言だけ告げて、薄暗い午後の山へと足を踏み出した。
「まるでトロールでも出てきそうな雲行きだね」
イーリオが曇り空を見上げながら言うと、ムスタはフン、と鼻を鳴らして真面目な口調で答える。
「トロールなら、もっと南の山だ。あいつらは寒がりだからな」
イーリオはニヤニヤしながら、父の言葉を聞いていた。
「ただし、一ツ目のキクロプスは違うぞ。あいつはブリッゲンの山々にも平気で来やがる。覚えとけ、冬の洞穴には近付かんが良い」
「また父さんの〝ホラ吹き〟? 本当の所は?」
「……冬の洞穴には熊がいる。それも、神之眼持ちのヤツが多い。一人じゃ危ない」
二人は雪を掻き分けながら、自宅の山小屋を後に、どんどん進んで行った。
「でもそれなら……」
「儂らには好都合だな。だから、こんな山奥にも居る」
「それはわかってるよ」
イーリオの父、ムスタは腕の良い錬獣術師だ。かつては首都で中央の組合にも籍を置いていたらしいが、イーリオが産まれてすぐの頃に在野で研究をしたいと願い、以来ずっと辺鄙な山村に居を構えていた。実際、まるで山師のような風体の父を見ていると、いかにも達人然とした錬獣術師らより、こちらの方が向いているのだとイーリオは思う。
また、父はよくホラ話を言った。しかも子供でも信じないような冗談を、それは真面目くさっていうものだから、幼い頃はよく父の話に一喜一憂したものだった。今もトロールなどと、お伽噺の怪物を口に出しているが、無論そんなものなどいるはずもなく、錬獣術に使える熊の痕跡を探りに、二人して山に分け入っているのである。
ヤドリギの球状の株の近くに、キンカチョウらしき鳥が巣を作った痕跡があった。その下の樹皮に爪の跡。おそらく、ここら一帯を縄張りにしているヨーロッパヒグマだろう。ムスタは爪の跡を指でなぞりながら、道具箱より銀製の器具を取り出す。しばらくすると、おもむろに言った。
「これはおそらく、ただのヒグマだな」
「じゃあ、〝目的〟のじゃあない?」
「ここを見ろ。爪の跡が新しい。この感じそうだな……一、二日前といったところか。上に小便の跡があるのが分かるな? なら、消化ネクタルの光粉が付いていてもおかしくないが、それはない。多分、普通にエサを探しに来たヒグマだろうな」
「それって、〝目的〟のヤツと縄張りが被ってるんじゃあ……?」
「前にも言ったが、神之眼持ちは、同種族からも不可侵に扱われていることが多い。実際、猿なんぞでは神之眼持ちが、ボスとなる事が多い。熊であっても、縄張りに入ってきたところで、争いになったりはせんだろう」
イーリオは、父の言葉に相槌を打ちながら、ふと、ヨーロッパヒグマの、〝ヨーロッパ〟ってなんだろう? と、どうでもいいことを考えた。古語だろうか? 何かの人名?
たまにイーリオは、誰も気にも止めないような、人によっては愚にもつかないといわれるような事を、夢想するクセがあった。だが実際、動植物の名前には、誰がそう名付けたのか、意味の分からない名称が多いのも事実だ。
「行くぞ、イーリオ」
イーリオの思考に待ったをかけるように、ムスタは一声出して、振返りもせずにさっさと山深くへ分け入って行く。
しばらく二人が進むと、辺りの樹木はその数を増し、杣道も判別できなくなるほどの森と化してきた。気付けば、チラチラとしていた雪も、その数を増しつつある。夜更けには積雪がひどくなるだろう。〝目的〟のいる洞穴が、そう容易く見つかるとは思えないが、山深くに入りすぎて、遭難するなどとあっては本末転倒だ。
そろそろ引き上げ時かもと二人が思い始めた時だった。
雪を踏むギュッギュッという響き以外、何も聞こえない森の中で、イーリオは何かの音を感じた。ムスタも思わず立ち止まっている。同時に気付いたという事は、おそらく何かがいるのだろう。
立ち止まるが、何も聞こえない。
耳鳴りがするように静まり返った森があるだけだ。
だが、いる。
息遣いのような、獣の音。この感じは、肉食獣のものに似ていた。
件の熊だろうか?
だが、それにしてはやけに敵意がない。普通、人を見かけた獣は、警戒心をあげるものだ。だが、この気配は、ひどく大人しかった。
「父さ――」
口を開きかけたイーリオに、しっ、と指をたてるムスタ。
やがて森の闇の向こう。何かがゆっくりと姿を表してくる。
最初に現れたのは、金色の二つの光。闇に光る獣の双眸。
二人は息を呑んだ。
闇から溶け出したように現れたのは、ゴートの銀製品よりも眩い、白銀の体毛。
額には、ダイヤモンドのようにプリズムの輝きをもった眩い宝石、神之眼。
優美な四肢。
誇りを感じさせる力強さをもった口吻。
四肢と首周りには体毛よりも少し暗い色の銀色の鎧――授器。
それは、六・五フィート(約二メートル)以上はありそうな、ハイイロオオカミ。いや、絶滅したという大狼かもしれない。しかも、神之眼に授器。
「鎧獣……」
思わず、だが小さく、イーリオは声を出してしまう。ハッと気付いたが、どうにもならない。
しかし、銀毛の巨狼は、微動だにせず静かな眼をこちらに向けていた。
二人はそれから、声も出ない。
通常、鎧獣となった獣は、主である騎士の命なしでは、無闇に人を襲ったりしない。彼らには補食が必要ないからだ。だがごく稀に主を守るため、自らの身を守るために、人を襲った鎧獣もいるという。この場合、こちらに敵意はなくとも思いがけない動作で害意ありと判断されてはいけないし、大人二人程度では鎧獣に敵いっこない。
鎧獣に精通しているムスタであったが、目の前の銀狼は、自分の知っているどの鎧獣とも異なった空気をまとっていた。その美しさに目を惹かれたというのもあるだろう。だが、どちらかというと、畏怖や畏敬に打たれて、身動きが取れないといった方が正しいのかもしれない。早くコイツの騎士が現れないものか……。
そんな事を脳裏に浮かべていたら、やがてゆっくりとした動作で、その銀狼は再び森の闇へと戻って行った。
完全に姿が見えなくなると、二人は思わず大きな息を吐く。
すると今度は、彼らの七〇フィート(約二〇メートル以上)ほど後方で、大きな毛むくじゃらがガサガサと動いているのが見えた。それは、焦げ茶の毛並みをしたヒグマであった。ヒグマは、その巨躯に似合わず、恐ろしいものにでも遭遇したような慌てぶりで、その場を一目散に駆け出して行く。
「あれって……」
「さっき言ってた、ここいらが縄張りのヒグマだろう。おそらく、儂らが感じた気配は、ヤツのものだったんだろうな」
「じゃあ、あの狼の鎧獣は、ヒグマを追い払うため……?」
「さあな。見ず知らずの人間を、鎧獣が守ったなんて聞いた事がないが……」
イーリオは、先ほどの銀狼を思い出していた。美しき姿とは別に、良く思い返せば所々に傷跡があったように思えた。では、どこかの戦場からはぐれたのだろうか? それなら何故、騎士がいない? もしくは、騎士は傷を負って動けないとか……?
「イーリオ、行くぞ」
沈思している息子の考えを見透かしてか、ムスタが短く告げる。
「まさか……あの鎧獣の後を追うの?」
「うむ。少し気になる所があってな。それに、こんな山奥に居る事自体、放ってはおけんだろう」
「あの鎧獣、傷をしてたね」
「ほう……?」
「ほんの少しのように見えたけど……。どこかの戦場から落ちて来たとか?」
「よく見てたな。気付かなかった」
少し顔を綻ばせて、ムスタは息子の眼を褒めた。
「お前には錬獣術の才能があるのかもしれんな。さあ、行くぞ」
二人は段々と更けていく時刻も忘れて、更に山奥深くへと、歩を進めて行く。
二人が森の樹木を掻き分けるように進むと、やがてぽっかりと空いた円形の広場に出くわした。多年草のオキザリスが繁茂しており、中央に一本だけ、年輪を重ねたであろう、大きな鉄木の古木が聳えている。
その根方、あまり雪の積もっていない場所を選ぶように、銀狼は四肢を下ろしていた。雪が積もっていない場所を選んだのは、自らのためではないようだった。彼(彼女?)の横には、仰向けに横たわる人の姿があった。
銀狼に注意を配りながら、二人はゆっくりと近付いて行く。この狼の騎士だろうか。
もしかして死んでいる?
そんな事を思いながら側までくると、横たわっていたのは、狼と同じ、輝くような白銀の髪をした、年の頃十五、六歳の少女であった。とてもこの銀狼の騎士とは思えない少女に、思わず二人は目を合わせる。
これをどう判断したら良いのか途方に暮れていると、銀狼は鼻先を少女に近づけて、スンスンと鳴らした。
まるで二人に、少女を助けてくれと言わんばかりに。
イーリオは、銀狼の金色に輝く瞳を見つめた。もの言わぬ獣であったが、何故かその時、イーリオにはこの銀狼が自分に語りかけているような気がした。
この娘を助けて欲しい。
私ではこの娘を救う事ができない。
だからどうか頼む、と。
真摯にも思える狼の瞳に突き動かされるように、イーリオは少女の腕をとった。
「おい」
思わずムスタが声をあげる。だが、イーリオは構わずに脈を診て、少女の鼻先に手を翳した。息はある。気を失った――いや、疲労で倒れたか――。だが、このままではいずれ凍死してしまうのは明白だ。ひとまず暖をとれる場所に移さないと。
そう思うと、イーリオは少女の体をそっと抱き上げ、己の背におぶった。それを見ていた銀狼が、不安げに喉を鳴らす。
イーリオは銀狼に向き直って、まるで旧知の友に語りかけるように、優しく告げた。
「大丈夫、この娘は助かるよ。お前も来るといい。この娘を守っていたんだろう?」
イーリオの言葉が分かるはずもないのに、まるで人語を解するかのように、銀狼は少し頭を垂れて、イーリオに寄り添うように立ち上がった。その様子は、さながら騎士に付き従う鎧獣そのもののようにさえ見えた。
目の前の出来事をただ傍観しているだけのムスタであったが、ひとまず状況を呑み込むと、イーリオから少女を担ぎ上げ、己の背におぶわせた。
「父さん」
イーリオが少し驚くと、ムスタはフン、と鼻を鳴らしてこう言った。
「娘っ子とはいえ、ひと一人担いで降りるのは、難儀だ。こういう時は大人の背中を借りるもんだ」
まるで不器用そのものといった物言いであったが、父の優しさに思わず笑みがこぼれていた。
「ありがとう」
「お前も来るんだろう?」
ムスタは銀狼に向かって訪ねたものの、イーリオのように察する事は出来なかった。
……本当に息子には、錬獣術の才能があるのか……、それとも、この鎧獣……。もしかすると……。
色々と考える事はあったが、ムスタはひとまず自分たちの家に帰る道を急いだ。
日は既に暮れはじめている。あたりの薄暗さがその濃度を増し、夜の翼が両翼をもたげる前に、山を下りなければならなかった。
初投稿、初作品です。
自分が読んでみたいものを書いてみました。
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